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今朝、唐津を出発し、いよいよ渡海、壱岐&対馬で年越しの旅です。<br />さて、幸先悪しです。海がシケてどうにもなりませんでした。<br />何でも唐津から壱岐側の船着場である「印通寺」のラインは、船の大きさの問題もあって、一番、揺れるコースだそうです。<br />わたしも船中、「もう少しで・・・」というところまで追い詰められましたが、何とかセーフ・・・。<br />でも、ホテルで、これを書いているいまになっても、あまり気分はよくありません。<br />風も強く、今日ぐらいから寒くなりだしました。<br />港から港をまわる旅なので、冬のこの季節はだいぶこたえます。<br /><br />さて、今日のメインは、壱岐の北側にある勝本町です。<br />壱岐は市になる前から、「郷ノ浦町」「石田町」「芦辺町」、そしてこの勝本と、地形区分同様に島内が四分されています。<br />島の常で、交通が大変不便で、車を使わない場合は、ある程度、目的を絞らないと、まわれません。<br />そこで、「曾良」の終焉の地を目指して行こうと思ったのです。<br />「曾良」と聞いて、ピンときたヒトは、かなり俳句や日本文学に詳しい方でしょう。あるいは松尾芭蕉に関心があるヒトなら、当然、わかるでしょうが・・・。<br />芭蕉の弟子で、蕉門十哲の一人ということですが、それよりもあの有名な「奥の細道」の随行者と言ったほうがいいと思います。<br />お読みになった方はおわかりでしょうが、「奥の細道」本文とは別に、曾良が書いた「随行日記」が残されており、研究者には重宝がられています。<br />その俳人曾良がなぜ壱岐で・・・と思われるでしょう。<br />なんか突飛な印象をまぬがれません。<br />実はわたしもその一人で、司馬遼太郎さんの「街道をゆく 壱岐対馬のみち」を読むまでは、曾良の死んだ場所なんて知りませんでした。<br />読んでみてそう・・・、曾良は「巡見使」という諸国の大名を観察する一行の一人に加わり、結果、身体を悪くして、壱岐・勝本で客死したというわけです。<br />歴史好きな方だと、ご存知でしょうが、「松尾芭蕉隠密説」というのがあり、芭蕉の奥の細道を始めとした各地への吟行旅は、実は俳諧の旅に隠れて、諸大名の動向を探っていたとする説です。<br />これは芭蕉が伊賀出身だということ、その移動距離とスピードが常人離れをしていたことなどを疑うことから生じたものです。<br />無論、一笑に付すべきことなのでしょうが、最近ではこの説は更に深まり、実は隠密は芭蕉ではなく、芭蕉に随行していた曾良だったというものです。<br />詳細は避けますが、私としては、曾良の最後の仕事を思うとき、中々、面白い説だと思っています。<br />このへんは芭蕉をからめて、俳諧と当時の政治状況をあわせて、一編の小説が書けそうですね。<br />ただ実際の曾良は病弱だったらしく、壱岐で客死した時は60歳を過ぎていて、滞在先で患いつつ亡くなったようです。<br />晩年には乞食を自認していたようですから、何か悲しい一生だったようにも思えます。<br />こうしたあたり、なんか山頭火に似ていますね。<br />それにしても俳諧と巡見使参加がどうリンクするのかよくわかりません。<br /><br />そんなことをずーと思いながら、勝本町と漁港を見下ろす丘の一隅に立つ曾良の墓が表紙のものです。<br />勝本の人たちも、このことは大事にしているらしく、諏訪市出身の曾良の縁で、諏訪と壱岐は姉妹都市になっているそうです。曾良やその背後にある城山公園の一角に、例の諏訪神社の御柱が飾ってあったのが印象的でした。<br /><br />交通が不便だったので、1日でまとめられたのはこれだけです。<br />壱岐は古代の「一支国」でもあり、このへんのことも知りたく、<br />今度は準備を万端にして再訪したいと思います。<br /><br />明日はいよいよ対馬に入ります。<br />

