2007/05/06 - 2007/05/15
959位(同エリア1018件中)
明石DSさん
しょぼいお供えですが・・・。
一応日本から持って来ました
小さな石は拉孟の陣地跡で拾った
私の土産の石です
今、我が家の仏壇に鎮座しています
5日目:騰越での一日
5月10日(木)雨のち晴れ、又雨、曇り晴れ
2007.平成19年5月10日(木)
■騰越での始まり
昨日の長旅から眼を覚まし、今日も一日が始まった。
カーテンを開けると外は雨、仕方がない。
日本から持ってきたお供えを全部だし、忘れずに持って出るように背中に背負う小さなバックに入れた。
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ホテルの部屋の窓から見える来鳳山
ホテル横に別棟で建っている酒楼(レストラン)に行き、バイキングの朝食も、もう飽きてきているので適当に饅頭とお粥を食べた。さあ準備をして出かけよう。
昨日、そして今日が今回の私の旅の「核」である。この二日間の為にはるばる日本からやって来た。
それくらい、昨日今日は集中したし充実した。その後は気合も抜けたし、集中力もなくなった。これも体力気力不足が原因なのか?それともこの二日間の思い入れが強すぎたのか?今もよく分からないが・・・。
そして、これは帰国後の反省だが、騰越のこの一日は地元のガイドを頼むべきだった。この地に強い思い入れを持って来たのなら最善を尽すべきだった。次回への教訓としよう。
旅たち前に、この地の旅行社とネットで交信できたことがある。その時、日本語ガイドは一日¥150元だと言っていた。「地球の歩き方」04〜05年版には2004年3月現在、日本語ガイドはいないと書いてあったが今は居るようだ。ここはホテルもそうだがガイド料も安い。
帰国後、「戦跡に祈る」を読み残念なことが多かった。でも欲張ってもきりが無い。
9時に段従虹が迎えに来るからと、早めに一階ロビーの椅子に座っていたら服務員が呼びに来てくれた。玄関に来ていたのに気がつかなかった。それも道理で、今日、保山に戻る主人と車を交換して、主人の車で来ていたのだ。こっちはメーターもない包車専門の車だそうだ。
ちょっとした黒塗りの高級車風だった。日本ではこれでもポンコツの部類だろうけど騰越で見れば高級車の部類だ。
今日の予定は、まず和順に行き、次に来鳳山へ、そして国殤墓園に行き、後は、一人で市中をひたすら探訪する予定だった。昨日の一日の行程で十二分に段従虹に活躍してもらったから、それ以上、求めることは最早、何も無かった -
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ホテルとは別棟の派手なレストラン
朝飯はここで食いました -
こんな食堂で・・・。
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こんなん食べました:すでに飽きています
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ピカピカのホテルだけど、開発区の外れで全く不便
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観光には不向きです -
和順の入り口
■まず、和順郷へ行く
和順郷は騰越西3キロにある、人口6000人ほどの小さな村で、華僑を送り出した町として有名らしい。私もそのつもりで、一応昔ながらの街並みを景観保存しているようなので戦跡巡りとは関係なくとりあえず見ておこうと行った。
村の前が広い駐車場になっていて、和順郷に入るのには料金50元が要る。又段従虹から携帯を借り、戻る時には電話することにし一人で入っていった。
入り口付近の建物の前に、どこかの撮影隊が来ていて、朝から撮影をしており、そのスタッフから「先生、ちょっと向こうに行って下さい・・・」と邪魔になると言われてしまった。
ちょうど此処に着いた頃には雨も上がり、ちらほら青空も見えていた。これも、私の日頃の行いが良いからなのだろう。
村の中は、普通の生活があり、派出所も学校もあり、村人が行き交っている。でも、入場料を取る観光村なのでこっちも遠慮なくデジカメのシャッターを押すことが出来るのでパチパチと写真を撮った。
和順は勾配があり山に向かって斜面になっている。
狭い路地を選びながら全体を見渡せる場所に出たいと思って上に上に登っていった。中々趣のある村だ。そりゃあ映画のロケにも使えるのだろう。
ここからは騰越市内から見る裏側の来鳳山が近くに見える。道も狭く車が入れないところも多いので、工事現場に資材を運んだり土砂を取り除いたりは今も人海戦術で、男も女も天秤棒で“もっこ”を担いでトラックの停めているところまで往復していた。 -
そりゃあ映画のロケにもそのまま使えそうだ
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趣を残す和順の家並み
