2008/10/22 - 2008/10/27
1361位(同エリア1511件中)
明石DSさん
ホテルの部屋の窓から
24/8:10:26
雨だと思っていたらトイレの水が出っ放しの音だった
朝、陽射しが差し込んでいるのを見て、ラッキー
天気予報では今日が一番悪かったのに
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10月24日(金)晴れ、曇り、時々雨
3日目:ペリリュー島・戦跡巡り
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2008.平成20年10月24日(金):午前編
■さあ、ペリリューに行くぞ
7時前くらいには起きた。
と、いってもしょっちゅう目が覚めていたような気がする。
それも、外は大雨なのか?雨音がずっと聞こえていて・・・。
「折角のペリリューも土砂降りの雨の中か、まあこっちに来る前に日本でパラオの天気予報を見たら、24日は雨だけのマークだったし、しょうがない」・・と、諦めていたが。
それが、それが目が覚めたら、その大雨の音は、トイレの水が出っ放しの音だった。水洗の水がちゃんと止まっていない音だった。一挙に気分も良くなり幸先の良いスタートに変わった。
-
道路の段差:ホテルの玄関前
24/8:22:32
こんな段差があちこちに作られている
メーンの道にはさすがに段差はないが
スピードをあまり出せない、出していない
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■雨は最後の船の中だけで・・・。
そして先に書いておくが、今日もあちこちに雨雲があり雨も降ったようだが、私たち一行は帰りの船の中、最後に雨に降られただけでラッキーの戦跡巡りだった。きっとこれもご先祖様のお蔭、そしてこの地に眠る英霊の方々のお蔭であろう。
今日の朝食はパンに玉子にサラダ。
8時半に迎えが来るので準備をした。線香にタバコ、そして虫除けに、腕や首筋にスプレーを掛け、折りたたみ傘も用意してミニ・リックを背負い下に降りた。
やはり小さい島で人口も2万人足らずの国だからなのか?みんな愛想は良さそうだ。ホテルの玄関階段に坐っていると、その前を通り過ぎる車が、丁度速度を落とさす為に道路にわざと作ってある段差の手前で速度を落とす。
その時、ついでにこっちを向いて、顔が合えば半分以上の確率で車内の誰かが手を振ってくれたり会釈をしたりしてくる。こっちも誰とも知らない相手に手を上げて答えたり、会釈を返したりである。 -
24/8:44:20
バレンシアホテルでこのバスに乗り換えマラカル島へ
いろんなツアー客が乗って来る
日本人ばかり
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■8時半ちょうど迎えのマイクロバスが来た。
その時点では私一人だったが、次のバレンシアホテルで大きなバスに乗り換え人を乗せ、他にも回って人を積んでマラカル島のパラオ・リゾートの敷地内の「ブルーマリーン」の店がある桟橋に行った。
そして、一端そこに集められた人たちが、それぞれのツアーに分かれてボートに乗る。大部分はダイビングとかのマリンスポーツに行く者で、ペリリュー戦跡巡りは私の他に、二人×3組=6人の、たった計七名だった。
ガイドはロックアイランドツアーカンパニー(RITC)のシュンさんで、先生によればこの「RITC」は信頼に足る旅行社のようである。
7名の内訳は、一人参加が私だけで、夫婦は二組、父娘が一組。若者だけの参加が無いのが寂しいけど・・・。まあ自分もそうだったから文句は言えない。
一組のご夫婦は奥さんのお父さんが、あの山本五十六海軍大将が戦死したパプアニューギニアの東端にあるソロモン諸島のブーゲンビル島に配属され終戦を迎えたそうだ。
そんなこともあって南洋の戦跡に興味を持ちツアーに参加されたそうだ。その他の方のことは何も知らないが、父娘参加の方は線香とお供えを持参し慰霊碑の前で手を合わせていた。 -
24/8:47:56
スクールバス
アメリカ映画でよく見るなあ・・・こんなバス
アメリカ統治の名残りです -
24/9:00:36
パラオリゾートホテルの敷地内:ブルーマリーン
ここにオプショナルツアーの一行が集合 -
24/9:07:26
ダイビングなど各ツアーに分散して出発する
結構沢山の日本人が集まっていた -
24/9:08:28
ペリリュー戦跡ツアーご一行はこのボート -
24/9:08:38
一番左を除く
この6人+私の計七名のツアーだった -
24/9:09:58
http://www.palauritc.com/index.html
ロックアイランドツアーカンパニー
「RITC」のツアーに参加しました -
24/9:10:40
さあ、いよいよボートは一路ペリリューへ
それぞれにどんな想いを抱いて行くのだろうか?
