その他の都市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
本日は強行軍になります。まず、朝にホテルをチェックアウトした後、荷物をホテルに預けて、午前中は、エゲッド社のベツレヘム&ヤド・ヴァシームめぐりの半日ツアーです。午後は自由行動。そして夕方くらいにホテルに戻った後は、イスラエル出国です。ガイドブックにも注意されているとおり、イスラエル出国にあたってのセキュリティーチェックなどふつうの空港よりも時間がかかるので、フライトの2時間前ではなく、遅くとも3時間前には空港に到着していなければなりません。<br /><br />フライトは、テルアビブ空港発夜中の2時半で、早朝4時半にロンドン・スタンステット空港に到着予定です。そして、ヒースロー空港に移動ついでに休まずしっかりロンドン観光した後、順調に席がとれれば──なにしろ、旅行代理店で手配したはずのフライトは、帰りの便がキャンセル待ちで予約がとれていませんでしたから──夕方6時にロンドンを発ち、翌日の13時に成田空港に到着です。つまり、続けて2晩、機内泊となります。いえ、テルアビブとロンドン間は時差があっても飛行時間が3時間なので、2時間眠れればよい方です。実質、徹夜に近いでしょう。<br /><br />ところで、ホテルからテルアビブ空港へは、フロントの人の話では、シャトルバスが出るということでした。空港へのシャトルバスと聞いて、てっきり滞在客のための無料サービスだと思い込んでしまった私。出国税は航空券の代金に含まれていることだし、安心して、イスラエルのお金であるシェケルを使い切ってしまいました。<br /><br />そうして予約した時間の19時半にやって来たのは、ミニ・バスです。中には先客がいました。そうか、シャトルバスといっても、いくつかのホテルで提携していているんだな、だから、きっと、別のホテルから乗ってきた人だな……とのん気に構えていたら、おやおや、途中、個人宅からも客を拾っていくではありませんか。空港近くになってみんながお金を用意し出すのを見て初めて、無料のシャトルバスなんかじゃなくて、いわゆる乗合タクシーである「シェルート」のようなものだと気が付きました。冷や汗たらり……。ああ、タクシーの中で I have no cash. と言わねばならない恥ずかしさ! しかも、他に6人も客がいる中で……。(I have no money. じゃありませんよ、念のため)<br /><br />でも、行き先が空港だったので、助かりました。 夜遅くても銀行は開いていて、米ドルのトラベラーズ・チェックを換金することができましたから。

1998年秋のイスラエル旅行11日間(9日目:ベツレヘムほか半日ツアー&イスラエル出国)

1いいね!

1998/09/17 - 1998/09/17

87位(同エリア93件中)

0

9

まみ

まみさん

本日は強行軍になります。まず、朝にホテルをチェックアウトした後、荷物をホテルに預けて、午前中は、エゲッド社のベツレヘム&ヤド・ヴァシームめぐりの半日ツアーです。午後は自由行動。そして夕方くらいにホテルに戻った後は、イスラエル出国です。ガイドブックにも注意されているとおり、イスラエル出国にあたってのセキュリティーチェックなどふつうの空港よりも時間がかかるので、フライトの2時間前ではなく、遅くとも3時間前には空港に到着していなければなりません。

フライトは、テルアビブ空港発夜中の2時半で、早朝4時半にロンドン・スタンステット空港に到着予定です。そして、ヒースロー空港に移動ついでに休まずしっかりロンドン観光した後、順調に席がとれれば──なにしろ、旅行代理店で手配したはずのフライトは、帰りの便がキャンセル待ちで予約がとれていませんでしたから──夕方6時にロンドンを発ち、翌日の13時に成田空港に到着です。つまり、続けて2晩、機内泊となります。いえ、テルアビブとロンドン間は時差があっても飛行時間が3時間なので、2時間眠れればよい方です。実質、徹夜に近いでしょう。

ところで、ホテルからテルアビブ空港へは、フロントの人の話では、シャトルバスが出るということでした。空港へのシャトルバスと聞いて、てっきり滞在客のための無料サービスだと思い込んでしまった私。出国税は航空券の代金に含まれていることだし、安心して、イスラエルのお金であるシェケルを使い切ってしまいました。

そうして予約した時間の19時半にやって来たのは、ミニ・バスです。中には先客がいました。そうか、シャトルバスといっても、いくつかのホテルで提携していているんだな、だから、きっと、別のホテルから乗ってきた人だな……とのん気に構えていたら、おやおや、途中、個人宅からも客を拾っていくではありませんか。空港近くになってみんながお金を用意し出すのを見て初めて、無料のシャトルバスなんかじゃなくて、いわゆる乗合タクシーである「シェルート」のようなものだと気が付きました。冷や汗たらり……。ああ、タクシーの中で I have no cash. と言わねばならない恥ずかしさ! しかも、他に6人も客がいる中で……。(I have no money. じゃありませんよ、念のため)

