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岩崎城の紹介の続きです。発掘調査の時、城址から国府糞も発見されました。6世紀の横穴式石室とされます。

2009春、桜の季節の岩崎城(2/4):模擬天守、古城の碑、古墳、染井吉野、里桜、岩崎市街

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2009/04/01 - 2009/04/01

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旅行記グループ 2009春、尾張の桜

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

岩崎城の紹介の続きです。発掘調査の時、城址から国府糞も発見されました。6世紀の横穴式石室とされます。

交通手段
自家用車
  • 1600年に廃城になった後、そのまま捨て置かれたようですから、天守などの図面は残されていません。再建天守ではなく、模擬天守です。最上階に望楼が設けてありました。

    1600年に廃城になった後、そのまま捨て置かれたようですから、天守などの図面は残されていません。再建天守ではなく、模擬天守です。最上階に望楼が設けてありました。

  • 模擬天守の光景です。天守は一段低いところに石垣を積み、その上に建てられています。四重四階建です。

    イチオシ

    模擬天守の光景です。天守は一段低いところに石垣を積み、その上に建てられています。四重四階建です。

  • 『古城之碑』の文字が記された案内板です。後ほど紹介する、『丹羽勘助古城之趾』の石碑の案内です。

    『古城之碑』の文字が記された案内板です。後ほど紹介する、『丹羽勘助古城之趾』の石碑の案内です。

  • 『岩崎城の建設誌』のタイトルがあった立派な石碑です。昭和59年(1984年)4月9日、落城の日に四百年大祭を地元区民で営み、これを機会に古城址を保存する機運が高まりました。昭和60年(1985年)3月から日進町の発掘調査が始まり、その成果を基に昭和62年(1987年)5月に模擬天守が竣工しました。

    『岩崎城の建設誌』のタイトルがあった立派な石碑です。昭和59年(1984年)4月9日、落城の日に四百年大祭を地元区民で営み、これを機会に古城址を保存する機運が高まりました。昭和60年(1985年)3月から日進町の発掘調査が始まり、その成果を基に昭和62年(1987年)5月に模擬天守が竣工しました。

  • 天守から眺めた、岩崎市街の光景です。室町時代末に築城されたらしいこの城は、尾張国の東端に当たり、国境付近を守る織田信秀(信長の父)の支城でした。岩崎は尾張、三河間を往来する街道の要衝地であり、城下は『市場』の地名を残すことから、交易の場として栄えたようです。

    天守から眺めた、岩崎市街の光景です。室町時代末に築城されたらしいこの城は、尾張国の東端に当たり、国境付近を守る織田信秀(信長の父)の支城でした。岩崎は尾張、三河間を往来する街道の要衝地であり、城下は『市場』の地名を残すことから、交易の場として栄えたようです。

  • 同じく、天守から眺めた、岩崎市街の光景です。築城年代ははっきりしていませんが、織田信秀により築城されたようです。信秀の属将の荒川頼宗が守備していたとされます。享禄2年(1529年)三河国・松平清康(家康の祖父)に尾張攻略の足がかりとして攻め落とされましたが、清康は、世に言う『守山崩れ(1535年)』で暗殺され、尾張攻略は後退しました。

    同じく、天守から眺めた、岩崎市街の光景です。築城年代ははっきりしていませんが、織田信秀により築城されたようです。信秀の属将の荒川頼宗が守備していたとされます。享禄2年(1529年)三河国・松平清康(家康の祖父)に尾張攻略の足がかりとして攻め落とされましたが、清康は、世に言う『守山崩れ(1535年)』で暗殺され、尾張攻略は後退しました。

  • 天守から眺めた、岩崎市街の光景が続きます。南東方面になるようです。

    天守から眺めた、岩崎市街の光景が続きます。南東方面になるようです。

  • 『丹羽勘助・古城之址』のタイトルがあった説明看板です。この地を訪ね『長久手征伐記』を1709年に記した赤林信獅氏が、この石碑の付近を殿様がいた場所等と記していることから、更に古い時代から立っていた立石であることが分かっているようです。

    『丹羽勘助・古城之址』のタイトルがあった説明看板です。この地を訪ね『長久手征伐記』を1709年に記した赤林信獅氏が、この石碑の付近を殿様がいた場所等と記していることから、更に古い時代から立っていた立石であることが分かっているようです。

