2005/10/13 - 2004/10/13
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井上@打浦橋@上海さん
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日本人租界散策の第3弾です。次の第4弾で終わりです。
戦前の日本人居住区であります四川北路沿いは大きく変わって行ってます。道幅を広くする事業に伴い、古い建物が、ドンドン壊されていっています。2・3年前、散歩した時に見た風景がガラッと変わってしまっています。
横浜橋がスッカリ綺麗になり広くなってしまいました。
今回の散歩は横浜橋近辺から多倫路の北端までです。
金子光晴の住居・余慶坊、多倫路文化名人街、ラモス・アパートなどの様子をご覧ください。
表紙の写真は長春公寓(・・と思われる)です。
なお、この第3弾まで「日本人租界」という言い方して来ていましたが、
日本人租界とは俗称でして、正確には、英米共同租界のうちの日本人居留地ということです。
私のページを見て下さいました大学大先輩からお叱りを受けました。
私は、存じていましたが、タイトル表示としては「日本人租界」のほうが手頃で、
アッピール度があるというということで使用してきました。
第4弾が最終回となりますが、そこでも、あえて「日本人租界」と表記しますが、
その辺のことはご承知置きください。
-
今日も、我が愛用の17路・トロリーバスで四川北路まで行きました。
そこから、トコトコ北へ向かいます。
那家橋南路を超えて右にあったのが、この群集影劇院です。
昔は広東大戯院と言ったそうです。
このあたりは広東出身者が多く、その人たちのために粤劇(えつげき)の劇場として1931年に開かれたものだそうです。
今は、ゲームセンターなのかな・・・・ -
少し北に進み、右に現れた古そうな建物・・・
上海工芸美術品商場となってますね。
昔の名は守真堂となってます。
教会だったのか・・・。
教会っぽい建物ですし・・・。 -
横浜橋のたもとまできました。
随分スッキリ広くなりました。
まだ、工事中でした。 -
「横浜橋」となってます。
工事作業員のお茶とヤカンと上着が置いてあります。
横浜橋の横浜は、私の日本での住みかである横浜とは無関係です。
日本の横浜は、元字は「横濱」でして、「濱」は中国語では「ビン」と読みます。
横浜橋の「浜」はもともと、この字でして、「浜」はバンと読みます。
「浜」は上海では東西に流れる水路のことを言うようです。 -
横浜橋を渡り右に入り込む海倫西路沿いにあります3階建ての長屋住宅です。
-
永楽坊の入り口です。
この小区の一画に梅機関があったそうです。
梅機関とは、汪精衛の南京政府づくりのための工作機関でして、影佐禎昭大佐が中心人物だったらしいです。 -
梅機関はこの左の建物の中にあったのか・・・
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洗濯物とか布団で賑やかでしたのでパチリ!
-
このあたりに上海歌舞伎座とかブルーバードがあったはずなんですが・・・・
2つ並んだ建物、古そうですが、当時からのものなのかどうか・・・?
歌舞伎座と言っても、ただの映画館だったらしいです。
ブルーバードは当時虹口一番のクラブだったそうです。
阿片王の里見甫もよく来たそうです。
彼は酒を飲まずに。ハムエッグを食っていたとか・・。
「上海ラプソディー」のマヌエラさんも、上海に来て最初に踊っていたのはココだそうですが、マヌエラさん自身は、ブルーバードなんてドン臭いと、思っていたそうです。いずれ、フランス租界や英米共同租界のクラブで踊ることを夢見ていまして、それを実現してしまい、人気のダンサーになってしまいまいした。 -
学校の入り口です。
実験中学と言う看板が掲げられています。
昔の、上海日本尋常高等小学校です。 -
北部第一小学校と呼ぶ時代もあったようです。
1917年に鉄筋コンクリート造りの4階建ての校舎ができました。
その時代に、日本には、こんな立派な小学校があったのかどうか・・・無かったのかと思います。 -
柳林小区という小区です。
緑も多く、通路も広く、2階建てのレンガ造りの長屋も雰囲気があり、
風格のある小区です。
解放前は、赫林里と言っていたようです。
当時は、それなりの地位のある人たちが住んでいたのかもしれません。
[赫林里]で検索掛けましたら「長尾雨山」と言う人の名前が出て来ました。
当時ココに住んでいたらしいです。
長尾雨山に関しては・・・・
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0003.html
をご覧ください。
また、
http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/sen25.htm
のものを転記します。
[長尾雨山]
(元治1・9・18−昭和17・4・1)讃州高松の人。