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■9:10 高速モーターボートに乗り
イザ出発。ペリリューまでの船のコースは、後で聞いた話だが飯田部隊の逆上陸と同じコースのようだった。直線距離で40キロ、島の間を巡って50キロくらいになるコースである。
ウルクターブル島を左手に見ながらペリリュー目指してボートは快走した。空には青空のところも、そして雨雲に覆われる所もあり、雨雲の下は海面に降り注ぐ雨がカーテンのように垂れ下がって見える。上手い具合に私たちの船の行く手にはそうした雨雲はなく、雨を避けるかのようにペリリューに向った。
飯田大隊の逆上陸時と同じ様にウルクターブル島の北西の間隙を通り抜けて走る。さすがの珊瑚礁の海であり、生まれてこの方見たこともない海の色が周囲に広がっていた。遠目にも、周囲にも、千変万化するかの如く変わる驚くような海の色である。
薄いブルーがあり、鮮やかな青色があり、これが良く聞く“エメラルドグリーン”って言うやつか?というような何とも言えないグリーンのような海があり、その深さや海底の珊瑚の種類によっても違うのか?とにかく美しい海原が広がっていた。
この海を2008年の今から遡ること64年前
1944年:昭和19年9月23日。
飯田部隊は深夜ペリリューに増援部隊として向ったのだ。
そこらじゅう島だらけであり、ガイドも名もない無人島の名は知る由もなく。そして、ガイドに聞くのを忘れ三つ子島(オモカン島:海上輸送の中継点があった)は確認できなかった。
でも鯨島は誰でも見ればそのままの姿で一目瞭然だった。クジラ島を通り過ぎる頃には、出発から45分が過ぎていた。もうすぐペリリューに着く。
飯田大隊は本隊総兵力877名
(前日に逆上陸に成功した村越先遣隊215名を除く)は大発・小発に分乗し、コロール島を23日午後8時半出発し11時半三つ子島通過。私たちのボートが45分で来たこの辺りまで3時間の時間が掛かっている。
そして、そこから1時間10分後の明けて24日、零時40分、ペリリュー島まであと2キロの地点で座礁。後続も次々と座礁し全艇が座礁してしまった。
2艇は離礁し上陸を果たしたが、午前二時、飯田隊長は舟艇をあきらめ徒歩上陸としてペリリューに向った。警戒していた米軍は照明弾を上げ、海上は戦場と化し多くの死傷者を出しながらも飯田隊は合計780名の増援を果たした。
64年前の9月24日黎明に飯田隊が夥しい血を流して上陸したペリリューに、私の乗った高速艇は、マラカルの桟橋を出発後1時間4分ほどで到着。
雨に会う事も無く・・・。北波止場に近づいたら海の中に運河のような溝が掘ってあり、その溝の上をボートは通過し桟橋に船を付ける。
周囲は珊瑚礁で浅くて船が通れないことが見た目にも良く分かる。 -
24/9:26:42
左にウルクターブル島を見ながら・・・。
ボートは快走する -
24/9:37:32
ウルクターブル島の西北の島の間を抜けて行く
飯田隊逆上陸コースと同じコースを辿り -
24/9:38:06
これが珊瑚礁の海の色なのか?
