2008/10/22 - 2008/10/27
1238位(同エリア1512件中)
明石DSさん
24/12:17:52
桟橋がアンガウル島方向に続く
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10月24日(金)晴れ、曇り、時々雨
3日目:ペリリュー島・戦跡巡り
2008.平成20年10月24日(金):午後編
■12時14分:サウスドッグ(南波止場)
この波止場は戦後整備されたのかも・・・。
1946年の米軍写真にはハッキリあるが、昔の地図にはない。
ここで昼食及び小休止。
昼食の弁当は、ここは日本ではなくパラオだけど、見た目も味もまるで日本の弁当だった。ウーロン茶付き。
一人、そこらの椅子に腰掛けてアンガウル島を遠くに見ながら昼飯を食う。隣の椅子にガイドのシュンさんが坐っていたので少し話をする。彼も倉田先生のことはよく知っているようだった。ここに来てガイドとして働き、2年になるらしい。
パラオは小さい国なので、国土の保全や自国民を守ると言う意識は殊更強いようだ。例えば日本人がパラオで交通事故にあって死亡しても、パラオ人に過失が多くてもその責任は“外国人にあり”というように・・・。自国民を庇うようだ。
どこの国でも自国民優先と言うのは当然のことだ。パラオのそれがどの程度なのか私には良く分からないが日本のように、何でも外国人、特に近隣三ヶ国と言われる反日国の外国人に気兼ねばかりをし、自国民が損をするような国家だから余計にその姿勢に感心する。
日本では、県営住宅や公団でも自国民には所得制限や若者の一人暮らしでは入居が出来ないが、外国人、中国人はそこらの県営住宅に何故か?沢山安い家賃で入居している。その他、バカバカしいくらい他国人に気を使う。
そんな日本だから外国人犯罪者が大挙して日本に出稼ぎに来るのも当たり前だ。国と国民を頑なに守るパラオに敬意を表す
45分間くらいここで休憩した。
-
24/12:18:32
ペリリュー島で食う日本弁当?
ここはパラオのペリリュー島
何で弁当の中味はこれなん? -
24/12:41:44
木と木の間に薄っぺらく見えるのがアンガウル島
ペリリュー島から南西12km -
24/12:43:04
玉砕の島:アンガウル -
24/12:50:08
サウスドッグからオレンジビーチを写す
砂浜が樹木に覆われている -
24/13:06:14
ペリリュー平和記念公園
昭和60年(1985)3月8日に建立
北の日本を向いて建てられている。
そしてペリリュー島からアンガウル島が一番近く見える南の端。
そんな場所に記念碑は作られている。 -
24/13:06:50
ペリリュー平和記念公園から見るアンガウル島 -
24/13:07:26
西太平洋戦没者の碑
さきの大戦において
西太平洋の諸島及び海域で
戦没した人々をしのび
平和への思いをこめて
この碑を建立する
碑文はそれぞれ日米両国の言葉で刻まれている。 -
13時19分:日本人国民学校跡?
24/13:19:44
車窓より、なにやら見える
確かガイドがそのように言った記憶があり、
窓越しにデジカメのスイッチを押す。
定かではないが、場所的にはあっている。 -
■13時20分:米軍の水陸両用戦車、
LVT-A1ガイド説明「5人乗り、250馬力」なり
「太平洋戦跡紀行」西村誠(著)の写真と同じ物で、その写真の説明と同じく、ステンレスの車軸は今も尚腐食せず光っていた。この辺りは中川州男大佐の終焉の地に近く、大山・南征山・水府山の麓になるだろう。
米軍の水陸両用戦車:LVT-A1 -
24/13:20:38
米軍の水陸両用戦車
このすぐ右側にペリリュー捕虜収容所あった
前方の階段を登ると次の写真「短20センチ砲」がある -
24/13:21:54
LVT-A1ガイド説明「5人乗り、250馬力」
人と比べれば大きさが分かる -
24/13:22:52
今も輝くステンレスの車軸
かっての米国が作りました
今、米国の自動車メーカーは破綻の危機を迎えています
物づくり米国:昔の栄華今いずこ -
海軍の短20センチ砲
24/13:24:50
写真写りが悪いですが・・・。
砲身の向きが???
