2007/05/06 - 2007/05/15
959位(同エリア1018件中)
明石DSさん
明和大酒店の食堂
4日目:保山から拉孟・龍陵・騰越へ
5月9日(水)晴れたり曇ったり、雨もあった
2007.平成19年5月9日(水)
■さあ、いざ出発
今日も朝は6時半ごろに目が覚め、シャワーを浴び出発の準備に掛かる。
保山での滞在は昨日の午後からなので丸一日もなく、いささかあっけないが、戦跡を巡るということでは、昨日から自分の気持ちの中で、すでに始まっている。
そして、今日の騰越までの道程は、いよいよ佳境に入るので朝から気合十分だ。
バイキングの朝食に珍しく麺があり、それを頼んで食べた。見た目から辛そうな麺だったが、味はそれほど激辛でもなく美味しかった。
部屋に戻り、いつものようにこれでもかというくらい綺麗にして退房をした。
段従虹が約束の時間にやってきた。8時出発である。
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珍しく、朝から面があった。味は良かった。
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さあ今日も気合を入れて退房をする
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一路、拉孟へ、
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サラバ保山
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保山市から直ぐに高速道路に入った
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高速からの景色
■テン緬公路を走る
保山市を出て直ぐに高速道路に入った。途中、何処からだったか分からないが、気付かないまま高速道路も終わり一般道へ出ていた。
そこもすでにテン緬公路だろうと思うが、舗装道路で快調に進んだ。
ガソリンスタンドで燃料を補給し、いよいよそのあたりから道はそれらしき雰囲気になっていった。 -
高速からの景色
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いよいよテン緬公路に入ったようだ
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給油をして拉孟・龍陵・騰越へ
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テン緬公路を行く
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テン緬公路を走る
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この辺りは貧しい地域で、農業も山の斜面まで利用した段々畑が多く
農作業も過酷なわりに収入も少ないそうだ
段従虹は、これがテン緬公路だと言っていた。
昔のままということだが、開通当初の古い映像を見たら今の道のように小石の敷き詰められた道ではないようだったが、いずれにしても小石の敷き詰めた今のテン緬公路も段従虹が知る限りの昔のままなのだろう。
いくつもの村々、そして峠を越えながら標高は高くなって行くようだった。それにつれて畑の風景も変わり、周囲の風景もそれなりに様変わりする。
水が豊富に供給できるところは段々畑の水田があり、水が少なく、見るからに土地の色が赤茶けたり、山の斜面を耕しているようなところには「火考烟(カオイエン)=タバコ」が栽培されている。
段従虹は元はといえば農民だから「あれは何、これは何」と説明してくれるのだが、私に分かったのは、タバコと、お茶と、水田、サトウキビ、とうもろこし、バナナ・・・で、他は分からない。
土地の赤茶けたところなどではタバコの栽培が一番多かったように感じた。見渡す限り山のてっぺんまで、そして斜面全部耕せるところは畑にしているという風景には驚くが、それだけ農作業も大変で収入も少ない農民の生活の厳しさを思う。 -
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随分標高が高くなっているのだろう
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道も山の斜面を削り取って作ってある
ガードレールも無く、路肩からづり落ちれば一巻の終わり -
スリルありまっせ、この道を走るのは
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テン緬公路
でもその時は不思議と恐怖感はなかった
今思い出したり、写真を見て、冷や汗かいてます -
テン緬公路
