2008/05/25 - 2008/05/25
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しんちゃんさん
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喜連川から狭間田付近で見つけた「市ノ堀用水」と「薬師堂」の説明版。普段スピードを出して通り過ぎる場所でもありますが。外での作業が出来ないため、温泉に入って普段の疲れを療養し、ついでに近隣を見学しました。
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八溝グリーンライン脇に説明版あり、通行に邪魔な駐車をしての見学です。駐車場はありません。北側です。
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市ノ堀用水下流、説明版からです【市ノ堀用水 江戸時代初期、宇都宮藩の重臣、桑久保村(現高根沢町)地頭の奥平織部(おくだいらおりべ)と土室村(現飯室)地頭山崎半蔵等は、この地域の水不足の解消と新田開発のため、用水開削事業を計画した。・・・続く・・・
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この説明版から続きです・・・折しも新田開発の隆盛期であり、現芳賀町までの延長20Kmにも及ぶ下野最大の市ノ堀用水を、約10年の歳月をかけ、明暦2年(1656)の春に完成させた。市ノ堀完成後、長久保、蒲須坂(かますざか)、箱森、上野、松山、桶狭田、谷中、根本、柿木沢と相次いで新田村ができ、穀倉地帯氏家の基盤を形成する一大用水となった。その後、命の水を守るため、流域の本村・新田村13ヶ村は押上村を堰元村(せきもとむら)とし、市の堀水組合を結成した。しかし、この大規模な用水は、大規模ゆえに、水利権や運営を巡って、300年の間、論争を繰り返し続けた用水でもあった】・・・写しは疲れる!
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これまた、道路わきの道標、見学しない訳に行きません。GO!
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田んぼの中、集落の林に隠れていました。「薬師堂」
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「薬師堂」にある七観音(彫刻)は見えませんが説明版がありました。【近世になると民間信仰が活発になり、中でも現世利益を願う民衆の願いを聞いて、直ちに救済する仏である観音信仰が盛んに行われた。しかし、観音は名称や姿形などが多種多様で、「変化の仏」という通り、七観音から三十三観音まであり、民衆の求めにより観音信仰は様々に広がっていった。民衆にとって西国三十三観音巡拝は容易ではなかったので、下総国の木喰(もくじき)上人、相頓(そうとん)は民衆の悲願達成のため、五穀を絶ち精進苦行して貞享ニ年(1685)八観音と千体仏を完成した。これが狭間田の崇高寺観音であるが、崇高寺は明治初期に廃寺となり、現在の薬師堂に移された。江戸中期の寄木(よせぎ)造で総金箔仕上げの七観音像は西国三十三観音の代表仏を正確に模作したものである】見たかった!!
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市ノ堀用水で新しい村ができ、人々はこんな場所で仏様・観音様にお祈りして暮らしていたのでしょうか?
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さくら市探訪 ?の巻「野仏」に似ていませんか?
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野仏とこの薬師堂は距離が約3Kmくらい離れています。同じ年代の物でしょうか?貴重ですね。懐かしく、不思議な気がします。ほのぼのとした仏様です。
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風雨にさらされて凹凸がなくなってしまった観音様?
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