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喜連川(きつれがわ)は古くは「狐川」といわれたそうです。それが「来連川」となりました。800年前に源平合戦で功を立てた塩谷五郎源惟広(矢板市川崎の城主)が源頼朝からここの土地を与えられ、お丸山に大蔵ケ崎城を築城し、「喜連川」になりました。時代が経て、城主が変わり、現在に至っています。現在、城下町の姿はほとんど残っていませんが、当時の姿が多少残っているのが、御用掘(ごようほり)と寒竹囲いです。寒竹囲いとは、写真の様に“オカメ笹”を垣根にしています。

さくら市探訪(旧氏家町・旧喜連川町)?御用掘と寒竹囲い

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2008/05/25 - 2008/05/25

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しんちゃん

しんちゃんさん

喜連川(きつれがわ)は古くは「狐川」といわれたそうです。それが「来連川」となりました。800年前に源平合戦で功を立てた塩谷五郎源惟広(矢板市川崎の城主)が源頼朝からここの土地を与えられ、お丸山に大蔵ケ崎城を築城し、「喜連川」になりました。時代が経て、城主が変わり、現在に至っています。現在、城下町の姿はほとんど残っていませんが、当時の姿が多少残っているのが、御用掘(ごようほり)と寒竹囲いです。寒竹囲いとは、写真の様に“オカメ笹”を垣根にしています。

  • 右「御用堀」 左「喜連川温泉浴場」温泉はあとでゆっくり入ります。まずは写真を・・・

    右「御用堀」 左「喜連川温泉浴場」温泉はあとでゆっくり入ります。まずは写真を・・・

  • 説明版からです【御用掘(ごようほり)、喜連川藩十代藩主、喜連川熙氏(ひろうじ)は領民思いの名君として知られ、藩の財政建て直しや領民の暮らしや教育に熱心に取り組み、鍛冶ケ沢の開墾や藩校「翰林館」などを開きました。特に飢饉や大火から領民を守るため町中どこでも用水が使えるよう生活用水の確保に気を配り、一八四ニ年(天保十三年)、町を挟む両河川(内川・荒川)から町内に水を引き入れる用水堀を開削し生活用水、灌漑用水・防火用水として利用したほか、数十町歩の新田を開拓するなど藩財政にも潤いをもたらしました。

    説明版からです【御用掘(ごようほり)、喜連川藩十代藩主、喜連川熙氏(ひろうじ)は領民思いの名君として知られ、藩の財政建て直しや領民の暮らしや教育に熱心に取り組み、鍛冶ケ沢の開墾や藩校「翰林館」などを開きました。特に飢饉や大火から領民を守るため町中どこでも用水が使えるよう生活用水の確保に気を配り、一八四ニ年(天保十三年)、町を挟む両河川(内川・荒川)から町内に水を引き入れる用水堀を開削し生活用水、灌漑用水・防火用水として利用したほか、数十町歩の新田を開拓するなど藩財政にも潤いをもたらしました。

  • 「御用堀」には内川筋の西河原堰から取水し殿町・本町を貫流するものと、荒川筋野辺山堰から取水し西町・下町を貫流するもの、そして横町・本町・日野町を貫流するものとがあります。この「御用堀」は通称「横町堀」と呼ばれ、町民の生活用水に使われておりますが、平成二年度誇れるまちづくり事業で一部修景工事を施工し、鯉を放流し、「やすらぎの散歩道」として整備したものです。平成三年三月 さくら市・誇れるまちづくり委員会】

    「御用堀」には内川筋の西河原堰から取水し殿町・本町を貫流するものと、荒川筋野辺山堰から取水し西町・下町を貫流するもの、そして横町・本町・日野町を貫流するものとがあります。この「御用堀」は通称「横町堀」と呼ばれ、町民の生活用水に使われておりますが、平成二年度誇れるまちづくり事業で一部修景工事を施工し、鯉を放流し、「やすらぎの散歩道」として整備したものです。平成三年三月 さくら市・誇れるまちづくり委員会】