もう直ぐ怒江が見えるぞ! -
怒江
怒江が見えた時は感動した、これが怒江だ! -
この対岸の山に日本軍は陣地を構えていた。
拉孟守備隊である -
まだ車は怒江の東側を走っている
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バナナが多くあった
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怒江に向かって下って行く
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橋の手前にトイレと店があった
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前方が橋で、傍に軍の検問所がある
■怒江に架かる紅旗橋
怒江を右手に見ながら山の斜面に作られたテン緬公路を下って行くと、そこには怒江が目の前に流れていた。そして、昔の地図にもその名前が表記された恵通橋に出る。
・・・と、思っていたが、そこれは恵通橋ではなかった。今は恵通橋は、新しい橋の上流に遺跡として残っている。
新しい橋は「紅旗橋」と言う。恵通橋の下流、4,5百メートルの場所に架かっており人民解放軍が橋を警備していた。
ちょうど怒江の手前にトイレと店屋があり、段従虹が橋の3百メートルくらいで停めた。その時はまだ私はその橋が恵通橋だと思っており、トイレに行ったあと、段従虹に「ここから橋まで写真を撮りながら歩いて行って、歩いて渡るから・・・」と、ぶらぶら歩きながら橋に近付いた。首からデジカメをぶら下げて・・・。
もう少しで橋に着くと思っていら、橋の手前に解放軍の検問所があり呼び止められた。
隊長以下5,6人が軍服姿で居た。隊長といっても20代後半か30代前半だと思うけど、椅子にふんぞりかえって部下の前で思い切りでかい態度をしてこっちをにらんでいた。
何せ、このテン緬公路は今は交通量は激減し、めったに行き交う車もなく、ホンマ少ない。そんな道をボソボソ歩き、橋に近付いたところで呼び止められ矢継ぎ早に質問された。・・・確かに怪しいには違いない。
「身分証は?」
「何しに来た?」
・・・というような。
私は「恵通橋の写真を取りに来た。」「日本人だ」「63年前に日本と国民党が戦った場所を見に来た」と下手な中国語で返事をした。
「日本人?」と二度ほど問い直されたような気がする。「我是日本人・ウオシィリーベンレン」という発音が悪かったのかも知れない。
隊長と思われる者が、「パスポートを見せろ」「この橋の写真は駄目だ」と言いながら珍しいのか?執拗にパラパラとパスポートをめくっていた。
写真は駄目と言われて一瞬「ここで写した写真を消去しろ・・・」と言われないかと心配した。というのも、一枚だけ消去するつもりが上手く行かず全部消してしまったら・・・と、不安だったから。
何せ、この一台のカメラ、一枚のメモリーが全てなので、限定消去に失敗しすれば今までの写真が“無”に帰すからだ。
でも、このふんぞり返った隊長も、部下の前で偉そうにするのが仕事と勘違いしているだけで、本当は純朴な青年なのかも知れない。写真のことは詮索されずに済んだ。
そして周囲に居た兵隊たちが「あそこにあるのが恵通橋だ」と教えてくれた。「あれは写しても良いのか?」と聞くと、ウンと頷いていた。
その内、段従虹が車で近付いて来たので、橋の手前で再び車に乗り、紅旗橋を渡りとうとう怒江の西側に到達した。渡って右に川沿いに走ると、直ぐそこに恵通橋があった。 -
橋に近づき振り返って写真を撮る
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怒江に架かる「紅旗橋」
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怒江に架かる恵通橋:拉孟の攻防戦途中で再建されたそうだ
■恵通橋があった
ここも今日の目的の一つである、「恵通橋」を見つけた。
「しばらくここで休憩したいから・・」と言って車を降りた。鉄骨と錆びた吊橋のケーブルが昔を偲ばせる。そして橋の手前に監視所なのか小さなトーチかが残っていた。
遠征軍の作ったものだろうと思うが・・・中に入って何か文字が残っていないか?探したが見当たらず、中にも外にも銃弾の後が残っていないか?見てみたがそれもないようだった。
日本から持ってきたタバコに火をつけ、トーチカの中や石碑の傍に供えた。「戦跡に祈る」牧野弘道(著)を読むと彼も雲南の戦跡を訪れており、この恵通橋にも来ているがガイドの中国人から慰霊行為は駄目だと言われていたらしい。それは共産党のお達しに寄るらしい。
さすが共産党独裁政権の人間味のない“つまらぬ仕業”としかいえない。「知らぬことこそ恐いものはなし」・・・か。知っていたらもっと隠れてやったのかも知れない。でも、タバコに火をつけて置くのが慰霊とは見えないかも・・・。分からないかも知れないけれど。