でも、行き先が空港だったので、助かりました。 夜遅くても銀行は開いていて、米ドルのトラベラーズ・チェックを換金することができましたから。

PR

  • 話を、午前に参加したベツレヘム&ヤド・ヴァシーム・ツアーまで戻しましょう。<br /><br />ベツレヘムは、もっと発音に忠実に表記すると、「ベト・レヘム」です。「ト」は飲み込むかんじに弱く、「ヘ」は口から息を強く出しながら発音します。イスラエルの他の地名もそうですが、ほとんどがもともとヘブライ語かアラビア語の地名なので、英語のスペルは正確な発音を反映していません。「ベト・レヘム」の意味は、文字どおりでは「パンの家」です。ただし、この場合の「パン」とは、イエスが「これは私の肉であり、血である」と言ったパンとぶどう酒のパンです。よって「ベト・レヘム」とは「イエスの肉体の家」、つまり「神の家」という意味になります。なるほど、ぴったりかもしれません。なにしろ、ベツレヘムはイエスの生まれた場所とされているのですから。しかし、町は完全にアラブの町でした。当然です。パレスチナ自治区の町なのですから。<br /><br />ベツレヘムのイエスの生誕教会も、エルサレムの聖墳墓教会ほどではありませんでしたが、混み合っていて蒸し暑かったです。とりわけ、イエスが生まれた馬屋があったとされる場所は。でも、もともと狭い上に、誰もが見たがる所なのですから、仕方がありません。<br /><br />写真は、ベツレヘムのイエス生誕教会の屋根です。違う宗教のシンボルが1つの教会にあるのが興味深くてファインダーに収めました。生誕教会は、カトリック、アルメニア派、ギリシャ正教の3宗派の管理下にあり、協会内はこれら3つの宗派できっちりセクションが分かれていました。

    話を、午前に参加したベツレヘム&ヤド・ヴァシーム・ツアーまで戻しましょう。

    ベツレヘムは、もっと発音に忠実に表記すると、「ベト・レヘム」です。「ト」は飲み込むかんじに弱く、「ヘ」は口から息を強く出しながら発音します。イスラエルの他の地名もそうですが、ほとんどがもともとヘブライ語かアラビア語の地名なので、英語のスペルは正確な発音を反映していません。「ベト・レヘム」の意味は、文字どおりでは「パンの家」です。ただし、この場合の「パン」とは、イエスが「これは私の肉であり、血である」と言ったパンとぶどう酒のパンです。よって「ベト・レヘム」とは「イエスの肉体の家」、つまり「神の家」という意味になります。なるほど、ぴったりかもしれません。なにしろ、ベツレヘムはイエスの生まれた場所とされているのですから。しかし、町は完全にアラブの町でした。当然です。パレスチナ自治区の町なのですから。

    ベツレヘムのイエスの生誕教会も、エルサレムの聖墳墓教会ほどではありませんでしたが、混み合っていて蒸し暑かったです。とりわけ、イエスが生まれた馬屋があったとされる場所は。でも、もともと狭い上に、誰もが見たがる所なのですから、仕方がありません。

    写真は、ベツレヘムのイエス生誕教会の屋根です。違う宗教のシンボルが1つの教会にあるのが興味深くてファインダーに収めました。生誕教会は、カトリック、アルメニア派、ギリシャ正教の3宗派の管理下にあり、協会内はこれら3つの宗派できっちりセクションが分かれていました。

  • ベツレヘムの生誕教会の中です。ここはギリシャ正教の管理エリアです。ガイドのおじさんに、あのランプは値段をつけようのないくらいものすごい価値のランプだ、と言われたので、カメラに収めました。<br /><br />教会内は2列の柱廊を持つバジリカ様式でした。

    ベツレヘムの生誕教会の中です。ここはギリシャ正教の管理エリアです。ガイドのおじさんに、あのランプは値段をつけようのないくらいものすごい価値のランプだ、と言われたので、カメラに収めました。

    教会内は2列の柱廊を持つバジリカ様式でした。

  • ベツレヘムの生誕教会の中です。豪華なシャンデリア。<br /><br />ところで、ここが、イエス生誕の場所だというのも、実は全く推測の域を出ません。イエスの両親であるマリアや大工のヨセフは、ガリラヤ湖周辺のナザレの人です。ベツレヘムをイエス生誕の場所とする一つの根拠として、ツアーガイドのおじさんが話してくれたところによると、現在、この生誕教会が建っている下に、ビザンチン時代のモザイクで飾られた床や壁跡が発見されたからだそうです。当時、モザイクで飾られた建物といえば、金持ちの豪邸か、宿屋やシナゴーグ(ユダヤ教徒の集会所)のような共同の建物くらいでした。そのため、ここに、イエスが生まれた時代には宿屋があったと推定され、そして建物の構造から馬屋の位置が計算されたというわけです。

