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1人旅の中身をできるだけ充実させるために、行く前にチュニジアの歴史概説はしっかり予習しました。帰国後、旅行記をまとめがてら、自分なりにチュニジアの歴史をまとめてみました(1997年当時のものを改訂・加筆)。<br /><br />(写真は、チュニジア初代共和国大統領ハビブ・ブルギバ一家の霊廟です。1963年に建立。地中海沿岸のチュニジア第3の都市スースからほど近いモナスティールにあります。モナスティールはブルギバの故郷です。)<br /><br />* * * * * * *<br /><br />チュニジアは、オリーブやなつめやしの実る豊かな大地に恵まれ、北と東は地中海に面し、南と西はサハラ砂漠に迫られた防御に便利な土地柄ゆえ、数々の民族に利用されてきました。<br />地中海の覇者だったフェニキアの民、それを制覇した古代ローマ帝国、その末裔ともいうべきビザンチン帝国、一転してアラブ・イスラム支配に、オスマン・トルコ、そして近代におけるフランスの支配……。<br />彼らがチュニジアにモザイクをちりばめるように残した多彩な文化の足跡は、旅行者にとっては、チュニジアを訪れる上でまたとない魅力の一つとなっています。<br /><br />チュニジアの歴史で日本でよく知られているのは、フェニキア人の拠点カルタゴと、ローマ共和国との三回にわたるポエニ戦争くらいではないでしょうか。<br />第二次ポエニ戦争では、かの勇将ハンニバルが、3万人の部下と30頭の象を引き連れてアルプスを越え、ローマを襲撃したエピソードがあります。<br />もっとも、カルタゴは結局、三回ともローマに敗れました。<br />第三次ポエニ戦争では、ローマの侵略のせいで、25万を誇っていたカルタゴの人口は5万に減ったといいます。<br />しかも、ローマのカルタゴに対する憎悪はそれに飽き足らず、草木一本、永遠に茂ることがないよう、廃虚に塩をまき散らしました。<br />その約100年後、ジュリアス・シーザーの提唱により、カルタゴは、今度はローマ人の手によって甦ります。ローマ帝国によるチュニジア支配は約600年続きます。<br />現在、カルタゴに残る遺跡のほとんどは、このローマ帝国時代のものです。<br /><br />その後のチュニジアは、まずは、5世紀、ヨーロッパにおける民族の大移動時代の余波を受け、ゲルマン系民族であるヴァンダル人による侵入と破壊を受けます。<br />次いで534年、ビザンチン帝国の領土を最大に広げたユスティニアヌス帝の時代に、ビザンチンの一領土となります。<br />そして7世紀、アラブ人猛将オクバ・イブン・ナフィに率いられたイスラム勢力の先鋒がビザンチン勢力を一掃します。彼らはケルーアンを拠点とし、現在のアルジェリア、モロッコに至るマグレブ全域を制覇します。<br />以来、チュニジアはイスラム圏となります。<br />ケルーアンは、イスラム勢力が最初にアフリカ大陸に拠点を置いた地として、後に、メッカ、メディナ(アラブの都市にはほぼ必ずある旧市街のメディナではなく、サウジアラビアに位置する、イスラムの始祖マホメットの生誕の地の方)、エルサレムに次ぐイスラム第4の聖都となりました。<br /><br />さて、ここで7世紀からいきなり16世紀、オスマン・トルコの登場までひとっ飛び!───といきたいところですが、それではチュニジアに対し、あまりに失礼なので、やはりそれまでの歴史に簡単に触れることにしましょう。<br /><br />7世紀から16世紀、その間の歴史は、非常におおざっぱに言いますと、イスラム王朝の繁栄と、遊牧原住民であるベルベル人の抵抗の歴史、などとくくれるかもしれません。<br />ベルベル人の抵抗の中で、エル・カヒーナ(女預言者)と呼ばれた女首長は、数年とはいえ、アラブ支配を覆すことに成功しました。<br />結局、彼女は捕われて処刑されてしまいました。その首は皿に乗せられ、現在のシリアに位置する遥かダマスカスのカリフ(マホメッドの後継者として全イスラム教徒の頂点に立つ教主)のもとまで届けられたそうです。<br />ちなみに、現在のチュニジアでは、ベルベル人は人口のわずか2%で、サハラに隣接する南の村落でひっそりと暮らしているのみです。他はほとんどアラブ人と同化し、その言語も今では廃れてしまったそうです。<br /><br />それにしても、シリアのダマスカスは、チュニジアからは遠すぎました。そのため、チュニジアのイスラム王朝は、ベルベル人の抵抗に悩まされ、かつケルーアンにおける改革派のイスラム教に影響され、独自に国を起こすこととなりました。<br />まずは9世紀、チュニジアの地方領主だったイブラヒーム・イブン・アグラブは、自らをエミール(君主)と名乗り、その地位を世襲制としました。