敵はいずこの方角から
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■13時24分:海軍の短20センチ砲
洞窟のような洞穴に鉄骨の台座を組んで短砲は砲身を海に向けていた。猛烈なる爆撃・艦砲射撃をものともせず、今もその雄姿は健在だが砲身の向きが敵方向では無かったのか活躍の程は不明。ガイドによれば正面はスカーレットビーチの方向らしい。
ここはリン鉱石を採掘した跡を利用したようで、この辺りは複雑にそういった洞窟を繋げた洞窟陣地があったようだ。何せ、この小さな島に500を越える洞窟陣地があったらしい・・・。
ドラム缶に土を詰めた擁壁で構築してあり砲撃で崩されずに残っていた。凄い湿気のある場所だった。 -
24/13:25:40
右側に米軍の水陸両用戦車「LVT-A1」がある
左側にペリリューの捕虜収容所があった
倉田先生・船坂弘氏が収容されていた
今は柵だけが残っている -
24/13:26:22
この洞窟をくぐって行くと短砲の裏側に至る -
24/13:26:34
燐鉱採掘跡に鉄骨の足場を組んで据えられている
実戦での活躍の程は分からない -
24/13:29:44
短砲への洞窟に築かれたドラム缶の擁壁
堅固な陣地の構築に艱難辛苦の努力跡が伺える -
24/13:24:50
米軍の水陸両用戦車の真向かいが収容所跡
今も鉄柵が残っている
船坂氏はここでペリリューの戦いの音を聞いていた
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■13時31分:ペリリュー捕虜収容所跡
ここに倉田先生が収容された時に、船坂弘さんに出会った。共にアンガウルで戦い抜き捕虜になった。船坂弘氏が気を失って捕虜になったのは10月24日。船坂氏が収容所に入った時はまだペリリューの戦いは続いていた。
倉田先生が捕虜になったのは、10月19日のアンガウル玉砕(最後の組織的反撃)から三ヶ月後だから昭和20年1月後半くらいだろう。
ペリリューでの戦闘終結は日本軍の最後の打電は11月24日。11月27日(米軍公刊戦史)には、ほぼ完全に終結した模様である。
倉田先生がペリリューの収容所に入った時にはすでに戦いは終わっていた。場所的には大山の麓である。ここで朝鮮人の作る激辛料理に倉田先生たちは閉口していたようだ。 -
24/13:34:12
日本政府ではなく一右翼団体が建立した
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■13時34分:ペリリュー神社参拝
戦後、右翼団体でもある清流社が建立したものだそうだ。神社建立にあたり地元との話では「納骨堂の建設」「宿泊施設の建設(島の観光産業振興)」も条件になっているが、まだ建設に至っていない。
神社は1982年創建当時木造だったが、白蟻などの被害で現在の石造りとなったようだ。 -
24/13:37:06
米太平洋艦隊司令長官
ニミッツ提督の言葉↓
『諸国から訪れる旅人達よ この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ』 -
24/13:37:06
米軍慰霊碑
ペリリュー神社と対面するかのように立っている
アメリカ人の関係者なのだろうか?
盾を手にして記念撮影をしていた -
大山の顕彰碑
24/13:43:32
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■13時43分:大山の顕彰碑
水戸歩兵第二連隊HP↓
http://members3.jcom.home.ne.jp/peleliu_2ir/monument.html
(抜粋)
ペリリュー島守備隊(水戸歩兵第二聯隊基幹、配属諸部隊)の偉業をたたえ、その勲雄を後世まで語り継ぐよすがとして、、平成元年(198 9)2月21日、守備隊ゆかりの地、大山中腹に顕彰碑および、鎮魂碑を建立 -
聯隊本部跡の鎮魂碑
■13時46分:大山東側の聯隊本部跡の鎮魂碑
水戸歩二会・ペリリュー島慰霊会:(↓HP抜粋)
水戸歩兵第二聯隊聯隊長中川大佐、師団派遣参謀村井少将の自決の地であるとされた聯隊本部跡の洞窟前に顕彰碑と同じく、平成元年(198 9)2月に鎮魂碑が建立された。
しかし、その後、この洞窟は、中川大佐、村井少将が自決した洞窟でないことが、アメリカ側の調査により判明した。