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派出所もあり泥棒もあり
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和順の入り口を望む
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華僑を世界に送り出した村
今もその末裔たちが和順で暮らしている -
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和順村の上の方まで登って来た
この辺まで来ると人は少ない -
このおっちゃんが「リーベン=日本」と私に声を掛けてきた
50歳のおっちゃんと、おばちゃんは
日本人をどう思っているのか?終始にこやかだった
■リーベン
ここでも歩きながら「誰か故郷を想わざる」を歌っていたら、露店に座っていた初老の男性から「リーベン(日本)」と声が掛かった。
私の姿から日本人と思ったのか?歌を聞いてそう思ったかの?分からないが、私も立ち止まり、少し話をした。・・・と、言ってもあまり通じなかったが、歳を聞くと「50歳」と言うので私より7歳近く若い。
「昔ここで日本と遠征軍の戦いがあったから、その場所を見に来た。あなたはそれを知っているか?」と聞いたら「勿論知っている」と言うのは分かった。
日本人に対しての印象は、その顔や話し振りからも悪くはないのだろうと感じた。
狭い路地を選んで歩いているから突き当たったり、道に迷ったりしながら気が済むまで歩き回り、もういいかと思い携帯で電話をしたら段従虹はどこにも行かずに駐車場で待っているから・・・とのことだった。この和順郷には騰越という名前を掲げる店が多くあった。 -
この店です。
小売店でちょっとした食事も出来るような -
狭い路地裏を探しながら歩くのが楽しい
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映画村ではなく現実の生活の村ですが
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和順村から見た来鳳山
こんなに近いのか -
ここには騰越という文字が溢れていた
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和順を見終わって出て来たら・・・。
段従虹の「戦争記念館に行って来たか?」・・と聞かれ
行っていないと言うと案内してくれた -
和順から一旦出てきたが
又、「テン緬抗戦博物館」を見に引き返す
■和順に支那遠征軍の司令部が有った
駐車場に戻ったら、段従虹が「戦争記念館に行って来たか?」と聞くので、そんな案内があったけどまだ開いていないのか?「そっちに行く門が閉まっていたから行っていない」と言うと、そんなことはないだろうという顔をするので、それなら行って見ようと再度、和順に入って行った。
ここは華僑の故郷というだけで戦跡に関係ないと思っていたが、行って見て驚いた。関係ない場所どころか大いに関係があった場所であり見逃すことなく行けたことをホント良かったと思っている。
そこは和順郷の中にある「テン緬抗戦博物館」であり、支那遠征軍の司令部跡だった。騰越城内からたった3キロしか離れていない、こんな近い場所に遠征軍の司令部があったのだ。来鳳山からも良く見える場所でもある。
それだけ当時立て籠もっていた日本軍には、自軍陣地を守備するだけが精一杯で、圧倒的な遠征軍に対しての反撃の余力など皆無だったのだろうと思う。
ここ雲南のこういった戦争記念館は、今の共産党の戦いの歴史ではなく、戦後の国内戦争で台湾に追いやれた国民党軍が戦った歴史であり、中共政府としては痛し痒しであろう。この博物館に掲げている額も、最近、中国本土に里帰りし話題になった台湾国民党の“連戦”が揮毫したものだった。
そして、この博物館にも日本軍兵士の写真がいくつか展示されていた。
騰越守備隊長:蔵重康美大佐もあった。来鳳山拠点の鬼子兵と説明する写真もあった。侵騰日本軍憲兵隊と書かれた14名の記念写真も展示していた。でもこれらの写真は、中国兵の写真より贔屓目なのか群を抜いてみんなかっこよく、憲兵隊員の記念写真も全員笑みを持って尚且つ堂々とし、惚れ惚れする写真ばかりである。
ここには日本軍兵士の葉書や日本から送られてきた手紙などがケースに入って展示されていたが、字が小さかったり、薄くなっていたりで判読が難しかった。手にとって読んで見たいものばかりだが・・・。
ここなのか、後から行った国殤墓園の展示館だったが、定かでないが日本軍の鉄兜も山のように無造作に積まれていた、その中には頭に銃弾を受けたのだろう、頭部に穴が開いているのも多かった。段従虹のお陰でゆっくりと見ることが出来、車に戻った。 -
テン緬抗戦博物館
和順に観光に行った日本人は必ず行くべし -