<br />ここに、チュニジアの黄金時代を築いたアグラブ朝が成立します。<br />この王朝は約一世紀続きました。そして、この時代に、ケルーアンだけでなく、チュニス、スース、スフックス、モナスティールといった主要な町が発展しました。<br />その勢いは国内にとどまらず、地中海のマルタ島、シチリア島、そしてサルディニア島に及びました。ローマに侵入して略奪・蛮行を繰り広げたこともあります。<br /><br />その後、シリアのダマスカスでは、絶対唯一の存在だったはずのカリフが権威を失いました。イスラム圏は分断され、それぞれ独自のカリフを頂いた王朝が林立しました。<br />チュニジアに関して言えば、その一つ、エジプトのカイロに首都をおいたファーティマ朝に一時支配されましたが、その後、モロッコを拠点としたアルモハド朝に支配されます。<br />そして13世紀、チュニジア出身の地方領主が再び、自ら王朝を立てます。その王朝ことハフシド朝は、16世紀にいよいよオスマン・トルコが登場するまでの約350年の長きにわたって、チュニジアを統治することとなります。<br />この時代に、フランスのルイ9世に率いられた第7次十字軍がチュニスを襲いますが、ハフシド王朝はこれを敗退させ、結果、西欧の十字軍派遣にピリオドを打たせることととなりました。<br /><br />チュニジアにオスマン帝国の支配を招き入れたのは、バルバロッサ(赤ひげ)と呼ばれる、エーゲ海のレスボス島からやってきたトルコ人の海賊です。<br />彼は北アフリカの覇権を狙ってオスマン・トルコに支援を求め、ハフシド王朝を倒してしまいました。<br /><br />トルコ人の支配以来、チュニジアは、キリスト教徒の船を襲う海賊と奴隷貿易で、近隣のキリスト教国を震え上がらせることになります。<br />キリスト教徒の白人の奴隷というと、その子弟によって編成されたオスマン・トルコの常備歩兵部隊イェニチェリなどが思い浮かぶかもしれません。<br />このオスマン・トルコ時代のチュニジアによる白人奴隷貿易は、19世紀初頭に西欧近代化政策が取り入れられるまで続きました。<br /><br />海賊行為と奴隷貿易で豊かになり、国力を貯えたチュニジアは、そのうちオスマン帝国の支配から独立し始めます。<br />名目上はオスマン支配が続いていましたが、オスマン帝国のスルタン(皇帝)が任命する地方長官にすぎなかったBey(ベイ)が世襲制をとるようになり、実質的にチュニジアの君主となります。<br />このBeyによる統治は、最終的に1957年、共和国が樹立されるまで続きました。<br />その間にチュニジアは、周囲の西欧近代化の波に遅れまいとしますが、台頭してきた西欧列強の植民地主義にかなわず、1881年、アルジェリアを征服したフランスに膝を屈することになります。<br /><br />後に初代共和国大統領となったハビブ・ブルギバは、パリで法律を学んだエリートでした。<br />1927年に彼が帰国する以前、チュニジアでは、フランス支配に対する不満から、まず知識階層に独立への気運が高まりつつありました。<br />その第一派が1911年、フランス軍による血なまぐさい鎮圧で潰されたことにより、国民全体に独立への運動が広がります。そしてハビブ・ブルギバは、独立をめざすチュニジアの「顔」となりました。<br />彼自身、何度も投獄の憂き目を見たり、チュニジア自体も第二次大戦中は戦場と化したり等ありましたが、終戦後、フランスとの何度かにわたる交渉の結果、チュニジアはハビブ・ブルギバを通じて完全自治を回復しました。<br /><br />その後しばらく、ブルギバの人気は続きます。彼は3回の再選の後、1975年には国民議会によって終身大統領に任命されました。<br />ところが、国内にイスラム熱が高まり、イスラム系の左翼が台頭し始めたのを武力で抑えたりなどの専横から、ブルギバは次第に人気を落とします。<br />それに乗じてクーデタを起こしたのが、軍人であったズィネ・エル・アブディネ・ベン・アリです。<br />ベン・アリは、ブルギバが精神上の健康を損なっているとの医者の診断をとりつけ、1987年、彼を大統領の地位から退けました。ブルギバ、84歳でした。<br /><br />その後、ベン・アリは、連立政権やイスラム系左翼の議会進出を約束しますが、結局、1989年の総選挙では、ベン・アリ率いる政党が全議席を占め、彼はほぼ100%に近い支持を得て大統領に就任しました。<br />以後、政権はほぼベン・アリの専制状態が続きます。<br />大統領の任期は5年ですが、1994年も彼は再び100%に近い支持を得て大統領に再選されました。2004年度には4度目の再選を果たしています。

