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旅への想い <br /><br />ペリリュー島・アンガウル島・玉砕戦 <br /><br />1944年、昭和19年9月15日、米軍ぺリリュー島に上陸 <br /><br />同年、11月24日に「サクラ サクラ」の打電後、 <br /><br />中川州男大佐が率いるペリリュー守備隊は玉砕した <br /><br />2007年、拉孟・龍陵・騰越の戦跡を訪ね <br /><br />2008年、今年の5月にノモンハンに行き <br /><br />そして、ペリリューへ行くことになった <br /><br />おぼろげながら記憶の片隅にあったような気がするが <br /><br />はっきりと知ったのは今年である <br /><br />チャネル桜の討論番組の中で西部 邁氏がペリリューの玉砕を語った <br /><br />それが私がペリリュー、そしてアンガウルを知るきっかけだった <br /><br />遥か祖国を離れ、彼らは国の防波堤にならんと孤島で最後まで戦い抜いた <br /><br />今も尚、彼の地には帰らざる多くの遺骨が眠っている <br /><br />それだけではない。未だ知らない者も多い <br /><br />過去があっての今である、知らないことは罪だと思う <br /><br />彼らに申し訳立たず、自らにも恥じ入る <br /><br />行かずとも行けずとも、知らねばならない <br /><br />ついこの間、我々の父祖たちが・・・ <br /><br />国のために自らの命を投げ出し戦った幾多の戦場 <br /><br />その一つであるペリリューに行った <br /><br />

パラオ・ペリリュー戦跡への旅:旅立ち前

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2008/10/22 - 2008/10/27

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明石DS

明石DSさん

旅への想い

ペリリュー島・アンガウル島・玉砕戦

1944年、昭和19年9月15日、米軍ぺリリュー島に上陸

同年、11月24日に「サクラ サクラ」の打電後、

中川州男大佐が率いるペリリュー守備隊は玉砕した

2007年、拉孟・龍陵・騰越の戦跡を訪ね

2008年、今年の5月にノモンハンに行き

そして、ペリリューへ行くことになった

おぼろげながら記憶の片隅にあったような気がするが

はっきりと知ったのは今年である

チャネル桜の討論番組の中で西部 邁氏がペリリューの玉砕を語った

それが私がペリリュー、そしてアンガウルを知るきっかけだった

遥か祖国を離れ、彼らは国の防波堤にならんと孤島で最後まで戦い抜いた

今も尚、彼の地には帰らざる多くの遺骨が眠っている

それだけではない。未だ知らない者も多い

過去があっての今である、知らないことは罪だと思う

彼らに申し訳立たず、自らにも恥じ入る

行かずとも行けずとも、知らねばならない

ついこの間、我々の父祖たちが・・・

国のために自らの命を投げ出し戦った幾多の戦場

その一つであるペリリューに行った

同行者
一人旅
航空会社
JAL

PR

  • アルモノグイ砲台<br /><br />明治三十六年(1903年)<br />呉海軍造兵廠製造の15インチ砲 <br /><br />拾五サンチ速射砲 <br /><br />//////////////////////////<br /><br />2008.平成20年8月18日(月)<br /><br />■ペリリュー島へ行こう<br /><br />数日前、チャネル桜の討論番組で西部 邁氏がペリリュー島の日本軍の玉砕戦を紹介されているのを聞き、「その話し、確か前にも聞いたことがある・・・」と思い出した。 <br /><br />それでネットで検索し、次の旅はパラオ共和国ペリリュー島に行くことに決めた。そして今日、ツアーを企画している旅行社に電話して申込をする。 <br /><br />そして、それに関しての本を読もうと調べたら複数の本があった。図書館に蔵書のある本は図書館で、無い本はアマゾンで購入することにした。ガイドブックはいつもように「地球の歩き方:パラオ」を直ぐに注文し、既に手元にある。 <br /><br />アマゾンで購入した本↓(新品・中古)<br /><br />○「ペリリュー島玉砕戦:南海の小島70日の血戦」:舩坂 弘(著) ¥ 735<br />○「秘話パラオ戦記:玉砕戦の孤島に大義はなかった」:舩坂 弘(著) ¥ 16<br />○「アンガウル、ペリリュー戦記:玉砕を生きのびて」:星 亮一(著) ¥ 1,150<br />○「玉砕の島:太平洋戦争激闘の秘録」:佐藤 和正(著) ¥ 200 <br /><br />4冊、計¥2,101+送料4冊¥1304円=¥3,405円 <br /><br />図書館で借りる本↓<br /><br />○「女ひとり玉砕の島を行く」:笹幸恵/著、 <br />○「ペリリューアンガウル・トラック」(太平洋戦跡紀行) / 西村誠‖著. <br /><br />これから順次上記6冊を読もうと思っている。 <br /><br />この他にも図書館で借りた <br /><br />そして・・・。 <br /><br />インターネットからの情報は無尽蔵とも言える <br /><br />/////////////////////////////<br />今日、下記のツアーに申し込んだ <br /><br />■関西発着■【7〜10月料金掲載】<br />チャーター直行便利用<ココロホテル指定>パラオ6日間 朝食4回付! <br /><br />【会社名】 エアーワールド株式会社 <br />【住所】 〒540-0026 大阪市中央区内本町2丁目2番14-207 <br />【電話番号】 06-6947-1065 <br /><br />出発日:10月22日(水)<br />料金:¥85,500円<br />1人部屋:¥20,000円<br />燃油特別付加運賃:¥21,000円<br />関空使用料:¥2,650円 <br /><br />合計:¥129,150円 <br /><br />燃油特別付加運賃の追加請求¥5,000円が来る。 <br /><br />結局:¥134,150円になる。 <br /><br />このツアーは空港からホテルへの送迎があるだけで、あとは全部オプショナルツアーである。スケジュールは何も無い。これからペリリュー島への戦跡巡りの一人旅をボチボチ計画しようと思う。さあ、どんな旅になるだろう? <br /><br /><br />----------------------------<br />2008.平成20年8月23日(土)<br /><br />■送金完了<br /><br />申込み金¥2万円だが、全額¥129,150円を振り込んだ。<br /><br />10月22日(水)出発だ。 <br /><br />今、手元にペリリューへの旅の為に読もうとしている5冊の本がある。上記の6冊の内「ペリリュー島玉砕戦」舩坂 弘(著)の一冊だけがまだ届いていない。二冊は図書館で借りた。 <br /><br />まだざっと目を通しただけで読んでいない。出発までに読んで、頭の中にも、そしてある程度はまとめて整理しておきたい。知れば知るほど興味も湧いて来るだろうし、旅も有意義な物になると思う。でも欲はかかない。 <br /><br />さあ、何から読もうか・・・。<br />「女ひとり玉砕の島を行く」笹幸恵(著)から読もう。これにはペリリュー島の戦いは書かれていない。 <br /><br />--------------------------------<br />2008.平成20年9月3日(火)<br /><br />■サクラ、サクラ<br /><br />「女ひとり玉砕の島を行く」は読み終えた。この本にはペリリュー島のことは書かれていないが、私が知らない島々での玉砕があまりに多いので驚いた。 <br /><br />ツラギ島・ムンダ・タラワ島・マキン島・等などである。その他にも有名なガダルカナル、ブーゲンビル、サイパン、テニアン、硫黄島への戦跡巡りについて書かれていた。 <br /><br />ガダルカナルでは同行した元兵士の方である一木支隊生き残りO氏から笹幸恵さんに「どうか戦友たちのことを悪く書かないで下さい。」最初と最後に二度も・・・頼まれたそうである。 <br /><br />今、「ペリリュー島・玉砕戦」船坂弘(著)を読みかけた。その最初のプロローグに書かれていた中川州男(くにお)大佐の電文。 <br /><br />通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以テ最後ノ電報ハ左ノ如ク致シ度承知相成度。 <br /><br />一、軍旗ヲ完全ニ処置奉レリ。 <br /><br />ニ、機密書類ハ異状ナク処理セリ。<br />右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度。 <br /><br />昭和十九年十一月二十四日午後四時、軍旗を焼却し、守備隊長以下は自決。パラオ本島通信部に以下の電文が届いた。 <br /><br />サクラ サクラ <br /><br />我この島に行く。 <br /><br />

    アルモノグイ砲台

    明治三十六年(1903年)
    呉海軍造兵廠製造の15インチ砲

    拾五サンチ速射砲

    //////////////////////////

    2008.平成20年8月18日(月)

    ■ペリリュー島へ行こう

    数日前、チャネル桜の討論番組で西部 邁氏がペリリュー島の日本軍の玉砕戦を紹介されているのを聞き、「その話し、確か前にも聞いたことがある・・・」と思い出した。

    それでネットで検索し、次の旅はパラオ共和国ペリリュー島に行くことに決めた。そして今日、ツアーを企画している旅行社に電話して申込をする。

    そして、それに関しての本を読もうと調べたら複数の本があった。図書館に蔵書のある本は図書館で、無い本はアマゾンで購入することにした。ガイドブックはいつもように「地球の歩き方:パラオ」を直ぐに注文し、既に手元にある。

    アマゾンで購入した本↓(新品・中古)

    ○「ペリリュー島玉砕戦:南海の小島70日の血戦」:舩坂 弘(著) ¥ 735
    ○「秘話パラオ戦記:玉砕戦の孤島に大義はなかった」:舩坂 弘(著) ¥ 16
    ○「アンガウル、ペリリュー戦記:玉砕を生きのびて」:星 亮一(著) ¥ 1,150
    ○「玉砕の島:太平洋戦争激闘の秘録」:佐藤 和正(著) ¥ 200

    4冊、計¥2,101+送料4冊¥1304円=¥3,405円

    図書館で借りる本↓

    ○「女ひとり玉砕の島を行く」:笹幸恵/著、
    ○「ペリリューアンガウル・トラック」(太平洋戦跡紀行) / 西村誠‖著.