  • 島根県津和野市の鯉の泳ぐ城下町を今から35年前に見学しましたが、その情景がくっきりと、思い出されます。時間がゆっくりと流れているようでした。

    島根県津和野市の鯉の泳ぐ城下町を今から35年前に見学しましたが、その情景がくっきりと、思い出されます。時間がゆっくりと流れているようでした。

  • 緋鯉・真鯉・用水掘りの鯉。♪〜♪【甍(いらか)の波と雲の波 重なる波の 中空(なかぞら)を橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり】♪〜♪

    緋鯉・真鯉・用水掘りの鯉。♪〜♪【甍(いらか)の波と雲の波 重なる波の 中空(なかぞら)を橘(たちばな)かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり】♪〜♪

  • 「御用堀」から北側「お丸山」の麓に「喜連川神社」入り口と「若山牧水・高塩背山、双歌碑」の案内板があります。「喜連川神社」はここが最初の参道であり、現在の参道は後に造られたようです。

    「御用堀」から北側「お丸山」の麓に「喜連川神社」入り口と「若山牧水・高塩背山、双歌碑」の案内板があります。「喜連川神社」はここが最初の参道であり、現在の参道は後に造られたようです。

  • 若山牧水・高塩背山、双歌碑。下記の方に句を載せました。

    若山牧水・高塩背山、双歌碑。下記の方に句を載せました。

  • 石碑からです【高塩背山(明治十五年〜昭和三十一年)は本名、正庸。この地に生まれた。明治三十五年前橋中学校を病気で中退後、父祖伝来の喜連川神社神職を継承、かたわら小学校教員をしていたが、二十四歳の頃から作歌をこころさし、一時尾上柴舟に師事して歌と書の指導を受けた。その当時から若山牧水ほかほか多くの青年歌人と知り文通。明治四十三年、牧水の「創作」に参加、以後創作作社の中軸として名を知られる。牧水と背水との親交は深く、牧水はその生涯において三回、背山宅を訪れて宿泊しているが、その第一回目は大正四年七月十九日で宿った翌日に「時をお・・・」の歌を詠んだ。・・・続く

    石碑からです【高塩背山(明治十五年〜昭和三十一年)は本名、正庸。この地に生まれた。明治三十五年前橋中学校を病気で中退後、父祖伝来の喜連川神社神職を継承、かたわら小学校教員をしていたが、二十四歳の頃から作歌をこころさし、一時尾上柴舟に師事して歌と書の指導を受けた。その当時から若山牧水ほかほか多くの青年歌人と知り文通。明治四十三年、牧水の「創作」に参加、以後創作作社の中軸として名を知られる。牧水と背水との親交は深く、牧水はその生涯において三回、背山宅を訪れて宿泊しているが、その第一回目は大正四年七月十九日で宿った翌日に「時をお・・・」の歌を詠んだ。・・・続く

  • 社務所。・・・石碑からの続きです・・・この作は牧水の酒の歌では、代表的な名歌のひとつである。背山はこれという旅もせず、常に郷土の自然を対象に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を作り続けたが、昭和三十一年五月三十一日に七十四歳で病没した《奇遇!コピー編集している今日が命日だ!アーメンじゃなくて、南無妙法蓮華経・合掌》歌集に「狭間」「移りゆく自然」のニ著がある。このすぐれた近代歌人二人の足跡をここに誌し、永遠に記念するためにこの双歌碑を建て、郷土の誇りとするものである。平成元年四月 喜連川町長 塩野昌美】現在この町長は亡くなりましたが、喜連川温泉の立役者で、喜連川町になくてはならない人物です。温泉は彼の英断で敢行されました。全国の温泉ブームのさきがけです。

    社務所。・・・石碑からの続きです・・・この作は牧水の酒の歌では、代表的な名歌のひとつである。背山はこれという旅もせず、常に郷土の自然を対象に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を作り続けたが、昭和三十一年五月三十一日に七十四歳で病没した《奇遇!コピー編集している今日が命日だ!アーメンじゃなくて、南無妙法蓮華経・合掌》歌集に「狭間」「移りゆく自然」のニ著がある。このすぐれた近代歌人二人の足跡をここに誌し、永遠に記念するためにこの双歌碑を建て、郷土の誇りとするものである。平成元年四月 喜連川町長 塩野昌美】現在この町長は亡くなりましたが、喜連川温泉の立役者で、喜連川町になくてはならない人物です。温泉は彼の英断で敢行されました。全国の温泉ブームのさきがけです。