まみ流チュニジアの歴史概説

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1997/09/13 - 1997/09/23

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まみ

まみさん

1人旅の中身をできるだけ充実させるために、行く前にチュニジアの歴史概説はしっかり予習しました。帰国後、旅行記をまとめがてら、自分なりにチュニジアの歴史をまとめてみました(1997年当時のものを改訂・加筆)。

(写真は、チュニジア初代共和国大統領ハビブ・ブルギバ一家の霊廟です。1963年に建立。地中海沿岸のチュニジア第3の都市スースからほど近いモナスティールにあります。モナスティールはブルギバの故郷です。)

* * * * * * *

チュニジアは、オリーブやなつめやしの実る豊かな大地に恵まれ、北と東は地中海に面し、南と西はサハラ砂漠に迫られた防御に便利な土地柄ゆえ、数々の民族に利用されてきました。
地中海の覇者だったフェニキアの民、それを制覇した古代ローマ帝国、その末裔ともいうべきビザンチン帝国、一転してアラブ・イスラム支配に、オスマン・トルコ、そして近代におけるフランスの支配……。
彼らがチュニジアにモザイクをちりばめるように残した多彩な文化の足跡は、旅行者にとっては、チュニジアを訪れる上でまたとない魅力の一つとなっています。

チュニジアの歴史で日本でよく知られているのは、フェニキア人の拠点カルタゴと、ローマ共和国との三回にわたるポエニ戦争くらいではないでしょうか。
第二次ポエニ戦争では、かの勇将ハンニバルが、3万人の部下と30頭の象を引き連れてアルプスを越え、ローマを襲撃したエピソードがあります。
もっとも、カルタゴは結局、三回ともローマに敗れました。
第三次ポエニ戦争では、ローマの侵略のせいで、25万を誇っていたカルタゴの人口は5万に減ったといいます。
しかも、ローマのカルタゴに対する憎悪はそれに飽き足らず、草木一本、永遠に茂ることがないよう、廃虚に塩をまき散らしました。
その約100年後、ジュリアス・シーザーの提唱により、カルタゴは、今度はローマ人の手によって甦ります。ローマ帝国によるチュニジア支配は約600年続きます。
現在、カルタゴに残る遺跡のほとんどは、このローマ帝国時代のものです。

その後のチュニジアは、まずは、5世紀、ヨーロッパにおける民族の大移動時代の余波を受け、ゲルマン系民族であるヴァンダル人による侵入と破壊を受けます。
次いで534年、ビザンチン帝国の領土を最大に広げたユスティニアヌス帝の時代に、ビザンチンの一領土となります。
そして7世紀、アラブ人猛将オクバ・イブン・ナフィに率いられたイスラム勢力の先鋒がビザンチン勢力を一掃します。彼らはケルーアンを拠点とし、現在のアルジェリア、モロッコに至るマグレブ全域を制覇します。
以来、チュニジアはイスラム圏となります。
ケルーアンは、イスラム勢力が最初にアフリカ大陸に拠点を置いた地として、後に、メッカ、メディナ(アラブの都市にはほぼ必ずある旧市街のメディナではなく、サウジアラビアに位置する、イスラムの始祖マホメットの生誕の地の方)、エルサレムに次ぐイスラム第4の聖都となりました。