    これから順次上記6冊を読もうと思っている。

    この他にも図書館で借りた

    そして・・・。

    インターネットからの情報は無尽蔵とも言える

    /////////////////////////////
    今日、下記のツアーに申し込んだ

    ■関西発着■【7〜10月料金掲載】
    チャーター直行便利用<ココロホテル指定>パラオ6日間 朝食4回付!

    【会社名】 エアーワールド株式会社
    【住所】 〒540-0026 大阪市中央区内本町2丁目2番14-207
    【電話番号】 06-6947-1065

    出発日:10月22日(水)
    料金:¥85,500円
    1人部屋:¥20,000円
    燃油特別付加運賃:¥21,000円
    関空使用料:¥2,650円

    合計:¥129,150円

    燃油特別付加運賃の追加請求¥5,000円が来る。

    結局:¥134,150円になる。

    このツアーは空港からホテルへの送迎があるだけで、あとは全部オプショナルツアーである。スケジュールは何も無い。これからペリリュー島への戦跡巡りの一人旅をボチボチ計画しようと思う。さあ、どんな旅になるだろう?


    ----------------------------
    2008.平成20年8月23日(土)

    ■送金完了

    申込み金¥2万円だが、全額¥129,150円を振り込んだ。

    10月22日(水)出発だ。

    今、手元にペリリューへの旅の為に読もうとしている5冊の本がある。上記の6冊の内「ペリリュー島玉砕戦」舩坂 弘(著)の一冊だけがまだ届いていない。二冊は図書館で借りた。

    まだざっと目を通しただけで読んでいない。出発までに読んで、頭の中にも、そしてある程度はまとめて整理しておきたい。知れば知るほど興味も湧いて来るだろうし、旅も有意義な物になると思う。でも欲はかかない。

    さあ、何から読もうか・・・。
    「女ひとり玉砕の島を行く」笹幸恵(著)から読もう。これにはペリリュー島の戦いは書かれていない。

    --------------------------------
    2008.平成20年9月3日(火)

    ■サクラ、サクラ

    「女ひとり玉砕の島を行く」は読み終えた。この本にはペリリュー島のことは書かれていないが、私が知らない島々での玉砕があまりに多いので驚いた。

    ツラギ島・ムンダ・タラワ島・マキン島・等などである。その他にも有名なガダルカナル、ブーゲンビル、サイパン、テニアン、硫黄島への戦跡巡りについて書かれていた。

    ガダルカナルでは同行した元兵士の方である一木支隊生き残りO氏から笹幸恵さんに「どうか戦友たちのことを悪く書かないで下さい。」最初と最後に二度も・・・頼まれたそうである。