平成5年(1993)年9月に、アメリカ人の陸軍退役軍人であるエド・アンダーウッド(Ed Underwood)元大佐、およびカール・ビーラン(Karl Bielan)氏、コーディー・ワグナー(Cordy Wagner)氏の3名が、中川大佐、村井少将の自決した移動先の洞窟を再発見した。
エド・アンダーウッド氏から、本会に寄せられた情報提供により、翌年9月、米軍上陸50周年記念式典と同時期に、調査および、遺骨収集が実施された。
昭和19年11月24日午後5時過ぎ、大山戦闘指揮所洞窟内にて
中川州男大佐には連隊旗手、烏丸中尉。村井少将には塚田中尉。飯田少佐には根本大尉がそばに付き、古式に則り割腹自決の介添え役にたち、三人は従容として自決した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上 -
24/13:49:40
ペリリューの千羽鶴
洞窟の入口にぶら下がる
この洞窟陣地が終焉の地ではない
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「太平洋戦跡紀行」西村誠(著)抜粋↓
洞窟陣地構築に働いたキリオス(ガイド:日本語を話す地元民)の話
リン鉱石の廃坑を繋ぎ複雑な陣地を構築した。地盤は硬くダイナマイトで爆破しながら1メートルづつ掘り進んでいったという。
「この洞窟を掘っているとき、中川大佐が見に来てくれました。ものすごく身体が大きい人で、見るからに怖いという感じの人でした。でも私に声をかけてくれたんです。“ご苦労様”とにこやかに、それで優しい人だなって思いました」
「一緒にいるだけで、すごく安心できるような感じの人でした。だから島の人たちも、隊長さん、隊長さんと呼んで親しんでいました」ペリリューでは中川州男大佐の厳重な勧告もあり、島の全ての人々がパラオに移住している。そのせいもあって、これだけ過酷な戦場となりながら、ペリリューでは現地人の犠牲は一人も出なかった。
ペリリューの人たちはバベルダオブ島の山中に集団で移住したが、そこでの生活は過酷なものだった。
以上、抜粋 -
24/13:50:04
洞窟陣地と鎮魂碑
米軍が大方埋めたそうだ
まだまだ遺骨が故国に戻れず
この地に眠っている -
米軍が建造したペリリュー戦のモニュメント
24/13:54:02
115段の階段
木造テラスの展望台に
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■13時54分:展望台に登る
ガイドブックには「米軍が建造したペリリュー戦のモニュメント」と書かれている。
115段の階段を登れば木造テラスの展望台になっている。ペリリュー島の全容と周囲の海が360度見渡せる。今、島は周囲全部が緑の分厚い絨毯に覆われている。アンガウル島も見える。
中川州男大佐も洞窟に潜みながらも時折、高台から戦況を見ていたのだろう。きっとその攻防の成り行きが手に取るように分かったのかも。少なくとも敵が押し込んできて友軍の範囲が狭まる現実は日毎感じたに違いない。音も含めて。
この激戦孤島の島に、まだまだ幾多の遺骨が眠っている。それだけではなく日本人の多くがまだこの地の存在すら知らず、無論、ここで何があったのかも一部の者しか知らない。それではこの地で国の為に戦い死んでいった者はいつまで経っても報われないだろう。
当時の誰もが国を信じ、同胞を信じ、後に続く者を信じ、過酷な戦いにのぞんだはずだ。「散る桜 残る桜も散る桜」誰もがその覚悟で命を投げ出した。そんな数多くの英霊の魂が今もこの地の洞窟深く眠っている。そして、そんな同胞たちの死の上に今の日本がある。
英霊に謝罪しご冥福を祈る。 -
24/13:54:44
残念ながらどっちの方向を写したのか不明
只、ジャングルのみ -
24/13:54:48
拡大写真で見れば遠くにアンガウル島が・・・。 -
24/13:54:54
上の写真の「0.06秒」後にシャッターを押す
どっちを向いたのだろうか? -
24/13:55:12
展望台から周囲を眺めたら
どこも、こんな感じ -
24/13:56:10
米軍モニュメント
『LES’T WE FORGET THOSE WHO DIED』
我々はこの地で亡くなった兵士を忘れない
323
IN FANTRAY(インディアナ)
U S ARMY(アメリカ軍)
アメリカ陸軍第323連隊 -
日本時代の門柱らしい・・・が?