さて、ここで7世紀からいきなり16世紀、オスマン・トルコの登場までひとっ飛び!───といきたいところですが、それではチュニジアに対し、あまりに失礼なので、やはりそれまでの歴史に簡単に触れることにしましょう。

7世紀から16世紀、その間の歴史は、非常におおざっぱに言いますと、イスラム王朝の繁栄と、遊牧原住民であるベルベル人の抵抗の歴史、などとくくれるかもしれません。
ベルベル人の抵抗の中で、エル・カヒーナ(女預言者)と呼ばれた女首長は、数年とはいえ、アラブ支配を覆すことに成功しました。
結局、彼女は捕われて処刑されてしまいました。その首は皿に乗せられ、現在のシリアに位置する遥かダマスカスのカリフ(マホメッドの後継者として全イスラム教徒の頂点に立つ教主)のもとまで届けられたそうです。
ちなみに、現在のチュニジアでは、ベルベル人は人口のわずか2%で、サハラに隣接する南の村落でひっそりと暮らしているのみです。他はほとんどアラブ人と同化し、その言語も今では廃れてしまったそうです。

それにしても、シリアのダマスカスは、チュニジアからは遠すぎました。そのため、チュニジアのイスラム王朝は、ベルベル人の抵抗に悩まされ、かつケルーアンにおける改革派のイスラム教に影響され、独自に国を起こすこととなりました。
まずは9世紀、チュニジアの地方領主だったイブラヒーム・イブン・アグラブは、自らをエミール(君主)と名乗り、その地位を世襲制としました。
ここに、チュニジアの黄金時代を築いたアグラブ朝が成立します。
この王朝は約一世紀続きました。そして、この時代に、ケルーアンだけでなく、チュニス、スース、スフックス、モナスティールといった主要な町が発展しました。
その勢いは国内にとどまらず、地中海のマルタ島、シチリア島、そしてサルディニア島に及びました。ローマに侵入して略奪・蛮行を繰り広げたこともあります。

その後、シリアのダマスカスでは、絶対唯一の存在だったはずのカリフが権威を失いました。イスラム圏は分断され、それぞれ独自のカリフを頂いた王朝が林立しました。
チュニジアに関して言えば、その一つ、エジプトのカイロに首都をおいたファーティマ朝に一時支配されましたが、その後、モロッコを拠点としたアルモハド朝に支配されます。
そして13世紀、チュニジア出身の地方領主が再び、自ら王朝を立てます。その王朝ことハフシド朝は、16世紀にいよいよオスマン・トルコが登場するまでの約350年の長きにわたって、チュニジアを統治することとなります。
この時代に、フランスのルイ9世に率いられた第7次十字軍がチュニスを襲いますが、ハフシド王朝はこれを敗退させ、結果、西欧の十字軍派遣にピリオドを打たせることととなりました。

チュニジアにオスマン帝国の支配を招き入れたのは、バルバロッサ(赤ひげ)と呼ばれる、エーゲ海のレスボス島からやってきたトルコ人の海賊です。
彼は北アフリカの覇権を狙ってオスマン・トルコに支援を求め、ハフシド王朝を倒してしまいました。

トルコ人の支配以来、チュニジアは、キリスト教徒の船を襲う海賊と奴隷貿易で、近隣のキリスト教国を震え上がらせることになります。
キリスト教徒の白人の奴隷というと、その子弟によって編成されたオスマン・トルコの常備歩兵部隊イェニチェリなどが思い浮かぶかもしれません。
このオスマン・トルコ時代のチュニジアによる白人奴隷貿易は、19世紀初頭に西欧近代化政策が取り入れられるまで続きました。

海賊行為と奴隷貿易で豊かになり、国力を貯えたチュニジアは、そのうちオスマン帝国の支配から独立し始めます。
名目上はオスマン支配が続いていましたが、オスマン帝国のスルタン(皇帝)が任命する地方長官にすぎなかったBey(ベイ)が世襲制をとるようになり、実質的にチュニジアの君主となります。
このBeyによる統治は、最終的に1957年、共和国が樹立されるまで続きました。
その間にチュニジアは、周囲の西欧近代化の波に遅れまいとしますが、台頭してきた西欧列強の植民地主義にかなわず、1881年、アルジェリアを征服したフランスに膝を屈することになります。