    今、「ペリリュー島・玉砕戦」船坂弘(著)を読みかけた。その最初のプロローグに書かれていた中川州男(くにお)大佐の電文。

    通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以テ最後ノ電報ハ左ノ如ク致シ度承知相成度。

    一、軍旗ヲ完全ニ処置奉レリ。

    ニ、機密書類ハ異状ナク処理セリ。
    右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度。

    昭和十九年十一月二十四日午後四時、軍旗を焼却し、守備隊長以下は自決。パラオ本島通信部に以下の電文が届いた。

    サクラ サクラ

    我この島に行く。

  • <br />------------------------------------<br />2008.平成20年9月19日(金)<br /><br />■高垣勘ニ少尉<br /><br />「ペリリュー島・玉砕戦」を読み終え、次いで「秘話パラオ戦記」を読んだ。 <br /><br />「秘話パラオ戦記」には高垣少尉のことが書かれている。 <br /><br />高垣少尉の勲功は陸自の太平洋戦争公刊戦史の第十三巻、アンガウル島とペリリュー島の戦史の中に以下のように記されている。 <br /><br />『昭和十九年十一月八日夜、高垣勘ニ少尉以下九名の集団海上遊撃隊は、ガラゴン島(現在・ゲロン島:NGERCHONG IS)に斬り込み、米兵多数を殺傷、補給品を鹵獲したが、我方にも戦死三名の損害を受け、十二日マカラカル島に帰還した』 <br /><br />著者:船坂氏には良くぞ若き青年士官:高垣少尉のことを調べてこの本を書いてくれたと感謝の言葉しかない。まだ今の日本では埋もれた話しだと思うが、いつの日にか日本人の多くが知るところになるだろう。 <br /><br />高垣少尉と共に戦い戦後帰還された部下の方々が当時二十三歳だった小隊長の思いを語る言葉には、尊敬と信頼に溢れ隊長を信じ戦い抜いた誇りがひしひしと伝わってくる。感動の本だ。 <br /><br />「日本軍かく戦えり」 <br /><br />--------------------------------<br />2008.平成20年9月19日(金)<br /><br />■高垣勘ニ少尉<br /><br />「秘話パラオ戦記」船坂弘(著)<br />高垣勘ニ少尉のことを忘れない為にも本を抜粋し記しておく。 <br /><br />著者である船坂氏もアンガウル島の玉砕戦を生き延びた元兵士である。 <br /><br />その著者に昭和四十四年、高垣少尉の母から一通の便りが来た。<br /><br /><br />手紙の内容は<br />「少尉で死んだ息子が戦場で勲功を上げニ階級特進の栄誉に輝いたはずなのに進級していない。何故なのか?随分調べたが、よる年に勝てず精根も尽き果てました。貴男にお願いして調べて頂きたい」と書かれていた。 <br /><br />ニ階級特進の栄誉は「軍神」とも言われるほどの名誉で、「爆弾三勇士」「真珠湾攻撃の九勇士」「加藤隼戦闘機隊長」「西住戦車隊長」などごく限れた勇士が対象になる。 <br /><br />それ程の勲功を上げ一度はニ階級特進と言われながら現実にはされなかったのは何故なのか? <br /><br />著者はあらゆる限りの手を尽くしながら調査したが、なかなか辿りつけずにいた。しかし三年後の四十七年、そんな著者の所に高垣少尉と共に戦った元部下の四人(半井兵長・井上上等兵・藤川伍長・林伍長・各氏)が訪ねて来た。それで全容は明らかになった。 <br /><br />半井:「私は高垣小隊長殿に、とくにかわいがられたものです。いつも小隊長とは一緒でした。ガラゴン島に斬り込んだときも、小隊長のそばをはなれませんでした・・・」 <br /><br />半井氏は筋骨逞しい古武士をそこに見るような男で、かっての軍隊においては、さぞかし模範兵であり、かつ猛者であったと思われる風貌姿勢をしている。 <br /><br />井上:「私は斬込隊の第二班に編成され、ガラゴン島に行きました。当時は上等兵でした。ガラゴン島では、軽機関銃がじつによく働きました。全然故障がなくて、面白いように弾が出ました」 <br /><br />藤川:「私は当時、高垣小隊の先任下士官でした。斬り込みのときは第三班でした・・・。兵庫県の藤川です」 <br /><br />温厚なタイプであるが、どことなく極限のなかをくぐり抜けて来た沈重さをその言葉に含んでいた。 <br /><br />林:「私はガラゴン島に斬り込まれた高垣小隊長殿や、ここにおります方々を見送って、マカラカル島に残留していました・・・」パラオ戦線で負傷し視力を失ったが帰国後の治療でわずかな視力を回復した。 <br /><br />著者はこの林さんを知り、高垣小隊長のことを教えてもらいたいと言ったが、その時、林さんは「自分一存の判断では出来ないということであった」 <br /><br />やはり、それは何か高垣小隊長についての深い事情があるようだった。そして林さんはその後、当時の戦友と相談し四人で著者の家を来訪した。 <br /><br />昭和19年8月中旬(米軍のペリリュー攻撃一ヶ月前)<br />高垣小隊長以下一個小隊(三十八名):ペリリューから北東12kmのガラゴン島に派遣される。 <br /><br />理由は、竹を割ったような性格の高垣少尉がペリリュー島でパラオの色街から大隊長を追って来た女性(久松・芸者)を追い返した。この女性・久松は大隊長自決の後も機関銃を乱射し最後まで米軍と戦い戦死したそうである。 <br /><br />昭和19年9月15日ペリリュー島米軍上陸<br />25日、ガラゴン島の高垣小隊にペリリュー島への原隊復帰命令 <br /><br />高垣小隊は米軍厳戒の中を夜間、ペリリューに向って渡渉するも敵艦の探照灯の照査によって小隊の全滅を危惧し『全員ガラゴン島に転進すべし』『大儀とは生きて戦い抜くことだ』と言い、ガラゴン島に帰島した。 <br /><br />その後、ガラゴン島にも米艦船からの艦砲射撃の猛爆が始まり、高垣少尉は艦砲の餌食になるのは愚の骨頂だと判断し、北方2キロのマカラカル島、そして尚艦砲を避け北にあるウルクターブル島へ再度の転進をする。これが敵前逃亡・抗命罪に問われることになる。 <br /><br />そして11月初旬、ウルクターブル島からパラオの司令部に少尉は出頭し罵声を浴び糾弾され、小隊を引き連れただちにガラゴン島に切り込んで汚名を挽回せよとの命令を受ける。 <br /><br />「少数精鋭による決行」との命令内容から小隊全員を連れてゆくのではなく、小隊長以下9名を選抜する。選抜された者は全員、支那大陸での歴戦の勇者たちであった。 <br /><br />11月8日夜半、米軍一個中隊が上陸し、強力なる陣地を構築しているガラゴン島へ高垣少尉以下2・3・2・2の4班=九名の決死隊が乗り込むのである。 <br /><br />あくまでも高垣少尉は生還を期し、10日夜半にイカダを持って水泳の達者な残存兵士にガラゴン島北西20メートルの地点にある浅瀬に迎えに来るように命令を出す。 <br /><br />米軍一個中隊は240名、9vs240、約30倍の敵と戦闘して必ず帰って来るという固い信念を少尉は持っていた。 <br /><br />午後12頃、ガラゴン島に苦心惨憺しながらも全員無事にたどり着く。小隊長と半井兵長が敵情視察に出て1時半ごろ戻る。 <br /><br />黎明期の午前5時を期に4班は、それぞれの目標に攻撃を掛ける。それは米軍の宿舎だった。高垣少尉と半井兵長は爆薬を仕掛けるも不発で、米軍に気付かれ、少尉は米兵に向って射撃をし、同行した半井兵長が手榴弾を投げ込む。米兵は裸のまま海岸目指して逃走する。 <br /><br />その他の三班も高垣小隊長たちの襲撃した方向からの炸裂音を聞き、それぞれが与えられた目標の宿舎を爆破し手榴弾を投げ込んだ。四ヶ所の米軍宿舎を全部破壊し、米兵を追っ払い、負傷させ、大成功だった。 <br /><br />その上、少尉たちも米兵が逃げ去った宿舎の横の食堂から衛生材料・薬品、食料、缶詰類を分捕った。そして全員が集合地に戻った。大戦果を上げたのである。 <br /><br />分捕り品の食料を食べ小休止をしていた時、米軍が上陸用舟艇で逆上陸して来た。その時、みんなは一刻も早く退却しなければ大変だと思った時、高垣少尉は「どこだ!何隻だ!」と、軍刀を持って立ち上がると「よし!俺のあとに続け!米兵を全滅させるんだ!」と言った。 <br /><br />半井兵長はその時のことを・・・。<br />「召集兵の私から見れば弟としか思えない、あの若い小隊長殿のあの時の決断には驚きましたよ。私は支那事変で何人もの将校につかえましたが、こんな立派な将校を見たことも、聞いたこともありませんでした。あの若さで連隊長のような指揮をするんです。」と語る。 <br /><br />上陸した米兵が滑走路まで来た所で、9名は一斉射撃を加えた。井上上等兵の軽機関銃は見事に火を吐き続け敵兵をバタバタ倒した。敵は死体を残したまま再び舟艇に飛び乗り逃げていった。 <br /><br />高垣少尉の「深追いはするな」の命令の下、みんなは逃走する米兵に向って勝鬨(かちどき)をあげた。その勝鬨を上げた場所は、マカラカル島の監視哨から手にとって見える位置だった。そして監視哨隊長がちょうど彼らの行動の一部始終を見ていたそうだ。 <br /><br />半井氏談<br />「だがそれにしても、高垣小隊長はじつに度胸が良いというか、肝っ玉が太いというべきか、今考えても感心するんですが、米軍の艦船や駆逐艇が十数隻も見ているところで、勝鬨をあげ気勢をあげたんですからね。主従一体となって柔よく剛を制したのですよ。こんなこと、どこの戦線でもやった人はいないのですよ。第二次大戦の初期で日本軍の優勢のころとちがって、戦局は敗戦に近づいていたころなのです。おそらく太平洋戦争では、最初で最後でしょうね・・・。」 <br /><br />しかし、たがいの無事を祝ったのもつかの間、こんどは完全武装した米軍が大挙して上陸して来た。小隊長が軍刀を手にかざして、的確に指揮をし、みんなは夢中で応戦した。それに手を焼いた米軍は又も撤退を始めた。 <br /><br />しかし小隊からも犠牲者が出た。その内、海上から艦砲射撃が始まり、小隊長の命で単独行動になり、戦闘は夕方まで続いた。日が落ちると米兵の撤退で戦闘は終わり、彼らは舟艇に引揚げると一目散に海上に去って行った。 <br /><br />その後、またも猛烈な艦砲射撃が続き、各自安全な場所を探して退避する。小隊全員が固まっていれば一発の砲撃で全滅の可能性があるからだ。藤原伍長が重傷を負い小隊長が背負っていたが亡くなり、高垣小隊長自らがねんごろに葬った。 <br /><br />その後の高垣少尉の行動:著者の調査によれば・・・。 <br /><br />夜に入ってから、集結場所に行ったが、高田伍長と井上上等兵の両名しか集結していなかったので、二人をマカラカル島へ報告のために先に帰還させ、自らは単身で部下の安否を確認のために全島を捜索した。しかし吉田伍長の戦死を確認しただけで他者の者とは遭遇できず、いったん夜明けにマカラカル島に帰り、舟艇によって10日、11日とガラゴン島を再捜索したのであった。 <br /><br />高垣少尉の勲功は陸自の太平洋戦争公刊戦史の第十三巻、アンガウル島とペリリュー島の戦史の中に以下のように記されている。 <br /><br />『昭和十九年十一月八日夜、高垣勘ニ少尉以下九名の集団海上遊撃隊は、ガラゴン島に斬り込み、米兵多数を殺傷、補給品を鹵獲したが、我方にも戦死三名の損害を受け、十二日マカラカル島に帰還した』 <br /><br />米国海兵隊公刊戦史には、この斬り込隊に関して<br />『約200名よりなる日本軍部隊は、ガラゴン島に上陸し、米海兵部隊は撤退の止むなきに至れり。米軍は艦艇をもってデンギス水道を遮断し、艦砲射撃および爆撃により、日本軍陣地を攻撃せり』<br />と人数に多大の相違こそあれ確かに記録されている。 <br /><br />高垣勘ニ少尉の最後:マカラカル島に於いて <br /><br />高垣小隊は「海上遊撃隊」という名称が付けられ特設決死隊として義務付けられた。その任務は隊員一人一人が漆黒の闇夜を利用して、敵艦船に泳ぎ着き爆薬を船体やスクリューに取り付け点火爆破させる。或いはガラゴン斬り込みのように敵前上陸を敢行するという、まさしく決死隊である。 <br /><br />その任務を遂行するために日夜、厳しい訓練に明け暮れたそうだ。そしてペリリュー島も昭和19年11月24日午後4時、「サクラ サクラ」を連打し玉砕した。 <br /><br />人命尊重の目的で米軍攻撃用の手製爆雷の導火線を長くする研究していた小隊長だが、自給自足を送っている現地は魚類の宝庫で、高垣少尉は魚を取るための火薬の研究もしていた。そして魚を取るための「缶詰爆雷」を発明した。 <br /><br />昭和20年3月9日<br />明日3月10日の陸軍記念日の前日、少尉は部下のみんなに魚を取ってヤシ油で天ぷらにして食べさてやろうと計画し、林伍長と二人で海に行き完成したばかりの「缶詰爆雷」の導火線に火をつけた。傍で見ていた林伍長は、直ぐに導火線の火が消え不発だと思った。 <br /><br />そして高垣少尉が導火線をのぞきこんだところ・・・すさまじ炸裂音と共に少尉は爆死し、林伍長も眼下のリーフに叩き付けられた。 <br /><br />林伍長の言葉 <br /><br />「たしかに高垣少尉殿は、不慮の事故によって志し半ばにして戦死されました。だからこそ私は言いたい。敵前逃亡の件のときもそうだったが、小隊長殿の表面にあらわれたことのみしか知ろうとせず、なぜ内なる少尉殿の忠誠の心を見てくれなかったのか・・・と。 <br /><br />あの勇敢なガラゴン島斬り込みの名誉ある武人、りっぱな指揮官を、なぜに戦争の裏面史の中に生きる運命に、置きかえてしまったのでしょうか。いまの世に言う“死に方”が“カッコ悪かった”からですか。 <br /><br />敵の前で死ぬことが、華々しい戦死なのですか。しかし小隊長殿がどのような死に方をされようと、私たちは知っています。あの勇敢、豪快、実直、潔白、日本男児の最たる気性を!」 <br /><br />こういい終わると林さんは、涙をおさえかねて沈黙した。半井、藤川、井上の三勇士も同じ様に目頭に手を当てて泣いていた。 <br /><br />事件の真相は意外な結末に終わった。だが一人の勇士の勲(いさお)が、ここに記録された。これは偉大なことである・・・と、私はその時、位牌の中の高垣少尉にとも、私のうしろにいる四人にとも、また私自身にともなく、ひとり語りかけていた。<br />(文責:船坂弘) <br /><br />


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    2008.平成20年9月19日(金)

    ■高垣勘ニ少尉

    「ペリリュー島・玉砕戦」を読み終え、次いで「秘話パラオ戦記」を読んだ。

    「秘話パラオ戦記」には高垣少尉のことが書かれている。

    高垣少尉の勲功は陸自の太平洋戦争公刊戦史の第十三巻、アンガウル島とペリリュー島の戦史の中に以下のように記されている。

    『昭和十九年十一月八日夜、高垣勘ニ少尉以下九名の集団海上遊撃隊は、ガラゴン島(現在・ゲロン島:NGERCHONG IS)に斬り込み、米兵多数を殺傷、補給品を鹵獲したが、我方にも戦死三名の損害を受け、十二日マカラカル島に帰還した』