支那遠征軍司令部跡
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米軍のジープ
支那遠征軍は国民党軍とは全く異質だ
米英軍の武器・装備に訓練
そして米英空軍の援護を受けた
強力なる連合軍であった -
遠征軍第二十集団軍司令部旧址
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司令部から外を見る
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国殤墓園の片隅に作られた日本軍兵士を祀る碑
■国殤墓園へ行く
和順から市内に戻る方向に有る。門票を20元で買い中に入った。ここに日本軍の一番偉い兵士の墓があると段従虹がそこまで案内してくれた。それは広い墓苑敷地の片隅にあった。
一兵士の墓ではなく、日本軍兵士を祀る塚だった。だがその記念碑に書かれているのは「倭塚」であり李根源が書いた文字だそうだ。
李根源(1879年〜1965年)は、日本に留学し陸士9期を卒業した後、雲南陸軍講武堂(軍事学校)の校長になっている。
雲南での辛亥革命
・・・・・・・・・・以下、参照
1911年10月30日に昆明で武装蜂起(昆明辛亥重九起義)を敢行。革命派の武装蜂起は成功し、1911年11月1日、昆明・五華山で”大中華国雲南軍都督府”が樹立され、蔡鍔が雲南軍都督に推挙され、李根源は参議院院長と軍政部総長を兼務して就任した。こうして1659年以来の清王朝の雲南に対する252年に及ぶ封建専制統治が終了する事となった。
・・・・・・・・・・
日本の陸士出身者だが、敵を慰霊するのにも「倭塚」との蔑称を使うところに、中国人との文化の違いを感じる。「日本塚」「大和塚」とは書けないのだろう。そして、それは入り口には近かったが、片隅にひっそりとあった。ここも段従虹に教えてもらわなければ気付かず通り過ぎたと思う。
そこで、まず日本の飴と森永のビスケット、タバコ、を置き「般若心経」を唱え、「誰か故郷を想わざる」を歌い手を合わせた。
この墓苑が作られたのは「民国34年4月」1945年であり4月ということはまだ大東亜戦争の終結前である。当時は無論兵士の慰霊と言うことで作られ、日本軍兵士の「倭塚」も敵に弔意を示すという気持ちがあったのだろう。
蒋介石(1887年〜1975年)
本殿の正面に「碧血千秋」と刻まれた石碑がはめ込められていた。・・・と、言うのは「戦跡に祈る」に書いてあり、騰越で私は気付かなかったが写し捲くった写真にはっきりとそれは写っていた。これが蒋中正(蒋介石)の題で筆は李根源によるものらしい。
蒋介石も明治40年に日本の士官学校に留学している。そして、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪で戦犯として処刑された松井岩根大将に若き蒋介石は随分世話になっている。
・・・・・・・・・Web参照
周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない。何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。
蒋はカイロ会議以降連合国首脳会議から除外されて、発言権を失った。代わってスターリンがのさばり、中立条約を破って満州、南樺太に進攻し、北方四島の侵略まで果たした。蒋は東京裁判関係からも除外され、派遣した梅判事はすでに共産党にくらがえしており、南京事件に対して何らの発言も出来なかったのである。蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く。
・・・・・・・・・以上
そうか、蒋介石も李根源も日本の陸軍士官学校を卒業していたのか。蒋介石は日本のことを「倭」と記し、日本を罵っていたとあるが、心中は、そればかりではなかったようだ。岸信介とも昵懇であったようだし日本の良きところも十分承知していたのだろう。
だから当時の支那遠征軍との戦いにおいても、敵を認め日本軍の戦死者や捕虜に対しても、それなりの扱いもあったようだ。それ故に、この国殤墓園に「倭塚」を作ったのだろう。
今の共産党政権のように自己欺瞞を重ね醜いだけの反日ではないのだろう。その違いが分かると、今更ながら江沢民以降の中共政府の低俗さを愚かしく思う。
そして、このように公園として整備されたのは「全国重点文物保護単位:国殤墓園、国務院公布、1996年11月20日」と書いてあり、これも江沢民政権以降の一連の反日教育・愛国運動政策の一環なのだろう。
江沢民(1926年8月17日生まれ〜2007年現在81歳・・1989年〜2004年まで政権トップの座に居座る。)
・・・・・・・以下参照