    ベツレヘムの生誕教会の中です。豪華なシャンデリア。

    ところで、ここが、イエス生誕の場所だというのも、実は全く推測の域を出ません。イエスの両親であるマリアや大工のヨセフは、ガリラヤ湖周辺のナザレの人です。ベツレヘムをイエス生誕の場所とする一つの根拠として、ツアーガイドのおじさんが話してくれたところによると、現在、この生誕教会が建っている下に、ビザンチン時代のモザイクで飾られた床や壁跡が発見されたからだそうです。当時、モザイクで飾られた建物といえば、金持ちの豪邸か、宿屋やシナゴーグ(ユダヤ教徒の集会所)のような共同の建物くらいでした。そのため、ここに、イエスが生まれた時代には宿屋があったと推定され、そして建物の構造から馬屋の位置が計算されたというわけです。

  • イエスが生まれたとされるまさにその場所は、真ん中に丸い穴が空いた星型の銀プレートで飾られていました。信者は、その銀プレートを触ったり、その穴の中に手を突っ込むことで祝福されたと考えます。その周りは、暖炉に似ていました。そのマントルピースもどきの上や周囲は、聖墳墓教会ほどゴテゴテに飾り立てられていなくてホッとしましたが、隣にマリアが休んだ床のセットが展示されているのは、やや芝居ががかって見えました。<br /><br />そんなことを思いながら、私は一応、その星型の銀プレートの写真だけ撮って見学を終わらせたのですが、私たちの後ろに並んでいたのが、観光を兼ねた巡礼の団体だったらしく、各人、頭を垂れて十字を切りながら、穴の中に手を突っ込んで、土に触れていきます。中には、銀のプレートに祝福のキスしていく人もいます。見ると、次の人も同様に、手を突っ込んで、プレートにキスしています。次の人も、次の人も……。あらあら、それじゃ、間接キスじゃないかしら、と思ってしまったのは、不謹慎でしょうか。<br /><br />写真は、イエス生誕の洞窟です。こんな風に飾られてしまっていると、イエスが生まれた聖書のエピソード場面を思い浮かべるのは難かしいです。イエス生誕の場所は、下の部分の大理石に銀の星型プレートがあります。

    イエスが生まれたとされるまさにその場所は、真ん中に丸い穴が空いた星型の銀プレートで飾られていました。信者は、その銀プレートを触ったり、その穴の中に手を突っ込むことで祝福されたと考えます。その周りは、暖炉に似ていました。そのマントルピースもどきの上や周囲は、聖墳墓教会ほどゴテゴテに飾り立てられていなくてホッとしましたが、隣にマリアが休んだ床のセットが展示されているのは、やや芝居ががかって見えました。

    そんなことを思いながら、私は一応、その星型の銀プレートの写真だけ撮って見学を終わらせたのですが、私たちの後ろに並んでいたのが、観光を兼ねた巡礼の団体だったらしく、各人、頭を垂れて十字を切りながら、穴の中に手を突っ込んで、土に触れていきます。中には、銀のプレートに祝福のキスしていく人もいます。見ると、次の人も同様に、手を突っ込んで、プレートにキスしています。次の人も、次の人も……。あらあら、それじゃ、間接キスじゃないかしら、と思ってしまったのは、不謹慎でしょうか。

    写真は、イエス生誕の洞窟です。こんな風に飾られてしまっていると、イエスが生まれた聖書のエピソード場面を思い浮かべるのは難かしいです。イエス生誕の場所は、下の部分の大理石に銀の星型プレートがあります。

  • イエス生誕の場所を示す銀の星型プレートです。大理石の赤い模様が血が染み付いたように見えて、ギョッとしました。それにしても、キリストゆかりの地点は、こうやって目立たせないと気がすまないんだなぁと、ちょっと呆れました。<br /><br />この星型は、一応、東方三賢者がイエスの誕生を知り、ひと目でも拝もうと星に導びかれてやってきたというエピソードにちなみ、その星をかたどったものだそうです。<br /><br />ちなみに、イエスの生誕を祝うクリスマスは、イスラエルでは年に3回行われるそうです。イスラエルの親たちは、子供たちにクリスマス・プレゼントを3回用意しなければならないのです───というのは冗談です。なぜかというと話は単純。クリスマスが3回あるのは宗派によって祝う日が違うせいなので、一つの家庭が3つもの宗派に同時に所属していることは、普通、有り得ないからです。私たちもよく知っている12月25日をクリスマスとするのはカトリック教会です。ロシア正教は、1月7日がクリスマスです。東方の三賢者が贈り物を持って、生まれたばかりのイエスに逢いに馬屋までやってきたとされる日です。そしてアルメニア教会は1月19日。こちらは、聖誕祭だけを独自に祝わず、キリスト公現祭と一緒に祝うそうです。