    著者:船坂氏には良くぞ若き青年士官:高垣少尉のことを調べてこの本を書いてくれたと感謝の言葉しかない。まだ今の日本では埋もれた話しだと思うが、いつの日にか日本人の多くが知るところになるだろう。

    高垣少尉と共に戦い戦後帰還された部下の方々が当時二十三歳だった小隊長の思いを語る言葉には、尊敬と信頼に溢れ隊長を信じ戦い抜いた誇りがひしひしと伝わってくる。感動の本だ。

    「日本軍かく戦えり」

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    2008.平成20年9月19日(金)

    ■高垣勘ニ少尉

    「秘話パラオ戦記」船坂弘(著)
    高垣勘ニ少尉のことを忘れない為にも本を抜粋し記しておく。

    著者である船坂氏もアンガウル島の玉砕戦を生き延びた元兵士である。

    その著者に昭和四十四年、高垣少尉の母から一通の便りが来た。


    手紙の内容は
    「少尉で死んだ息子が戦場で勲功を上げニ階級特進の栄誉に輝いたはずなのに進級していない。何故なのか?随分調べたが、よる年に勝てず精根も尽き果てました。貴男にお願いして調べて頂きたい」と書かれていた。

    ニ階級特進の栄誉は「軍神」とも言われるほどの名誉で、「爆弾三勇士」「真珠湾攻撃の九勇士」「加藤隼戦闘機隊長」「西住戦車隊長」などごく限れた勇士が対象になる。

    それ程の勲功を上げ一度はニ階級特進と言われながら現実にはされなかったのは何故なのか?

    著者はあらゆる限りの手を尽くしながら調査したが、なかなか辿りつけずにいた。しかし三年後の四十七年、そんな著者の所に高垣少尉と共に戦った元部下の四人(半井兵長・井上上等兵・藤川伍長・林伍長・各氏)が訪ねて来た。それで全容は明らかになった。

    半井:「私は高垣小隊長殿に、とくにかわいがられたものです。いつも小隊長とは一緒でした。ガラゴン島に斬り込んだときも、小隊長のそばをはなれませんでした・・・」

    半井氏は筋骨逞しい古武士をそこに見るような男で、かっての軍隊においては、さぞかし模範兵であり、かつ猛者であったと思われる風貌姿勢をしている。

    井上:「私は斬込隊の第二班に編成され、ガラゴン島に行きました。当時は上等兵でした。ガラゴン島では、軽機関銃がじつによく働きました。全然故障がなくて、面白いように弾が出ました」

    藤川:「私は当時、高垣小隊の先任下士官でした。斬り込みのときは第三班でした・・・。兵庫県の藤川です」

    温厚なタイプであるが、どことなく極限のなかをくぐり抜けて来た沈重さをその言葉に含んでいた。

    林:「私はガラゴン島に斬り込まれた高垣小隊長殿や、ここにおります方々を見送って、マカラカル島に残留していました・・・」パラオ戦線で負傷し視力を失ったが帰国後の治療でわずかな視力を回復した。

    著者はこの林さんを知り、高垣小隊長のことを教えてもらいたいと言ったが、その時、林さんは「自分一存の判断では出来ないということであった」

    やはり、それは何か高垣小隊長についての深い事情があるようだった。そして林さんはその後、当時の戦友と相談し四人で著者の家を来訪した。

    昭和19年8月中旬(米軍のペリリュー攻撃一ヶ月前)
    高垣小隊長以下一個小隊(三十八名):ペリリューから北東12kmのガラゴン島に派遣される。

    理由は、竹を割ったような性格の高垣少尉がペリリュー島でパラオの色街から大隊長を追って来た女性(久松・芸者)を追い返した。この女性・久松は大隊長自決の後も機関銃を乱射し最後まで米軍と戦い戦死したそうである。

    昭和19年9月15日ペリリュー島米軍上陸
    25日、ガラゴン島の高垣小隊にペリリュー島への原隊復帰命令

    高垣小隊は米軍厳戒の中を夜間、ペリリューに向って渡渉するも敵艦の探照灯の照査によって小隊の全滅を危惧し『全員ガラゴン島に転進すべし』『大儀とは生きて戦い抜くことだ』と言い、ガラゴン島に帰島した。

    その後、ガラゴン島にも米艦船からの艦砲射撃の猛爆が始まり、高垣少尉は艦砲の餌食になるのは愚の骨頂だと判断し、北方2キロのマカラカル島、そして尚艦砲を避け北にあるウルクターブル島へ再度の転進をする。これが敵前逃亡・抗命罪に問われることになる。

    そして11月初旬、ウルクターブル島からパラオの司令部に少尉は出頭し罵声を浴び糾弾され、小隊を引き連れただちにガラゴン島に切り込んで汚名を挽回せよとの命令を受ける。

    「少数精鋭による決行」との命令内容から小隊全員を連れてゆくのではなく、小隊長以下9名を選抜する。選抜された者は全員、支那大陸での歴戦の勇者たちであった。

    11月8日夜半、米軍一個中隊が上陸し、強力なる陣地を構築しているガラゴン島へ高垣少尉以下2・3・2・2の4班=九名の決死隊が乗り込むのである。

    あくまでも高垣少尉は生還を期し、10日夜半にイカダを持って水泳の達者な残存兵士にガラゴン島北西20メートルの地点にある浅瀬に迎えに来るように命令を出す。

    米軍一個中隊は240名、9vs240、約30倍の敵と戦闘して必ず帰って来るという固い信念を少尉は持っていた。

    午後12頃、ガラゴン島に苦心惨憺しながらも全員無事にたどり着く。小隊長と半井兵長が敵情視察に出て1時半ごろ戻る。

    黎明期の午前5時を期に4班は、それぞれの目標に攻撃を掛ける。それは米軍の宿舎だった。高垣少尉と半井兵長は爆薬を仕掛けるも不発で、米軍に気付かれ、少尉は米兵に向って射撃をし、同行した半井兵長が手榴弾を投げ込む。米兵は裸のまま海岸目指して逃走する。

    その他の三班も高垣小隊長たちの襲撃した方向からの炸裂音を聞き、それぞれが与えられた目標の宿舎を爆破し手榴弾を投げ込んだ。四ヶ所の米軍宿舎を全部破壊し、米兵を追っ払い、負傷させ、大成功だった。

    その上、少尉たちも米兵が逃げ去った宿舎の横の食堂から衛生材料・薬品、食料、缶詰類を分捕った。そして全員が集合地に戻った。大戦果を上げたのである。

    分捕り品の食料を食べ小休止をしていた時、米軍が上陸用舟艇で逆上陸して来た。その時、みんなは一刻も早く退却しなければ大変だと思った時、高垣少尉は「どこだ!何隻だ!」と、軍刀を持って立ち上がると「よし!俺のあとに続け!米兵を全滅させるんだ!」と言った。

    半井兵長はその時のことを・・・。
    「召集兵の私から見れば弟としか思えない、あの若い小隊長殿のあの時の決断には驚きましたよ。私は支那事変で何人もの将校につかえましたが、こんな立派な将校を見たことも、聞いたこともありませんでした。あの若さで連隊長のような指揮をするんです。」と語る。

    上陸した米兵が滑走路まで来た所で、9名は一斉射撃を加えた。井上上等兵の軽機関銃は見事に火を吐き続け敵兵をバタバタ倒した。敵は死体を残したまま再び舟艇に飛び乗り逃げていった。

    高垣少尉の「深追いはするな」の命令の下、みんなは逃走する米兵に向って勝鬨(かちどき)をあげた。その勝鬨を上げた場所は、マカラカル島の監視哨から手にとって見える位置だった。そして監視哨隊長がちょうど彼らの行動の一部始終を見ていたそうだ。

    半井氏談
    「だがそれにしても、高垣小隊長はじつに度胸が良いというか、肝っ玉が太いというべきか、今考えても感心するんですが、米軍の艦船や駆逐艇が十数隻も見ているところで、勝鬨をあげ気勢をあげたんですからね。主従一体となって柔よく剛を制したのですよ。こんなこと、どこの戦線でもやった人はいないのですよ。第二次大戦の初期で日本軍の優勢のころとちがって、戦局は敗戦に近づいていたころなのです。おそらく太平洋戦争では、最初で最後でしょうね・・・。」

    しかし、たがいの無事を祝ったのもつかの間、こんどは完全武装した米軍が大挙して上陸して来た。小隊長が軍刀を手にかざして、的確に指揮をし、みんなは夢中で応戦した。それに手を焼いた米軍は又も撤退を始めた。

    しかし小隊からも犠牲者が出た。その内、海上から艦砲射撃が始まり、小隊長の命で単独行動になり、戦闘は夕方まで続いた。日が落ちると米兵の撤退で戦闘は終わり、彼らは舟艇に引揚げると一目散に海上に去って行った。

    その後、またも猛烈な艦砲射撃が続き、各自安全な場所を探して退避する。小隊全員が固まっていれば一発の砲撃で全滅の可能性があるからだ。藤原伍長が重傷を負い小隊長が背負っていたが亡くなり、高垣小隊長自らがねんごろに葬った。

    その後の高垣少尉の行動:著者の調査によれば・・・。

    夜に入ってから、集結場所に行ったが、高田伍長と井上上等兵の両名しか集結していなかったので、二人をマカラカル島へ報告のために先に帰還させ、自らは単身で部下の安否を確認のために全島を捜索した。しかし吉田伍長の戦死を確認しただけで他者の者とは遭遇できず、いったん夜明けにマカラカル島に帰り、舟艇によって10日、11日とガラゴン島を再捜索したのであった。