24/14:10:28
門柱が残っている
何の跡なのか?ガイドの説明を忘れる
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■14時7分、大山附近より去る
最後の拠点となった大山の連隊本部壕跡を後にして、直に北波止場に戻ることになった。
14時10分:門柱があった
これがペリリュー日本人国民学校の跡なのか? 大山方面に来る時に見たのがそうだったのか?残念ながら今の所定かではない。日本統治時代の町の様子は今は昔の物語のようである。
戦跡は昨日のように生々しく残っているが、焼け尽くしたあとのペリリューは北地区の一部を除きジャングルと化した。ダイビングやその他のマリンスポーツ、レジャーの島として観光客、そして戦跡を訪ねての日米両国の人たちが訪れる島となっている。
1946年、昭和21年のペリリュー島の航空写真では、島全体が活用され米軍関係者も多数居住していたように思う。 -
24/14:18:02
マユミ・イン
日系おかみさん経営の民宿
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■14時18分:マユミ・インで休憩
ペリリューの「肝っ玉母さん」とも言われる民宿の主人がマユミさんのようだ。ガイドが「父親が日本人」とか言っていた。マユミさんがおられたので、「お父さんが日本人?」と唐突に質問したら頷いてくれたけど言葉はなかった。
店?の中には写真、他、いろんな展示がしてあった。慰霊団一行の方が宿泊したり休憩したりするところでもあるのだろう。
星亮一Web頁抜粋↓
ペリリュー島で泊まった「マユミイン」のおかみ、マユミさんの父親は日本人でした、南洋興発、あるいは鉱発かの職員だったそうです。日本語を話し、NHKの国際放送をみていた。父親とは4、5歳で別れ、二度とあうことはなかったそうです。「戦争だから仕方がなかったです」マユミさんがいった。
以上抜粋
-
24/14:19:28
日章旗の真ん中に「南無妙法蓮華経」とある
御遺族が慰霊に来た時のものだろう
平成五年十一月十三日と書いてある -
ペリリュー北波止場
24/14:31:00
ペリリュー戦跡巡りツアーご一行様
それぞれにそれぞれの想いを胸に秘め
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■14時31分:ペリリュー北波止場よりコロールに向う
今朝の10時15分に波止場に着き、4時間15分ほどの滞在で戦跡を駆け足で巡り、早くも去る。ツアーだから致し方ないが、やはり巡った戦跡の互いの位置関係もあんまり分からないままである。全体像が掴めない。
点と点を繋ぎ次々と遺跡に到着しても、さっき訪ねた遺跡の方角も分からないままだ。「ペリリューの戦跡は一日で見れない」というのが良く分かった。13k?の小さい島なら歩いて回りたい気分だ。仕方がないけど。
でもツアーだからこそ短い時間で要所を回ることが出来た。将来、再度この地を訪れることが出来たらその時はゆっくりと歩きたい。戦跡巡りルートも整備され、ペリリューの戦史もより正しいものに成って行くだろう。
倉田先生がそういったパラオの戦跡、戦史などを集大成して本を出すようなことを言っておられた。それに大いに期待したい。そうでないと今は考証も錯綜し、当時の真実が正しく後世に伝えられない可能性が大である。
博物館が当時何の建物だったのか?それだけでも今はいろんな風に言われている。「天皇の島」とも言われるペリリュー島。日本統治時代、そして終戦に至る歴史を正しく後世に残すことは何よりも大切なことである。
感傷に耽るまもなくボートに乗り込みペリリューをあとにした。波止場にいた人に手を振ると向こうも手を振って答えてくれる。日本の離島でも同じ様な光景はあるのかもしれないが、ペリリューではなんともそれが自然である。南洋ならなのか・・・。
すぐ隣のガドブス島(ゲドブス)には、このガルゴル波止場から桟橋が繋がっていたのだろう。
サラバ、ペリリュー又、来る日まで・・・。
離れ行くペリリューの全景を振り返り見ながら、名残は尽きぬがボートは波を蹴立てて快走する。好天とは言えない空だったが、島巡りの最中は一度も雨に降られず幸いだった。
コロールへ戻る途中、激しいスコールに遭遇したが、それもよし。
この海を飯田部隊は大発に乗ってペリリューに向かい、ペリリューから奈良少尉以下15名が飯田少佐の命を受けてコロールに泳いで報告に戻り、無線連絡が不能になったアンガウルからも戦況報告の為に金城二等兵が10月1日に泳いでコロール本島に向かい12日に無事に着いている。