後に初代共和国大統領となったハビブ・ブルギバは、パリで法律を学んだエリートでした。
1927年に彼が帰国する以前、チュニジアでは、フランス支配に対する不満から、まず知識階層に独立への気運が高まりつつありました。
その第一派が1911年、フランス軍による血なまぐさい鎮圧で潰されたことにより、国民全体に独立への運動が広がります。そしてハビブ・ブルギバは、独立をめざすチュニジアの「顔」となりました。
彼自身、何度も投獄の憂き目を見たり、チュニジア自体も第二次大戦中は戦場と化したり等ありましたが、終戦後、フランスとの何度かにわたる交渉の結果、チュニジアはハビブ・ブルギバを通じて完全自治を回復しました。

その後しばらく、ブルギバの人気は続きます。彼は3回の再選の後、1975年には国民議会によって終身大統領に任命されました。
ところが、国内にイスラム熱が高まり、イスラム系の左翼が台頭し始めたのを武力で抑えたりなどの専横から、ブルギバは次第に人気を落とします。
それに乗じてクーデタを起こしたのが、軍人であったズィネ・エル・アブディネ・ベン・アリです。
ベン・アリは、ブルギバが精神上の健康を損なっているとの医者の診断をとりつけ、1987年、彼を大統領の地位から退けました。ブルギバ、84歳でした。

その後、ベン・アリは、連立政権やイスラム系左翼の議会進出を約束しますが、結局、1989年の総選挙では、ベン・アリ率いる政党が全議席を占め、彼はほぼ100%に近い支持を得て大統領に就任しました。
以後、政権はほぼベン・アリの専制状態が続きます。
大統領の任期は5年ですが、1994年も彼は再び100%に近い支持を得て大統領に再選されました。2004年度には4度目の再選を果たしています。

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この旅行記へのコメント (8)

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  • さすらいおじさんさん 2007/04/19 10:45:20
    チュニジアの詳しい歴史紹介
    まみさん

    チュニジアには知識も無く、ツアーで回ってしまいました。
    チュニジアの詳しい歴史紹介、改めて感服しました。

    ベン・アリの強権政治にガイドが不満をもらしていたことを思いだしました。

    まみ

    まみさん からの返信 2007/04/19 19:00:39
    RE: チュニジアの詳しい歴史紹介
    さすらいおじさん、こんにちは。書込みありがとうございます。

    >ベン・アリの強権政治にガイドが不満をもらしていた

    チュニジアは1人でふらっと出かけたので(きっちり事前に計画は立てたので、ふらっと、とは言わないですね。)、現地の人のそういうナマの声は聞かないですね。
    そのあたりがガイド付ツアーの魅力ですね。
    現地ツアーでもあれば、聞けたのに。
    私がチュニジアで何人も自称ガイドにひっかかりましたが、好意的であったのと、最後はしつこくて終わり悪しなのと、思いっきりセクハラめいていたのと、ボッたくられたのと。。

    歴史は一生懸命整頓して出かけました。
    マグレブの歴史はモロッコなども含めてまとめられてしまうことが多いので、チュニジアだけに焦点を当てて見直すのはなかなか興味深かったです。
  • デコさん 2006/02/25 07:14:58
    尊敬してしまいます
    まみさんへ

    またまた、まみさんのすごさを実感してしまいました。
    よくぞこれだけ調べて、
    しっかり自分のものにしてから出発なさっているんですね。
    脱帽です。
    これくらい良くわかっていると、
    訪問先でもまた見る目が違ってくるのは当然ですね。
    少しは見習わなくては・・・
    と、おもいながら、どうしても、さぼりなデコです。

    ところで、事後承諾になってしまって、ごめんなさいなのですが、
    4traメンバーの萌愛さんに、
    まみさんが東欧の事についてお詳しい事をお知らせさせていただきました。
    きっと、プラハへのご旅行について
    いつかお聞きになってこられると思いますので、教えてあげてくださいな。
    よろしくお願いします。