名は甲。字は子生。通称槙太郎。別号を石隠・无悶道人・睡道人。(室名)无悶室。何遠楼。思斎堂。艸聖堂。他幼時、父の庭訓を受け、天稟の詩才を謳われた。
長じて駐日清国公使黎庶昌や書記官鄭孝胥などを驚かせた。鄭孝胥とは、生涯を通じて深厚を結んだ。岡倉天心と謀って東京美術学校の創立に尽くし又夏目漱石と同僚で親交が有り、詩の刪正もしたと伝えられる。明治35年東京大学を退官後、上海に移住し商務書館の編輯を督した。・・・・・・・・
上海には12年いたそうです。 -
四川北路から東に行く脇道に入って行きます。
狭い小道には道端で商売する人が3グループ。
カメラを向けましたら、白い服のオバちゃんが、撮るなぁーっ!!って怒鳴ってきました。
ニコニコしながら、大丈夫、大丈夫、と言いながら通り過ぎました。
コノ道の名は秦関路、昔の名は吟桂路です。
なんか意味ありげな名前です。 -
迷路のような小道です。
こういった小道でも、上海ですと、人はチラホラしてるんですが、ココは静かです。 -
中国建築風の教会・鴻徳堂の裏側です。
ゴミ置き場が合ったり、マットレスが置いてあったり・・・ -
秦関路を更に行きます。
左側は、倉庫なのか・・・・。 -
秦関路から東横浜路に出て、更に横浜路に入り、振り返りました。
この下町感、イイですね。 -
横浜路にあります景雲里という里弄です。
この中の集合住宅に魯迅が3年ほど住んでいたらしいです。
そのほか、柔石、茅盾、葉聖陶、周建人など作家が多く住んでいたようです。 -
景雲里の中の様子です。
-
自転車が置いてあり、モップが立てかけてある左の扉の中に魯迅が住んでたようです。
その扉の前で、編み物してるおばさんたちは、そのことを知ってるのかどうか・・・
金子光晴が魯迅と親交を持ったのは、三度目の滞在時だそうですが、その時に魯迅が住んでいたのが、ココらしいです。 -
東横浜路に戻り、多倫路に向かいます。
-
多倫路に出ました。
多倫路はL字型をしています。
まずはコーナーから東へ向かいます。
後ほど、コーナーから北へ向かう経路も案内します。 -
内山完造の像ですね。
魯迅と深い親交のあった人です。
後ろの店は画廊のようですね。 -
西欧風の3階建て集合住宅です。
-
先ほど裏側から見ました鴻徳堂です。
正面はやはり、風格があり立派です。
中国建築風の教会と言うことが、よく分かります。 -
多倫路の東側のゲートはもうスグです。
遠くに見えます。
左は紹興料理で有名な咸亨酒店です。
魯迅の小説で「孔乙己」というのがあります。
落ちぶれた孔乙己が、なけなしの金で飲みに来る居酒屋の名前が咸亨酒場でした。
彼はいつも立ち飲みコーナーで飲んでたようです。
ということで、この店の前には孔乙己の銅像があります。
咸亨酒店は上海市内に、このほかに3・4店あります。
北京にも北四環路の外にあります。
いずれも店の前には、孔乙己の銅像があります。
でも、この咸亨酒店は立派過ぎます。
居酒屋風となりますと、何と言っても、文廟の孔乙己酒家なのです。 -
デクスウェル・アパート(狄思威公寓)です。現在の名は溧陽大楼です。
1929年建造の鉄筋コンクリート6階建て。
当時でスチーム暖房、ガス設備、暖炉を備えていたとか・・・。 -
余慶坊の入り口です。
金子光晴が妻・森三千代と下宿した家が、この小区の中にあります。 -
金子光晴が余慶坊に初めて入り込んだときの様子を書いています・・・・
私たち三人は、日本人のたまりの虹口、文路(今の塘沽路)を抜けて、北四川路に出ると、北へ、北へ、車を走らせた。日本書店の内山完造さんの店のすじむかいの余慶坊(イイチンバン)という一画の入り口で車を下りた。ニ筋の路地を、表と裏がむかいあって、支那風な漆喰の二階建長屋がつづいている。入り口には雑貨屋と、熱湯を沸かして槽で売る店とが並んでいた。・・・・続きは下へ・・・
熱湯を売る店と言うのは老虎灶と言いまして、7・8年前は見かけましたが、今は見かけません。 -
この123号の扉の向こうが金子光晴夫婦の下宿先となります。
上に引き続き・・・・・・
大きなトランクを交代で曳きづって、路地を入っていくと、おなじような頑丈な鉄門を閉した家の四五軒目に、石丸りかという表札が出ていた。・・(中略)・・鉄錠を二つたたくと、甲高い老婆の声が「へーい。どなたでしゅ」とまぎれもない長崎なまりで返って来た。・・・・
とあります。 -
余慶坊をうろつき、北側へ行きました。
北側に見えて来ましたレンガ造りの建物は長春公寓の裏側でしょう。 -
余慶坊から四川北路に出て長春路に入りました。
長春公寓は上海歴史ガイドマップによりますと長春路の北側にあることになってますが、南側にあるこのレンガ造りの集合住宅が長春公寓だと、私は見てるんですが、どうなんでしょうか・・・。 -
長春公寓の東端の姿です。
立派ですね。 -
長春路から溧陽路に向かいます。
右の建物は長春路街道弁事所ですが、昔は北四川ロ巡捕房だったらしいです。巡捕房とは、なんだろう・・・。 -
溧陽路に出ました。この道を少し東に行き郭沫若寓所まで行き、また戻ってきます。
-
溧陽路です。
昔の名前はDixwell Road(狄思威路)です。