まだまだいろんな海の色があった -
24/9:38:22
この空、この雲、この島々、この海
ここはパラオだ
我、ペリリューに向う -
24/9:54:36
昔も今もクジラ島
これだけは良く分かる
日本軍兵士たちもきっと見たに違いない -
24/10:06:28
こんな色の海も・・・。 -
24/10:07:26
こんな色の海も・・・。 -
24/10:08:50
こんな色の海も・・・ -
24/10:12:10
前方、ペリリュー島
我、ついに「天皇の島」に来れり! -
24/10:13:28
ペリリューの周囲はリーフで浅い
船の通路は海底を削って運河のようにしている -
24/10:14:04
左:ペリリュー島、右:ガドブス島 -
24/10:14:32
ガルゴル波止場(北波止場)に到着す -
24/10:16:46
ガルゴル波止場からガドブス島を写す
ガドブスにも飛行場があった
当時はペリリューと桟橋で繋がっていたそうだ -
24/10:17:10
この島で、このパラオの島々で
今も眠る多くの日本軍兵士の皆様へ
心より哀悼の意を表し、ご冥福を祈ります
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■10:15分・ペリリュー北波止場(ガラゴル波止場)に到着。
我ペリリューに来たれり。
波止場でトイレなど、小休止をしてすぐにマイクロバスに乗って出発する。この附近も激戦地であり・・・と、言っても南北9.6km、東西の幅は最も広い部分で3.2km 面積13k?の小さな島なので全島が激戦地なのは当然だろう。川は一本もない。
浜街道を少し走ったところの道路、左手沿いにトーチカがあった。車窓からの写真だけで降りて見ることは出来ず。ついで水戸山に築かれた複郭陣地があり、この陣地は専門家(設営部隊)が作った大規模陣地で収容人員数千人とも言われている。そこにはバスを降り用意された懐中電灯を一人づつ手に持ち入ることが出来た。
10:30分
「今日は4番の入り口から入ります。頭に気をつけて下さい。1920年頃からパラオは海軍基地となり陣地構築も順次為されていた」とのガイドの説明があり、入っていった。
ペリリュー玉砕戦:抜粋↓
ここの地下洞窟陣地は、当初、海軍第三隧道(ずいどう)隊および民間で鉱山、炭鉱、隊道作業関係者からなる海軍第214設営隊ガドブス飛行場建設要因、すなわち海軍の軍属の防空壕としてトンネル式に建設された大規模のもので、堅牢、安全を誇ったものであったが、後、北地区隊の主陣地として有効に活用された。
−以上−
中腰で楽に入れる高さであり、幅も広く中は迷路のように道が分かれているようだった。全体の規模は全く分からないが、少し中に入って行くだけでもその規模の大きさは感じることが出来る。そして60年という歳月が過去に一挙にタイムスリップするかのように洞窟内はリアルそのものだった。
それは洞窟内のあちこちにビール瓶が散乱していたことが一番そう感じた理由だと思う。ガラスの瓶は風化もせず今水洗いをすれば、すぐに真新しい瓶としてそのまま使える。
そして瓶と兵隊が身近に繋がる。中味はビールが入っていたのか?水があったのか?ビンの銘柄は「大日本ビール」と「キリンビール」の二種類であり、ビンの形は“くびれ方”が違うようだ。そして洞窟内では気付かなかったがデジカメ写真を後から見ればビンの色が違うのもあったようだ。
それに錆びて泥ににまみれた迫撃砲弾?のような弾も転がっていた。しかしながらそのまま転がっているというのは、今も中に爆薬がそのままなのかも知れない。暗くて、そして錆びて、泥まみれで、散乱している物が何か良く分からないが、ここに日本の兵隊が居たというのは直感的に伝わってくる。
きっとこの陣地内で多くの若き兵隊が戦死し遺骨収集団が来る前には、遺骨もそこらじゅうにあったのだろう。洞窟内の石ころを外でみたら真っ白な石灰岩だった。とにかくロックガーデンというくらい硬くて、陣地作りの大変さが想像できる。道路も削って平らにすれば、それだけで舗装道路のようになると言われるくらい・・・。 -
24/10:25:52
ガルゴル波止場からすぐのところにトーチカはあった
この銃眼からも日本軍の機関銃は火を噴いたのか? -
24/10:27:38
水戸山、複郭陣地陣地の壕の入口 -
24/10:28:06
北波止場方向を写す
波止場からすぐ近くだったと思う -
24/10:29:50
洞窟の壁の手触りはホンマ硬い
ツルハシやスコップなら大変だ -
24/10:30:06
洞窟入口附近だから明るいので
火炎放射器で焼いた跡が如実だ
64年経っても焼け跡は生々しい -
24/10:30:46
複郭陣地というだけで
中は複雑で大規模だ
爆撃から身は守れても
住むに快適なことはなにもない -
24/10:33:42
色違いのビンが二つ転がっていた
洞窟内で色の違いは分からなかった
ビール瓶と、もう一つは何だろう? -
24/10:37:02
迫撃砲弾?