  • 『丹羽勘助・古城之址』の石碑です。文字が刻まれたのは、明治40年(1907年)です。揮毫したのは、岩崎城主の丹羽氏の菩提寺である、妙仙寺の龍城和尚です。

    『丹羽勘助・古城之址』の石碑です。文字が刻まれたのは、明治40年(1907年)です。揮毫したのは、岩崎城主の丹羽氏の菩提寺である、妙仙寺の龍城和尚です。

  • まだ蕾が残っていた、染井吉野の枝先の光景です。二、三分咲といったところでしょうか。

    まだ蕾が残っていた、染井吉野の枝先の光景です。二、三分咲といったところでしょうか。

  • 樹木の間に見えていた、模擬天守の光景です。天正12年(1584年)の『小牧・長久手の戦』いの際、秀吉軍の池田恒興隊に攻め落とされが、廃城になったのが、関ヶ原の戦いがあった1600年のことです。その間に、修復などがされたかどうかも、分かっていません。廃城までの期間が短いので、そのまま捨て置かれた可能性もあります。関ヶ原の戦いで戦功があった丹羽氏は、地方の土豪階級から一万石の大名に昇格し、城も三河国伊保(現豊田市内)に移りました。

    樹木の間に見えていた、模擬天守の光景です。天正12年(1584年)の『小牧・長久手の戦』いの際、秀吉軍の池田恒興隊に攻め落とされが、廃城になったのが、関ヶ原の戦いがあった1600年のことです。その間に、修復などがされたかどうかも、分かっていません。廃城までの期間が短いので、そのまま捨て置かれた可能性もあります。関ヶ原の戦いで戦功があった丹羽氏は、地方の土豪階級から一万石の大名に昇格し、城も三河国伊保(現豊田市内)に移りました。

  • 『岩崎城古墳』のタイトルがあった説明パネルです。岩崎城の発掘調査の際、偶然に土塁下から発見されたものです。出土した須恵器の特徴から6世紀前葉に造られた円墳と考えられています。

    『岩崎城古墳』のタイトルがあった説明パネルです。岩崎城の発掘調査の際、偶然に土塁下から発見されたものです。出土した須恵器の特徴から6世紀前葉に造られた円墳と考えられています。

  • 『古墳』の文字が記された案内標識です。石室に使われていた石材は、この地の北方の岩崎御嶽山近辺で産する変成岩と類似していることも確認されています。

    『古墳』の文字が記された案内標識です。石室に使われていた石材は、この地の北方の岩崎御嶽山近辺で産する変成岩と類似していることも確認されています。

  • 古墳の石室の光景です。発掘された時、原型を留めていなかったようですから、近くの古墳を参考に復元されたようです。

    イチオシ

    古墳の石室の光景です。発掘された時、原型を留めていなかったようですから、近くの古墳を参考に復元されたようです。

  • 復元された石室のズームアップ光景です。直径は12メートルです。副葬品として、小刀、土師器の壺、須恵器の杯などが出土しました。

    復元された石室のズームアップ光景です。直径は12メートルです。副葬品として、小刀、土師器の壺、須恵器の杯などが出土しました。

  • 櫓台と本丸を結ぶ通路の光景です。最初の方で紹介した縄張り図には、これ以外の通路が2箇所記されていました。

    櫓台と本丸を結ぶ通路の光景です。最初の方で紹介した縄張り図には、これ以外の通路が2箇所記されていました。

  • 『表忠義碑』横にあった、石柱とその前にあった小さな祠の光景です。このセットが、縄張り図に記された、『山の神』のようです。

    『表忠義碑』横にあった、石柱とその前にあった小さな祠の光景です。このセットが、縄張り図に記された、『山の神』のようです。

  • 縄張り図に記された、『山の神』らしい家形の石造りの祠のズームアップ光景です。しめ縄と榊が飾られていました。石柱に対する門のようなイメージもありました。

    イチオシ

    縄張り図に記された、『山の神』らしい家形の石造りの祠のズームアップ光景です。しめ縄と榊が飾られていました。石柱に対する門のようなイメージもありました。

  • 『表忠義・碑』のタイトルがあった説明プレートです。明治43年(1910年)4月9日、旧尾張藩士の中村修、丹羽精五郎氏らを発起人に、丹羽忠道氏の文章で綴られた石碑であること等が紹介されていました。