    イエス生誕の場所を示す銀の星型プレートです。大理石の赤い模様が血が染み付いたように見えて、ギョッとしました。それにしても、キリストゆかりの地点は、こうやって目立たせないと気がすまないんだなぁと、ちょっと呆れました。

    この星型は、一応、東方三賢者がイエスの誕生を知り、ひと目でも拝もうと星に導びかれてやってきたというエピソードにちなみ、その星をかたどったものだそうです。

    ちなみに、イエスの生誕を祝うクリスマスは、イスラエルでは年に3回行われるそうです。イスラエルの親たちは、子供たちにクリスマス・プレゼントを3回用意しなければならないのです───というのは冗談です。なぜかというと話は単純。クリスマスが3回あるのは宗派によって祝う日が違うせいなので、一つの家庭が3つもの宗派に同時に所属していることは、普通、有り得ないからです。私たちもよく知っている12月25日をクリスマスとするのはカトリック教会です。ロシア正教は、1月7日がクリスマスです。東方の三賢者が贈り物を持って、生まれたばかりのイエスに逢いに馬屋までやってきたとされる日です。そしてアルメニア教会は1月19日。こちらは、聖誕祭だけを独自に祝わず、キリスト公現祭と一緒に祝うそうです。

  • ベツレヘムの町の写真です。ベツレヘムはパレスチナ自治区内にあり、すっかりアラブの町となっています。真ん中に見えるモスクの塔は、受胎告知モスクのものだそうです。

    ベツレヘムの町の写真です。ベツレヘムはパレスチナ自治区内にあり、すっかりアラブの町となっています。真ん中に見えるモスクの塔は、受胎告知モスクのものだそうです。

  • これもアラブの町ベツレヘムの写真です。左端に見えるのも、アラブらしい建物です。<br /><br />ツアーでは次に、「ヤド・ヴァシーム」へ行きました。あいにく写真は撮っていません。<br /><br />「ヤド・ヴァシーム」とは、ホロコースト犠牲者の記念碑です。「ヤド・ヴァシーム」全体はかなり広い公園になっています。もしガイドの説明がなかったら、建物の一つ一つ、彫刻の一つ一つ、植林の一つ一つに意味があることなど知らないまま、ただの散歩で終わっていたかもしれません。<br /><br />一番印象に残ったのは、やはり子供メモリアルです。ナチスによって殺された150万の子供たちを悼んで建てられた丸ドーム状の建物です。真っ暗な内部、鏡の向こうに灯された無数のろうそくの明りが、辺り一面、星のようにちらちら瞬いて、とても幻想的でした。ホロコースト博物館の方はざっと見てまわっただけでしたが、アウシュヴッツの写真には絶句しました。この手の写真をまともに見たのはこれが初めてです。折り重なった死体の扱いは、壊れたマネキン以下でした。また、後は処刑を待つだけだから……と、服を剥ぎ取られて素っ裸で引っ立てられていた女の人たちの写真は、同じ女性として、余計に胸がつまりました。<br /><br />また、「ヤド・ヴァシーム」の庭園には、ユダヤ人をナチスから救った外国人を記念した樹木が植えられています。ツアーガイドのおじさんは、日本人の私のために、杉原千畝さんを記念した植樹のありかも示してくれました。<br /><br />杉原千畝さん(1900〜1986年)は、第二次世界大戦中に、ユダヤ人へのビザ発給によって6000人の湯田人をナチスの犠牲から救った外交官です。政府の指示に背いて、自らの危険を顧みずに。杉原さんのことは、このイスラエル旅行に出かける直前くらいに初めて知りました。

    これもアラブの町ベツレヘムの写真です。左端に見えるのも、アラブらしい建物です。

    ツアーでは次に、「ヤド・ヴァシーム」へ行きました。あいにく写真は撮っていません。

    「ヤド・ヴァシーム」とは、ホロコースト犠牲者の記念碑です。「ヤド・ヴァシーム」全体はかなり広い公園になっています。もしガイドの説明がなかったら、建物の一つ一つ、彫刻の一つ一つ、植林の一つ一つに意味があることなど知らないまま、ただの散歩で終わっていたかもしれません。