こんなのが無造作に転がっている -
24/10:39:24
左が大日本ビール:右、キリンビール
形が違う
戦後、大日本ビールはアサヒとサッポロに分割される -
24/10:42:12
出口に近づく
中を歩いている時は、方向感覚がなくなっていた
一体どこをどう歩いたのか?・・・と -
24/10:42:54
弾を収納する容器なのか?
まだこの洞窟陣地内にはこういったものがそのまま置かれている
つい最近戦いが終わった如し -
24/10:42:54
弾を収納する容器なのか?
まだこの洞窟陣地内にはこういったものがそのまま置かれている
つい最近戦いが終わった如し -
24/10:43:18
出口、入口 -
24/10:43:48
出て来て、やっと入った所と違うのに気づいた
4番から入ったのなら・・・。
図でみれば7番に出たと思うけど
この陣地での遺骨は全部収集されたのだろうか? -
24/10:45:18
浜街道沿いの堅固な要塞
ペリリュー島が堅固に要塞化されていたことが良く分かる
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■北地区:守備隊、引野通廣少佐
この北地区の守備隊は引野通廣少佐(姫路出身・陸士26期)が率いていた。
ガラゴン島(ゲロン島)からペリリューの本隊に復帰出来ず敵前逃亡の嫌疑を掛けられた高垣勘ニ少尉の部隊である。引野少佐を追っての芸者「久松」の話は、先生は「久松が居たのは確かだが、ペリリューで兵士として戦ったというのは信じられない」とのことだった。
ペリリュー島の「女性兵士」伝説
http://www.geocities.jp/bane2161/hohei2rentai.html:転載
ペリリュー島の激戦場で、うら若い女性兵士がアメリカ海兵隊員86名を倒したのち玉砕したという「伝説」。
彼女は丘の上に孤立し、三方から海兵隊に包囲された。その時、彼女は機関銃を乱射して抵抗し、海兵隊の死傷者は86名を数えた。ついに決死隊が募集され、戦車の援護射撃で相手の注意を引いている間に背後に迂回してやっと射殺したという。
この日本人女性は、南洋庁と第14師団司令部が所在したコロール島4丁目の一流料亭『鶴の家』の22〜23歳の美人芸者「久松」ではないかという。
独立歩兵第346大隊長、引野通広予備役少佐(陸士26期・53歳)と恋仲となり、部隊がペリリュー島へ渡ると、髪を切り軍服をまとって同行したという。
ペリリュー島北部の「水戸山陣地」を守った約600人の引野隊(独歩346大隊)は9月末までに全滅した。400人ばかりいた島民は既に5月頃、数人の慰安婦を含め全員がパラオ本島へ疎開していたので、米海兵隊と戦った女性は「久松」以外はありえないことになる。
元島民の証言によれば、「久松」の本名は梅田セツ。親に売られて島に来たという、コロールきっての美人の人気芸者。身の回りのものを同輩に分け、理髪店で髪を切り、合う軍靴がなかったので地下足袋をはいて出陣したという。
機関銃で米兵を射ちまくり、本人は重傷のまま病院へ運ばれ、2週間後に息を引き取ったともいう。
(参考:『諸君 2008年6月号』)
9月28日
引野少佐は重傷を負ったのちに自決し、組織的戦闘は終了する。残存兵士は地下坑道陣地内に立て籠もり反撃を続けたが10月2日頃玉砕となった。
10:43分
4番の入口から入って、中をどう歩いたのか分からないまま出るときは違う場所だった。
10:45分
そのすぐ近くにも日本軍の浜街道沿いに要塞跡があった。分厚そうなコンクリートの傭壁が続き銃眼がある。 -
24/10:53:34