    高垣少尉の勲功は陸自の太平洋戦争公刊戦史の第十三巻、アンガウル島とペリリュー島の戦史の中に以下のように記されている。

    『昭和十九年十一月八日夜、高垣勘ニ少尉以下九名の集団海上遊撃隊は、ガラゴン島に斬り込み、米兵多数を殺傷、補給品を鹵獲したが、我方にも戦死三名の損害を受け、十二日マカラカル島に帰還した』

    米国海兵隊公刊戦史には、この斬り込隊に関して
    『約200名よりなる日本軍部隊は、ガラゴン島に上陸し、米海兵部隊は撤退の止むなきに至れり。米軍は艦艇をもってデンギス水道を遮断し、艦砲射撃および爆撃により、日本軍陣地を攻撃せり』
    と人数に多大の相違こそあれ確かに記録されている。

    高垣勘ニ少尉の最後:マカラカル島に於いて

    高垣小隊は「海上遊撃隊」という名称が付けられ特設決死隊として義務付けられた。その任務は隊員一人一人が漆黒の闇夜を利用して、敵艦船に泳ぎ着き爆薬を船体やスクリューに取り付け点火爆破させる。或いはガラゴン斬り込みのように敵前上陸を敢行するという、まさしく決死隊である。

    その任務を遂行するために日夜、厳しい訓練に明け暮れたそうだ。そしてペリリュー島も昭和19年11月24日午後4時、「サクラ サクラ」を連打し玉砕した。

    人命尊重の目的で米軍攻撃用の手製爆雷の導火線を長くする研究していた小隊長だが、自給自足を送っている現地は魚類の宝庫で、高垣少尉は魚を取るための火薬の研究もしていた。そして魚を取るための「缶詰爆雷」を発明した。

    昭和20年3月9日
    明日3月10日の陸軍記念日の前日、少尉は部下のみんなに魚を取ってヤシ油で天ぷらにして食べさてやろうと計画し、林伍長と二人で海に行き完成したばかりの「缶詰爆雷」の導火線に火をつけた。傍で見ていた林伍長は、直ぐに導火線の火が消え不発だと思った。

    そして高垣少尉が導火線をのぞきこんだところ・・・すさまじ炸裂音と共に少尉は爆死し、林伍長も眼下のリーフに叩き付けられた。

    林伍長の言葉

    「たしかに高垣少尉殿は、不慮の事故によって志し半ばにして戦死されました。だからこそ私は言いたい。敵前逃亡の件のときもそうだったが、小隊長殿の表面にあらわれたことのみしか知ろうとせず、なぜ内なる少尉殿の忠誠の心を見てくれなかったのか・・・と。

    あの勇敢なガラゴン島斬り込みの名誉ある武人、りっぱな指揮官を、なぜに戦争の裏面史の中に生きる運命に、置きかえてしまったのでしょうか。いまの世に言う“死に方”が“カッコ悪かった”からですか。

    敵の前で死ぬことが、華々しい戦死なのですか。しかし小隊長殿がどのような死に方をされようと、私たちは知っています。あの勇敢、豪快、実直、潔白、日本男児の最たる気性を!」

    こういい終わると林さんは、涙をおさえかねて沈黙した。半井、藤川、井上の三勇士も同じ様に目頭に手を当てて泣いていた。

    事件の真相は意外な結末に終わった。だが一人の勇士の勲(いさお)が、ここに記録された。これは偉大なことである・・・と、私はその時、位牌の中の高垣少尉にとも、私のうしろにいる四人にとも、また私自身にともなく、ひとり語りかけていた。
    (文責:船坂弘)

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    見よ!この周囲の鋼板を

    64年の歳月にも錆びて腐らず

    15インチ砲、今も磨けば火を噴くぞ

    明治の気骨がここにあり、万歳!




    -----------------------------------
    2008.平成20年10月1日(水)

    ■ペリリュー島を目指して・・・。

    9月18日(木)

    ○○様

    はじめまして、ロックアイランドツアーカンパニー ○○です。弊社オプショナルツアーお問い合わせいただき誠にありがとうございます。 ○○に代わり下記お問い合わせ回答させて頂きます。

    お問い合わせ内容:

    兵庫県の○○と申します。

    10月22日〜10月27日までパラオ、コロールのココロホテルに滞在します。すでにエアーワールド(株)ツアーに予約済みです。一人旅で目的はペリリュー島、アンガウル島の戦跡を巡りたいと思っています。遺族でも関係者でもありませんが、戦跡に興味を持ち可能な範囲で巡っています。

    星亮一(著)のアンガウル・ペリリュー戦記を読み貴社と○○さんの名前をしりメールを差し上げるしだいです。一人を案内するのは多額になりそうであれば遠慮なく言ってください。その場合、一人でも往復できるルートや方法があれば教えて頂ければありがたいです。

    まことに勝手なお願いですがお返事お待ちしています

    →ペリリュー島へ行くには弊社の<ペリリュー島1日観光>にご参加いただければご案内可能です。ただ上記ツアーは3名様からの催行となりますので、他にお客様がなかった場合不催行となります。強くご希望であれば3名様分のお支払いがあれば確定します。

    現在のところ上記23日から26日ではご予約はありません。とりあえず1名様、リクエストでご予約をいただき、他のお客様のご予約を待つことも可能となります。ご検討ください。

    またアンガウル島へ行くにはボートチャーターとなります。金額は概算で、ボートチャーター料金のみで$750.00 こちらにガイド料、現地車料、弁当、ドリンク代等がかかってきます。ペリリュー島からアンガウル島までは外洋となりますので、海況が荒れると島に辿りつけない場合がございます。

    また、アンガウル島へは定期船などもありますが、いつ、何時に出港するなどの具体的なスケジュールは申し訳ありませんが弊社では把握しておりません。またこちらを使うと、海が荒れて戻ってこれなくなく可能性もありますのでお勧めはいたしません。

    ヘリコプターという手段もありますが、現地での車手配、ガイドなどはありません。

    また、ご質問等ございましたらご連絡ください。ロックアイランドツアーカンパニー ○○

    *********************************
    ROCK ISLAND TOUR COMPANY, LTD.
    hp: http://www.palauritc.com
    *********************************

    9月19日(金)

    ロックアイランドツアーカンパニー ○○ 様

    早速ご丁寧な返信ありがとうございます。

    アンガウル島へ行くのは難しそうですね。これから有意義な旅になるように検討させて頂きます。その節は又お問い合わせするかと思いますが宜しくお願いします。

    ///////////////////////////////////

    9月19日(金)

    マーメルダイバーズ パラオ 様

    兵庫県
    ○○です

    10月22日(水)〜10月27日(月)

    エアーワールド(株)のパラオ6日間のツアーに予約しています。
    ホテル(ココロホテル)の送迎だけで全部自由行動です。

    ★23日
    コロール市内観光・半日

    ★24日
    ペリリュー島観光(目的:戦跡巡りです)

    一人旅です。ペリリューは一人でもOKとありましたが、上記、一人でも宜しいですか?可能であれば料金を教えて下さい。

    宜しくお願いします。

    ///////////////////////////

    ○○様

    初めましてパラオダイバーズネットの○○です。

    >10月22日(水)〜10月27日(月)

    >エアーワールド(株)のパラオ6日間のツアーに予約しています。
    >ホテル(ココロホテル)の送迎だけで全部自由行動です。

    了解です。

    >★23日
    >コロール市内観光・半日

    $45 > >★24日
    >ペリリュー島観光(目的:戦跡巡りです)

    $120

    >一人旅です。ペリリューは一人でもOKとありましたが、
    >上記、一人でも宜しいですか?
    >可能であれば料金を教えて下さい。

    両方とも、お一人なので、他のツアー会社さんとも確認して相乗りでいけるように調整してみます。それでよろしいでしょうか?お返事お待ちしております。

    パラオダイバーズネット 代理店マーメルダイバーズ:○○

    http://www.palaudivers.net/mt/

    /////////////////////////

    ○○ 様

    早速のご返答ありがとうございます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    >  両方とも、お一人なので、他のツアー会社さんとも確認して相乗りでいけるように調整してみます。それでよろしいでしょうか?お返事お待ちしております
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ↑そのようにして頂ければ助かります
    予約が可能であればお願いします。

    すでにエアーワールドでのパラオ行きツアーは決定しています。

    /////////////////////////

    9月30日(火)

    ○○様

    とりあえず、10月24日は、ペリリュー島内観光の手配できました。ツアー催行会社は、RITCという会社です。お迎えは、8:30にロビーにRITCのスタッフさんが来ます。

    23日の半日島内観光は、もうしばらくお待ちください。ちなみに、お支払いは、銀行送金でしょうか?クレジットカード支払いでしょうか?

    *******パラオダイバーズネット*****
    予約担当:○○○○
    pdn@dcd.eco.to +680-488-8710
    http://www.palaudivers.net/mt/

    ///////////////////////////

    ○○ 様

    24日のペリリュー島観光の手配、ありがとうございます。支払いは、どちらでもOKです。どうすれば良いでしょうか?支払い方法をお知らせ下さい。

    宜しくお願い致します。

    //////////////////////////

    パラオダイバーズネットにペリリュー行きの手配をしてもらったけど、結局、最初に問い合わせた「RITC」のツアーに参加ということになった。

    希望は定期船に乗ってぺリリュー島に渡り、初日は現地ガイドに案内してもらって、ぺリリュー島に一泊し、二日目に自分でゆっくり島を散策したかったけど・・・。ぺリリュー島とコロール島を結ぶ定期船も毎日ではないようで・・・ツアーを利用するか、もう少し事情が分からないと難しそうだ。

    アンガウル島に行くのもボートをチャーター($750.00〜$550)したり、ヘリコプターなどの手段のようだ。ある程度の数の慰霊団体ツアーでないと一人で行こうと思えばそれなりにお金が掛かる。定期船もあるようだけどアバウトで一週間くらいの旅行者は無理とのこと、残念だけど仕方がない。

    ぺリリュー島戦跡巡りも何人かのツアーで駆け足になるかもしれないが、行けるだけでよしとする。25.26日はどうしよう?