江沢民の実父:江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた。叔父:江世侯 (上青) は抗日分子と目され、子供のないまま1939年に死亡した。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、江家の長男の長男が養子になるのは極めて不自然であり、「漢奸の息子」という出自を隠すためと考えられている。
・・・・・・・以上
↑フ〜ン、そうだったのか、それで、より反日を突出させ権力基盤を固めようとしたのか。あの世の親父は何を思うのやら・・・。あの目つきからして碌な人間ではないだろう。「眼は口ほどに物を言い」奴の心根が顔に出ている。
国殤墓園の入り口付近の広場には、その他、テン緬公路で使われた龍陵にあったのと同じの石のローラーもあった。共に日本軍と戦った米軍人の銅像もあった。 -
飴、ビスケット、タバコを供える
般若心経を唱え、「誰か故郷を想わざる」を歌い
手を合わせ騰越で戦死した日本軍兵士の冥福を祈る -
騰越の国殤墓園
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騰越の国殤墓園
ここにもテン緬公路の工事で使われた石のローラーがあった -
国殤墓園本殿
「碧血千秋」の石碑がはめ込んでいる(下部の青い部分)
題は蒋介石のもので、李根源が揮毫したそうだ
■紀念館
そして陳列館、記念館なるものがあるようで正面の建物には、孫文の写真が掲げられ今も慰霊が日常的に行われているのか花輪が沢山あった。両側に別れて建っている中に当時のことが展示されている。
その一つの展示室を入った所に、騰越城の全景を写した写真を初めて眼にした。写っている山並の様子から航空写真のようだ。当時の姿がはっきりと伺える。飲馬水河が見え、その手前に1キロ四方と言われている騰越城内の街並みがある。その周囲は田畑が広がる田園風景のようだ。
小説の中で語られている風景と当てはまる。青々とした水田が美しく、このようにのどかに広がっていたのだろう。西側の騰越河の西は家並みが見受けられ集落があったのだろう。写真はダメだが誰も居ないのを見計らってこの写真だけ一枚画素数を大きくして写した。
フラッシュが光ったが気付かれるはずもなく今も手元で黒っぽいけど何とか確認できる。
この写真を見れば、城外の各陣地もあの辺りだったろうと推測できる。ここを巡っている時、一人の中国人男性がリュックを背負って私と同じように見て周っていた。それも凄く熱心に展示物も見ていた。行くところ行くところ同じなので、声を掛けようとか思ったけど、もっと中国語が上手ければ話にもなるだろうが・・・声を掛けるのはやめた。
そしてここにもかっこいい日本軍人の写真の展示があった。
そんな写真も撮りたかったが、見つかって削除しろと言われるのが嫌でメモだけにした。その一枚の記念写真には4人の師団幹部の写真だった。写真は以下の方々であった。
日軍第56師団師団長:松山祐三中将(左二)・・・立派、体格よし男前
参謀長 黒川那輔大佐 (左一)
146連隊隊長 金岡泰四郎大佐(左三)・・・あごひげ、柔和
参謀 勝田金作中佐(左四)・・・ちょび髭、柔和
とにかくみんな肩肘張らず、偉そうにせず、されど姿勢よく、微笑をもった写真であり、今の日本にこんなかっこいい男がいるのか?と、思うほどの男ぶりの四人の記念写真だった。
その横に、ありもしない想像の拷問のイラストが展示してあった。
「日軍罪行景」と題する漫画っぽい下手なイラストは4枚で・・・。
その一
たっている裸の人間を頭のてっぺんから縦にのこぎりで真っ二つに切断している絵。
その二
大きなに煮え立った釜が二つ、その中にそれぞれ裸の人間を入れている絵。
その三
全裸の女の陰部にホースを突き刺し空気か水を注入しお腹が膨れ上がっている絵。
その四
離れた太い竹の上部に両手足をくくり付け、その竹を左右に開き身体を割いている絵。
ホンマ、このイラストには笑ってしまう。こんな残虐な遣り方は今の日本人の発想にはないし、昔の文献でもあまり見聞きしたこともない。盗賊だった石川五右衛門が、処刑として京都の三条河原で生きたまま油で煮られた(釜茹で)というのがあるが、それも1594年の頃の伝説のような話だ。
三峡に旅をした時に、昔の中国大陸内の戦争での戦いに驚くような拷問や殺戮方法の残酷な絵や、模型が沢山展示されているのを見たが、そのまま同じだとおもった。
こんな想像を絶する殺し方、拷問は、中国大陸で昔から殺戮を互いに繰り返してきた人間には当然なのだろう。そして通州でも昭和12年に日本人に対して中国人がそんな殺戮を現実に行っている。
通州事件
・・・・・・・・・・・以下Web頁参照
1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。
通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。当時ここには、日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む。)約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。