この地元の墓地の一角に日本軍関係の慰霊碑がある
24/10:53:34
この地元の墓地の一角に日本軍関係の慰霊碑がある -
24/10:53:46
中央の塔が日本政府の建立した慰霊碑「みたま」
その他、数多くの墓碑、慰霊碑、が並んでいた
線香とタバコをお供えし拝む -
24/11:09:34
34名の残存兵が敗戦を信じず
昭和22年4月まで潜んでいた洞窟の一つ
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■11時9分:34人の洞窟跡、車窓より
ペリリューでは組織的な戦闘が終結後も残存兵が洞窟を拠点に、米軍の食料を調達し終戦後もグループに分かれて島で潜んでいた。
陸軍山口永少尉以下の34名(陸軍22名、海軍8名、軍属4名)が澄川元海軍少将の呼びかけに応じ投降したのは昭和22年(1947)4月である。
澄川元少将が説得の為に単身、洞窟に入って行く時には、まだ中にいる山口少尉や飯島上等兵は、イザという時には突撃せんと完全武装で待ち構えていたという。
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YOKOのパラオニュース15↓
http://it-net.ddo.jp/Album/yoko-news/15/
残存兵士の一人「土田喜代一氏」へのインタビュー
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24/11:13:40
艦砲射撃で開いた壁の穴が窓になっている
ぺリリュー島:戦争資料館
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■11時12分:ペリリュー戦争資料館
戦時中の日本軍の野戦病院跡?
燃料倉庫跡?
海軍の通信隊の建物、倉庫?
YOKOのパラオニュース11↓
http://it-net.ddo.jp/Album/yoko-news/2004-8-18/
上記Web頁によれば↓
「5月、新しい戦争資料館を島内にオープンさせました。日本軍の野戦病院の建物をそのまま資料館として再利用しています。」
ガイドの説明では日本軍の燃料倉庫跡と言っていたが、そんな風にも見えない立派な建物でWeb頁によっても、海軍の通信隊の建物、倉庫?など、いろんなことが書かれている。真実は?
平地の中に建っており、きっとそれなりの建物だっただろう。
カギが掛かっていた。運転手がカギを開けてくれる。ガイドは「中で写真はOKですがフラッシュは駄目です」と言ったが、管理も兼ねているのか運転手が「フラッシュも何でもOK」と言ってくれて中で写真を撮った。
建物は西、米軍が上陸したオレンジビーチの方角を向いており、米軍の艦砲射撃で弾痕が凄まじいが建物も堅固で、砲撃跡をそのままガラス窓にして戦争資料館として再生している。
凄まじかったであろう艦砲射撃や空爆でも廃墟とはならず、これだけ原型を保っていることに驚く。日米両軍の激戦の地であることの証明に、資料館内の展示は半々に分かれていた。戦時の写真などは全て米軍撮影によるものだろうが・・・。今はジャングルに覆われているこの島が、砲撃によって木が焼けつくされた島になったことが良く分かる。 -
24/11:14:24
壁に無数に残る弾痕あと
戦闘の激しさを今に残す -
24/11:23:40
兵士が残した日に丸、寄せ書き -
24/11:24:08
米軍が投下した?
日本軍への降伏勧告ビラ
捕虜になった日本軍兵士が書いたのだろうか? -
銃撃痕のある鉄兜 -
水筒の主は今何処に?
遺骨は日本に戻ったのか?