勿論私自身、心の中には大いに慰霊という気持ちはあったが、実際のやってることは、この程度で慰霊などと言うのは、真におこがましいことは百も承知ですので、どうか勝手な振る舞いと能書きは“馬鹿に免じて”ご容赦下さい。
恥ずかしながらここでも一人悦に入り「誰か故郷を想わざる」を独唱する。もし何処かで英霊の皆さんに聞こえたなら、どうか気分を害さないように・・・。 -
支那遠征軍はこれを使って武器弾薬食料、その他を前線に運ぶ
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遺跡となった恵通橋
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紅旗橋(下流に架かる)
今もここが要衝なのか?人民解放軍が警備していた -
この橋が支那遠征軍によって再建されたというのを
この時は知らなかった。帰国後、「戦跡に祈る」を読み知る -
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・・・と、言うことは日本から持参したタバコは敵への慰霊になったのか
まあ、それも良しとしよう -
■拉孟守備隊
↓「壮烈、拉孟守備隊(楳本捨三・著)」によると・・・。
拉孟が孤立した時に三回空中から弾薬の補給を受けている。
最初の空投は6月28日。
7月24日、軍偵察機の翼の下に50キロの落下傘つきの弾薬筒(手榴弾50発、小銃2千発)二個をつるして三機の軍偵察機が、隼12機の護衛を伴い拉孟上空に飛んだ。その時の軍偵の一機であり飛行班長・小林中尉:操縦士・山田曹長
操縦士・山田曹長から小林中尉への報告
「まもなく拉孟陣地です」
「右下、あれが恵通橋です」
怒江に架かるこの恵通橋は、拉孟の攻防途中に再建され、遠征軍はこれを使って弾薬を続々と前線に送った。
小林中尉の日記によると(終戦時:大尉、生きて故国の土を踏まれた)
『松山陣地内から兵隊が飛び出してきた。上半身裸体の皮膚は赤土色。T型布板を敷くために一生懸命働いている。スコールのあとでもあり、ベタベタになって布板の設置に懸命の姿を見て、私は心から手を合わせ拝みたい気持ちに駆られた』
『・・・その時、私の印象に深く残ったものにモンペ姿の女性がまじって白い布地を振っていた姿であった。思うに慰安婦としてともに従軍していった者であろうが、やりきれない哀しさが胸を塞いだ』
兵隊たちも女も、手をちぎれるほどふり、声をあげ、感謝しているのだ。小林中尉の眼がかすみ、手袋をぬいで、いくら眼をこすっても眼がみえない。山田曹長の巧みな操縦で、地上すれすれ、高度は30メートルあるかなし、弾薬筒を二個落下する -
今は雨季前だからか?怒江の流れも穏やかだ
・・・・・・・・・
拉孟守備隊
守備隊長:金光恵次郎少佐
歩兵第113連隊の一部、400名
前線より帰還した負傷兵、300名
野砲第56連隊第3大隊、380名
シ重兵第56連隊第一中隊第一小隊:60名
第56師団衛生隊第3中隊:100名
同防疫給水部の一部:40名
総兵力:1,280名
その他、慰安婦:20名
日本人慰安婦、15名/兵士と共に最後まで戦い戦死す。或いは毒を飲んで守備隊に殉ずる。
その内の一人、菅昭子と戸山伍長は8月に入り、真鍋大尉の仲介により金光隊長に結婚の許可を願い、拉孟の陣地にて夫婦となる。菅昭子は、すでに両目を負傷により見えなくなくなっていた戸山伍長の眼となり共に戦い数日後戦死す。
朝鮮人慰安婦、5名/9月7日投降し助かる。
火器:山砲2門、速射砲2門、十榴8門
・・・・・・・・・・・・・・
この戦線に参加した連合軍、国別:イギリス・アメリカ・中国・インド・グルカ
雲南遠征軍:総兵力48,500名
火器:計441門
1280名vs48500名、比率は1対37.9倍・・・か。これで98日を防御した。無論、その武器弾薬の比較は圧倒的であり捨て身のようなものだ。
1944・昭和19年6月2日火蓋は切られる。
拉孟守備隊日誌
『6月16日、折悪しく陣地は雨季のため守備隊は泥濘化した陣中にあって敢闘し、多大なる戦果を挙ぐ。6月17,8日。昼夜の別なき攻撃をよく支え陣地を固守す』
9月6日午後7時、金光守備隊長、敵の迫撃砲弾によって致命傷を受け戦死。
夜、木下昌巳中尉(陸士59期・平成17年現在、現役で福祉団体事務局長)と亀川上等兵とS兵長の三人が、挺進隊が着用した便衣を着て草鞋を履き、横股陣地を脱出したのは、9月7日午前3時を過ぎていた。
S兵長は途中姿をくらまし敵側に投降したと思われる。復員を知り木下さんが会いたいと連絡したがS兵長は拒み続けたらしい。
木下中尉、亀川上等兵は龍陵の師団司令部に向かい、磁石を頼りに敵中をさ迷い、敵とすれ違ったり、友軍に射たれたりしながら、4日目の9月11日、友軍の第一線に辿り着き、翌12日、司令部に報告を済ませた。
1944・昭和19年9月7日、真鍋大尉以下最後の突撃を行い全員戦死す。
