1999/08/21 - 1999/08/26
1769位(同エリア2522件中)
砂布巾さん
8月21日 ミュンヘンでビールを飲みまくって…
朝は7時前には目が覚め、1時間ばかり散歩。フランスの簡素さに慣れていた身には超豪華な朝食。ハムやチーズもあるし、氷の中にバターが浮かべてあるドイツ独特のやり方も懐かしく、感動してしまう。
最初の予定では何回も通りながら、1度も降りたことがない広島市の姉妹都市ハノーファー(現イギリス王室の故郷でもある)に行こうかと思っていた。しかし自分の好きな町3つの町(他はウィーンとザルツブルク)に1つも行かないのは何か物足りない。ミュンヘンからベルリンまでの夜行を利用すれば宿代も浮く、そしてミュンヘンで行き残した場所も1カ所ある。そんなこんなでドクター・ノジャッキー氏とマンハイムまで一緒に行き、13時過ぎにはミュンヘンに到着。
目抜き通りの混雑振りはパリの比ではない。でもそんな人の多さも心地よく感じてしまう。昼食は何回か行ったことのあるビアホールで。隣のちょっと怪しげに見えたおじさんには「ドイツ語の発音が上手だね」と誉められ、近くの夫婦に同意を求めていた。もしフランスで同程度のフランス語が話せたとしても、決してフランス人は誉めてくれず「そんなの当たり前だ」位にしか思ってくれないんだろうな、と思ったら妙に面白かった。おじさんがビール代を払ってくれたので、タヌキの人形をあげる。
(1923 ミュンヘン一揆の現場 オデオン広場)
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ミュンヘンに来た最大の目的がミュンヘン大学。第2次大戦中に白バラを組織して反ナチス地下運動を行ったショル兄妹ゆかりの場所だ。彼らが発行した新聞のレプリカはさり気なく大学前の歩道に置かれていた。だから注意して見なければ、ゴミが落ちているようにしか見えない。でも戦争中の地下運動というのは、このようにさり気なく行われていたのだろう。
ローレライのメロディーで始まる市役所の仕掛け時計を見てから、ホーフブロイハウスへ。楽団の前に陣取る。やっぱり何回来ても、あの盛り上がりが最高に楽しい。店内には過度の盛り上がりを鎮める役割の人も居て、そのおじさんには「ちゃんと座れ」と2回も注意された。それはともかく、1.5Lのビールを飲みながら、「やっぱりミュンヘンに来て良かった〜」「この幸せよ、永遠に続いてくれ」と思っていたのでした。
飲んだ量が少し許容量を超えてしまい、列車の中で…………。 -
(ミュンヘン大学構内)
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(ミュンヘン大学構内にあるゾフィー・ショルらを追悼するレリーフ)
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(おなじみホーフブロイハウス)
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8月22日 ヴァンゼー会議 1942年1月20日
ベルリンのヴァンゼー(ゼー=湖)駅には7時半過ぎに到着。近郊列車Sバーンでニコラスゼー駅まで一駅乗り、ヴォルムスから1泊だけ予約が取れていたヴァンゼーYHへ直行。チェックインは12時からしか出来なかったので、朝食をとったり、少し休んだりして過ごす。ちなみに数カ所の駅で「君もやろう」の日本語が入った広告を見掛けた。どうやらエイズ防止のためコンドームを着けよう、という趣旨のようだ。 -
2日分出来たチェックインの後は、悪名高いヴァンゼー会議が行われた場所に向かう。ナチスの幹部が集められて開かれた会議ではユダヤ人問題の「最終的解決」の方針が決定され、それに基づいてアウシュビッツやダッハウ、そしてアンネ・フランクが収容され、15歳でその生涯を終えたベルゲン・ベルゼンなどの強制収容所が絶滅収容所と化した。