事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一般的だったが、近年は反乱首謀者である張慶餘の回想記により、中国側第二十九軍との間に事前密約があったとの説も有力になっている。
・・・・・・・・・・以上
この時に、惨殺された状況は、上記のイラストを思い起こす女性の陰部に棒を突き刺す、妊婦の腹を割くなどの想像を絶する残虐な殺戮であったようだ。
そんな愚かしいイラストと、四人の気負いのない堂々たる記念写真の対比が不思議だった。何を思ってこんなふうに展示したのか?普通の人間であるなら、この二つを並べても現実感はなく、かえって展示する側の作為や愚かしさを感じるだけだ。
中国人が見ても少しの常識があるなら、展示そのものが信用できなくなるだろう・・・と、言うのは日本人の感覚で、中国人にとっては事実・真実は二の次で、これはこれで普通なのかも知れない。
ここにも慰安婦の写真と称するものが展示されていたが他に展示されていた写真と同じものだった。慰安婦も日本軍兵士もそうだが、敵側の手になった捕虜の立場になれば、誰しも憔悴しきり、うつろで情けない表情になるのは仕方がない。
日本の靖国神社境内にある戦争記念館ともいえる「遊就館」の展示内容と比較するればその違いが一目瞭然だ。中国国内の抗日記念館は、そのほとんどが嘘と中傷であり、共産党一党独裁への批判の矛先を反日に仕向けるためのプロパガンダに過ぎず、醜い展示ばかりである。 -
孫文の写真が正面に飾ってある
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航空写真なのか?来鳳山方向から見た騰越城内
私にとって貴重な写真であった -
この小高い山が遠征軍兵士の墓地である
記念館の外には小高い山があり、そこに騰越の戦いで戦死したであろう3168名の中国兵の墓標が並んでいた。
階級関係なく順不同で墓石の大きさも同じである。当時の中国人のまともさと、今の共産主義国家の醜さとの対比を感じる。小山の上には「民族英雄」李根源:揮毫の慰霊塔が建っていた。
その手前には戦死した米軍将校19名の紀念碑と墓標が並んでいた。
丁重に葬られている様子が分かる。
ゆっくりと国殤墓園を周り、もう一度出る前に日本軍の塚に手を合わせた。そして入り口にある本に目を通し、戦争記録映画のDVDを購入した。帰国後DVDを早速見たが、米中合作の作品なのかと思うほど内容はまともだった。
そして、その映像から至近での市街戦の模様も感じられる。残念なのは二度目に見たら、もう映像が凄く悪くなってしまっていた。 -
騰越での日本軍兵士と戦い戦死した
3.160人の国民党軍の兵士が眠る -
小高い山の上に建つ慰霊塔
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階級関係なく順不同で並ぶ兵士の墓石
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米軍将校19名を奉る墓地
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米軍将校19名を奉る墓地
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戻りがけに隅にある日本軍の塚にもう一度手を合わせる
手前の二つの石は、テン緬公路で使われた石のローラー -
■昼食
ここを出て昼食を食べに行った。腹ごしらえをしてから気合を入れなおし来鳳山へいざ登らん・・・である。
昼食は段従虹が良く知っている店のようで、自分たちが宿泊していたホテルの近くのようだった。
中庭がありその周囲を囲んで部屋がある。中々趣のあるレストランだった。注文は段従虹に任せてどんな物が来るのか楽しみにしたが、見た目は美味そうだが、やはり味は今一だ。
「安くて美味しいから良くはやっている店」
お客さんも次々と入ってくるし、店の小姐の対応もテキパキし、良い店だというのは実感するが、何故?こんなに味が日本と中国、又、その他の地域もそうだが・・・美味さの基準の違いは不思議に思う。
二人で三品とスープ、ご飯で、31元(496円)、確かに安い。 -
道沿いのこの店で昼ごはんを食べました
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もう中華は飽きてます
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こんな料理を食べましたが
段従虹がいきなり、「この間は美味しかったけど、今日はまずい」
・・・と、言うのでまずい気がしました。 -
やっぱりトイレは良くてこんなもんです
トイレの個室化は一体何年先なのか?
