2009/04/18 - 2009/04/19
457位(同エリア1053件中)
熱帯魚さん
大連には1泊のみの滞在で時間が限られていたこともあり、旅順半日観光バスに乗って旅順観光をすることにしました。
◎ ロシアの要塞「東鶏冠山北堡塁」
【旅の日程】
1日目:7時45分上海発のフライトで大連へ。大連には9時25分着。空港バスに乗って市内へ、ホテルにチェックイン。午後は観光バスに乗って旅順半日観光。夜は中山広場にある日本統治時代の建築巡り。
2日目:中山広場と人民広場周辺、七七路周辺の日本統治時代の建築巡り。夜7時半大連発のフライトで上海へ。
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス
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東鶏冠山北堡塁はロシア側の防御要塞跡です。1904年、日露戦争が始まると、日本軍は東鶏冠山北堡塁を奪い取るために、129日間に及ぶ堅塁攻略戦を展開しました。
写真はロシア軍の塹壕です。 -
ここに置かれていたゴミ箱はミサイル風でした。
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塹壕は要塞へと続いています。
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砲台があらわれました。
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砲台があった場所からの眺めです。奥に見える平地は草木が生えておらず土がむき出しになっています。この地での戦いがいかに激しいものだったかを物語っているように感じました。
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1916年、日本の満州戦績保存会によって建てられた石碑です。石碑は高さ6メートル、青い御影石でできています。ロシアの要塞があったこの場所を、日本軍はトンネルを掘り地下から爆破し陥落させました。その際、多くの犠牲者を出したといいます。
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ロシア人兵士の宿舎です。大柄なロシア人がいたにしては、随分コンパクトな場所だと思いました。
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電話室です。中はすでに崩れて入れなくなっています。
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電話室の隣は弾薬庫でした。
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コマンドポストです。
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応急手当が行われた場所とキッチンです。ガランとしていて、一体どのように料理や治療が行われたのかわかりませんでした。
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こちらが要塞の入り口です。
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1904年12月5日、ロシア陸軍防衛司令コトラキンカ少将が要塞司令部で軍事会議を行うという情報を日本軍が入手しました。日本軍は激しい砲撃を行い、その結果、コトラキンカはこの場所で戦死しました。写真は、コトラキンカ少尉が戦死したことをあらわした石碑です。
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機関銃の射撃口が並んでいます。
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壁には無数の弾痕が残っています。
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ここが日本軍の爆破口です。
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日露両軍の激しい戦いの爪あとが今も残っています。
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壁には大きな穴があいていました。爆弾が当たった痕でしょうか。
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戦争について色々考えさせられた旅順観光でした。再びバスに乗り、大連の街の中心に戻ります。写真はバスから撮影した旅順港のあたりです。
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港と逆の方向を見ると、なだらかな山がありました。山のほかはほとんど荒野で、時々人家がかたまって建っていました。
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大連ソフトウェアパークの前を通り、バスは大連駅の方向に進んで行きました。どこで降りたいか聞かれたので、とりあえず大連駅のすぐ近くにある勝利広場で降ろしてもらうことにしました。
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