その海をボートは快走した -
24/14:33:34
バイバイと互いに手を振り別れを告げる
故国に帰る日を待つ遺骨を置き去り -
24/14:34:10
サラバ、さらば、ペリリューよ -
24/15:06:28
うん?ん、何か意味ありげな島の形
きっとなにがしかのなまえがついているのだろう
わからんからおれがつけてやろう
ふたこぶカメ・・・とな、いや、らくだ亀とでも -
アラカベサン島に到着
24/15:46:52
パシフィック・リゾートホテルの桟橋
二組4人が下船する
私の泊まるホテルとは違う
何が違うのかって?一泊の値段が
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■15時46分。アラカベサン島に到着
パラオの最高級ホテルであるアラカベサン島のパシフィック・リゾートホテルの桟橋に着いた。ここで父娘と一組の夫婦が降りた。
15時57分:マラカル島のRITCの拠点に戻る
出発した場所とは違うところに戻った。
マラカル、アラカベサンにはダイビングショップやマリーンスポーツを扱うこういった業者がひしめき合う様にオープンしている。そこに働く日本人スタッフも多いし、又、求人もある。それだけ日本からの観光客が多いのだろう。
最近は韓国のこういった業者も出来たようだ。 -
24/15:56:38
マラカル島のRITCの拠点に戻る
ここから車でホテルまで送ってもらい終了する
バレンシアホテルが先で最後にココロホテル
値段が安いのが最後になった -
■16時15分:ココロホテルに戻る
ホントに感激、感動のツアーだった。この旅を思いついた時はペリリューで宿泊して、ゆっくり歩きながら往時を偲びたいと思っていたがそれはならなかった。ペリリュー、アンガウルへのアクセスはここに来ても分からない。初めての旅行者が気軽に予定を組むのは無理だということは分かる。
しかしある程度、日程に余裕があれば十分可能だと言うことは分かった。往復の航空券があれば、まずコロールで一泊し、ペリリュー行きの定期船か、若しくはペリリューのホテルが¥80ドルくらいで送迎しているところもあるようだし・・・。
そして戦跡ツアーもペリリューの業者も行っており、ペリリュー滞在なら¥30ドルくらいで内容は同じで回れる。一度ツアーで回ってある程度、島の全容を把握してから、次の日から自分ひとりで自転車で巡ればいい。そんなに高低差もないし、大きさから言っても、自分の足で歩きたい島である。アンガウルもそうだ。 -
海軍墓地:再訪
24/16:48:44
墓地:最上部を写す
上部に慰霊碑が並んでいる
////////////////////////////////
■16時45分:海軍墓地へ行く
ホテルに戻って休憩したはずだが、30分後にはデジカメ時計によれば海軍墓地に立っていた。昨日、パラオ戦跡巡りの最初が倉田先生と一緒に来たこの場所だった。
もう一度ゆっくりと墓地に佇み、風景を見た。北、すなわち日本を向いて多くの慰霊碑は立っている。前方を見れば海を挟んでバベルダオブの西方の島影と重なり湾のように見えるが、そのずっとずっ〜と向こうに日本がある。
改めて写真を撮り狭い墓地を散策する。 -
24/16:49:48
墓地最上部からバベルダオブ島越しに日本を望む -
24/15:56:38
並ぶ慰霊碑
我々日本国民は皆さんのことを永久に忘れない -
24/16:54:04
墓地を写す -
WCTCショッピングセンター
24/16:45:46
マーケットには
ししやも、塩サバ、その他、ズラ〜と日本のままが並んでます
日本語に馴染んでしまうぞ
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■16時56分:墓地を去り、コロールのダウンタウンへと歩く。
パラオには国道1号線はあっても2号線はないらしい。このコロールのメーンストリートを挟んでダウンタウンと言われる一角が中心なのだろう。朝夕には車も渋滞している。道路は今も工事中で日本のODAなのか?西松建設が請け負ってやっているようだ。事務所もあった。
WCTCショッピングセンターを目指して歩く。すぐ手前に「矢野」「ヤノズ」という日本で言う惣菜屋さんのような店があったが、中に入ってビックリした。巻き寿司も炊き込みご飯も、イナリも、ここには日本と変わらぬ食生活があるのか?