    『表忠義・碑』のタイトルがあった説明プレートです。明治43年(1910年)4月9日、旧尾張藩士の中村修、丹羽精五郎氏らを発起人に、丹羽忠道氏の文章で綴られた石碑であること等が紹介されていました。

  • 『表忠義』の石碑の題字のズームアップ光景です。題字は江戸幕府最後の将軍、慶喜(よしのぶ)公の揮毫と紹介されていました。

    『表忠義』の石碑の題字のズームアップ光景です。題字は江戸幕府最後の将軍、慶喜(よしのぶ)公の揮毫と紹介されていました。

  • 同じく、櫓台に建つ『表忠義』の石碑の光景です。表面に二は丹羽氏重・岩崎城代、加藤景恒長湫城主を始めとする戦士40名の姓名、無名騎士60名、足軽約60名、弓手38名、城下の商工業者30名が討ち死にしたことが記されています。合計すると230名弱です。落城したのは、辰下刻(午前8時〜9時頃)であることも記されていました。

    同じく、櫓台に建つ『表忠義』の石碑の光景です。表面に二は丹羽氏重・岩崎城代、加藤景恒長湫城主を始めとする戦士40名の姓名、無名騎士60名、足軽約60名、弓手38名、城下の商工業者30名が討ち死にしたことが記されています。合計すると230名弱です。落城したのは、辰下刻(午前8時〜9時頃)であることも記されていました。

  • 三分咲ほどになったソメイヨシノ(染井吉野)の花のアップ光景です。

    三分咲ほどになったソメイヨシノ(染井吉野)の花のアップ光景です。

  • 模擬天守の最上階にある望楼付近の光景です。事故防止のために、前面に金属ネットが張られていました。

    模擬天守の最上階にある望楼付近の光景です。事故防止のために、前面に金属ネットが張られていました。

  • 同じく、模擬天守の最上階にある望楼のズームアップ光景です。岩崎城は、天文年間からこの地方の土豪であった丹羽氏清が修繕し、四代、約60年間に亘っての居城となりました。

    同じく、模擬天守の最上階にある望楼のズームアップ光景です。岩崎城は、天文年間からこの地方の土豪であった丹羽氏清が修繕し、四代、約60年間に亘っての居城となりました。

  • 模擬天守ですから、建物構造などを紹介しても参考になりませんが、二層部分の二つ並んだ千鳥破風の光景です。

    模擬天守ですから、建物構造などを紹介しても参考になりませんが、二層部分の二つ並んだ千鳥破風の光景です。

  • 同じく模擬天守の屋根の軒先光景です。鬼瓦や軒丸瓦などには、菊の紋がありました。花弁の和は20枚ほどでした。現在の皇室の紋は、十六八重表菊と呼ばれる菊紋です。

    同じく模擬天守の屋根の軒先光景です。鬼瓦や軒丸瓦などには、菊の紋がありました。花弁の和は20枚ほどでした。現在の皇室の紋は、十六八重表菊と呼ばれる菊紋です。

  • 模擬天守の最下層部の越し板の光景です。時代を考慮したのでしょうか、下見張り(したみばり)と呼ばれる造りでした。

    模擬天守の最下層部の越し板の光景です。時代を考慮したのでしょうか、下見張り(したみばり)と呼ばれる造りでした。

  • 樹の間から眺めた、模擬天守の最上階の光景です。金色の鯱が乗っていました。

    樹の間から眺めた、模擬天守の最上階の光景です。金色の鯱が乗っていました。

  • 花の数はあまり多くありませんでしたが、里桜の紅八重桜の花のようです。枝垂れタイプではないようです。

    花の数はあまり多くありませんでしたが、里桜の紅八重桜の花のようです。枝垂れタイプではないようです。

  • 三分咲から、もう少し咲き進んだような染井吉野の花の光景です。まだ蕾の方が多い状態です。

    三分咲から、もう少し咲き進んだような染井吉野の花の光景です。まだ蕾の方が多い状態です。

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2009春、尾張の桜

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