曾良の旅

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2007/12/29 - 2007/12

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街道を行くさん

今朝、唐津を出発し、いよいよ渡海、壱岐&対馬で年越しの旅です。
さて、幸先悪しです。海がシケてどうにもなりませんでした。
何でも唐津から壱岐側の船着場である「印通寺」のラインは、船の大きさの問題もあって、一番、揺れるコースだそうです。
わたしも船中、「もう少しで・・・」というところまで追い詰められましたが、何とかセーフ・・・。
でも、ホテルで、これを書いているいまになっても、あまり気分はよくありません。
風も強く、今日ぐらいから寒くなりだしました。
港から港をまわる旅なので、冬のこの季節はだいぶこたえます。

さて、今日のメインは、壱岐の北側にある勝本町です。
壱岐は市になる前から、「郷ノ浦町」「石田町」「芦辺町」、そしてこの勝本と、地形区分同様に島内が四分されています。
島の常で、交通が大変不便で、車を使わない場合は、ある程度、目的を絞らないと、まわれません。
そこで、「曾良」の終焉の地を目指して行こうと思ったのです。
「曾良」と聞いて、ピンときたヒトは、かなり俳句や日本文学に詳しい方でしょう。あるいは松尾芭蕉に関心があるヒトなら、当然、わかるでしょうが・・・。
芭蕉の弟子で、蕉門十哲の一人ということですが、それよりもあの有名な「奥の細道」の随行者と言ったほうがいいと思います。
お読みになった方はおわかりでしょうが、「奥の細道」本文とは別に、曾良が書いた「随行日記」が残されており、研究者には重宝がられています。
その俳人曾良がなぜ壱岐で・・・と思われるでしょう。
なんか突飛な印象をまぬがれません。
実はわたしもその一人で、司馬遼太郎さんの「街道をゆく 壱岐対馬のみち」を読むまでは、曾良の死んだ場所なんて知りませんでした。
読んでみてそう・・・、曾良は「巡見使」という諸国の大名を観察する一行の一人に加わり、結果、身体を悪くして、壱岐・勝本で客死したというわけです。
歴史好きな方だと、ご存知でしょうが、「松尾芭蕉隠密説」というのがあり、芭蕉の奥の細道を始めとした各地への吟行旅は、実は俳諧の旅に隠れて、諸大名の動向を探っていたとする説です。
これは芭蕉が伊賀出身だということ、その移動距離とスピードが常人離れをしていたことなどを疑うことから生じたものです。
無論、一笑に付すべきことなのでしょうが、最近ではこの説は更に深まり、実は隠密は芭蕉ではなく、芭蕉に随行していた曾良だったというものです。
詳細は避けますが、私としては、曾良の最後の仕事を思うとき、中々、面白い説だと思っています。
このへんは芭蕉をからめて、俳諧と当時の政治状況をあわせて、一編の小説が書けそうですね。
ただ実際の曾良は病弱だったらしく、壱岐で客死した時は60歳を過ぎていて、滞在先で患いつつ亡くなったようです。
晩年には乞食を自認していたようですから、何か悲しい一生だったようにも思えます。
こうしたあたり、なんか山頭火に似ていますね。
それにしても俳諧と巡見使参加がどうリンクするのかよくわかりません。

そんなことをずーと思いながら、勝本町と漁港を見下ろす丘の一隅に立つ曾良の墓が表紙のものです。
勝本の人たちも、このことは大事にしているらしく、諏訪市出身の曾良の縁で、諏訪と壱岐は姉妹都市になっているそうです。曾良やその背後にある城山公園の一角に、例の諏訪神社の御柱が飾ってあったのが印象的でした。

交通が不便だったので、1日でまとめられたのはこれだけです。
壱岐は古代の「一支国」でもあり、このへんのことも知りたく、
今度は準備を万端にして再訪したいと思います。

明日はいよいよ対馬に入ります。

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