    一番印象に残ったのは、やはり子供メモリアルです。ナチスによって殺された150万の子供たちを悼んで建てられた丸ドーム状の建物です。真っ暗な内部、鏡の向こうに灯された無数のろうそくの明りが、辺り一面、星のようにちらちら瞬いて、とても幻想的でした。ホロコースト博物館の方はざっと見てまわっただけでしたが、アウシュヴッツの写真には絶句しました。この手の写真をまともに見たのはこれが初めてです。折り重なった死体の扱いは、壊れたマネキン以下でした。また、後は処刑を待つだけだから……と、服を剥ぎ取られて素っ裸で引っ立てられていた女の人たちの写真は、同じ女性として、余計に胸がつまりました。

    また、「ヤド・ヴァシーム」の庭園には、ユダヤ人をナチスから救った外国人を記念した樹木が植えられています。ツアーガイドのおじさんは、日本人の私のために、杉原千畝さんを記念した植樹のありかも示してくれました。

    杉原千畝さん(1900〜1986年)は、第二次世界大戦中に、ユダヤ人へのビザ発給によって6000人の湯田人をナチスの犠牲から救った外交官です。政府の指示に背いて、自らの危険を顧みずに。杉原さんのことは、このイスラエル旅行に出かける直前くらいに初めて知りました。

  • ツアーが終わった後、午後は、もう一つの「ゴルゴダの丘」とされている「園の墓」に向かいました。「もう一つ」とは、多数派意見では、現在、聖墳墓教会がある場所の方が「ゴルゴダの丘」ということになっているからです。なにしろ、ビザンチン時代の4世紀初頭、コンスタンティヌス帝(ミラノ勅令でキリスト教を国教化した皇帝)の信仰厚き母后ヘレナが、こここそ、イエスが十字架に掛けられた場所に「ちがいない」、と当時のその筋の専門家(要するに、当時のエルサレムの主教)と一緒に確定したからこそ、聖墳墓教会が建てられたのですから。ただ、聖墳墓教会を建てる時に土地をならしてしまったので、今や「丘」というのは影も形もありません。<br /><br />しかし、英国国教会が管理しているという「園の墓」の方は、考古学的根拠は更にないのですが、雰囲気だけは、ゴルゴダの丘っぽいまま保存されているらしいのです。そうと知って私がぜひ見に行かなくちゃ、と思うのは当然でしょう。なにしろ、イエスゆかりの地といわれている所ほど、当時の雰囲気が跡形もない所ばかりだったのですから。<br /><br />実は、4日前の日曜日の午後も、「園の墓」を求めて、東エルサレム地区をさまよいました。その時は非常に疲れていたから辛かったです。それに、「園の墓」は案外マイナーなのか、道行く人に聞いても、とんちんかんな答えばかり返ってきます。でも、聖書の舞台としてのイメージの沸くところをひと目でも見たい、と気力で探し回りました。そして、いかにもイエスが葬られた場所の雰囲気がする墓場を見つけたのはいいのですが、「園の墓」自体は、日曜日なのでお休みでした……。<br /><br />それで、やっぱり悔しくて、今日こそは!と思って再びやって来たわけですが……なんのことはない、「園の墓」に入れたからといって、かの墓場内に入れるわけではなくて、庭園のテラスから見上げるだけのことでした。それだったら、日曜日にたどり着いた、アラブ・バス・ステーションから見上げるのとあまり変わらないじゃない!───「園の墓」が、お花の庭園と割り切ってやってくれば、がっかりしないですんだでしょう。いや、とりあえず、イエスの時代の典型的な墓という洞窟は一応、あって、見学させてもらいました。後は、ちょっとした花壇散歩を楽しむくらいです。ギフトショップを覗くと、「園の墓」で作られたハーブや、花の写真やスケッチが売られていました。<br /><br />写真は、アラブ・バス・ステーションから見上げて撮った「園の墓」の写真です。「園の墓」では期待外れでしたので、もう1度アラブ・バス・ステーションまで下りて写真を撮りました。といっても、イエスが亡くなった当時の墓は天然の洞窟が使われていたので、崖の上に見える墓ではなく、下の岩場が、イエスの時代の墓を再現したものになります。

    ツアーが終わった後、午後は、もう一つの「ゴルゴダの丘」とされている「園の墓」に向かいました。「もう一つ」とは、多数派意見では、現在、聖墳墓教会がある場所の方が「ゴルゴダの丘」ということになっているからです。なにしろ、ビザンチン時代の4世紀初頭、コンスタンティヌス帝(ミラノ勅令でキリスト教を国教化した皇帝)の信仰厚き母后ヘレナが、こここそ、イエスが十字架に掛けられた場所に「ちがいない」、と当時のその筋の専門家(要するに、当時のエルサレムの主教)と一緒に確定したからこそ、聖墳墓教会が建てられたのですから。ただ、聖墳墓教会を建てる時に土地をならしてしまったので、今や「丘」というのは影も形もありません。