・・・以上、抜粋 -
怒江の西側、この辺りに日本軍の陣地があった
こんな景色のところで戦ったのだ -
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怒江の西側
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怒江の西側、この辺りに日本軍の陣地があった
こんな景色のところで戦ったのだ -
白いビニールカバーは、タバコ(火考烟)の葉を作っている
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この集落がラモウ街だと思うけど
残念ながら確認するのを忘れた -
この集落から少し登って行った場所に日本軍の陣地があった
段従虹にもここに来るまでに、拉孟という街は、今もあるのかも知れないが、その拉孟と戦いのあった拉孟は同じ場所ではないので、近くで地元の人に63年前に戦いのあった場所を聞いてくれと念を押して頼んでいた。
そして道沿いに集落があったので、何人かがたむろしていた所に車を停めて、店の前に居た男の人たちに聞いてくれた。やはり、ここは戦いのあった場所の近くのようで、戦後生まれの村人だったが直ぐにその場所を教えてくれた。それはこのままもう少し道を登って行った所のようだった。
男の人二人は私と同年輩で戦後生まれのようだった。「烟筒=yanton」という私には見慣れぬ竹の筒でタバコを吸っていた。
まあ、このあと大理に行った時、菊屋に置いてあった日本人の情報ノートに、おばちゃんから大麻(ハッシシ)150元くらいで買ったとの記述もあったから。場所によっては、何か怪しげなものも吸っているのかも?と思わせる。そんな烟筒で吸っている風景だった。 -
食堂がここにしかないとのこと
写真の奥のほう、右側に二軒あった -
ここしかないと言われ引き返した
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誰の子供なのか?店の前に座っていた
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店の中、テレビはDVDを見ていた。電波があるのか?ないのか?
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土産物用に一足15元、靴の下敷きに刺繍をする姉
場所を聞き、段従虹はすぐに分かったようだった。そして拉孟で食事するつもりだったのだが、二軒連なる食堂をすでに通り過ぎて来たが、この先に食べる場所はないと言われてUターンし、その内の一軒に入る。
「魚か?鶏か?」と彼女に聞かれ、川魚は食いたくないと瞬間思い、鶏と答えた。並んで開いている二つの食堂とも誰も客も居なく、中で “おばちゃん”が靴の下敷きの内職をしていた。その他におっさんや少年、そしてこの店のオーナーらしき女性と、子供が二人。
最初は何を注文したのか?分からなかったし、料理を始めてからも中々出来ない。
しかし出来上がりを持って来てくれて、それは一目瞭然だった。
確かに鶏一羽を潰して丸ごと鍋で野菜や何かと炒めている。足もあり、頭もあり・・・全部入っている。大皿に山盛りだった。
これは何が何でも二人で食べきれる量ではない。ボチボチ食べて三分の二は残った。段従虹もお持ち帰りは出来ないし、ここの家族の夕食になるのだろうなあ。店の人たちは漢族だということだった。ハエもやたらに多かった。
おばちゃんと料理を作っていた女性は姉妹だそうだ。「貴女ちは親子か?」と聞いたら「姉だ」と言っていた。お姉さんがずっと手を動かして内職に励んでいるのは刺繍の靴下敷きで片方が完成までに三日かかるらしい。幾ら?と聞いたら二つセットで15元と言うので、又値切って10元なら買うと言った。
そして、まだ途中の今作っているので良いから記念にそれをくれと言うと・・・。
「ダメダメ、こんな中途半端のを渡せない。向こうに貴方の足に合うのが有るからそれを渡す」
「いや、それでいいから。今、ここで作っている、それが欲しい。日本に帰ってからこれを見るたびにあなた達のことを思い出す。それでいいから」
・・・と、何度か押し問答になったが、私が頑固なので、急いで出来るだけ作ってくれた。
しばらくの休憩が終わり、拉孟、陣地跡を目指し走る。そこから直ぐのところに最初の遺跡はあった。 -
ここにも置いてあった「烟筒=yanton」
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大鍋で料理を作る妹
鶏一羽が丸ごと入っている・・・とは -
一目瞭然、足も頭も入っていた。大皿山盛り、写真で見るより多い
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ニワトリの足もそのまま食うのか?