それとも未だ御魂は
ペリリューの洞窟をさ迷っているのだろうか? -
24/11:32:06
米軍関係のコーナー
日米両軍の展示がある -
24/11:38:54
海軍航空隊司令部跡
ペリリュー戦跡の象徴でもあるかのようだ
建物の横から見てるのか?周囲は樹木に覆われてしまった
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■11時38分:西カロリン海軍航空隊ペリリュー島司令部跡
ペリリューの戦跡写真では象徴的な建物跡だ。どんなガイドブックにも紹介されている建物が目の前にあった。周囲が樹木に覆われて、その開けた一角、横から司令部を見ているのである。
鉄筋も太く建物も激しい砲爆撃に晒されているが、俄然しっかりと残存している。この建物を巡っての戦闘が有ったのか?否か?知らないが銃弾痕も生々しい。「戦争」と「平和」・・・幾ら戦争中といっても戦場にならない限り、南洋の平和な時間がある。ここで海軍のお偉いさん方が南洋勤務を謳歌していた時も、この建物の歴史から言えば遥かに長かったはずだ。
司令部ではあるが大きな浴室跡もあった。威風堂々の建物がペリリューの飛行場を見渡せる場所に建っていた。今も2階にも上がっていける。これだけの砲撃でもビクともせず、今も尚堅固さは往時のままのようだ。「兵どもの夢の跡」 -
24/11:41:02
爆弾で天井に開いた穴
内部は広い -
24/11:24:08
司令部の浴室
結構広そうだった。
戦争の無い時はどんな南洋生活だったのだろう? -
24/11:43:52
階段もしっかり残っており二階に行ける
砲爆撃で壊された部分以外は今もしかっりしたものだ -
24/11:44:40
二階
二階からは零戦の飛び立つ勇姿が見れたのだろう
凛々しく頼もしい日本人がいた
今の日本と日本人は自分を含めてだが
ホンマつまらん、嫌なものは嫌なんじゃ -
24/11:48:58
司令部を背に来た方向を写す
この道を向こうからバスで来た -
24/11:54:36
1944.昭和19年9月15日:擱座した戦車
以来、ここにある
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■11時50分:日本軍、95式軽戦車・残骸
これもペリリュー戦跡写真では象徴的なものだ。
どこでもこの写真が掲載されているから・・・。
ペリリューに17台あった戦車の内の1台である。
米軍上陸当日の9月15日午後4時30分、「斬込隊と協同し、飛行場北側よりアヤメ陣地方向に対して反撃し、敵を撃滅すべし」という命を受け天野戦車隊長は反撃を開始する。まだ紅顔の少年戦車兵の姿もあった。
戦車にロープを巻き付け、それに斬込隊が掴まり突進する。しかし待ち受ける米軍の無反動砲:バズーカ砲などの対戦車攻撃班によって戦車は擱座(かくざ)。斬込隊は飛び降り展開し白兵戦になる。擱座を免れた戦車も爆雷をつけて敵戦車に体当たりするなど勇戦虚しく全滅する。
その中の一台が、草を刈り取った広場に一台錆び付いた姿のまま放置されている。時に昭和19年9月15日からであろう・・・。戦場での米軍撮影の写真には周囲に転がった日本軍兵士の戦死体も一緒に写っている。この戦車はどこからか運ばれた物だと言われているが。 -
24/11:53:06
角度を変えて写した同じ戦車 -
24/11:58:20
戦後、墓地はフィリピンに移転された
今は、この慰霊碑だけが残る
////////////////////////////////
■11時58分:米軍・慰霊碑:車窓より
ここにペリリューで戦死した米軍兵士の墓が並んでいた。十字架が建てられその下に埋葬されていた。当時は見渡す限りの平地であったようだが今はジャングルになり、墓地は全部掘り起こしてフィリピンに移転したそうだ。慰霊碑だけが残っている。 -
24/11:59:24
南波止場方向を写す
