2008/11/07 - 2008/11/08
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旅人のくまさんさん
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翌日は生憎の小雨でしたが、天竜川の川下りに出かけました。乗船場所までは、静岡に帰る友達の車で送ってもらいました。
- 交通手段
- 高速・路線バス 船
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川下りの出発地点、天竜峡温泉港の光景です。軒先に吊るし柿の光景がありました。二つある川下りのコース案内です。その一つは『天龍ライン下り』のコースで、天龍峡温泉港~唐笠港間を、もう一つが、『天竜舟下り』コースで、こちらは弁天港~時又港間です。『天龍ライン下り』のコースにしました。
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『天龍ライン下り』のコースの出発地点、『天龍峡温泉港』の桟橋光景です。あいにくの小雨模様でしたが、予定通りに催行されました。約10キロの間を、40~50分での川下りです。
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『天龍峡温泉港』の対岸のズームアップ光景です。桟橋用らしい横に長い石段の光景がありました。
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『天龍峡温泉港』の桟橋から眺めた、周りの光景です。紅葉の木々の姿がありました。本格的な紅葉の時期には、少し早かったようです。
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雨天での川下りに備えて、ビニールシートで雨覆いがしてあった観光船の光景です。暫くの間は出番の予定がないのか、船首を陸に乗り上げていました。
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上から剥落してきたような岩のように見えた光景です。水に洗われることもなく、尖ったままの角を持っていました。
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『天龍峡』の名前の由来の紹介です。弘化4年(1847年)、備中国岡山の儒学者、阪谷朗廬(さかたに・ろうろ)が、岩を砕く激流と高い断崖・岩壁の景観を賞して命名したのが始まりとされます。以来多くの名士が訪れ、有名となりました。
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明治時代の書道家、日下部鳴鶴(くさかべ・めいかく)が、奇岩を中心に『龍角峰』を始めとする十勝を選定しました。三文字が刻まれた巨大な岩もその一つのようです。『烱烱潭』の三文字ですが、『烱』の文字は、日常で目にすることはまずありません。読みは『ケイ』または『ギョウ』、意味は『あきらか』です。
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『天龍峡三家先覚者』とされる方の紹介です。最初は先に名前を紹介した、著名な漢学者の阪谷朗廬(1822~1871年)です。弘化4 年(1847 年)4 月に来峡、『遊・天竜峡記』を残しました。『天竜峡』の名付け親です。備中(岡山県)に生まれ、儒者、古賀?迂庵に学びました。晩年は、徳川慶喜(1837~1913年)と親交があり、幕府学問所で経書を講じたとされます。慶喜は、江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍です。
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イチオシ
『天龍峡三家先覚者』の二人目の紹介です。こちらも先に名前を紹介した、書道家の日下部鳴鶴(1838~1922年)です。近江・彦根にて生れ、名を東作、字を子暘、鳴鶴はその号です。太政官書記官として、大久保利通の信任篤く、後に清国の書家楊守敬より六朝書道を学び、わが国の明治・大正書道界正統派の重鎮となりました。書道家で漢詩人です。
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最後に紹介する『天龍峡三家先覚者』は、関島松泉(1806~1888年)です。文化3年(1806年)、島田村八幡の神官大平家に生れ、川路の郷医百花園初代の関島良輔家の養嗣となりました。名を良致、字を子知、通称を退蔵、松泉はその号です。私財を投じて、天龍峡の紹介と保全に生涯努力された、この地の先覚者です。
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天竜峡の歴史年表に、『天龍峡十勝・磨崖完成』が、明治16 年(1883 年)12 月と記されていました。書道家の日下部鳴鶴が記した『天龍峡十勝』は、磨き上げられた岩肌に刻まれたようです。
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色付いてきた楓の樹のようです。ほんのりとした赤色でした。岸壁に築いた建物がありましたから、その周りに植樹された楓のようでした。
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一覧で紹介する、『天龍峡十勝』の名前です。
①垂竿磯(すいかんき)
②烏帽石(うぼうせき)
③歸鷹崖(きようがい)
④姑射橋(こやきょう)
⑤烱烱潭(けいけいたん)
⑥浴鶴厳(よくかくがん)
⑦仙牀磐(せんじょうばん)
⑧樵廡洞(しょうぶどう)
⑨龍角峯(りゅうかくほう)
⑩芙蓉?算(ふようどう)
以上の10箇所ですが、一覧とその場所を事前に調べないと、全部を目にするのは難しそうでした。 -
『仙状磐』の文字が刻まれていた岩の光景です。文字は写真の中間下部、右寄りの位置です。明治時代の書道家、日下部鳴鶴が選んだ十景の一つです。
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ネット情報によれば、この辺りでは投網を使って魚を捕り、焼き魚などを提供していると紹介されていました。残念ながら、投網漁の光景は目にすることができませんでした。
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川幅が広くなった場所の渓谷の光景です。雨で少し曇った先に、紅葉が始まった木々の光景がありました。
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イチオシ
船の上に建てられた鳥居の光景です。『龍角峯』の扁額がありました。天竜峡の文字が潜伏にありましたが、その前の文字は途切れていましましたが、『名勝』当たりのようです。岩にも、『龍角峯』の文字が刻まれているようですが、見つけられませんでした。
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名勝地の天竜峡温泉エリアにあるホテル、『龍峡亭』の建物光景です。天竜峡に迫り出すように建ったこのホテルは、明治初期からの歴史を持つ老舗旅館が前身とされます。
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イチオシ
通り過ぎた後、振り返って眺めた、『龍峡亭』の建物光景です。絶景の渓谷美を持つ場所に建つ温泉旅館でした。建設された当初は違和感があったにしても、景観の中の程よいアクセントになっていました。
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オーバーハングで迫り出した岩肌の光景です。その下には、崩落したらしい岩が山積みになっていました。
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吊り橋と、その橋脚のズームアップ光景です。『つつじ橋』と呼ばれているようです。長さ70メートル、高さ20メートルの吊り橋です。
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『芙蓉』の2文字だけが刻まれた、大きな岩の光景です。筋のような文様が付いていましたが、すべて、雨水が落下した痕でした。『芙蓉』の名前の由来は、想像しても思い付きませんでした。
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『南無観世音菩薩』の文字が刻まれた、表面が平らな大きな岩の光景です。『延宝元子天十一月日』の日付もありました。延宝元年ですと、江戸時代の1673年のことになります。
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通り過ぎた後で、振り返って眺めた吊り橋の光景です。ネット情報によれば、恐怖感を緩和し、渡り易くするために、側面にネットが張られたと紹介されていました。
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シンプルなデザインの鉄橋の光景です。JR飯田線が通過する鉄橋のようでした。
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この辺りでは、川岸から屹立した岩肌の光景はありませんでした。細かな石ではなく、粗い石ですが、河原の光景がありました。
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右手に見えるのは、川の中に取り残されたような岩山の光景です。取り残されたのではなく、もしかしたら左側の崖から転がって来たのかも知れません。
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天竜川沿いの竹林の光景です。岩と川との間に、土砂が堆積した層があるようでした。中国の漓江の川下りや、四国の四万十川でも目にした懐かしい光景です。
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同じく、河畔の竹林の光景です。その右奥に黄葉が始まった木々がありました。褐葉と呼ばれる色のようです。
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