2007/05/06 - 2007/05/15
927位(同エリア986件中)
明石DSさん
中国が建てた記念碑
県級重点文物保護単位
テン西抗日戦争松山戦役
主戦場遺址之一
■拉孟守備隊:陣地跡へ
石碑の表側には
「県級重点文物保護単位 テン西抗日戦争松山戦役主戦場遺址之一」
裏には・・・。
「掃蕩日軍最後拠点 1944年8月20日中国遠征軍第8軍が松山山頂の陣地を攻略し、それに乗じて黄家水井、黄土坡,諸拠点など日本軍の堅固な陣地を攻略し、9月7日馬鹿塘陣地に肉弾攻撃をし制圧した」・・・というようなことが書かれている。
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拉孟守備隊が昭和19年6月2日〜9月7日までの98日間死守した戦場の風景だ。
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これが拉孟守備隊最後の砦、横股陣地跡
中国が建立した主戦場の碑があり
左横の古木は砲弾跡が炭化して今にその姿を残している -
横股陣地跡 からの風景
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「戦跡に祈る」牧野弘道(著)に挿入されている写真とほぼ同じ場所で写していた。
帰国後に発売されたこの本を見て、ここが最後の砦だったことが分かった
この木の炭化も、その時は気が付かなかった
牧野氏は平成17年にこの地を訪ねている -
横股陣地付近の風景:日本のタバコ
「誰か故郷を想わざる」を何度も口ずさんだ
魂はきっと故国日本に戻っているだろうが -
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帰国後「戦跡に祈る」を見て分かったのだが、この地が拉孟守備隊最後の砦となった横股陣地跡だった。本に写真が挿入されていて確認できた。古木に砲弾の跡というのも、今、自分が写してきた写真を見て「ホンマや、これが砲弾の跡やったんか」・・・と、頷いている。
そこは見晴らしの良い場所で直ぐ下に小さな部落があった。
ちょうどその時、碑のある場所に、近くの農家の女性が子豚連れで豚の散歩?に来ていた。砦跡と言われても道沿いに碑があるだけで、どこに陣地を構築していたのか分からないが、本にも「陣地の跡はごく狭く100メートルも行かない内に段々畑になって、その先は水無川の谷底である」となっている。
きっとあの小さな部落のあったところが陣地だったのかも知れない。私も此処で車を降り、段従虹から離れ、そこらをぶらつきタバコに火をつけて何ヶ所かに供えた。そして「誰か故郷を想わざる」を口ずさむのだった。きっと遠くで農作業をしていた連中に何か唸っているのは聞こえたかもしれない。
63年前の9月7日、真鍋大尉以下、この横股陣地から最後の突撃を行ったのを帰国後知る。段々畑がどこまでも続く山間である。この辺もタバコの葉を栽培していた。土質は粘土質なのか?畑の土とは言えず、いかにも悪そうだった。
この辺りの風景をまぶたに焼き付けてゆっくりと車に戻り、出発となった。 -
大ya口(Dayakou)村に建つ記念碑
楊家懐さん(65歳)の案内してくれた
■関山陣地跡
段従虹との意志相通も私の中国語に限界があり、ちょっと複雑なことは会話にならない。だから詳しくは聞けず、拉孟の戦跡はもう此処だけなのかと思っていたが、直ぐに又戦跡があった。道沿いの集落の傍にその碑は忽然と建っていた。
段従虹が車を停めた場所に碑があり、「松山戦役遺址」と書いてあった。
そして、ちょうどその場に村の年配の男の人がおり、段従虹が聞けば戦跡に案内するという。ガイドとして、有料のようだったが段従虹の口ぶりでは「20元くらい?」と、その時は言っていた。 -
ここから車で陣地跡に向かう
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ここも帰国後「戦跡に祈る」や中国のWeb頁を見て多くが分かり、全容が把握できるようになった。
拉孟守備隊の戦いと言っても、拉孟というのは小さな集落の名前で、さっき昼食を食べた場所だと思うが、中国はここでの戦いを「松山戦役」と呼んでいる。
松山は今も松の林に覆われていた。
この辺りに日本軍は陣地を各所に構築し、最後は1280名で6月2日からの攻撃に対抗したのだ。そして私がガイドの楊家懐さん65歳に案内してもらったのは、そんなに離れていないが2,3ヶ所だったと思う。