    しかし、英国国教会が管理しているという「園の墓」の方は、考古学的根拠は更にないのですが、雰囲気だけは、ゴルゴダの丘っぽいまま保存されているらしいのです。そうと知って私がぜひ見に行かなくちゃ、と思うのは当然でしょう。なにしろ、イエスゆかりの地といわれている所ほど、当時の雰囲気が跡形もない所ばかりだったのですから。

    実は、4日前の日曜日の午後も、「園の墓」を求めて、東エルサレム地区をさまよいました。その時は非常に疲れていたから辛かったです。それに、「園の墓」は案外マイナーなのか、道行く人に聞いても、とんちんかんな答えばかり返ってきます。でも、聖書の舞台としてのイメージの沸くところをひと目でも見たい、と気力で探し回りました。そして、いかにもイエスが葬られた場所の雰囲気がする墓場を見つけたのはいいのですが、「園の墓」自体は、日曜日なのでお休みでした……。

    それで、やっぱり悔しくて、今日こそは!と思って再びやって来たわけですが……なんのことはない、「園の墓」に入れたからといって、かの墓場内に入れるわけではなくて、庭園のテラスから見上げるだけのことでした。それだったら、日曜日にたどり着いた、アラブ・バス・ステーションから見上げるのとあまり変わらないじゃない!───「園の墓」が、お花の庭園と割り切ってやってくれば、がっかりしないですんだでしょう。いや、とりあえず、イエスの時代の典型的な墓という洞窟は一応、あって、見学させてもらいました。後は、ちょっとした花壇散歩を楽しむくらいです。ギフトショップを覗くと、「園の墓」で作られたハーブや、花の写真やスケッチが売られていました。

    写真は、アラブ・バス・ステーションから見上げて撮った「園の墓」の写真です。「園の墓」では期待外れでしたので、もう1度アラブ・バス・ステーションまで下りて写真を撮りました。といっても、イエスが亡くなった当時の墓は天然の洞窟が使われていたので、崖の上に見える墓ではなく、下の岩場が、イエスの時代の墓を再現したものになります。