    まみ

    まみさん からの返信 2006/02/26 18:12:05
    RE: 尊敬してしまいます
    デコさん、こんにちは。

    下調べが念入りなのは、頭の中がいつも海外旅行のことで一杯の能天気な晴れ模様なのに!?(まあ日常のストレスを忘れるためと思ってください@)、そうそう何度も行けないから、日本にいる間にバーチャルとまでいかないけど、下調べすることで旅行気分を味わっているせいなのです。
    それに私は、旅行ターゲットにすることで、その国に興味をもっていろいろ調べたくなってしまうという効果も宛てにしているんです@
    それまで全く知らなかったことがたくさんあると気付くだけでも、すごく楽しいっていうか、知的好奇心が刺激されまする
    知的好奇心がわいているうちは、気持ちの上でめりはりがあって、楽しく過ごせますよね@@

    あと、チュニジアに関しては、イタリアだのイギリスだのフランスだのといった行き先に比べて、女1人で旅行する不安材料はたくさんでした。

    萌愛さんは最近よくいらしてるみたいです。きっとデコさんに紹介していただいたおかげだと思います。
    またデコさんのところへも遊びに行きますね。先週、たくさん旅行記を更新されたようで、全部見終わっていないのですが、拝見するのを楽しみにしています。
  • SUR SHANGHAIさん 2006/02/14 19:53:14
    ひゃ〜!
    まみさんは各国の文化・歴史にお詳しいので、敬服です〜。

    私も3月の末にはチュニジアに行けそうかな、と画策中。
    まずは歴史を追った見所の絞込み中。(ほんとに行けるかどうかまだ決まってませんが)
    まみさんのご意見で、「ここだけは!」という所があったら、お教えくださいませ。m(__)m

    まみ

    まみさん からの返信 2006/02/14 22:19:43
    RE: ひゃ〜!
    SUR SHANGHAIさん、こんにちは。

    おーっ、チュニジアですか。
    3月では、これから順次、チュニジア旅行記……というより1997年度の旅行記を準備してもチュニジア編は終わらない(突入しないかもしれません@)が、ちょっとずつ準備中です@

    お薦めは、そうですね、素敵な壁!といえば、トズールに、幾何学模様のすばらしい日干しレンガのすばらしい家並みがあります。
    でも、もしかしたらSUR SHANGHAIさんのお好きそうな素朴な壁とは違うかも。

    サハラ砂漠までは足を延ばされます?
    ぜひ、立ちあがるときに尻から持ち上げるラクダに乗って、前につんのめってみてください@

    3月では地中海沿岸のリゾート地はまだ寒いかな。もう温かいかな。
    あるいは、首都チュニスのバルドー博物館はお薦め。
    博物館自体が昔のベイの屋敷なので、スペインのアルハンブラをモデルにしたすばらしい建築を堪能できます@

    多彩な魅力にあふれるところです、チュニジアは@

    SUR SHANGHAI

    SUR SHANGHAIさん からの返信 2006/02/15 22:59:03
    RE: RE: ひゃ〜!
    アドバイス、ありがとうございました。

    今日、日本語の書籍を扱うお店に行って、ガイド・ブックも予約。
    ヒャ〜、日本で買う2倍以上のお値段。\(◎o◎)/!

    もし行くことが決定したら、ご期待にお応えして(^○^)、≪壁尽くし≫の旅行記にしたいと思ってます。(^○^)(^○^)

    まみ

    まみさん からの返信 2006/02/16 20:48:48
    RE: RE: RE: ひゃ〜!
    SUR SHANGHAIさん、こんにちは。

    チュニジアに行きたい気持ちは固まってるけれど、まだ最終的には決定ではないんですね。
    でも先にガイドブックは買ってしまう(正確には予約なさったとのことですが)。
    とぉってもよくわかりますぅ。
    あるいは、お取り寄せに時間がかかってしまうのかな。

    海外で日本の書籍となると倍ですか。ちょっとつらいですね。
    まあ、英語圏以外の海外で買う英語の書籍も割高ですけど@

    チュニジアの写真集、私の十八番?のなっが〜い旅行記をまとめる前に、先に少しテーマ別にハイライトとして写真をのせましたので、御覧くださいませ@
    でも約380枚の写真を見回しても、壁っ!の写真はないんですよ。
    もっとも、SUR SHANGHAIさんの写真を拝見してはじめて、壁に注目した写真もいいなぁと思ったので、なくて当然なのですが@@@

    チュニジアに行かれることがあったら、SUR SHANGHAIさんの壁……だけじゃなくて、いろんなチュニジアの写真を楽しみにしてますね@

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