それとも扉は邪魔なのか? -
来鳳山に向かう
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昭和19年の頃は、三合目までが松林
それから上は草地が広がっていたそうだが
今は森林に覆われ、頂上まで眺めは良くない -
■来鳳山へ行く
腹ごしらえと一服をし、いよいよ来鳳山に向かう。登り口にはゲートがあり10元の門票を買う。タクシーは要らないだろうと段従虹が交渉したが、ここでは通じず二枚買わされた。
まず頂上へ向かったが、又、山道で、でこぼこ道なので昨日の騰龍公路の悪路を思い出した。戦争の時は麓は松林で三合目からは草地だったそうだが、今は来鳳山森林公園というだけで頂上までびっしりと樹木に覆われている。だから車で登りながらも下界の景色はほとんど見えない。
頂上に到着し、十層の白塔(文筆塔)に登っていった。白塔高地と昔の陣地配置図にも記載あり、日本軍の陣地があったようだ。塔の管理のおばちゃんがいるだけで塔の中には誰もいなかった。階段を登るにつれて視野も広がり、360度の展望が開けた。
朝には雨が降っていた今日なので、空高くにはまだまだ雲があった。しかし、万年雪が有るようには見えなかったが遠く高黎貢山脈の山並もはっきりと見えた。
帰国後、分かって写真を見直したら「騰越富士」と日本軍が名づけていた山も、美しい山裾までもはっきりと写っている。和順郷もすぐ近くに見える。周囲を緑深き山々に囲まれ、今もまだまだ自然の豊かさに溢れた一帯が望める。
兵士たちが言っていた「青々としたのどかな田園風景」が広がっていたのだということが良く分かった。
飽きることなくその塔の最上階をぐるぐる歩き回りながら広く遠くまで開けた騰越鎮での風景を見入っていた。日本軍兵士が見たであろう美しいその景色を・・・。
そして、戦いのその時には、この来鳳山の上空にも敵機が容赦なく爆弾を投下し、凄まじい攻防があったのだ。
騰越城外の陣地のほとんどを手放し、城内に立て籠もり苦闘を続けていた8月25日は、この騰越上空にも銀翼に輝く日の丸を付けた12機の友軍機が飛来し、手榴弾500発と若干の衛生材料を投下した。
『友軍機が飛来した時は、敵の集中攻撃を受ける恐れがあるから、壕から出ないようにと指示されていたのであったが、友軍機を一目見ることができたら死んでも本望だと言って、兵士たちは壕から這い出して空を仰いだ。』
騰越の戦いを書いた古山高麗雄(著)小説「断作戦」では・・・。騰越の生き残りの二人の兵士の回想を中心に戦いの様子を描いているが・・・。その内の一人の柳川白石芳太郎もこの友軍機の飛来には思わず涙が出たそうである。
騰越市内を一望しながら、1キロ四方の城壁はどの辺りになるのだろう・・・と、食い入るように見つめたが。もって来た地図と比較してもおおよその見当しか出来ないが、河が今も同じように流れているので、そんな大きく違うことはないだろう。
何度も「誰か故郷を想わざる」を歌った。私以外誰もいないので、誰かが登ってきたらコンクリート製の塔だから直ぐに分かるし、何気兼ねなくぐるぐる歩き、写真のシャッターを押し捲り、気が済むまでいた。
管理のおばちゃんが「あいつ上に登っていったまま降りて来ないなあ、一体上で何やってるんやろ・・・」と、様子を見にくるかもしれないと思うくらい居たように思う。
降りて行く途中で一組の若い中国人のアベックが登って来たのとすれ違う。さすがに段従虹も私の戻るのが遅いので下まで様子を見に来ていた。お陰で今もあの風景は、私のまぶたと脳裏にしっかりと残っている。 -
来鳳山の頂上にも日本軍の陣地があったようだ
この奥に白塔(文筆塔)が建っている -
来鳳山の文筆塔(白塔、十層)