  • 喜連川神社より南側を眺める。土堤のさくら並木が少々見える。

    喜連川神社より南側を眺める。土堤のさくら並木が少々見える。

  • 「喜連川神社」社務所に無料でパンフレットがおいてありました。「喜連川神社の栞」“栞”って読むことできますか?“しおり”と読みます。本にはさむ“しおり”です。山道などで、木の枝を折って、道しるべとすることも“しおり”といいます。下記は要約です【永禄六年(1563年)創設、塩谷惟広が築城後、十五代城主「源惟朝」が戦国時代の心の拠り所にしようと、尾張の国、津島牛頭天王宮(つしまごずてんおうぐう)の分霊を勧請し剏宮(さきのみや)としたのが喜連川神社の始まりだそうです。・・・続く

    「喜連川神社」社務所に無料でパンフレットがおいてありました。「喜連川神社の栞」“栞”って読むことできますか?“しおり”と読みます。本にはさむ“しおり”です。山道などで、木の枝を折って、道しるべとすることも“しおり”といいます。下記は要約です【永禄六年(1563年)創設、塩谷惟広が築城後、十五代城主「源惟朝」が戦国時代の心の拠り所にしようと、尾張の国、津島牛頭天王宮(つしまごずてんおうぐう)の分霊を勧請し剏宮(さきのみや)としたのが喜連川神社の始まりだそうです。・・・続く

  • 神社の倉庫に「凱旋」の扁額。戦争に出てゆく人々が「無事凱旋」を祈り掲げて行った物と思います。無事帰国したのでしょうか?戦後65年、まだまだ世界の国々で戦争が行われています。平和な日本は良いですね。

    神社の倉庫に「凱旋」の扁額。戦争に出てゆく人々が「無事凱旋」を祈り掲げて行った物と思います。無事帰国したのでしょうか?戦後65年、まだまだ世界の国々で戦争が行われています。平和な日本は良いですね。

  • 若山牧水が社務所に泊まり詠んだ句は「時をおき老樹(おひき)の雫(しずく)おつるごと静けき酒は朝にこそあれ」です。大正四年に初めて訪れたときは「のちいつか逢ふべきものとたのつるその時し終(つい)に来(きた)りけるかも」だそうです。背山の句は「風とよむ桜若葉の間より残れる花の散るはさびしき」これらの句が先ほどの双歌碑です。

    若山牧水が社務所に泊まり詠んだ句は「時をおき老樹(おひき)の雫(しずく)おつるごと静けき酒は朝にこそあれ」です。大正四年に初めて訪れたときは「のちいつか逢ふべきものとたのつるその時し終(つい)に来(きた)りけるかも」だそうです。背山の句は「風とよむ桜若葉の間より残れる花の散るはさびしき」これらの句が先ほどの双歌碑です。

  • 説明版続きです。・・・十七代「塩谷惟非久」は豊臣秀吉の東征にたいする援助物質・軍人の要請に対して協力せず、怒りに触れることを恐れ出奔これにて塩谷家は滅亡しました。色々あって、足利家の分家が「来連川城主」となり、喜連川宿場と名を変え現在に至っています。城主の末裔は現在この神社の宮司であり、高塩家、二十一代四百有余年の永い系図を担っているそうです】足利家は高い家格のため徳川家から特別待遇されました。会津若松城主は幾度となく城主が替わっていますが、一度も変わらないでいた、城主は羨ましいです。

    説明版続きです。・・・十七代「塩谷惟非久」は豊臣秀吉の東征にたいする援助物質・軍人の要請に対して協力せず、怒りに触れることを恐れ出奔これにて塩谷家は滅亡しました。色々あって、足利家の分家が「来連川城主」となり、喜連川宿場と名を変え現在に至っています。城主の末裔は現在この神社の宮司であり、高塩家、二十一代四百有余年の永い系図を担っているそうです】足利家は高い家格のため徳川家から特別待遇されました。会津若松城主は幾度となく城主が替わっていますが、一度も変わらないでいた、城主は羨ましいです。

