2009/03/20 - 2009/03/20
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ぬいぬいさん
激動の昭和史の中で影で活躍した「侍」と呼ぶにふさわしい一人の日本人がいた。
その人の名は 白洲次郎
若くしてイギリスに留学し、ケンブリッジに学び、英国紳士としてのマナーと教養を身につけて、「プリンシプル」を信条に激動の時代を駆け抜けたその潔い生きざまは、真のダンディズムと呼ぶにふさわしいかっこよさがあり、私の尊敬してやまない人物です。
占領下の混乱の中、日本の復興と講和独立をめざして、吉田茂首相の側近としてGHQとの折衝の矢面に立ち、米国側に「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男、昭和史の鍵を握る人物であるにも関わらず、その生涯は歴史の闇の中に埋もれ、あまり知られていないのは何故か?
そんな白洲次郎の生涯が、最近NHKドラマスペシャル「白洲次郎」として2週にわたり放送されました。
そのドラマにたびたび登場していた、彼の住まいである「武相荘」をどうしても見たくなって訪ねてきました。
これは、見る旅行記でなく読む旅行記としてドキュメンタリー風に仕上げてみました。
お時間がある方は、じっくり読み進めてみてください。
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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いち早く敗戦を予想した白洲次郎が、茅葺屋根の農家を買取り、移り住んで農業に従事し自給自足の生活をしていたのは、町田の鶴川でした。
彼はこの住まいを「武相荘」と名付けました。亡くなるまで正子夫人とこの地に暮らしていたそうです。鶴川駅 駅
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武蔵と相模の境に位置することと「無愛想」をかけて名付けたそうです。
先ほどの「武相荘」の文字は彼が近衛内閣のブレーンだった関係で、司法大臣を務めた風見章氏によるもの。 -
最近のNHKのドラマスペシャルでドラマ化されるまで白洲次郎の存在は、ごく一部の白洲ファンに限られていましたが、一気に彼のかっこよさが注目されたようです。
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まずは白洲次郎の人となりを紹介しましょう。
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まずこの写真を見ると、白いTシャツにジーンズ姿の和製ジェームスディーンのような男が写っています。
彼がこの家の主、白洲次郎氏です。この時49歳
日本人離れした180センチを堂々たる体格に端正な顔立ち、英国仕込みの洗練された身のこなし。趣味は車と大工とゴルフだったそうで、正子夫人は「直情一徹の士」「乱世に生き甲斐を感じるような野人」と評していたそうです。
ちなみに日本で始めてジーンズを穿いたのは彼だそうです。 -
左の写真は彼の愛車。
ケンブリッジ留学時代はベントレー、ブガッティを所有し、週末はレースに熱中していたとか。
80を過ぎるまでポルシェ911を乗り回していたとか。
つなぎを着こんで車を油まみれになって整備する姿は、オイリーボーイと呼ばれていたそうです。
彼の車にまつわるエピソードは数え切れないほどあるようです。 -
ここから年次を追って白洲夫妻についてのプロフィールを紹介していきます。
1902年(明治35年)実業家の白洲文平の次男として兵庫に生まれました。
彼の父白洲文平もハーバード卒で、綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築く一方、屋敷にお抱えの大工を住まわせるほどの建築道楽でした。
その8年後の1910年(明治43年)貴族院議員 樺山愛輔の次女として 正子夫人が東京市に生まれました。正子夫人の父愛輔氏もアメリカのアーマスト大学、ドイツのボン大学に留学していたようなので、夫妻ともに当時では珍しいインターナショナルな富豪の子息、子女として誕生しています。 -
1916年(大正5年)神戸一中に入学。野球部とサッカー部に在籍、乱暴者としてならし、アメ車ペイジ・グレンブルックを乗り回していたそうで、この頃にオーリーボーイと呼ばれるほどの車好きの下地ができたようです。
でも、大正のこの時代で車を乗り回すこともさることながら、子供に乗せるだけの車を持っていた白洲家、半端でない資産家だったようですね。 -
1923年(大正12年)21歳の時にケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し中世史を専攻。
将来は学者志望。
でも、車好きには拍車がかかり、ベントレー、ブガッティと2台の車を所有し、レースに熱中。
何? ベントレー&ブガッティ ちょっと信じられない金持ちぶり。
しかも学生の分際で・・・・
一方、正子夫人のほうは、翌1924年(大正13年)学習院女子部初等科修了し父と渡米し、ニュージャージー州のハートリッジ・スクールに入学。 -
1926年(昭和元年)次郎はケンブリッジ大学クレア・カレッジを卒業。大学院に進学。
翌1927年(昭和2年)金融恐慌で正子の父・愛輔氏が理事をしていた十五銀行が休業宣言をし、樺山家は永田町の屋敷を売却し大磯に移る。 -
順風満帆の留学生活を謳歌していた2人に大きな岐路が訪れたのが、1928年(昭和3年)十五銀行倒産の煽りで白洲商店が倒産し、大学院に進んでいた次郎は、帰国を余儀なくされる。同じく正子も女性の最難関大学であるヴァッサー・カレッジに合格しながら、進学を断念して帰国。
この年が二人の出会いの年でもありました。
翌1929年、英語新聞の「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となる。 -
互いに一目ぼれだったという二人、翌1929年(昭和4年)11月に結婚。27歳と19歳の夫婦は、次郎の父・文平から結婚祝いに贈られたランチア・ラムダで新婚旅行にに。
会社が破綻後もランチアを息子の結婚プレゼントとしてあげられる白洲文平氏もたいした男ですね。 -
1935年(昭和10年)10月熊本で隠遁生活を送っていた父文平が死去。
遺言は、後に次郎の遺言書にも記載された「葬式無用 戒名不用」。 -
その後、セール・フレイザー商会取締役を経て、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役に就任。この時期、海外に赴くことが多く、駐英特命全権大使であった吉田茂と面識を得、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動。