オレンジビーチの砂浜はやはり狭かった
1944年、昭和19年9月15日、米軍上陸す
////////////////////////////////
■11時59分:オレンジビーチに来る。
昭和19年9月15日:午前8時
海岸線で米軍上陸部隊(第一海兵師団)は身動きとれず。そのオレンジビーチの砂浜に立つ。浜辺から南西12キロのアンガウル島の全景が見える。米軍はアンガウルに背中を向けてペリリューに上陸して来たのか・・・。
静かで波穏やか、平和そのもののこの浜辺に米兵がへばりつき海岸は血に染まった。敵艦砲射撃を避けるべく、塹壕や洞窟内に身を潜めて待ち構えていた日本軍は、敵を十二分に引き付け一斉に反撃を開始した。
海に向って左手に新波止場(南波止場)が整備されたからなのか?オレンジ・ビーチは狭く感じた。地図で西浜をみれば2キロくらいの海岸線だけど・・・。まあ現在、西浜は北に向っては樹木が浜まで迫り出し向こうが見通せない。砂浜の幅も当時よりももっと狭くなっているようだ。
米軍はこのオレンジビーチで釘付けになり戦死傷者は溢れた。日本軍砲兵隊の活躍は目覚しく、只、弾に限りあり・・・か。
オレンジ・ビーチの名前の由来は
「日米両軍軍兵士の血で染まったから」
「米軍の作戦上のカラーコード、ホワイトビーチもある」
倉田先生曰く
「原生動物である有孔虫の死骸の堆積により砂浜がオレンジ色になる」とのこと。
などなど、名前の由来には諸説あるようだ。しかし上陸当時、米軍の兵士たちの赤い血で砂浜は真っ赤に染まったことは紛れもない。
その日の西浜:オレンジビーチには人っ子一人いなくて私たちだけだった。前方にアンガウル島を望みながらしばし浜を歩く。上陸用舟艇の姿も何も無く、ブルーに透き通った海と静けさだけの浜だった。
我ペリリューに来たり。 -
24/11:59:36
北方向を写す
この浜で米軍は足止めされ死傷者が続出
浜辺まで樹木が生い茂り西浜が見通せない -
24/12:08:16
これが飛行場か・・・。
零戦が離発着していた頃を想像する
ここに日本海軍航空隊あり
///////////////////////////////
■12時8分:ペリリュー飛行場
ここから零戦が飛び立ち、海軍航空隊の基地があったところである。パラオ全体では250機くらいの飛行機があったようだが、この頃には、全くといってもいいほど存在せず、制空権も制海権も敵の手に落ちた中で陸の孤島と化した。
米軍はフィリピン攻略に利用するための飛行場として、パラオの各拠点にある飛行場を占領した。ペリリュー・アンガウル・ガドブスなど。
ここでの米軍との戦いの前に、レイテ海戦に毎日のように飛び立ち、そのほとんどが帰らぬままになっていったようだ。今も滑走路として使われているようだけど舗装されているわけでもなく、草っ原が真っ直ぐに伸びていた。飛行機の姿は皆無。
12時10分:零式艦上戦闘機52型の残骸
ペリリュー飛行場のすぐ傍に零戦の残骸はあった。道から少し入ったところにそのまま放置されている。ほぼ一機分残っているようだが全体像は掴みにくい。操縦席も覗けるが機器類はなくなっていた。着陸に失敗したのか?飛行場のすぐ傍だから・・・。パイロットは無事だったろうと思いたい。
ペリリューにて、我ゼロ戦見ゆ! -
24/12:11:12
型式:零戦52型:略号:A6M5:連合軍コードネーム:Zeke
零戦の残骸
ほぼ全てが残っていると言われても・・・。
飛行場のすぐ傍だ -
24/12:12:02
誰が操縦し、何故?ここに墜落したのか?
この零戦の運命を知りたい -
24/12:12:38
計器類のない操縦席
ここに坐っていてのは誰なのか? -
24/12:12:56
主翼なのか?
じっくり見る時間もなく、想いに耽る時間もなく
ただ慌て写真を撮るツアー也
この旅行記のタグ
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