日本統治時代から1945年8月以後実質的に米国の統治に移行し、1994年独立を果たした。独立後まだ14年の若い国だ。
1920年〜1945年、25年間の日本統治。その後、2008年現在までにすでに63年が経つ。その間、米国の影響頗る大というのは当然のことながら、未だに日本文化の影響が大きいことに驚く。
そしてガイドブックにはパラオ最大のショッピングセンターと紹介されているWCTCに入った。スーパーのようで、その他にも各種専門店が入っている。ここのスーパーの棚を見ても驚く。
日本の商品ばかりと言っても過言でないくらい、「子持ちシシャモ」「塩サバ」「各種調味料」「そば」「ソウメン」「森永のビスコ」・・・みんな日本から輸入されたものばかり。包装も商品名も無論みんな日本語である。
「ふ〜ん、こんなんばかり見てたら日本語も覚えそう」と思うくらい日本の商品が棚を占めていた。値段も塩サバの切り身が1枚2ドル¥200円とは日本より若干高いかも・・・。
パラオ、コロールを知らない日本人は多いが、パラオ人で日本を知らない者は皆無だと確信する。関空から直行便で4時間で着く。常夏の国がパラオ共和国だ。 -
24/17:26:28
うどん、ソウメン、ザル蕎麦
別に日本食品コーナーではありませんが
それに今は日本統治ではありませんが -
中国飯店
24/17:57:12
客は今のところ私一人
注文し、待って、食って出るまで私一人
その後のことは知りませんが
///////////////////////////////////
■17時57分:「中国飯店」に入る
海軍墓地はココロホテルより東にある、そこかから又ホテルを通り過ぎて西に歩いてダウンタウンに行き、又、東に戻って来る。そして夕方になって中国飯店に入って椅子に坐るまでの時間が、たったの1時間か。ウロウロしたつもりでも時間はそれほど経過していない。
店の駐車場に車はなし、店に入ったら客ではない三人がテーブルを囲んで早い夕ご飯を食っていた。とりあえず坐る。メニューを見たら日本語で書かれていた。もうすでに名前を忘れたが“海鮮ラーメン”のような物を頼んだ。
頼んでから忘れた頃にやっとラーメンは出てきた。店主は台湾人で、料理人は大連からの出稼ぎだった。こんな南洋にも中国人は働きに来る。もう一人の女性従業員も中国から来ていた。給料幾らもらっているのかなあ??
今日のガイドにパラオ人の平均給与は幾らぐらい?って質問したら、彼は「例えば、このバスの運転をしている男で月600ドルくらいです」と言っていた。今は円高なので日本円で6万ほどか・・。1ドル120円としても¥72,000円ほどの給料だ。物価は安くない。
男は東北出身、7人兄弟、両親はすでに死んで嫁と子供を置いて出稼ぎに来ている。店主の前で私に「味はどう?」と聞いてきたからホントは味が薄す過ぎて今一だったが、「好吃:うまい」と返事したら満面笑顔になった。愛想の良い30代後半くらいの男だった。
従業員の二人と結構話をしたが、店主は一度も声を発しなかった。 -
24/18:11:46
海鮮ラーメンなるものを食す
ちょっと薄すぎるんちゃう
そんな味でしたが、濃過ぎるより良し -
ぺリリュー島:戦争資料館
■18時45分:ホテルでくつろぐ
充実の一日は終わった。充実感を感じた内容のある戦跡巡りだった。その一番の要因は戦跡が想像以上にリアルであったからだろう。零戦も戦車も大砲も残骸となり錆び朽ちかけてはいるが、時を経ながらも戦場にそのままある。
そして周囲の景色もそうだ。人気が無くジャングルに覆われ、今、どこから日本軍兵士が銃を担いで現れても不思議ではない雰囲気があった。
洞窟陣地もそうだ。ビール瓶が散乱し、その他の身の回りの物も転がっている。時が止まり、静寂もある。幽霊ではないが国に帰れぬ魂が徘徊していてもおかしくはない。あ〜我、58歳になるまでペリリューを知らず、アンガウルも知らず。
と、いうことは日本人として知らなければならないのに、まだまだ知らないことが山ほどあるのだろう。出来るだけ知りたい、知らなければならない・・・。少しでも多くのことを。それこそが戦い亡くなった英霊の供養の一歩であり、残された子孫の責務だと信じる。
明日はパラオをまわる
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