2008/05/25 - 2008/05/25
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しんちゃんさん
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栃木県さくら市(旧氏家町と旧喜連川)を紹介します。雨の休日、ログハウス建設が出来ないため、温泉を兼ねて喜連川を訪れて見ました。一週間前「ポピー祭り」で来たばかりです。そのときまだ満開でなかったため、今週は満開ではないかと再び訪問しました。行く途中、さくら市「狭間田」を通過中、田んぼの道路わきに「野仏・一里塚」の道標がありました。見学するしかない!
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ここにたどり着くまでが大変!道標2本に従ってきましたが、途中で道標が消えてしまいました。近くの農家の方に「一里塚はどこにありますか?」「知らないね〜」国道に出て、他の人に聞こうと思って走り出したら、ありました。なんと、民家の門の中へ・・・国道は狭く入るしかない!
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民家に入りました。呼び鈴を「ピンポーン〜」「・・・」誰も居ないかな?しつこく「ピンポーン〜」納屋から奥様が出てきました。仕事中だったみたいです。「一里塚の看板を見て入ってきました。見学させて下さい。写真撮っていいですか?」「はいどうぞ」広い敷地、大きな家、庭も見た通りです。
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国道沿いの大谷石塀の民家側に説明版がありました。説明版からです【奥州街道一里塚(史跡)近世になると江戸を中心にして緒街道が整備され、宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の一里ごとに目印として両側に塚を築き、榎や松などを植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河までを指し、これらの街道も一里塚が設けられた。氏家(うじいえ)地内には堂原地蔵堂南側と狭間田のニか所あったが、堂原一里塚は消滅した。狭間田の一里塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになった。続く・・・】
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一里塚が民家の敷地に残っているとは貴重ですね。一里塚側の上に祠(ほこら)があり、当家の守り神、鎮守様が祀られていました。
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説明版続きです。【延宝六年(1678)の宿並絵図によると、この地点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記されている。江戸日本橋を起点として三十ニ里目にあたる一里塚である。奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一の一里塚として確認できるものである。氏家町教育委員会】
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隣りの敷地は竹やぶ、「市でこの地を買い取って後世に残せば良いのに」と思いました。なにせ直ぐ近くで聞いても判らないのですから・・・
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栃木県さくら市狭間田の坂本様宅、屋敷の北側です。家の横幅は写真の三倍・四倍はあります。広い!家の中でちょっとや、そっと怒鳴っても聞こえないぞ!
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坂本様宅ピラカンサの花
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もう一本のピラカンサの花「真っ白」
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次なる目的地「野仏」を探したが「無い!」道標の0.1Kmには何も無い!地元の方々が集まって草刈をしている場所で聞きましたが「さあ、道標には書いてあるなあ?」「お墓の所にあるのがそれでねえげ?」(それではないか?)と言うわけで道標のあるお墓へ・・・一里塚の坂本様の旦那様がこの中にいました。偶然です、見学のお礼もしました。
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悩ませた道標!あっち1.2Km「智賀津神社」 左0.3Km「一里塚」さっき見てきた! 右0.1Km「野仏」おじさん方々に聞いた場所だった!
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道標となりのお墓の中に野仏を探したが、それらしい野仏は無く皆「墓石」だった。50mくらいにおばさんがいたので聞いたが「知らないね〜」この道標は嘘か?
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道標となりのお墓、雨の中必死に探すも野仏なる石仏は無し。六地蔵はあった。
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道標となりのお墓。南側の民家の庭におばさんがおり、「野仏知りませんか?」聞きましたが「さあ?知らないね!」拙い返事でした。
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急に野仏の写真ですが・・・話せば長い・・・住所・名前を公表しない約束でネットに載せて良い承諾をいただきました。道標は実はお墓にありました。が、しかし貴重な“お墨付き野仏”は盗まれたら大変です。お墓の持ち主が自宅に保管していました。お墓の持ち主?お墓って共同か、おおやけの場所でしょ!違うんです。個人所有のお墓だったんです。いや、個人の敷地をお墓にしたんです。
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良ーくこの形を覚えて下さい。「寛文十弐・・・」と右肩に書かれた年代は西暦1661年から1672年の制作時期らしいです。
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納屋の脇に置かれた野仏は盗品を逃れてお墓から避難してきました。この近辺で江戸時代に疫病等で多数の死者が出たときに、持ち主の先祖の方が土地を提供して死者を埋め供養しました。それが今お墓となっており、お墓にこの野仏があったそうです。某有名大学の先生が「貴重な物なので盗まれないように」と言い、現在近くのS様宅納屋に避難しています。見学はお控え下さい。
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しんちゃん自慢ですが、勘が鋭く、ここの家で聞けば何か分かるかと思い、お屋敷に入り「ピンポーン」「ピンポーン」出てきた、ご主人に「野仏はご存知ないですか?」「・・・・我が家の庭にあります」「やった!」「写真撮らせて下さい」「どうしてここにあるんですか?」しつこく聞くのでありました。
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道標「野仏・一里塚」探索が終り、一路喜連川に行こうと思いましたら、違う道標発見!「お旗塚古墳」もう見学するしかない。
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牛小屋の間を抜けたら、田んぼの中に一段と大きいイチョウの木が塚の上に植えてあります。一里塚そっくり!でも、こちらはもっと古い古墳です。
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右側古墳、隣りは田んぼ。これから田植えです。
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説明版からです【お旗塚古墳・四斗蒔遺跡 お旗塚(はたづか)古墳は、氏家町最古の古墳である。墳形は未確認であるが、平成3年(1991)の調査では、濠(ほり)を2本巡らすという県内でも特異な形態をもっていることや、出土した土器から、4世紀末に築造されたことが明らかになった。この古墳の被葬者との強い関わりが注目されている遺跡が南東に400m離れたところにある四斗蒔遺跡(しとまきいせき)である。−−続く−−
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銀杏の木には「垂乳根」(たらちね)が付いていました。先端を良〜く、なでてきました!
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−−説明版続きです−−四方を濠で囲み、土塁と柵で守られた防御性の強い環濠居館跡(かんごうきょかんし)が2基確認された。内部には、この地域を治めた豪族の住まいと思われるような大型竪穴住居や倉庫、祭祀場も確認された。また、この近くからは、農耕儀礼を表した、貴重な資料である「絵のある土器」も発見されている。これらの遺跡や資料は、4世紀に狭間田周辺で農耕社会が確立し、古墳文化が開始されていたことを物語っている】古墳東側、喜連川方向の山並みです。
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古墳に咲く花、ハルジョオン(春女苑),ハルシオン(春紫苑)詳しくは「http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/Harujion.html」良くまあ調べていますね、松任谷由美の歌まで書いています。脱帽!でも脱ぐ帽子ありません。
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四斗蒔遺跡は発掘後、埋められ田畑になっていました。有意義な道草をしました。急いで喜連川へ向かいます。?へ続く
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