爆破跡は主陣地の最高地点にあった関山陣地跡のようだ。(戦跡に祈るより)
日本軍が付けた関山・音部山・西山という陣地の呼称は、占領当時の中隊長の名前を付けたそうである。池のほとりに結構大きな碑が建っていた。
「民国三十三年十二月建立」というのは戦闘直後の1944年だそうである。その碑を額縁の中に挟みこんで、2004年10月20日建立で、龍陵県人民政府が立派に建て直している。 -
支那遠征軍第百三師戦没者の慰霊碑:1944年
2004年:龍陵県人民政府が修復している -
慰霊碑から、こんな道を歩いて陣地に向かう
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15〜20分くらい歩いたように思う
結構、息が切れた。
案内してくれた楊家懐さん(65歳)
段従虹も来たが遅れていた -
こういった碑があちこちにあった
この一帯に音部山・関山・西山・松山の陣地があったのだと思う -
日本軍兵士が掘った交通壕(散兵壕)が縦横に残っていた
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この壕の中で冷たい雨に打たれながら故郷を想い
「誰か故郷を想わざる」を歌い、気力を振り絞って
彼らは見事に戦い抜いたのだ -
■陣地跡には交通壕あとが縦横に残っていた
「戦跡に祈る」の著者、牧野弘道氏は、この先の塹壕跡を見たかったようだが、時間がなくて登れず残念だったと書いている。私は帰国後それを読み、「私は見て来たぞ、行って来たぞ・・」・・と、内心優越感に浸っている。
そこには、63年前の激戦跡とは思えないほど、縦横に塹壕、散兵壕・掩蔽壕・交通壕のようなものが生々しく残っていた。
そして遠征軍工兵が坑道を百余米掘り進め、一箇所ではNTT火薬70箱、第二の場所では50箱を爆破させ一瞬にして陣地は吹き飛んだ。そして辻義夫大尉以下の兵士の大半が戦死した。
そんな関山陣地の大きな陥没跡があった。遺骨がこの場所にまだまだ散らばってあるのかも知れない。
陣地と陣地を結んでいたのか、その交通壕跡の延々と続く風景に何とも言えない気持ちになった。楊家懐さんにも山に入る時に、山火事を防ぐ為にタバコは吸わないように言われた。だから、ここでは持ってきたタバコに火をつけず、そっと交通壕の中に置いた。爆破跡を記す碑の上にもタバコを置いた。
そして「誰か故郷を想わざる」を口ずさみながら歩いた。この壕の中で確実に多くの日本軍兵士が戦死したのだ。それを今の日本人の多くは知らない。何時の日にか、きっとここ雲南の各地で戦い亡くなった兵士たちが「英雄たちの戦い」として日本人の誰しもが知る、そんな日本になることを祈る。ここは勇者たちの眠る地であった。
あのどちらかの爆破で出来た陥没跡に辻大尉は眠っているの。
雨が降り出し、そして時間もどんどん経過し、ゆっくりとした気持ちで長く物思いに耽ることは出来ず帰り道を急いだ。 -
最高地点・関山陣地爆破跡の碑
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1944年8月上旬、中国遠征軍第八軍工兵隊が
100米の坑道を掘り、直接日本軍の直下にTNT火薬
50箱を置き8月20日9時爆破させ守備兵を壊滅させた -
-
爆破跡を下から写す。巨大な陥没跡だった
まさにここが戦場であり、この地に日本軍兵士は眠る -
交通壕をじっと見ていると・・・。
この壕を行き来する兵士の姿が想像できる -
二十歳代の若者も、三十、四十のおっちゃん兵士も
死ぬまで、ここで戦った。
そりゃあ、誰だって今の時代を選ぶだろうが
ここで戦った兵士のことは日本という国がある限り
歴史に残り、日本人の胸を打ち、忘れられることはない -
半分くらい埋まっている壕が多いが
今でもそのまま使用可能なくらい深い壕も残っている -
ゆっくり見て回りたかったが
こんな場所に来れたことも幸運で、時間に余裕なく
楊家懐さんが言っていたが
「先月にも日本人が来て案内した・・・」とのこと
この戦いのことを多くの日本人が知り
ますますこの地を訪れる日本人が増えることを祈る -
この池のほとりまで車で来た
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こんな山深くの陣地で日々をどう過ごしたのだろうか
楽しみは何だったのだろう?