    --------------------------------------
    2008.平成20年10月16日(木)

    ■日程表が送られてきた。

    10月22日(水)
    関空(発)  20:45:JO8895便
    パラオ(着)23日午前1:00 ココロホテル(送迎あり)

    10月23日〜26日 終日フリータイム

    10月27日
    パラオ(発) 午前3:30:JO8896便
    関空(着) 午前7:40

    ・・・・・・・・・・・・

    今のところ予定は、10月24日(金)ペリリュー戦跡ツアーだけ。

    23.25.26の三日間は予定がない。バベルダオブ島一周探訪ツアー{¥105ドル}に一人参加出来れば行こうと思っている。着いてから天気の状態をみて考えよう。

    昨日、三井住友銀行で600ドルを両替した。
    日本円:¥62,820円也。
    Rate:1ドル=104.70円と書いてある。

  • ■ペリリュー戦経過。<br /><br />////////以下:「ペリリュー島玉砕戦」:船坂弘(著)より抜粋////////// <br /><br />1944年、昭和19年 <br /><br />9月15日 <br /><br />午前5時30分<br />米軍艦砲射撃 <br /><br />午前6時15分<br />上陸用舟艇降ろされる:20分:米兵乗り込む <br /><br />午前8時<br />海岸線で米軍上陸部隊身動きとれず。 <br /><br />午後1時<br />戦闘4時間後も戦線膠着 <br /><br />米軍上陸西南地区の守備は、茨城・群馬健児を代表する現役兵を主体とした、当時満20歳以上23歳までの若い世代であった。 <br /><br />水戸大ニ連隊第二大隊(635名)大隊長:富田保二少佐<br /><br />モミ陣地・イシマツ陣地・珊瑚丘陣地・南イワマツ陣地・南クロマツ陣地 <br /><br />高崎歩兵第十五連隊第三大隊(750名)大隊長:千明(ちぎら)武久大尉<br /><br />アヤメ陣地・レンゲ陣地・すぐ南の無名島など南半島一帯を死守。 <br /><br />富田・千明、両大隊計1400名が、米軍上陸部隊一個師団四万二千人を迎えた。<br />30倍の敵である。 <br /><br />クロマツ陣地とアヤメ陣地の間隔が空き過ぎており、ここに米軍は来襲し突破される。 <br /><br />午後2時20分<br />7時過ぎ米軍が攻撃を開始して激戦ついに7時間あまり、ここに日本軍南地区守備隊の水際陣地の間隙から、敵はようやく上陸に成功し、飛行場西南部一角に取り付いた。 <br /><br />この日、ペリリュー海岸に米軍の将兵は死体の山を築き、爆破された戦車と上陸用舟艇は水際を埋め、兵力の損失は米軍にとって莫大であった。その損害は、日本軍の数百倍に達したのである。 <br /><br />午後4時30分<br />市岡大隊:17両の95式軽戦車 天野戦車隊:反撃開始 <br /><br />15日の戦死者:800余名 <br /><br />9月16日<br />千明武久大尉:享年28歳、<br />剣道の達人 士官学校時代天覧試合に出場、陸大入校の直前、南征の途につく。<br />16日未明 ペリリュー島南部大隊本部戦闘指揮所で敵弾を受け壮烈な戦死。 <br /><br />午後3時頃<br />富田保二少佐<br />全身に数十発の敵弾を受け華々しく戦死す。<br />大場孝夫中尉 大隊長代理となり指揮をとる。 <br /><br />9月17日<br />アンガウル島へ米軍上陸 <br /><br />9月18日<br />午後3時30分<br />千明大隊:大隊長代理:奥住栄一中尉 千明大隊長以下将兵の最後の絶叫<br />「われらここに祖国を遥かなる南海の孤島に英霊となり、祖国の繁栄と平和、同胞家族の幸福を見守る。願わくば我等のこの殉国の精神、永遠に銘感されん事を」 <br /><br />---------------------<br />ペリリューへの援軍部隊:逆上陸 <br /><br />9月22日<br />午後10時 <br />先遣逆上陸部隊(計250名)出発<br />23日午前5時30分頃、戦傷者14名出すも上陸成功 <br /><br />主力、合計1192名<br />歩兵15連隊第二大隊長:飯田義栄少佐(陸士46期:茨城県) <br /><br />9月23日<br />午後8時30分進発。<br /><br />9月25日<br />零時半現在<br />上陸時の戦傷者150名 上陸成功400名、先遣隊115名、計600名<br /> 遅着する6中隊:180名 合計780名が逆上陸を為す。 <br /><br />斬込隊<br />飯田少佐は三名一組とする必殺の斬込隊を繰り出し、執拗に敵陣を襲った。<br />米軍はこの斬込隊を恐れスピーカーで二世兵士が日本軍に向って毎日、放送を続けた。 <br /><br />「勇敢な日本軍の皆さん、夜間の斬り込みは止めて下さい。あなた方が斬り込みを中止するなら、我々も艦砲射撃と飛行機の銃爆撃は即座に中止します」 <br /><br />斬り込みとは、言うのは簡単だが、常に死との対決である。ひとたび出陣して行ったら絶対に生還は期しがたい。敵陣に阿修羅となって肉弾で飛び込み、敵を刺し殺し、最後には手榴弾を爆発させて自爆し、敵とともにたおれるという、夜間戦闘の特別肉攻斬込戦術だ。 <br /><br />私は多くの戦史を読んでいるが、米軍が日本軍の斬り込みに対して、条件を付けてまでこの損害の恐怖から逃避しようとした事実があったのは嘘偽りのないことである。同時にこのような斬り込みのあったのは、この島が最初にして最後であった。(船坂弘:文責) <br /><br />-----------------------<br />海中50キロの伝令 <br /><br />9月28日<br />飯田少佐は逆上陸の経験と所感を書きとめパラオ本島の福井連隊長あての意見具申を書き終えたのは9月28日奈良少尉に伝令を託す。一分隊17名。その内1名でも到着すればという決死隊である。 <br /><br />10月1日<br />ペリリュー島北岸⇒600m(1時間)ガドブス島⇒300m:コンガウル島(全員無事)⇒3km:敵機4,5機来襲:12名戦死: <br /><br />ガラカヨ島⇒二日二晩泳ぎ続ける:三ツ子島:休憩せず、マカラカル島の西側を泳ぐ。 <br /><br />パラオまで約半分の行程⇒鮫島⇒潮流の最も激しい難所・獰猛な海蛇の生息地を抜けて: <br /><br />マカラカル島:上陸せず突起した岩陰で休憩⇒海軍の舟艇と遭遇するも同乗を拒絶される⇒難所:ヨオ水道⇒ガムドコ水道⇒ <br /><br />パラオ・コロール島到着。10月1日・出発から4日後、連続力泳48時間。 <br /><br />直線40km、優に60キロを越える長距離であった。17名の内、無事に到着は4名だった。 <br /><br />奈良四郎少尉はその後中尉に昇進・戦後は天職に専念しながら剣道に精進) <br /><br />------------------------<br />9月26日<br />午前7時以降<br />米軍の全面攻撃再開。一個大隊vs二個連隊(米軍) <br /><br />米軍からの投降勧告ビラ・放送が盛んに行われる <br /><br />9月28日<br />北地区隊長:引野広大隊長:夜、敵の砲弾により重傷、自決す。 <br /><br />水戸山洞窟陣地:収容人員数千人の大規模洞窟 <br /><br />ガドブス島への米軍の攻撃・・・飛行場がある<br /><br />引野大隊配属:歩兵第二連隊第三中隊主力・鈴木清大尉 <br /><br />10月2日頃<br />北地区守備隊:玉砕す。尚、この地区にもゲリラ戦を戦う残存兵士がおり、終戦後も西海岸に34名の集団生存者が居た。 <br /><br />10月3日<br />午前7時半(定期)<br />中央高地への米軍総攻撃(9月19,20日一次攻撃、米軍は大損害を受ける)<br />東山を奪取され、午後3時半、水府山東側台地占領される <br /><br />10月3日暴風雨 <br /><br />この日、ハンキンス大佐戦死:ペリリュー攻略戦の米軍側最上位の階級。 <br /><br />10月13日<br />ペリリュー島の日本側総戦力・1150名、1割強となる。 <br /><br />10月17日<br />南征山、米軍進出<br />守備隊の唯一の水源地がある。ちょうどこの頃、アンガウル島の洞窟でも一滴の水もなく史上最悪の戦闘を繰りか返していた。 <br /><br />10月19日<br />アンガウル島守備隊玉砕す。 <br /><br />10月21日<br />南征山、敵大軍近づく。 <br /><br />10月23日<br />南征山、大部分を占領される <br /><br />戦闘開始以来、38日目、軽傷者を含めて戦闘兵力:700名 <br /><br />10月26日<br />〜数日間濃霧 <br /><br />10月28日<br />豪雨、水が欠乏の日本軍兵士にとって天の恵みであった。 <br /><br />10月末、戦闘員は軽傷者を含め500名 <br /><br />-----------------------------------<br />11月1日:日本軍陣地:大山・天山・観測山の三拠点を残すのみ。<br />11月2日:大山:観測山:米軍に奪取される。<br />11月3日:明治節 9月15日より数えて50日目<br />11月4、5日:豪雨、敵は動かず。<br /><br /><br />日本軍残存兵力:軽傷者を含む、350名。重傷者:130名、計480名。 <br /><br />11月6〜8日:台風 <br /><br />11月11日:米軍、ペリリュー島北方のゴロゴッタン島を占領。<br />11月13日:早朝:米軍、大山に総攻撃開始<br />11月15日:ペリリュー島敵上陸後、二ヶ月:米軍、ガラゴン島占領。 <br /><br />11月18日:日本軍兵力:軽傷者を含め150名<br />11月22日:午前7時:戦車を先頭に二個連隊以上の敵が総攻撃を開始<br /><br />7時40分:ペリリューより打電 <br /><br />『通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以テ、最後ノ電文ハ左ノ如ク致シタク、承知相成タシ。』 <br /><br />一、軍旗ヲ完全ニ処置奉レリ。 <br /><br />ニ、機密書類ハ異常ナク処理セリ。<br />右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度。 <br /><br />11月24日<br /><br />午後4時<br />大山戦闘指揮所洞窟で、軍旗をはじめ秘密書類を焼却した大佐は、続いてパラオあてに打電した。玉砕の電文は <br /><br />サクラ サクラ<br /><br />午後5時:中川州男守備隊長名での最後の電文 <br /><br />「遊撃隊の編成を完了、断固徹底せる攻撃戦闘に移るに決す。爾今主として敵幹部及び敵を随所に奇襲し、以って中川地区隊長の意志を敬重し、持久に徹せよとの集団司令官の意図に沿わん。遊撃隊は一同士気旺盛、闘魂に燃え、神出鬼没、敵の心胆を寒からんしめん。必ずや夜鬼となりてもこれが粉砕を期す。通信断絶のため、本日を以って連絡期し難く、御了承乞うふ」 <br /><br />村井少将・中川州男大佐・飯田少佐<br />古式に則り、見事な割腹自決を遂げる。 <br /><br />午後6時:根本大尉よりパラオ本島に打電 <br /><br />「18時より遊撃戦に移行す、遊撃隊長、根本大尉より」<br /><br />「根本大尉以下56名17組、24日1700、編成完了。主として敵幹部及び兵員を随所に奇襲し、以って地区隊長の遺志を継承し持久に徹し、集団司令官閣下の御意図に副わん。遊撃隊員は一同、士気旺盛、闘魂を燃し、神出鬼没、敵の心胆を寒からしむ。夜鬼となり、之が粉砕を期せんとす。。通信断絶の為本日以降連絡期し難きも、御了解を乞うふ。最後は何等かの方法を以って報告致したく」 <br /><br />この電文を最後に、その夜、大山をあとにした。 <br /><br /><br />////////<br />以上:「ペリリュー島玉砕戦」<br />船坂弘(著)より抜粋<br />//////////<br /><br /> <br />

