2006/05/15 - 2006/05/15
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研博さん
編集中
5月15日葵祭の追っかけをしようかとも思ったけど、前日木屋町で飲みすぎてしまい、チェックアウトはぎりぎりの11時。
京都市役所ー祇園ー八坂神社ー霊山ー八坂の塔ー清水寺ー豊国神社ー方広寺ー智積院ー豊国廟ー三十三間堂ー西本願寺ー京都駅
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八坂神社内、忠盛燈籠の説明板。
むかしは、夜暗かったんですねえ。 -
忠盛燈籠。
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八坂の塔
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八坂の塔
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八坂の塔の内部
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八坂の塔。塔内部2階から、京の町並みを眺められます
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塔1階内部には、五智如来坐像が安置されています。
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塔自体は、消失、再建を繰り返されてきましたが、中心礎石は創建当時、飛鳥時代のものと言われています。
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八坂の塔1階内部の壁に描かれた佛画。
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源(木曽)義仲の首塚の説明板。
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小さい頃から、何故か頼朝・義経より魅力を感じた武将、義仲。なんでだろう。
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清水寺の舞台。この日、男性が飛び降り自殺をしたと翌日のニュースで知り、びっくり。
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巨大な石垣、方広寺大仏殿の遺構。
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当時の方広寺の広大さがうかがえます。
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豊国神社の手水舎。豊臣家滅亡後、徳川家康により徹底的に破壊されたが、明治になって再建される。
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豊国神社。豊臣家滅亡後、家康によって破壊されたが、明治になって再建された。伏見城の遺構と伝わる。
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太閤垣。秀吉死後、此処一帯に数多くの社殿が建てられたが、豊臣家滅亡後ことごとく取り壊される。
今は市民の桜の花見の名所に。 -
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500を越す石段を登って行くと、石塔が見えてきました
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大きな石塔とはいえ、戦国の世を天下統一を果した豊臣秀吉の墓としては、日光東照宮と比べあまりにも・・・。
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豊臣家滅亡後、徳川の手により掘り起こされ、方向寺に改葬されたという。その後再びこの地に改葬されたのか、1905年の発掘調査時に、秀吉らしき遺体が出土したという。
ところが、遺体は粗末な壷に入れられ、高貴な人の葬り方ではなく、一般庶民の葬り方をされてうたという
----光文社新書「京都 格別な寺」宮元健次著より。
陰険な家康らしいというか。 -
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「明治四十四年十月 建立 高吉十一世孫子爵京極高徳謹撰」 の石碑
元和元年5月8日大阪夏の陣で大坂城が落城した時、8歳の「国松丸」は家臣「田中六郎左衛門」と「乳母」に連れられ、京都の伏見に逃れ潜む。しかし5月21日徳川家の追っ手に捕まってしまう。乳母は自分の子であるから助けて欲しいと必死に命乞いをしたが、許されず、わずか2日後の5月23日に京都六条河原で「国松丸」は処刑される。「田中六郎左衛門」「乳母」も処刑されたと言われている。
「国松丸」処刑を知った、「寿芳夫人」は憐れに思い、京都・誓願寺に墓を建てる。その時、豊臣家に恩義のある人々は多数いたはずだが、徳川家康を怖れたためか、誰ひとり援助するものもなく、ただ夫人ひとりの手により墓は建てられた、伝えられています。
この二つの墓は、元は、別々の場所にあったものを、「寿芳夫人」の心優しさに心を動かされた人々の手で、「寿芳夫人」と「国松丸」の墓を並べて現在の位置に移動させたものだそうです。その時に、遷墓碑が建設された。 -
寿芳夫人の墓。秀吉の側室、京極龍子(京極高吉の娘)。京極局、西の丸殿とも。処刑された国松丸の遺体を引きとり葬る。
「醍醐の花見」では、淀殿と席次(盃を受ける)順番を争う。 -
豊臣秀頼の子、秀吉の孫である国松丸(漏世公子)の墓。
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三十三間堂
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この旅行記へのコメント (1)
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- 義臣さん 2006/05/25 09:12:55
- 文の助茶屋
- 文の助茶屋も、
以前は。。。知ったかぶりやめた。
懐かしくてつい、
6月は行って来ます。
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