故郷を想い、家族を想い・・・。
ホンマに良く戦い、子孫に勇気や自信を遺して頂き感謝しかない。
今の日本は英霊の方々が期待した日本と違うと思いますが
次代を担う日本人は、
必ず過去を再評価し誇りを取り戻す時が来ると信じています
あなた方の死は決して無駄な死ではありません。
子々孫々、永遠に日本人に勇気を与え続けてくれます
心からご冥福を祈ります。 -
拉孟を後にし龍陵に向かう
池のほとりに車を停めて山の中を歩いたので・・・・。
段従虹は遅れて戻ってきた。
楊家懐さん聞けば、この村の名前は大ya口(Dayakou)村だそうだ。中国のWeb頁の松山戦役にもその名前は出ている。
昔からこの場所にあったのかも知れない。楊家懐さんは65歳で、当時は1歳だったという。きっと両親はその状況を知っているのだろう・・・けど。
案内を終わり、ニコニコ顔でガイドしてくれていたが、きっちり料金も取るガイドだったようだ。20元なんてとんでもないというような顔をされた。1時間も案内してもらっていないし、相場は幾らぐらいなのか?分からない。
嘘か真か知らないが、彼が言うには先月にもこの地に日本人が来て案内し、その時は沢山の謝礼をもらったようだった。
私は貧乏旅行者だから沢山のガイド料は出せないと言って50元を出した。楊家懐さんは100元札を指差してそっちをくれと言うが、「ダメだ金ない」と断った。偶然出会い、案内してもらったことは本当にありがたく好運だったと思うし、金に換えればその価値は多大だと思うけど、払う気持ちにはなれなかった。
後に続く日本人の為にも、ガイド料を彼の言い値で払いたくなかった。
すでに3時近くになっていたと思う。まだ先は長いのに段従虹も慌てていないようだから大丈夫なんだろうけど・・・。
これで拉孟の戦跡を離れ、次の目的地、龍陵に向かった。途中、お茶畑が多くあるのを段従虹が教えてくれた。雨が降ったが道も良く順調に走る。龍陵市に入る手前に騰越への標識があり、その直ぐ向こうに龍陵市があった。 -
今はのどかな田園風景が広がっている・・・が
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拉孟に心を残こしながら龍陵に向かう
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テン緬公路を真っ直ぐ走ると芒市に向かう -
芒市・騰越(騰衝)の案内標識があった。
龍陵に着く -
龍陵のメーンストリート
交通量はホンマ少ない
■龍陵に到着:午後4時10分
龍陵に着く頃は雨も上がり晴れ間の見える天気になっていた。
「龍陵会戦」古山高麗雄(著)を読んでいたが戦陣の配置図も街の地図もないので、いざ龍陵の街に立っても見当がつかず、とりあえず段従虹に車を停めてもらい「しばらくここで待ってて・・・」と言って歩き出した。
昔の街並みはやはり廃墟と化したのか、今の龍陵の街は整然と整備され道路も広い。でもその道を通る車は“あれっ”と言うくらい少ない。この地の産業は何なのだろうか?
街を散策する。周囲には山並みが見え、ここも盆地なのだろう。
路地に入れば勾配もあり、昔ながらのレンガの壁も残っていた。これが63年前にもあったのだろうか?そして、この道を日本軍兵士も歩いたのだろうか?そんなことを考えながら、そして又いつものように「誰か故郷を想わざる」を何度も復唱しながら歩いていた。
そして本屋を探して・・・地図を手に入れたかった。中国は詳細な県や市や町の地図は機密に属するのか?観光地図のようなものは結構あるが、普通の地図は売っていない。保山でも売ってなかった。あとで段従虹と車で本屋を聞いて行ったが、龍陵の地図は観光用もなかった。
又、ネットで探すしかない。今のところ、街全体の様子が分からない。帰国後「戦跡に祈る」を読めば、この龍陵の会戦というのは、解囲作戦だったとのこと。ようするに支那遠征軍に包囲されたのを解く為の戦いを繰り返したようだ。拉孟や騰越への道を確保する為に。
高台から市中を見晴らすことも出来ず、街中を歩いた。夕方だったが人通りも多くなくのんびりした街の印象である。ここで日本軍は、拉孟・騰越と同じように凄惨な死闘を続けていたのか?もう一度「龍陵会戦」を読み返してここでの戦いの様子を振り返ろうと思う。
車に戻る途中、大通りの分離帯でタバコを供えた。ここなら英霊も気付いてくれるだろう。久しぶりの日本のタバコの味は如何なものか?少なすぎるのは申し訳ないが・・・。当時はセブンスターなんて銘柄はなかったから気がつかないかも・・・そんな心配は無用、すべてお見通しだろう。 -
戦後に復興されたであろう街並みは、整然としているが
今現在の中心部と見られるところは、何故か?静かだ。 -
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街の看板に龍陵の文字がある
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ここは龍陵です
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龍陵の路地裏を歩いた
もしかしたら63年前に日本軍兵士がこの道を歩いたのかも・・・。 -
そんな感傷に耽りながら、「誰か故郷を想わざる」を歌いながら -
セブンスター発見!