    ■ペリリュー戦経過。

    ////////以下:「ペリリュー島玉砕戦」:船坂弘(著)より抜粋//////////

    1944年、昭和19年

    9月15日

    午前5時30分
    米軍艦砲射撃

    午前6時15分
    上陸用舟艇降ろされる:20分:米兵乗り込む

    午前8時
    海岸線で米軍上陸部隊身動きとれず。

    午後1時
    戦闘4時間後も戦線膠着

    米軍上陸西南地区の守備は、茨城・群馬健児を代表する現役兵を主体とした、当時満20歳以上23歳までの若い世代であった。

    水戸大ニ連隊第二大隊(635名)大隊長:富田保二少佐

    モミ陣地・イシマツ陣地・珊瑚丘陣地・南イワマツ陣地・南クロマツ陣地

    高崎歩兵第十五連隊第三大隊(750名)大隊長:千明(ちぎら)武久大尉

    アヤメ陣地・レンゲ陣地・すぐ南の無名島など南半島一帯を死守。

    富田・千明、両大隊計1400名が、米軍上陸部隊一個師団四万二千人を迎えた。
    30倍の敵である。

    クロマツ陣地とアヤメ陣地の間隔が空き過ぎており、ここに米軍は来襲し突破される。

    午後2時20分
    7時過ぎ米軍が攻撃を開始して激戦ついに7時間あまり、ここに日本軍南地区守備隊の水際陣地の間隙から、敵はようやく上陸に成功し、飛行場西南部一角に取り付いた。

    この日、ペリリュー海岸に米軍の将兵は死体の山を築き、爆破された戦車と上陸用舟艇は水際を埋め、兵力の損失は米軍にとって莫大であった。その損害は、日本軍の数百倍に達したのである。

    午後4時30分
    市岡大隊:17両の95式軽戦車 天野戦車隊:反撃開始

    15日の戦死者:800余名

    9月16日
    千明武久大尉:享年28歳、
    剣道の達人 士官学校時代天覧試合に出場、陸大入校の直前、南征の途につく。
    16日未明 ペリリュー島南部大隊本部戦闘指揮所で敵弾を受け壮烈な戦死。

    午後3時頃
    富田保二少佐
    全身に数十発の敵弾を受け華々しく戦死す。
    大場孝夫中尉 大隊長代理となり指揮をとる。

    9月17日
    アンガウル島へ米軍上陸

    9月18日
    午後3時30分
    千明大隊:大隊長代理:奥住栄一中尉 千明大隊長以下将兵の最後の絶叫
    「われらここに祖国を遥かなる南海の孤島に英霊となり、祖国の繁栄と平和、同胞家族の幸福を見守る。願わくば我等のこの殉国の精神、永遠に銘感されん事を」

    ---------------------
    ペリリューへの援軍部隊:逆上陸

    9月22日
    午後10時 
    先遣逆上陸部隊(計250名)出発
    23日午前5時30分頃、戦傷者14名出すも上陸成功

    主力、合計1192名
    歩兵15連隊第二大隊長:飯田義栄少佐(陸士46期:茨城県)

    9月23日
    午後8時30分進発。

    9月25日
    零時半現在
    上陸時の戦傷者150名 上陸成功400名、先遣隊115名、計600名
     遅着する6中隊:180名 合計780名が逆上陸を為す。

    斬込隊
    飯田少佐は三名一組とする必殺の斬込隊を繰り出し、執拗に敵陣を襲った。
    米軍はこの斬込隊を恐れスピーカーで二世兵士が日本軍に向って毎日、放送を続けた。

    「勇敢な日本軍の皆さん、夜間の斬り込みは止めて下さい。あなた方が斬り込みを中止するなら、我々も艦砲射撃と飛行機の銃爆撃は即座に中止します」

    斬り込みとは、言うのは簡単だが、常に死との対決である。ひとたび出陣して行ったら絶対に生還は期しがたい。敵陣に阿修羅となって肉弾で飛び込み、敵を刺し殺し、最後には手榴弾を爆発させて自爆し、敵とともにたおれるという、夜間戦闘の特別肉攻斬込戦術だ。

    私は多くの戦史を読んでいるが、米軍が日本軍の斬り込みに対して、条件を付けてまでこの損害の恐怖から逃避しようとした事実があったのは嘘偽りのないことである。同時にこのような斬り込みのあったのは、この島が最初にして最後であった。(船坂弘:文責)

    -----------------------
    海中50キロの伝令

    9月28日
    飯田少佐は逆上陸の経験と所感を書きとめパラオ本島の福井連隊長あての意見具申を書き終えたのは9月28日奈良少尉に伝令を託す。一分隊17名。その内1名でも到着すればという決死隊である。

    10月1日
    ペリリュー島北岸⇒600m(1時間)ガドブス島⇒300m:コンガウル島(全員無事)⇒3km:敵機4,5機来襲:12名戦死:

    ガラカヨ島⇒二日二晩泳ぎ続ける:三ツ子島:休憩せず、マカラカル島の西側を泳ぐ。

    パラオまで約半分の行程⇒鮫島⇒潮流の最も激しい難所・獰猛な海蛇の生息地を抜けて:

    マカラカル島:上陸せず突起した岩陰で休憩⇒海軍の舟艇と遭遇するも同乗を拒絶される⇒難所:ヨオ水道⇒ガムドコ水道⇒

    パラオ・コロール島到着。10月1日・出発から4日後、連続力泳48時間。

    直線40km、優に60キロを越える長距離であった。17名の内、無事に到着は4名だった。

    奈良四郎少尉はその後中尉に昇進・戦後は天職に専念しながら剣道に精進)

    ------------------------
    9月26日
    午前7時以降
    米軍の全面攻撃再開。一個大隊vs二個連隊(米軍)

    米軍からの投降勧告ビラ・放送が盛んに行われる

    9月28日
    北地区隊長:引野広大隊長:夜、敵の砲弾により重傷、自決す。

    水戸山洞窟陣地:収容人員数千人の大規模洞窟

    ガドブス島への米軍の攻撃・・・飛行場がある

    引野大隊配属:歩兵第二連隊第三中隊主力・鈴木清大尉

    10月2日頃
    北地区守備隊:玉砕す。尚、この地区にもゲリラ戦を戦う残存兵士がおり、終戦後も西海岸に34名の集団生存者が居た。

    10月3日
    午前7時半(定期)
    中央高地への米軍総攻撃(9月19,20日一次攻撃、米軍は大損害を受ける)
    東山を奪取され、午後3時半、水府山東側台地占領される