食わずだったけど・・・・。 -
一生懸命仕上げようとしてくれた。
今、この下敷きが我が家にある -
この店で鶏を食った。味?何でこんな味なん・・・。
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この旅行記へのコメント (4)
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- こまちゃんさん 2008/12/16 22:14:50
- 中国人にも見られているんですね。
- http://www.cchere.com/article/1307681
こんなブログがありました。
「偶然」って書かれているけど、文章からはそんな気がしませんでした。
こま
- 明石DSさん からの返信 2008/12/16 22:41:41
- RE: 中国人にも見られているんですね。
- こまちゃん
教えて頂きありがとうございます。
文章の内容は良く分かりませんが、「偶然」のような気がしないと聞き
心当たりはあります。
日本に住む「拉孟・龍陵・騰越」を調べている中国人ジャーナリストと言う男性からメールが来て何度か応対しました。もしかしたら彼かもです。
こまちゃんのブログもいつも拝見しています。
定点写真は良いですね。
画家爺もシンガポールへ行かれるようですね
こまちゃんももうすぐ一時帰国とか
ご活躍を楽しみにしています。
そして又中国へお二人を訪ねて行きたいです
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- arfaさん 2007/06/16 19:31:09
- 明石DSさんこんにちは、arfaと申します。
- 戦のあったのは結構すごい山の中だったんですね。保山から龍陵は見つかりましたが拉孟陵・騰越は地図で見つけられなかったです。
インパール作戦の撤収支援ということで行われた作戦でしょうが、インパールのアラカン山脈にも匹敵するような険しい山地での戦闘はさぞ、辛いことだったろうと思います。
私も今日、アマゾンで古山高麗雄さんの3部作を注文し読んでみるつもりです。
今年のGWですから同じ頃に雲南省に行かれてて私とはまったく環境の違う旅をされてたんですね。
- 明石DSさん からの返信 2007/06/17 00:20:24
- RE: 明石DSさんこんにちは、arfaと申します。
- arfaさん
書き込みありがとうございます。
拉孟というのは、地図にはないですね。
字が違うラモウという集落が昔も今もあるようなのですが、確認できなかったです。
多分、道を聞いた集落、食事をした所がそうだと思うのですが・・・。
拉孟守備隊との戦いは、あの一帯ということで
陣地も各所に別れていたようです。
標高が1500〜2000米くらいの場所に陣地を構築していたようです。
保山からテン緬公路を走って龍陵に向かうと、まず怒江、そして恵通橋、そして拉孟守備隊の陣地跡
それから、龍陵、そのまま真っ直ぐ西に走ると日本軍の師団司令部のあった芒市に至ります。
騰越というのは騰衝(Teng Chong)zという町です
「地球の歩き方」にも紹介されています
私が日本占領時代の名前で騰越と書いていますが
騰衝という町で、地図にもあり、和順郷とか、火山が近くにあり温泉地もあるようです。
インパールの撤収支援ということもあって、孤軍奮闘、援護ナシでのほぼ全滅まで耐久戦を戦ったようです。
拉孟守備隊の交通壕・散兵壕のような壕が縦横に今も残っていました。
是非、機会があれば訪れてください。
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