何で龍陵の街のこんなところに日本のタバコが??
しらばっくれてます -
この植え込みに置きました
きっと魂は日本に帰っているでしょうが
靖国神社の境内に、桜の花となって -
龍陵の本屋には、龍陵市の地図はなかった
観光用の地図もなかったです -
この右手に抗日記念館を見つける
段従虹に停まってもらって行きました -
龍陵抗日戦争紀念館
■龍陵抗日紀念館
車に戻って、本屋を探し見つけたが地図は売っていなく、さあ龍陵ともおさらばして、いよいよ騰越に向かおうとした通りすがりの道沿いに「抗日記念館」なるものを私が見つけた。慌てて、車を引き返してもらった。
もうちょとで見逃して行ってしまう所だった。段従虹も全然知らなかったようだ。
この記念館は2004年くらいに作られたようだ。記念館の入り口付近に赤いリボンを掛けた「愛国主義教育基地」という看板が目に付いた。館内は写真撮影が駄目なので写真はないが、「菊池大隊人員」という写真が展示されていた。
騰越でもそうだったが、とにかく日本軍人の記念写真なるものはみんな姿勢がよく男前でかっこいいものばかりだった。拉孟の守備隊長:金光恵次郎少佐の写真もあった。
日本を貶めようとの思惑がありありの展示内容だが、あんなかっこいい日本軍人の写真だけはその思惑に反するのでは?と、思うのだが、展示している。いくら鬼子兵と書いても写真の表情を見れば誰しもその内面まで想像できる。
堂々として、みんなかっこいい。まあ焼け焦げた戦死体や、捕虜の写真や、慰安婦の写真は此処にもあったが、使いまわしばかりであり、真相は分からない。
中国人ならいざ知らず、これらの展示を見ても、日本人なら、その写真の信憑性をまず疑うことが父祖への礼儀だと信じる。頭からそれを本物だと認めることは、先人を冒涜し辱めることだ。
よしんば本物であっても、その奥に隠された事情までを調べ、真実を探ることが後に続く日本人の勤めである。父祖をただ彼らの宣伝にのって今の価値観で安易に批判したり、間違っても侮辱するなんてことだけはするな。
外にはテン緬公路(ビルマ公路)を作った時、地面を転がして慣らした石のローラー工具が二つあった。テン緬公路は1937年12月に工事を始め、1938年8月31日に開通した。段従虹も言っていたが9ヶ月の突貫工事で成し遂げたそうだ。
それに日本軍のトーチカもあった。中に入って見たけど残念ながら日本語の文字はなかった。弾痕も分からなかった。
旅行前に「龍陵会戦」を読んだはずなのに、拉孟と騰越で私の頭は限界で、龍陵会戦の内容は記憶にないままここに来た。当時の戦いに関する戦跡は分からず、この記念館のみだった。
周囲の山々もきっと戦場だったのだろうし、この町のどこかに陣地があり日本軍兵士の生活もあったのだろうが詳細は分からず。ただ、龍陵に来てその場に立ち空気を吸った。
一段落してからもう一度「龍陵会戦」古山高麗雄(著)を読むつもりだ・・・この地を思い出しながら。 -
日本軍のトーチカ
日本語の文字も弾痕も何故か?見当たらず -
龍陵抗日戦争紀念館
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左へ行けば騰越78キロ
龍陵から騰越に行くぞ! -
■さあ騰越に向かう
騰龍公路と段従虹は言っていたが、龍陵から騰越に至る道は凄まじい道だった。
日本のタクシー運転手なら嫌がるだろうし特別料金の加算もあって当たり前の道だった。これこそ4WDで走るべき道だろう、そんな峠越えの峻険なる悪路が続いた。
途中、片側通行の吊橋に出た。騰龍橋、制限速度5キロ/時となっている。 -
写真では分からないが龍陵〜騰越までの
この道は、ホンマ、泥濘、悪路、そんな道だった -