  • 少しアングルを変えて撮った「園の墓」の写真です。このすぐ下はアラブ・バス・ステーションなので、グリーンのラインの入ったバスがたくさん駐車していました。<br /><br />これが、イスラエル旅行で撮った最後の写真です。<br /><br />その後は、一昨日の火曜の夜に決心したとおり、もう一回、イスラエル博物館に向かいました。これで、昨日のツアーのときに訪れたのを含めて、4回目になります。通算、約7時間。イスラエル博物館は半券を持っていると再訪半額の特典がありますが、残念ながら2度目以降は受けられませんでした。でも、火曜の夜に見終わらせることができなかったユダヤ文化コレクション部門に絞ってゆっくり見学することができたので満足です。閉館まで一時間しかありませんでしたが、今日のツアーガイドのおじさんの話でも何度か出てきたユダヤ教の三大行事、「過越しの祭(パサハ)」、「仮庵の祭り(スコート)」、それから「大贖罪の日(ヨム・キップール)」については、パネルの解説を丁寧に読みました。<br /><br />これらを簡単に説明しますと、まず「過越しの祭(パサハ)」とは、ある災厄が自分たちユダヤ人の家庭だけは「過ぎ越して」いったことを記念した祭りです。出典は旧約聖書の「出エジプト記」です。では、なんの災厄が「過ぎ越して」いったのか? ───かつてモーゼが、エジプトで奴隷状態に陥っていたユダヤ人を、神の導きのもとにエジプトから出国させるためにファラオに許可を願い出た時。ファラオがあんまり頑固なので、モーゼはユダヤの神の偉大さをみせつけるために10の災厄をエジプトにもたらしました。その最後の災厄は、全ての家庭の第一子目の男児を死なせるというものでした。しかし、しるしとして子羊の血を入口の扉なすりつけて、その肉を食べたユダヤ人の家だけは、その災厄は「過ぎ越して」いったのです───。はっきり言って、これは、あまり趣味のいい記念日とは思えません。他者の悲しみと引き比べて自分たちの優位性を誇ったような、ユダヤ人の選民思想がプンプンするので、私は好きではありません。<br /><br />「過越しの祭(パサハ)」に比べると、残りの2つはそんなに悪くないと思いました。まず、「仮庵の祭り(スコート)」は、エジプトを出国(出エジプト)したユダヤ人が、神に約束された土地カナンにたどりつくまで40年間の荒野を放浪した辛苦の歴史を偲ぶ祭りです。これも、実に古い出来事を偲ぶ祭りだなぁ、と最初は思いましたが、考えてみるとユダヤ人の放浪の苦難は、なにも旧約聖書の時代に限りません。中世から近・現代に至り、イスラエルが建国されるまで、ユダヤ人は離散(ディアスポラ)した先々でたびたび激しい迫害の嵐にさらされてきました。そのたびに新天地をめざして旅立たなければ、生き残れませんでした。ユダヤ人の歴史は、約束の地を求めての放浪の繰り返しとも言えるのです。ちなみに、新天地発見に熱心だった、かのコロンブスも、どうやらユダヤ人だったようです。少なくとも彼の腹心の部下たちはユダヤ人ばかりでした。<br /><br />「大贖罪の日(ヨム・キップール)」は、神に向かって一年の罪を贖罪する日です。これはユダヤ教徒にとって最も大事な行事で、この祝日だけは二日間にわたってめいいっぱい祝うそうです。ただし、この日に贖罪するのは神に対する罪です。つまり、戒律をきちんと守ったかどうか、神を畏れたたえて、他の神や宗教に浮気しなかったかなどです。法律に背いたとか、他人に迷惑をかけたとか、私たちがふつうに思い浮かべる罪とは隣人に対する罪であって、この日の贖罪とは関係ありません。だから、極端なことを言うと、仕事を怠け、他人と諍いを起こし、酒と女に溺れて自堕落な生活をしていた人間が、神に対する贖罪はきちっと果たしたので天国に迎えられ、逆に、清廉潔白な日々を送り、他人に誠実だが、勤勉がたたって神に贖罪し損ねた人間が地獄に落ちるという、私たちの感覚ではどうも納得できないことも、ユダヤ教の考えでは正しいのです───とは、ユダヤ砂漠サファリ・ツアーのガイドのモティさんが冗談交じりに話してくれたことです。しかし、これはかなりのところ、ユダヤ教の本質を突いているのだろうと思いました。ユダヤ教は、あくまで神の愛を求める宗教なのです。それも、気まぐれで暴力的で理不尽で、人間のものさしでは測れない神。<br /><br />しかし、考えてみると、その神は、人間には測り知れない厳しい自然を具現化したものに似ている気がします。だとすると、自然の全ての物の中に神の存在を見るアニミズムの多神教と、根っこのところはあまり変わらないのかもしれません───とは、極論でしょうか。<br /><br />ところで、イスラエルでは西暦も使われていますが、正式な暦は太陰暦のユダヤ教暦です。1年が太陽暦より10〜11日ほど短くなります。宗教行事は当然、このユダヤ教暦に従うので、西暦で言うと、毎年、日がずれます。しかも、一日とは日没から日没なので、季節によって時間もずれます。<br /><br />ちなみに、今年、1998年度のヨム・キップールは9月21日と22日になります。ついでに言うと、新年こと「ローシュ・ハシャーナ」は9月30日になります。短い観光日程を有意義に過ごしたいと思ったら、ユダヤ人に知り合いがいて、宗教行事に参加あるいはせめて見学させてくれるというのではない限り、こうした祝日はさけるのが無難でしょう。滞在が長ければ、こういった祝祭日の過ごし方を見学するのもよいかもしれませんが、観光場所はおろか、商店もレストランも銀行も郵便局も閉まってしまい、さらには交通もままならなくなるからです。今回の私の旅程は、9月9日〜19日(イスラエル出国は17日)。9月15日の「敬老の日」を入れ込むことはできましたが、23日の「秋分の日」とつなげるのは、ヨム・キップールとぶつかるのであきらめました。

    少しアングルを変えて撮った「園の墓」の写真です。このすぐ下はアラブ・バス・ステーションなので、グリーンのラインの入ったバスがたくさん駐車していました。

    これが、イスラエル旅行で撮った最後の写真です。

    その後は、一昨日の火曜の夜に決心したとおり、もう一回、イスラエル博物館に向かいました。これで、昨日のツアーのときに訪れたのを含めて、4回目になります。通算、約7時間。イスラエル博物館は半券を持っていると再訪半額の特典がありますが、残念ながら2度目以降は受けられませんでした。でも、火曜の夜に見終わらせることができなかったユダヤ文化コレクション部門に絞ってゆっくり見学することができたので満足です。閉館まで一時間しかありませんでしたが、今日のツアーガイドのおじさんの話でも何度か出てきたユダヤ教の三大行事、「過越しの祭(パサハ)」、「仮庵の祭り(スコート)」、それから「大贖罪の日(ヨム・キップール)」については、パネルの解説を丁寧に読みました。