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その後は1948年から1年間にわたって旧西ベルリンがソ連によって封鎖された期間中に行われた空輸の記念碑、ブランデンブルク門周辺、賑やかな繁華街クーダム周辺を歩く。クーダム周辺は歩行者天国になっていてとても人が多く、大変だった。露天の中にはヤキソバの店が多く食指をそそったが、座って食べたかったので、フリードリッヒシュトラーセ駅に戻って魚のファーストフード店へ。
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8月23日 独ポ国境歩いていたら…
今日は第2次大戦後(旧東)ドイツ、ポーランド国境となったオーデル川とナイセ川(いわゆるオーデル・ナイセ線)にとりわけ拘って歩いてみた。
最初はベルリンから列車で2時間ばかりのナイセ河畔のグーベン。国境の橋に向かう途中、川が見えてきたので嬉しくなって、小高い土手に上がっていたら、向こうからポリスがやって来る。不法出国を狙う不審者にでも見られたのだろう。求められてパスポートを見せると、‘アッ、ヤーパン’と言って安心はしたようだが、念のため無線で連絡を取り、盗難パスポートでないか、出国停止されているような不審な人物ではないかを確認していた。もう1人のポリスには簡単に荷物を調べられた。物腰は穏やかだったし、すぐに釈放とはなったが、やはり日本だろうと外国だろうと、お巡りさんに呼び止められるのは良い気はしない。それにしてもナイセ川の川幅は狭い。その気になれば本当に不法出国出来そうだ。
それはともかく、ハンガリー、チェコと共に一足早くNATO加盟を果たしたポーランドがEUに加盟し、ドイツのポリスが不法出入国者に気を使わなくて済む時代もそんなに遠くはないかも知れない。 -
(ポーランド側から この対岸あたりで職務質問を受けた)
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ポーランド側のグービン(国境が変更される前は1つの町だった)を2時間弱歩いて引き返し、途中東ドイツ時代に国策として大製鉄所が建設されていたアイゼン・ヒュッテン・シュタット(かつてのスターリン・シュタット)を通って、1回通過していたフランクフルト・アン・デア・オーデルへ。ちなみに日本で有名なのは、フランクフルト・アム・マイン。
オーデル河畔のフランクフルトは、9年前にやっとの思いでポーランドから出国してきた思い出がある。当時YHがあった町でひときわ高いビルや破壊された教会もそのままだ。魚のファーストフード店のおばちゃんに聞いてみたら、YHは今はビルの中にはないそうだ。当時市電が事故をしていた場所を通っただけで、思い出して楽しくなってしまう。 -
再び国境を越えて対岸のスルビツェに行ってみる。9年前に親切なおじさんの車で辿り着いた時にはクタクタで、町を見る元気など全然なかったから、もう1度行ってみるのは少々大袈裟に言えば、念願でもあった。
国境沿いの人々は身分証明だけで往来出来るようだが、小生のパスポートは結構入念に調べていたので、10人以上の列がすぐ出来た。
歩いてみたらイメージと違って結構大きな町。グービンも含めて国境を越えて目立つのは、ドイツ人相手にタバコや飲み物を売る店。物価が安いポーランドに買いに来るドイツ人も多いのだろう。反面、ドイツ側にはポーランド語の表示(役所や郵便局などにはポーランド語の表示もあった)や看板などは見られない。残念だったのは広場で近付いてきた子ども達にお金をせびられたこと。
それにしても不思議なのは、国境を越えると看板の文字、話している言葉などが全く違ってくること。ポーランド語は全然分からないだけに、余計そう思った。
ベルリンには19時に帰着。日経新聞を買って、明日から2日間のベッド確保のためヴァンゼー駅周辺を歩いてみるが、良い所がなかった。帰って念のため聞いてみたら、「あと2日間泊まれる」。取り越し苦労になったけど、とにかく良かった。ちなみに日経新聞を買ったスタンドに居たお兄さんは空手をやっているらしく、日本語も少し知っていて「きゅうーマルク」(高い!)と教えてくれたけど、‘Ich bin Deutscher!’と返した。変な日本人。 -
8月24日 鮮やかな手口に脱帽!
午前中はまず(旧西)ベルリンとポツダム(旧東ドイツ)の境界線グリーニッケ橋へ。ここはかつては境界線だったので、冷戦時代には東西ドイツのスパイ交換が行われていたという。 -
せっかく近くまで来たので、プロイセンのフリードリッヒ大王が造営したサンスーシー宮殿、そしてポツダム会談が開かれたツェツィーリエンホーフヘ。ともに3回目の訪問。サンスーシーはヴェルサイユほどの壮麗さは到底無いけど、落ち着いた感じの宮殿だ。13時過ぎだったのに、宮殿内に入るチケットはなぜか「売り切れ」と言われた。
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5時に目が覚めて寝不足なのに随分歩いて疲れたのでアイスティーを買おうと思ってスタンドに寄ったら、財布がない! 「どうして、何で」と頭が混乱する。冷静になって考えてみたら、インフォボックス(次の写真)から居並ぶクレーンの数々を写真におさめようとした際に数秒間、レンズを覗きながら焦点を絞っていた時しか考えられない。カバンの覆いはしていたけど、チャックは開けたままだったから…。被害は80DM(¥5,000強)とクレジットカード2枚。カードはすぐに日本に電話して止めてもらった。それにしても観光客が比較的多く集まる場所とは言え、一瞬のスキを狙うスリの鮮やかな手口には、怒りを通り越して感動すらしてしまう。
東パリ駅での教訓は生かされていない。これまで何もなかった油断と、カバンを体に密着させていた安心感が油断を招いてしまった。「最初と最後に被害に遭いやすい」とも言われるが、本当かも知れない。カードが不正使用されなければ実害はそんなに無かったし、「授業料」と諦めるしかない。 -
「ヨーロッパピクニック計画〜ベルリンの壁はこうして崩壊した」
http://4travel.jp/travelogue/10216243 -
8月25日 最後の1日は中身の濃い1日
中身の濃い1日だった。
最初はメルフレ井上氏とのオフ。彼には出発前にメールでヴァンゼーYHに泊まっていること、そこに泊まり来て欲しい旨伝えていた。前夜受付に尋ねてみたら「明日は空きベッドはない」の返事。ソウル経由でフランクフルト・アム・マインに到着し、すぐ重い荷物を持って夜行でベルリンまでやって来て、YHに泊まるベッドが無いのでは気の毒だと思い、5:40に起きてSバーンでヴァンゼー駅に向かう。間もなく列車が到着したが、誰も降りて来ない。「列車に乗っていなかったのかな、ちゃんと話を詰めてなかったから仕方ないか〜」と諦めてYHに帰った。
朝食後、ロビーの隅に日本人らしき人影。しばらくして「もしかしたら井上氏かな」と思っていたら、彼の方から声を掛けてきた。泊まれるかどうか念のため受付に聞いてみたら、「多分大丈夫だけど(チェックアウト完了の)9時まで待ってくれ」の返事。結局は泊まることが出来た。皮肉なことに、もしヴァンゼー駅で会えていたら、彼はここに泊まれなかったことになる。
最初に行ったのはオリンピア・スタジアム。残念ながら工事中で中には入れなかったけど、1936年にベルリン大会が開催された。 -
その後は観光スポットの多くをめぐる百番のバスに乗って一気に旧東ベルリンのアレクサンダー広場(名物のテレビ塔がある)へ行き、目抜き通りウンターデンリンデンを通ってブランデンブルク門まで帰ってくる。かつては町全体が何かくすんだ印象だった旧東ベルリンも随分きれいになった。
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ベルリンで一番したかったのは、ブランデンブルク門をくぐること。9年前は工事中だった。今年はその壁崩壊からちょうど10年。朝鮮半島や中国・台湾の対立を除けば冷戦は終結したけど、時代は今や湾岸戦争に代表される地域紛争、旧ユーゴやルワンダに代表される民族紛争が頻発する、いわばカオスの時代にあるのではないか?
門近くの出店でミネラルを飲む。金額は3DMだったけど、取られたのは5DM。そう2DMは容器のデポジット。YHの自動販売機のジュースには0.5DMのデポジットが含まれている。そしてメーカーが違っていても、ビンは同じものが使われている。やはり環境立国ドイツらしい気配り。
(手前の線は壁の跡) -
悪夢のインフォボックスから東西ベルリン間の検問所だったチェックポイントチャーリーへ歩いて行こうとしていたが、方向音痴振りを発揮して全く違う方向へ行っていた。幸い道を尋ねた13歳の少年が約百メートルにわたって壁が残されている場所を通って連れて行ってくれた。随分遠かったけど、3人で話しながら歩くのは楽しかった。最後は招き猫をあげて別れた。
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一旦井上氏がチェックインに帰っている間に、盗難証明を貰いに警察へ。女性警察官には「ドイツ語が上手だね」と言われて調子に乗って、大屋は‘(O,ja!ではなく)ein groβes Dach’といつもの決まり文句を言ったのでした。警官がくれたのは盗難証明と言えるものではなく、届け出たことを示すような書類。「カード会社に出すような書類が欲しいんです」と言ったら、2回ほど説明してくれたけど、意味はよく分からない。食い下がろうかと思ったが、あの短い間にカードは使われていないだろう(1枚は写真付)し、届けておいたからいざとなったら証明書は発行してくれるだろう、と変に納得して警察をあとにした。
合流時間まで少し余裕があったから、ブランデンブルク門近くの森鴎外博物館へ。外から眺めていたら、たまたま日本語が流暢な館長さんが帰って来られ、「今日は閉館したんですけど、仕事があるから良かったらどうぞ」と特別に入館させて下さった。中はそんなに広くなかったけど、書斎が再現されていたり、ゆかりの品が展示されていた。新聞があったので、ここ2日間のを読ませて頂く。入館料は無料だったが、5DM置いて帰る。
さて入口近くの博物館を案内している紙には、次のようなことが鉛筆で書き加えられていた。「8/5 ここが見たくてわざわざ探してやって来たのに、閉まっていた。閉館時間が早すぎる!」。開館時間は事前にガイドブックなどで知ることが出来たはず。「自分の都合に合わせろ」はあまりにムシが良すぎる。 -
念願だったドイツ音楽のCDを買って再度行ったチャーリーのすぐ横には壁博物館がある。最後はここを訪れた。多くの写真の展示はもちろん、例えば座席にカモフラージュ
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2つの並べたトランクの中に子どもが隠れるなど、人々の「自由」への執念が感じられる展示が特に印象に残った。しかし成功した人がいる反面、失敗して殺された人もいる。
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(今は亡きロストロポーヴィッチ)
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(チェックポイント・チャーリー付近)
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彼らの墓標はブランデンブルク門付近が工事中で、少し場所が移されていた。ガンジーの展示に多くが割かれていたのは、彼も「壁」に挑戦したという意味だろうか?
壁崩壊前後の様子を記録したビデオが上映されていたのでしばらく観る。多分9年前と同じものだと思うけど、当時の驚き、感動が再び蘇った。 -
8月26日 やっぱり旅は止められない
落ち込んだ気分から一転、楽しい1日を過ごさせてくれた井上氏にお礼を言って、4日間お世話になったYHを8時過ぎに出発。
幸運にも4連泊出来たヴァンゼーYH(部屋は前半と後半で違った)について少し。スタッフがとてもフレンドリー。5回食べた朝食も豪華で、飽きないように毎日デザートやハムの組み合わせを微妙に変えてある。おばちゃんは顔を覚えてくれたのか、3日目からは黙っていてもコーヒーを用意してくれた。さり気ない気配りが嬉しい。泊まっているのは団体さんも多く、町田から来た高校生一行も泊まっていた。観光とホームステイをして9月2日に帰るそうだ。
唯一の難点はシャワー。形態もユニークで、2つの部屋の間にある。つまり隣の部屋と共用。だから椅子を下ろし(鍵の代用)忘れたら、隣からウッカリ人が入ってくる可能性もあり、また部屋からシャワールームへの鍵をかけ忘れたら、例えば夜中に隣から侵入することも可能。実際初日には、同室の人がシャワールームの中で隣室の女性!!とバッティングしそうになったそうだ。 -
(YHの写真4枚は2001年撮影)
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(YH内にも日本語が)
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それからここでも、他でも1カ所で出会ったけど、どうやらボランティアを名目に、建設現場などで不法労働をさせられている日本人が居るようだ。
出発した旧西ベルリンのテーゲル空港にまつわる話を。かつて東ドイツは西ドイツから西ベルリンへ向かうのに西ドイツの航空会社(ルフトハンザ)の運航を認めず、このためハンブルクなど旧イギリス占領地区からは英国航空が、フランクフルト・アム・マインなど旧フランス占領地区からはエールフランスが、ミュンヘンなど旧アメリカ占領地区からはパンアメリカン航空が運航していた。また航空路は3本しか設定されていなかったので、例えばミュンヘンから西ベルリンに向かうには、迂回ルートを取らざるを得なかった。「冷戦の象徴」「第3次大戦が始まるなら、ベルリンから」と言われていた、この町ならではの話ではある。そしてKLMの地上職員が子どもを連れで仕事していたのも印象的。日本ではまず考えられない。それからツォー駅に向かうSバーンでは検札に遭遇した。車内で検札に遭遇するのは多分初めてのこと。もちろんチケットは持っていた。
アムステルダムでは、最後まで残った500FF(約1万円)でハムとチーズなど珍しく大量の買い物をする。重たかった〜。通貨統合の前段階として、どこの国でも値段はユーロと二本立てで書かれている。
2時間遅れの出発となった機中では、日記の整理や「トムとジェリー」のビデオを観ながら過ごす。機内食では、旅行中1回も日本食を食べなかったので、敢えて和食を選ばず、カップヌードルも食べなかった。
今回の旅も本当に充実し、楽しいものだった。ちょっと予定外の出来事もあったけど、自分が事前に考えていたことは全て実行できた。日本ではあまり存在感もなくパッとしない人間なのに、旅行に出たらどうしてこんなに大胆になり、ついているのだろうか? 妻布巾には「もう長期の旅行は最後にします」と約束した(させられた?)けど、やっぱり旅行は止められないナ〜!(完)
(念願叶ったブランデンブルク門前で) -
このときの訪問に大きな示唆を与えてくれたAERA1990年5月21日号。
左上の写真はグーベン、グービン市役所の写真。下はフランクフルト・アン・デア・オーデルの町並み。 -
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