階段になっており最上階まで登れる
そこからの眺めは素晴らしかった -
白塔の最上階から騰越(騰衝)を望む(北方向)
残雪は見えなかったが、遠く高黎貢山系が望めた -
左手後方に騰越富士が見える(北西方向)
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来鳳山頂上から和順を写す(南西方向)
和順には遠征軍司令部がありながら日本軍には大砲も無く -
来鳳山から南方向を写す
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来鳳山から北北東方向を写す
高良山(高山)、飛鳳山が写っている -
来鳳山から北東方向
山裾に私の泊まっているホテルがある -
頂上に近い高さのところだったが
「三号陣地」という標識を見つけて奥のほうに入っていった
■来鳳山陣地跡へ
来鳳山の頂上に上って来る途中、三号陣地という標識が立っていたので、帰り道にそこで停まってもらって、又、藪の中を入っていった。その頃には、さっきまで雲が垂れ込めながらも遠くまで見通しの効いた有り難い空から、とうとう雨が降ってきた。
少し奥の方に歩くと陣地跡なのだろう、日本軍が作ったと思う交通壕があった。遠征軍が来鳳山の日本軍陣地を奪取した後には、こんな壕は必要なかったはずだから・・・。
拉孟陣地の交通壕よりも、埋まっているようだったが、やはり縦横に延びていた。ここで日本から持って来た残りのお供えを全部この壕の中に供えた。
一つずつ袋に入っている飴は全部袋から取り出し、森永のビスケットも紙から出し、酒も置いた。そこで般若心経を唱え手を合わせ、歌を歌い哀悼の意を表し感謝をした。
当時は、城内を守備する兵士から来鳳山で敵味方が白兵戦を戦う姿が見えたそうだ。互いにもつれ合いながら倒れる姿が、騰越陣地から見えたと思い出を語っている。
圧倒的な米支連合軍を敵にし、援軍も、救出の望みのない中、最後まで任務を遂行し戦った。そんなこの地の戦いを今の日本人の何人が知っているのだろう。
私もこの旅を計画するまで、うっすらとそんな話は聞いたことがあるというくらいで、詳しくは全く知らなかった。自分なりに調べれば調べるほど、彼らの英雄的戦いの様子が分かって来た。
無論、騰越から生き残って帰って来た2〜30人の元兵士の方々も、小説に登場する二人の兵士の話ぶりからも自分たちの行為が英雄的行為だとは、昔も今も露も思われていないのだろうが。
そして、戦後の日本人は当時の戦いを「悪いこと」と切り捨て、それ以上知ろうともして来なかった。
だが今の日本人の生活は、過去の日本があっての今であり、今後も連綿と続くその一部分でしかない。今の生活が豊かで平和と思うなら、それは、あの戦いがあったればこそである。
私は当時の世界情勢の中で、父祖たちは「良くぞ戦ってくれた・・・」と、敬意と感謝の想いで一杯だ。日本が世界の白人列強を敵に回して戦ったからこそ今の世界があり、今の日本がある。
同胞が国家とも言えぬつまらぬ北朝鮮に拉致されながら、30年も見捨てている今の日本人は、日本という国が出来て以来の最低の卑怯者集団ではなかろうか?「日本軍人かく戦えり」を知るにつけ恥ずかしい気持ちで一杯になる。 -
陣地跡を示すかのように
交通壕が縦横に残っていた -
壕の跡に供える
-
目をつぶれば、この壕の中を走り回る
日本兵士の姿が目に浮かぶようだ -
猛烈な空からの爆撃と
砲火の嵐、そして圧倒的な人数で攻めてくる敵兵
騰越守備隊の日本軍兵士たちは
阿修羅のごとく戦い死んでいった
この旅行記のタグ
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