    10月3日暴風雨

    この日、ハンキンス大佐戦死:ペリリュー攻略戦の米軍側最上位の階級。

    10月13日
    ペリリュー島の日本側総戦力・1150名、1割強となる。

    10月17日
    南征山、米軍進出
    守備隊の唯一の水源地がある。ちょうどこの頃、アンガウル島の洞窟でも一滴の水もなく史上最悪の戦闘を繰りか返していた。

    10月19日
    アンガウル島守備隊玉砕す。

    10月21日
    南征山、敵大軍近づく。

    10月23日
    南征山、大部分を占領される

    戦闘開始以来、38日目、軽傷者を含めて戦闘兵力:700名

    10月26日
    〜数日間濃霧

    10月28日
    豪雨、水が欠乏の日本軍兵士にとって天の恵みであった。

    10月末、戦闘員は軽傷者を含め500名

    -----------------------------------
    11月1日:日本軍陣地:大山・天山・観測山の三拠点を残すのみ。
    11月2日:大山:観測山:米軍に奪取される。
    11月3日:明治節 9月15日より数えて50日目
    11月4、5日:豪雨、敵は動かず。


    日本軍残存兵力:軽傷者を含む、350名。重傷者:130名、計480名。

    11月6〜8日:台風

    11月11日:米軍、ペリリュー島北方のゴロゴッタン島を占領。
    11月13日:早朝:米軍、大山に総攻撃開始
    11月15日:ペリリュー島敵上陸後、二ヶ月:米軍、ガラゴン島占領。

    11月18日:日本軍兵力:軽傷者を含め150名
    11月22日:午前7時:戦車を先頭に二個連隊以上の敵が総攻撃を開始

    7時40分:ペリリューより打電

    『通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以テ、最後ノ電文ハ左ノ如ク致シタク、承知相成タシ。』

    一、軍旗ヲ完全ニ処置奉レリ。

    ニ、機密書類ハ異常ナク処理セリ。
    右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度。

    11月24日

    午後4時
    大山戦闘指揮所洞窟で、軍旗をはじめ秘密書類を焼却した大佐は、続いてパラオあてに打電した。玉砕の電文は

    サクラ サクラ

    午後5時:中川州男守備隊長名での最後の電文

    「遊撃隊の編成を完了、断固徹底せる攻撃戦闘に移るに決す。爾今主として敵幹部及び敵を随所に奇襲し、以って中川地区隊長の意志を敬重し、持久に徹せよとの集団司令官の意図に沿わん。遊撃隊は一同士気旺盛、闘魂に燃え、神出鬼没、敵の心胆を寒からんしめん。必ずや夜鬼となりてもこれが粉砕を期す。通信断絶のため、本日を以って連絡期し難く、御了承乞うふ」

    村井少将・中川州男大佐・飯田少佐
    古式に則り、見事な割腹自決を遂げる。

    午後6時:根本大尉よりパラオ本島に打電

    「18時より遊撃戦に移行す、遊撃隊長、根本大尉より」

    「根本大尉以下56名17組、24日1700、編成完了。主として敵幹部及び兵員を随所に奇襲し、以って地区隊長の遺志を継承し持久に徹し、集団司令官閣下の御意図に副わん。遊撃隊員は一同、士気旺盛、闘魂を燃し、神出鬼没、敵の心胆を寒からしむ。夜鬼となり、之が粉砕を期せんとす。。通信断絶の為本日以降連絡期し難きも、御了解を乞うふ。最後は何等かの方法を以って報告致したく」

    この電文を最後に、その夜、大山をあとにした。


    ////////
    以上:「ペリリュー島玉砕戦」
    船坂弘(著)より抜粋
    //////////


  • 米軍公刊史によれば<br />「米歩兵第81師団(第322連隊欠)は11月25日、包囲圏を圧縮し、同27日7時、大山全地区の掃討作戦を開始、同日11時、第323連隊長ワトソン大佐は第81師団長ミュラー少将に作戦終了を報告した」 <br /><br />なお、米海兵隊公刊戦史によれば<br />遊撃隊根本甲子郎大尉以下56名17組を指し、「日本軍の斬込隊の一団は」と記録し、「米軍の包囲圏を突破できず、24日夜から27日7時ごろまでの間に、米軍と激しく交戦、全員玉砕した」とある。 <br /><br />---------------------------------------<br />■パラオ <br /><br />スペインの統治:15年間<br />ドイツ:15年<br />日本:25年<br />国際連盟から正式に委任統治 <br /><br />皇紀2600年南洋神社創建<br />コロール本島・南洋庁(本庁)<br /><br />日の丸国旗の三兄弟 <br /><br />パラオ共和国・日本・バングラデシュ人民共和国 <br /><br />バングラディシュ<br />緑地に赤丸:赤い円は昇りゆく太陽を表し、地の緑色は豊かな大地を表す。 <br /><br />パラオ共和国<br />青地に黄色:黄金色の円は月を表し、明るい青は太平洋の海を表す <br /><br />--------------------<br /><br />■ペリリュー島 <br /><br />高さ80メートルの中央高地<br />南北9キロのカニのハサミに似た形の島<br /><br />中川州男大佐が死守した高地:頂上の平坦部・3メートルほど、米軍の記念碑「戦死者を追憶して。アメリカ陸軍第323連隊。1944年」とある。 <br /><br />大小合わせて500に及ぶ洞窟陣地で戦った。 <br /><br />「天山死守」を命じられた富田大隊と海軍の生存者計34名が投降したのは、終戦後約2年を経過した昭和22年4月であった。 <br /><br />残存兵士の証言:「土田喜代一氏のの証言」 <br /><br />http://it-net.ddo.jp/Album/yoko-news/15/index.html<br /><br />昭和22年4月 <br />富田大隊と海軍の生存者計34名が投降した <br /><br />飛行場北の学校の近くに井戸が一つ・・・飲料水。 <br /><br />日本軍側戦死者:約10022名、生還者(捕虜を含む)446名。 <br /><br />米軍側戦死者:約1684名、負傷者約7160名。 <br /><br />----------------------------------<br />2008.平成20年10月22日(水)<br /><br />■倉田洋二先生と会えることに<br /><br />19日(日)にOWSパラオ (パラオフィールドオフィス)に問い合わせのメールを送ったら、パラオの倉田先生に転送して頂き出発前日の昨日21日に連絡先を教えてもらった。 <br /><br />早速、メールを送ったら夜分に係わらず返事を頂き、ペリリューに行く前の23日にお話を聞かせてもらえることになった。ココロホテルから朝の9時半に電話を掛ける約束をした。 <br /><br />今、出発当日22日の午前7:53分、まだリックに何も詰めていない。これから準備し昼過ぎに我が家を出発する予定だ。 <br /><br />

    米軍公刊史によれば
    「米歩兵第81師団(第322連隊欠)は11月25日、包囲圏を圧縮し、同27日7時、大山全地区の掃討作戦を開始、同日11時、第323連隊長ワトソン大佐は第81師団長ミュラー少将に作戦終了を報告した」

    なお、米海兵隊公刊戦史によれば
    遊撃隊根本甲子郎大尉以下56名17組を指し、「日本軍の斬込隊の一団は」と記録し、「米軍の包囲圏を突破できず、24日夜から27日7時ごろまでの間に、米軍と激しく交戦、全員玉砕した」とある。

    ---------------------------------------
    ■パラオ

    スペインの統治:15年間
    ドイツ:15年
    日本:25年
    国際連盟から正式に委任統治

    皇紀2600年南洋神社創建
    コロール本島・南洋庁(本庁)

    日の丸国旗の三兄弟

    パラオ共和国・日本・バングラデシュ人民共和国

    バングラディシュ
    緑地に赤丸:赤い円は昇りゆく太陽を表し、地の緑色は豊かな大地を表す。

    パラオ共和国
    青地に黄色:黄金色の円は月を表し、明るい青は太平洋の海を表す

    --------------------

    ■ペリリュー島

    高さ80メートルの中央高地
    南北9キロのカニのハサミに似た形の島

    中川州男大佐が死守した高地:頂上の平坦部・3メートルほど、米軍の記念碑「戦死者を追憶して。アメリカ陸軍第323連隊。1944年」とある。

    大小合わせて500に及ぶ洞窟陣地で戦った。

    「天山死守」を命じられた富田大隊と海軍の生存者計34名が投降したのは、終戦後約2年を経過した昭和22年4月であった。

    残存兵士の証言:「土田喜代一氏のの証言」

    http://it-net.ddo.jp/Album/yoko-news/15/index.html

    昭和22年4月
    富田大隊と海軍の生存者計34名が投降した

    飛行場北の学校の近くに井戸が一つ・・・飲料水。

    日本軍側戦死者:約10022名、生還者(捕虜を含む)446名。

    米軍側戦死者:約1684名、負傷者約7160名。

    ----------------------------------
    2008.平成20年10月22日(水)

    ■倉田洋二先生と会えることに

    19日(日)にOWSパラオ (パラオフィールドオフィス)に問い合わせのメールを送ったら、パラオの倉田先生に転送して頂き出発前日の昨日21日に連絡先を教えてもらった。

    早速、メールを送ったら夜分に係わらず返事を頂き、ペリリューに行く前の23日にお話を聞かせてもらえることになった。ココロホテルから朝の9時半に電話を掛ける約束をした。

    今、出発当日22日の午前7:53分、まだリックに何も詰めていない。これから準備し昼過ぎに我が家を出発する予定だ。

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