  • 喜連川神社、社務所に無料で置いてあった「喜連川の栞」は文責として「木村悦紀(よしのり)氏が下野神社沿革史・下野国史・氏家町歴史・大日本名蹟図誌・・・等々を参考に編纂した集大成の説明書でした。大変参考になりました。ありがとうございました。この場を借りてお礼を申し上げます。一観光者として非常にありがたく思います。

    喜連川神社、社務所に無料で置いてあった「喜連川の栞」は文責として「木村悦紀(よしのり)氏が下野神社沿革史・下野国史・氏家町歴史・大日本名蹟図誌・・・等々を参考に編纂した集大成の説明書でした。大変参考になりました。ありがとうございました。この場を借りてお礼を申し上げます。一観光者として非常にありがたく思います。

  • 「お丸山」の南麓、孟宗竹林と木々に囲まれ、うっそうとしている「喜連川神社」でした。

    「お丸山」の南麓、孟宗竹林と木々に囲まれ、うっそうとしている「喜連川神社」でした。

  • 喜連川神社から歩いて5・6分、「喜連川城」の大手門が再建されています。旧喜連川町役場の駐車場にあります。説明版からです。【喜連川は源平の合戦以来、塩谷氏が治めていました。その後足利尊氏の分家古河公方の末えいの足利国朝を初代とし、弟の頼氏と治世が変わり、2代頼氏の代になって現在の町役場の位置に館が建てられました。館は明治9年に焼失し、門は平成3年に復元しました】

    喜連川神社から歩いて5・6分、「喜連川城」の大手門が再建されています。旧喜連川町役場の駐車場にあります。説明版からです。【喜連川は源平の合戦以来、塩谷氏が治めていました。その後足利尊氏の分家古河公方の末えいの足利国朝を初代とし、弟の頼氏と治世が変わり、2代頼氏の代になって現在の町役場の位置に館が建てられました。館は明治9年に焼失し、門は平成3年に復元しました】

  • 旧喜連川町役場、現「さくら市、市役所喜連川庁舎」駐車場から「お丸山公園」へ歩いて登る入り口があります。

    旧喜連川町役場、現「さくら市、市役所喜連川庁舎」駐車場から「お丸山公園」へ歩いて登る入り口があります。

  • 「寒竹囲い」説明版からです【寒竹囲の家 この寒竹囲いは、喜連川公方(きつれがわくぼう)6代城主茂氏公が、藩士の宅地を囲むのに、板塀などでは制作保繕が大変なので、笹の密植するのを利用してこれを生垣とすることを奨励しました。この生垣を鼈甲(べっこう)垣ともいいます】

    「寒竹囲い」説明版からです【寒竹囲の家 この寒竹囲いは、喜連川公方(きつれがわくぼう)6代城主茂氏公が、藩士の宅地を囲むのに、板塀などでは制作保繕が大変なので、笹の密植するのを利用してこれを生垣とすることを奨励しました。この生垣を鼈甲(べっこう)垣ともいいます】

  • 数年前に新築した家も笹を植えました。こちらは「オカメ笹」ではなく、寒竹でした。だいぶ大きく育ちました。ブロック塀とかでなく、歴史を大切にして“寒竹囲いの家”にして、ありがとうと言いたくなります。

    数年前に新築した家も笹を植えました。こちらは「オカメ笹」ではなく、寒竹でした。だいぶ大きく育ちました。ブロック塀とかでなく、歴史を大切にして“寒竹囲いの家”にして、ありがとうと言いたくなります。

  • 寒竹拡大。タケノコは美味だそうえす。しんちゃんも植えようかな?オカメザサはただ今、1?ですが“別宅”にて育成中です。

    寒竹拡大。タケノコは美味だそうえす。しんちゃんも植えようかな?オカメザサはただ今、1?ですが“別宅”にて育成中です。

  • もう少し育つと、割り竹で両側から押さえて「寒竹囲い」が出来上がりです。

    もう少し育つと、割り竹で両側から押さえて「寒竹囲い」が出来上がりです。

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