後に活躍する下地がこの頃整ったようです。 -
昭和15年(1940年)、来るべき日英・米戦争開戦と、それに伴う食料不足を予期し、事業からあっさりと手を引き、この鶴川村にあった古い農家を購入し、武相荘と名付けて農業を始める。
鶴川駅 駅
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「カントリー・ジェントルマン」を自称し、徴兵拒否しながら農業に励む日々を送る一方、吉田茂を中心とする反戦グループに加わり、終戦工作に奔走しここから次郎の「昭和の鞍馬天狗」とも呼ばれた活躍が始まりました。
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昭和20年(1945年)、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田茂の懇請で、終戦連絡中央事務局の参与に就任。ここから、次郎のGHQとの戦いの火蓋が切られました。
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戦後、政治家も官僚もみんなGHQにペコペコしていた中、『戦争には負けたけど、奴隷になったわけではない』と権力と一人で戦っていた次郎。彼らの従順過ぎるGHQに対する姿勢とは一線を画し、クイーンズイングリッシュを駆使し、原理原則(プリンシプル)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめました。
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彼のその時代の有名なエピソードがいくつかあります。
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まずは先日のドラマにもそのシーンがありましたが、昭和天皇からマッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とぞんざいに扱われたことに激怒し「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたとか、
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GHQのナンバー2だった、民政局長のホイットニー准将に英語が上手いと言われ「Maybe your English will improve, too, if you study a little harder」
「あなたももう少し勉強すればうまくなると」白洲が返答。 -
これにはまた別の意味があり、イギリスには名門オックスフォードとケンブリッジ出身社だけがしゃべる「オックスブリッジアクセント」と言う独特の訛りがあり、オックスブリッジを手本につくられたアメリカのアイビーリーグのひとつジョージワシントン大学出身のホイットニーに対しての「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学出来てオックスブリッジアクセントを喋る資格を所有できる」と言う意味の、痛烈な皮肉であると解釈されます。
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その後GHQ主導で行なわれた日本国憲法の改正にも大きく関与します。
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昭和21年終連次長に、同年8月経済安定本部次長に就任し、活躍し、翌23年商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任。
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資源の少ない日本が生き残る道として輸出主導型へ転換させる必要があるとし、商工省を改組し通商産業省(現:経済産業省)設立に向け「白洲三百人力」といわれるほどの政治力を発揮し中心的役割を果たしました。
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昭和25年日米講和問題で池田勇人蔵相と共に渡米しダレスと会談、平和条約の準備を開始し、翌26年サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として吉田茂首相に随行。
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この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島、小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせるなどの活躍を見せ。昭和27年から2年間外務省顧問を務めたました。
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これだけ戦後の敗戦処理と日本の建て直しの基盤づくり活躍しましたが、吉田茂退陣後は、当然政界入りを望む声もありましたが、あっさりと政治から縁を切り、実業界に戻っています。
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その引き際、潔さは白洲次郎らしいですね。
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吉田茂の側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた次郎は、昭和26年東北電力会長に就任する。
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只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進しました。この頃ランドローバーに乗って作業着姿で現場にもしばしば顔を出していたようです。
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この当時は、ゴム長を履き自ら車を運転して各地のダム建設現場を回り飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わしたそうで、作業員の子供たちをよくかわいがっていたそうです。
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東北電力会長退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任。
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日本のゴルフ界にも大きな足跡を残しています。
典型的な上流階級出身の次郎は14、5歳の時からゴルフを始めてイギリス留学から帰国後、ゴルフに熱中したとか。 -
戦前の日本のゴルフ場って、確か東京では駒沢公園や世田谷の砧緑地にあったと聞いていますが、プレイヤーの数はかぞえられるほどだったんでしょうね。
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晩年は、昭和51年より軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事を務め、57年からは理事長に就任。マナーにことのほか厳しく「プレイ・ファスト」を徹底させたとか。
このゴルフ場では有名なエピソードが数多くあるようです。 -
総理を務めた中曽根康弘がプレイした際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡で中曽根の様子をうかがっていたところ「なんだ?バードウオッチングか?」と強烈に皮肉ったとか、
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運転手にゴルフシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には「おい、手前ぇには手がないのか!」と一喝し、その場で追い返してしまったとか、
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最も有名なエピソードは、時の首相の田中角栄との話で
総理秘書「これから田中がプレイしますのでよろしく」
次郎「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」
秘書「総理の田中です」
次郎「それは、会員なのか?」
秘書「会員ではありませんが、総理です」
次郎「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」
この言葉を最後にそっぽを向いてしまったとか。 -
クラブハウスのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という張り紙があったにもかかわらず無視した田中に「おい、お前は日本語が読めねえのか」と言ったとか。
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晩年まで相手の地位・身分などに臆することなく自らの「プリンシプル」や矜恃に反するものには容赦ない態度で臨んでいたようです。
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友人の三宅一生のモデルを勤めたり、80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じ、かっこいい爺さんを貫いていたようですが、昭和60年に11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院し、11月28日、83歳の生涯を閉じました。
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正子夫人と子息に残した遺言書には、父文平の遺言と同じ「葬式無用 戒名不用」2行のだけ書かれていました。
最後までかっこいいですね。
NHKドラマスペシャルで尚一層白洲次郎ファンになりました。
第3話、待ち遠しいですね。
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この旅行記へのコメント (4)
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- ツーリスト今中さん 2009/03/28 07:21:19
- 武相荘>^_^<
- おはようございます。
白洲夫妻の事は随分以前から関心がありました。
母が武相荘に行きたいともずっと言っていたのですが
ぬいぬいさんのお蔭で概要を知る事が出来て嬉しく拝見。
ドラマの「ほとぼり」が冷めたら是非行ってみようと思います。
アップ、ありがとうございます。
夫妻とも真に知性と教養とがあり
時代を見通した卓越した考えを持っていた
素敵な方と思っています。
加えて「カッコいい〜」し。
一票投じて失礼します。
- ぬいぬいさん からの返信 2009/03/28 23:14:07
- RE: 武相荘>^_^<
- 今中さん こんばんは
少しだけ御無沙汰です。
近江路でも御活躍ですね。
武相荘 中が撮影禁止なので表の写真しかありませんが、白洲次郎ファンには
たまらない建物です。
是非機会がありましたらご覧になってください。
-
- がんもさん 2009/03/20 19:35:47
- ぬいぬいさん、ありがとう!
- こんにちは。お邪魔します♪
わたしも白洲次郎大好きです。
『プリンシプルのない日本』という本を読んではまりました。
町田に邸宅があると聞いたことがあったのですが、
ぬいぬいさんの旅行記のお陰で拝むことができました〜
あ〜なんだかとても嬉しい♪
どうしたらあんなにかっこよく生きれるのでしょうね。
彼が遺した文は今の日本の情勢にもフィットしていると思います。
そう考えると時代が問題なのではなく、
【プリンシプル】がないとダメなのかと・・・と
旅行記とは関係ない話になりそうでごめんなさい。
すごく嬉しかったです。すてきな旅行記ありがとうございました。
がんもより
- ぬいぬいさん からの返信 2009/03/21 06:25:42
- 白洲次郎 格好いいですね
- がんもちゃん おはようございます
そうですか がんもちゃんも 白洲次郎ファンですか。
何故か今までは、奥さんの白洲正子さんのほうがどちらかというと有名でしたね。
白洲次郎の存在って一部の人には熱狂的な支持を受けていましたが、意外と知られていなかったようですね。
NHKのドラマにより広くその存在と人となりが知れ渡り、この日も訪れていた人の数はかなりありました。
若い女性やおばちゃんたちが大半でしたが、亡くなって随分たってからこれだけ脚光をあびるのってすごいですね。
80を過ぎても愛車のポルシェを乗り回していたそうです。
彼の生き方ってすごくかっこよくて こんな感じで渋く年をとってみたいと以前から憧れていましたが、なかなかそんな渋い姿にはなれませんね。
でも、これからそんな路線に変更しようとひそかに考えています。(爆笑)
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