    これらを簡単に説明しますと、まず「過越しの祭(パサハ)」とは、ある災厄が自分たちユダヤ人の家庭だけは「過ぎ越して」いったことを記念した祭りです。出典は旧約聖書の「出エジプト記」です。では、なんの災厄が「過ぎ越して」いったのか? ───かつてモーゼが、エジプトで奴隷状態に陥っていたユダヤ人を、神の導きのもとにエジプトから出国させるためにファラオに許可を願い出た時。ファラオがあんまり頑固なので、モーゼはユダヤの神の偉大さをみせつけるために10の災厄をエジプトにもたらしました。その最後の災厄は、全ての家庭の第一子目の男児を死なせるというものでした。しかし、しるしとして子羊の血を入口の扉なすりつけて、その肉を食べたユダヤ人の家だけは、その災厄は「過ぎ越して」いったのです───。はっきり言って、これは、あまり趣味のいい記念日とは思えません。他者の悲しみと引き比べて自分たちの優位性を誇ったような、ユダヤ人の選民思想がプンプンするので、私は好きではありません。

    「過越しの祭(パサハ)」に比べると、残りの2つはそんなに悪くないと思いました。まず、「仮庵の祭り(スコート)」は、エジプトを出国(出エジプト)したユダヤ人が、神に約束された土地カナンにたどりつくまで40年間の荒野を放浪した辛苦の歴史を偲ぶ祭りです。これも、実に古い出来事を偲ぶ祭りだなぁ、と最初は思いましたが、考えてみるとユダヤ人の放浪の苦難は、なにも旧約聖書の時代に限りません。中世から近・現代に至り、イスラエルが建国されるまで、ユダヤ人は離散(ディアスポラ)した先々でたびたび激しい迫害の嵐にさらされてきました。そのたびに新天地をめざして旅立たなければ、生き残れませんでした。ユダヤ人の歴史は、約束の地を求めての放浪の繰り返しとも言えるのです。ちなみに、新天地発見に熱心だった、かのコロンブスも、どうやらユダヤ人だったようです。少なくとも彼の腹心の部下たちはユダヤ人ばかりでした。

    「大贖罪の日(ヨム・キップール)」は、神に向かって一年の罪を贖罪する日です。これはユダヤ教徒にとって最も大事な行事で、この祝日だけは二日間にわたってめいいっぱい祝うそうです。ただし、この日に贖罪するのは神に対する罪です。つまり、戒律をきちんと守ったかどうか、神を畏れたたえて、他の神や宗教に浮気しなかったかなどです。法律に背いたとか、他人に迷惑をかけたとか、私たちがふつうに思い浮かべる罪とは隣人に対する罪であって、この日の贖罪とは関係ありません。だから、極端なことを言うと、仕事を怠け、他人と諍いを起こし、酒と女に溺れて自堕落な生活をしていた人間が、神に対する贖罪はきちっと果たしたので天国に迎えられ、逆に、清廉潔白な日々を送り、他人に誠実だが、勤勉がたたって神に贖罪し損ねた人間が地獄に落ちるという、私たちの感覚ではどうも納得できないことも、ユダヤ教の考えでは正しいのです───とは、ユダヤ砂漠サファリ・ツアーのガイドのモティさんが冗談交じりに話してくれたことです。しかし、これはかなりのところ、ユダヤ教の本質を突いているのだろうと思いました。ユダヤ教は、あくまで神の愛を求める宗教なのです。それも、気まぐれで暴力的で理不尽で、人間のものさしでは測れない神。

    しかし、考えてみると、その神は、人間には測り知れない厳しい自然を具現化したものに似ている気がします。だとすると、自然の全ての物の中に神の存在を見るアニミズムの多神教と、根っこのところはあまり変わらないのかもしれません───とは、極論でしょうか。

    ところで、イスラエルでは西暦も使われていますが、正式な暦は太陰暦のユダヤ教暦です。1年が太陽暦より10〜11日ほど短くなります。宗教行事は当然、このユダヤ教暦に従うので、西暦で言うと、毎年、日がずれます。しかも、一日とは日没から日没なので、季節によって時間もずれます。

    ちなみに、今年、1998年度のヨム・キップールは9月21日と22日になります。ついでに言うと、新年こと「ローシュ・ハシャーナ」は9月30日になります。短い観光日程を有意義に過ごしたいと思ったら、ユダヤ人に知り合いがいて、宗教行事に参加あるいはせめて見学させてくれるというのではない限り、こうした祝日はさけるのが無難でしょう。滞在が長ければ、こういった祝祭日の過ごし方を見学するのもよいかもしれませんが、観光場所はおろか、商店もレストランも銀行も郵便局も閉まってしまい、さらには交通もままならなくなるからです。今回の私の旅程は、9月9日〜19日(イスラエル出国は17日)。9月15日の「敬老の日」を入れ込むことはできましたが、23日の「秋分の日」とつなげるのは、ヨム・キップールとぶつかるのであきらめました。

この旅行記のタグ

1いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

イスラエルで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
イスラエル最安 501円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

イスラエルの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP