2012/07/16 - 2012/07/16
276位(同エリア441件中)
滝山氏照さん
八王子市南部から町田市小山田に至る多摩丘陵地一帯は連絡道路が少ない地理的な事情もあり自然が残されています。
小田急多摩線終点唐木田(からきだ)駅下車、大妻女子大学や近隣のゴルフ場の脇を通り整備された小山田(おやまだ)緑地沿道を約30分のところにある小山田城(おやまだじょう、東京都町田市下小山田町)を訪問しました。
右手に丘陵部の一部が迫り出す風景が現れ、室町時代に当小山田庄を本拠地とした小山田氏の居館跡で現状は曹洞宗の補陀山・大泉寺(だいせんじ)となっています。
小山田氏について言及しますと、遠祖は平姓秩父氏の嫡流を継承する畠山氏で畠山重能(はたけやま・しげよし、生没不詳)の弟有重(ありしげ、生没不詳)が小山田庄別当と称してこの地に赴き小山田氏と名乗ります。
総門から仁王門への参道は左右を広めに確保し、更に奥行き深い高台に白亜系の本堂が雄大に建立されています。
本堂西側の丘の中腹には小山田有重・行重・高家の墓と伝えられる三基の宝篋印塔が永年の風雪を耐えているかのような姿となっています。残念ながら裏手の高台への路が見つからず、本堂を囲む急涯と眼前に広がる寺域は館の存在を思わせる独特な雰囲気があります。
当然ながら鎌倉幕府創設には頼朝の旗下で忠勤に励み有力御家人として列されています。また有重の息子の重成・重朝も頼朝の下に出仕しています。
系図では重成・重朝の他行幸・行重らの息子がおり、行幸以外はそれぞれ幕府御家人として奉公を尽くします。例えば建久元年(1190)頼朝の上洛に際しては重成・重朝・行重は従兄弟の畠山重忠と共に先陣の随兵として役割を果たします。
大泉寺の寺伝に依りますと、寺の開創は安貞元年(1227)に小山田行重が父有重の菩提を弔うためにここより西北の地に高昌寺を開いた事に始まり、永享年間に無極慧鉄(えてつ)により曹洞宗に改宗、文明9年(1477)に扇谷上杉氏に与したため長尾景春軍に攻撃を受け落城したため寺をここに移したそうです。
尚有重の息子の中で小山田氏を継いだのは行重で、重成は稲毛氏となり、重朝は榛谷(はんがや)氏として他所に移りそれぞれ本拠地を構えます。
重成は父の所領の武蔵国稲毛庄(現川崎市高津区・中原区あたり)、また重朝は同様に父より受領しますが現在の横浜市旭区二俣川から保土ヶ谷区内に渡る地域であろうと言われています。
また小山田氏を継承した行重については上述の二人の兄達が畠山重忠一族滅亡後虚構の謀反だと判り三浦義村らに誅殺されたのに対し、鎌倉時代も命脈を保ち、子孫には南北朝時代に侍大将として新田義貞に従い湊川の戦いで義貞に馬を与えて逃がし自ら討死した小山田高家(おやまだ・たかいえ、生年不詳~1336)が名を留めています。
尚小山田行幸については母親が現在の八王子市を拠点とする武蔵七党のなかでも有力な横山党の横山孝兼の娘であったので持参してきた甲斐国都留郡を相続して移住、その子孫が甲斐国郡内(現山梨県大月を中心とする県東部)を支配しやがて武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)と緩やかな連合体の有力武将として戦国時代に活躍します。然しながら信茂(1539~1582)の代には劣勢に立った勝頼を裏切り武田氏を滅亡に追い込み、織田信長に恭順の姿勢を示すも逆に不忠を咎められ甲斐善光寺にて処刑されます。
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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「多摩よこやまの道」案内板
尾根幹線道路に平行する散策歩道コースの案内が描かれています。自分は直角の南北ルートを南下します。 -
方向板
よこやまの道と小山田緑地の分かれ道です。自分は小山田緑地方向に向かいます。 -
小山田緑地
途中に開けた展望可能な空間があり、休憩のひと時が過ごせます。風景を眺めると12世紀朝廷に献上するための馬の牧場、小山田の牧がこのあたりだったのかも・・・と思ってしまいます。 -
補陀山(ほださん)の一角
大泉寺に近づいてきます。当寺あたりから周辺に民家が見えてきます。 -
急涯
丘陵が突き出して段丘を造っています。 -
大泉寺総門
総門へのアプローチは十分の長さが確保されています。尚右側の空間は車輌関係が利用する道路となっています。 -
扁額
総門に掲げる扁額には「大泉禅寺」と寺号があります。 -
大泉寺仁王門
うっそうと茂った左右の樹木を見ながら仁王門に向かいます。 -
仁王門扁額
「無極揚」は曹洞宗に改宗した無極慧鉄から因んだものと思われます。 -
大泉寺本堂
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本堂扁額
「萬徳殿」と刻字されています。 -
阿羅漢奉納・案内板
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阿羅漢
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小山田氏三代・宝篋印塔
本堂を取り囲む補陀山の下に小山田氏三代の宝篋印塔が在ります。 -
小山田氏墓所
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小山田高家・顕彰碑
内容は下記の通りです。
「 小山田高家公顕彰碑
桓武平氏の流れを汲む小山田別当有重 承安元年(1171年)この地に城を築いて 小山田の庄を領した 源平争乱の時代に小山田一族は源頼朝の家人として活躍し 平氏滅亡のあと 建久元年(1190年)頼朝初の京都入落に際して 有重の子三郎重成 四郎重朝 五郎行重は 畠山重忠らとともに先陣の随兵として従った 頼朝亡きあと北条時政の誹りを受け 元久2年(1205年)三郎重成 四郎重朝とその子等将軍実朝により 二俣川に於て誅殺された ここに小山田一族の裔小山田太郎高家新田義貞の侍大将として登場 小山田城を固守していた北条泰家の軍を追って鎌倉に攻め入り 北条一族を討滅した ここに建武中興成る その後足利尊氏が叛くに及んで 高家は湊川の合戦に奮戦の折り 主君義貞 生田の森で足利軍の矢ぶすまに立ちつくすを見て 高家おのれの馬に乗せ奉りて 主君の危急を救い自らは処女塚で壮烈な戦死を遂げる 時に延元元年(1336年)5月25日を太平記は記している
小山田城址と伝えられる大山寺境内の西北の山腹に三基の宝篋印塔があるが 有重 行重 高家三人の供養塔と言われている 梵字の彫刻も苔むして定かではない塔のたたずまいは 小山田の風土と永い歴史をわれわれに語りかけてやまない 然し今日 開発の波は怒涛の如く 由緒あるこの城址に迫りつつある時 ここに美しい風土に秘められた歴史の跡を偲び 併せて小山田高家公及び小山田一族の名声を末長く顕彰するためこの碑を建立する
薄井 清 選
八十二翁 井上 武 書 」 -
小山田城址石碑
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イチオシ
宝篋印塔
小山田三代の宝篋印塔が三基配置されています。 -
初代住職の墓
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歴代住職の墓
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急斜の崖
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鐘楼堂
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社務所
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境内
土塁らしき姿が見えます。 -
境内
小池が造作されています。 -
観音堂
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扁額
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