泥濘の道が続く
■悪路を悪戦苦闘
道沿いに石屋が並ぶ、墓石のようだが日本と形は違い規模も大きい。
いろんな研磨道具で削っているが石粉がもうもうと舞い上がるのに、簡単にタオルでマスク代わりの石工が黙々と削っていた。石も削るが身体も削りながらの作業に違いない。段従虹も言っていたがこの辺りは貧しい地域だそうだ。
そして、とにかく悪路には参った。龍陵から騰越まで78キロの道のりだが、そのほとんどが舗装のない泥濘道か砂利道だった。時々「ゴッツ、ゴッツ」と大きな音が車の底から聞こえるので、最初は小石が車の底に跳ね上がっているのかと思ったが、それだけではなくどこかが悪くなったようだった。
途中、車を停めて段従虹が外に出て車の下を調べていたが、見て分からないようだった。あまりそんな変な音がするので、お互い黙ってしまったら段従虹が「途中で車が動かなくなっても、この辺の警察は良いから大丈夫・・・」と、笑いながら言っていた。
私も、もしかしたら途中で動かなくなるかも知れないと本気で思った。そのくらい頻繁に変な音がして足元が響く。交通量はほとんどない。車との行き違いもめったにない道である。こんな道だが、段従虹は仕事で先月もこの道を走ったそうだ・・・。
満洲でも悪路の中をタクシーで走ったが、その時は平地であったし、こんなにも距離はなかった。今回がなんといっても初めての経験だった。標高も2000メートルくらいあるのではと思うような急峻な峠を何度か上り下りし、カーブばかりの道が延々と続く。
途中、「後、どのくらい?」と、おそるおそる聞いたら、まだその時は残り半分くらいだった。雨も降ったりやんだり、スコールを思わせる豪雨もあった。標高が高いのか窓を少し開けると冷たい雨だということが実感できる。小説にしばしばあったように“激しく冷たい雨” なのである。
雨が降ってなくても泥濘のような道なのに。雨が降り続けば走行不能になりそうだった。そんな悪路を段従虹は右に左にじぐざく運転をしながらシフトレバーを頻繁にチェンジしトロトロ走る。
まあ「車が壊れてもそれも旅だ、何とかなるだろうし面白いかも・・・」と思いながらも神経は車の音に集中していた。包車の費用も今日の行程だけでも、いやこの78キロの道だけでもそれだけ支払う価値があるなあ、こんな車が壊れても当然のような道だけど、この辺りのタクシー運転手は慣れているのか、当たり前のように「行ける」と言ってくれるのである。
日本の綺麗な舗装道路ばかりしか運転しない私にとって内心“凄いなあ”と感謝しながら横に座っていた。実際、やはり車のどこかに修理が必要になり、翌日、主人が保山に帰る時に自分の車と換えて乗って帰った。 -
騰龍大橋を渡る
-
交代で一台しか通れない吊り橋:制限速度5キロ/時
-
道路沿いに石屋が多くなって来た
-
車の異常を感じて、路肩に寄せ点検す
何時車がぶっ壊れて停まってしまう・・・かと
ハラハラしながら乗っていた -
石職人は粉塵舞い散る中
石を削り身も削る -
-
写真は何を写せるのか?
泥濘の道は何処に写っている? -
人生56年、こんな悪路を車で走り切ったのは初だ
・・・と、いうのに
そんな道が写真には写っていない
右に左にジグザグ走行しながら
チェンジを頻繁に変えながら・・・。
あの悪路は何処に行った? -
2000米を越えるであろう峠道
ほとんど車の通行もなく
この道を走りきってくれただけで
1000元払う価値があると
その時はホンマにそう思った
それほど凄い道だった
こんな道を走れば車が壊れると思った
嫌な顔一つせず黙々と走ってくれた
雨季になってもここを車で走れるのだろうか?
走る価値あり、旅の価値あり -
来鳳山が見えた!
夕暮れの彼方にこんもりした山が見えた
段従虹が「あれが来鳳山です」と教えてくれた
とうとう来たぞって感無量になった
■騰越(騰衝)に着く
78キロの悪路を3時間近くかかってようやく無事に終焉を迎え、騰越から恵人橋へ続く道に合流した。
今朝8時に出発して、テン緬公路をひた走り怒江が見えた時は感激した。そして紅旗橋を渡って怒江の西岸に出て直ぐに恵通橋があり、そのまま道沿いを上がると拉孟の戦跡がある。
そして、龍陵から騰越へ着く頃には8時を過ぎた。それまで明るかった景色も薄暗くなって来たが、夕闇に霞む少し前、明るさが若干まだ残る時、段従虹があれが来鳳山だと教えてくれた。私の中では騰越の戦いの象徴ともなっていた来鳳山が夕暮れ遠くに見えた時、「とうとう来たぞ・・・」と感激で一杯になった。
騰越でのホテルは「騰衝錦程大酒店」一泊190元(3040円朝食付き)。私の予想通り市内の中心から外れて開発区に新しく建ったホテルだった。新しいホテルで綺麗だが、私にはそんなことは二の次で、がっかりだが仕方がない。明日又9時に迎えに来てもらう約束をして段従虹と別れた。
龍陵から騰越に向かう悪路の途中、ご主人から携帯に何度も電話が掛かっていた。車の調子が悪いこと、修理が必要なことも言っていたようだ。主人は「無理せずゆっくり来いよ」と言っていたらしい。段従虹は、その主人の宿泊するホテルに行った。
フロントで雲南旅行社で予約済みだと印刷した紙を見せたら、保山の時と違い連絡は来ていたようだった。部屋の鍵をもらったら服務員の若い男性が私のたった一つのリュックを担ぎ部屋まで案内してくれた。
窓から右手にやや遠いが来鳳山が見えるのだけが嬉しかった。頂上に出来ている塔がライトアップされて輝いていた。
チップを10元渡し、まず騰越の地図が有るか?と聞いたら「有る5元だ」と言うので早速5元を渡して部屋に持って来てもらった。そこで直ぐにその地図を広げて、自分がネットの中で見つけて印刷して持って来た63年前の騰越の簡単な騰越城付近図と比べながら、若い彼にいろいろ矢継ぎ早に質問した。
「飲馬水河は、今もこのように流れているのか?」「この満金色というのは今もあるのか?」「英国領事館は?」・・・とか、
まだ市内の中心部に行っていないので、1キロ四方の城壁だった騰越城が、この今の地図のどの辺りになるのか?全くその時点では分からなかった。飲馬水河は今も有るというので、まあ大体の見当はつくだろうと思うが。
今までの中国での旅の経験から思うのは、中国人に地図を見せても中々的確にその地図を読み取って答えてくれる者は居ない。見慣れていないというのか?見れないというのか?見たことないというのか?よく分からないが・・・まず、あまり期待できない。
9時頃になっていたが、雨の中を街中に行くことにした。フロントでタクシーを呼んでもらい、何せ、町外れも良いとことでホテルの前の広い道も、この時間、車も通らずタクシーも見当たらない。椅子に座って待っていたら直ぐに来た。
■騰越市中・文星楼へ行く
行く先は「文星楼」・・・昔の城壁にあった門のようなもので騰越の象徴になっているようだったから・・・。
市内に近付いた頃、椅子に折りたたみ傘を置いたままタクシーに乗ったことに気付いた。今更戻るのも面倒だけど雨の量も多く、運ちゃんに頼んで先に笠を買いに行った。13元で笠を買う。
雨、夜の9時過ぎの文星楼周辺、この辺は賑やかな場所から少し北に外れた場所であることは後から分かったが、やはり人気は少なかった。昼間なら歩行者天国のような左右に店が居並ぶ楼門と楼門を結ぶ道を歩いたが、ほとんど通行人もなく北の端まで行かずに引き返した。
またその道を一人「誰か故郷を想わざる」口ずさみ感傷に耽りながら。これが俺の旅っていうものか・・・と。
直ぐ近くの露店で晩飯に餃子と何かを食ったけどもはや忘れた。夜も更けたので、又その付近で的士(タクシー)に乗り騰衝錦程大酒店に戻る。10元だ。
忘れた傘は、そのまま椅子にあった。
ホンマに、ホンマに気合の入った今日の一日だった。
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