まるっきり、旧フランス租界の街並みです。
復興西路か衡山路近辺の道のようです。 -
やあ、立派なお邸です。
-
1269号が郭沫若寓所です。
外装修理のため竹の足場が架かっていました。
それにしても郭沫若は立派なところに住んでいたんですね。それに比べて魯迅の家のみすぼらしいこと・・・。 -
溧陽路をまた西へ戻り、四川北路に出て、南に下がり、また多倫路に入り、多倫路のL字のコーナー部分に戻ってきました。
ここから多倫路を北に行きます。
左の建物は教会なのか・・・・鐘楼があります。 -
多倫路の北へ向かう道並です。
ベンチには近所の爺ちゃん婆ちゃんが日がな一日・・
という感じです。
コレがイイですね。
多倫路文化名人街は淮海中路路の近くに出来た「新天地」に対抗して虹口区が造り出したものですが、この周辺の住民との密着感が、新天地にないところです。
新天地は、やはり、よそよそしい感じがします。
私などは、絶対、こちらのほうが落ち着けます。 -
永安里という小区の入り口です。
上のベンチで座っていました爺ちゃん、婆ちゃんは、ここの住人かもしれません。 -
左に入る脇の小道を行った所にある左聯成立大会地点です。今は中華芸術大学になってます。
中国左翼作家連盟の結成60周年を祈念して1990年に開館したものだそうです。 -
相当古い建物です、病院のようでした。
-
燕山別荘への小道に入りました。
この奥左側に鹿地亘(かじ・わたる)と言う人が住んでいたようです。
かじ・わたる・・・・聞いたことがあるような・・・
調べましたら「鹿地亘事件」と言うのがあったそうです。
某外国スパイと見られていたプロレタリア作家である鹿地氏が、
米軍に拉致されて1年後に釈放されたと言う事件です。
鹿地氏は内山完造とも親交があったようです。 -
多倫路の北のゲートが近づいてきました。
右側に知恩院がチラッと見えます。 -
多倫路北端にあります知恩院です。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・・
1924年建造のイスラムスタイルの建築。細かい細部の彫刻、列柱で支えられるアーケード式ベランダ、アラビアタイル貼りの壁面に特色ある。・・・・
となっています。
でも、知恩院ってくらいだから日本関連なのに、なんでイスラムだアラビアだになるんでしょうか・・・ -
多倫路を出て右に行ってスグのところにあるのが、ラモス・アパートです。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・
上海初期の映画館経営で著名なラモスの建てたアパート。鉄筋コンクリート造4階建。1978年屋上に1階建増す。魯迅が1930年5月から1933年4月まで内山完造名義で3階の4号室を借りて住む。
・・・・・となっています。 -
四川北路に出まして魯迅公園に向かいました。
正面の緑のカタマリの向こうが魯迅公園です。
今日の散歩はコレで終わりです。
帰りは、左に見えます18路バスを利用しまして斜土路まで行き、あとはタクシーで帰りました。
今日の経費
17路バス・・・・・・・・・・1元
缶ビール・・・・・・・・・・・3元
18路バス・・・・・・・・・・2元
タクシー・・・・・・・・・・10元
合計・16元でした。
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この旅行記へのコメント (11)
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- こまちゃんさん 2005/10/15 12:38:45
- 多倫路の名人街
- 写真歴史探検、とうとう多倫路の名人街にまで来られましたね。
ようこそ!
って、自分の町でもないのですが、実は虹口区、こまが初めて中国に住居を置いた所なんです。
名人街、今では綺麗に整備して虹口区の名所になっています。
過節時期には、内外の観光客でうじゃうじゃになる所。
こまが居た1995年には、質素で静かな老人達の憩いの場だったんですけどね。
しかし、四川路界隈はホンマ変わりましたねぇ〜〜〜(-ε-;ふぅ〜。。。
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2005/10/15 19:47:04
- 多倫路は新天地よりイイですよ
- こまちゃんさん、どうも。
多倫路は、なかなか地元密着でイイですよ。
新天地みたいな、取ってつけたような、よそよそしさはありません。
四川北路沿線は、しょうがないんでしょうね・・・・
道が狭すぎたから、拡幅工事で、どうしても思い切ったことせざるを得なかったんでしょう。
-
- Denilsonさん 2005/10/14 01:00:21
- 上海人
- 井上@打浦橋@上海の旅行記を読ませて頂きました。
東京で留学している上海人です。しばらくの間、帰国して、旅行したいと思います。上海のことをたくさん書いて、嬉しいですが、正直に言えば、都会なら、アジアで東京よりいい町がないと思います(実は私、都会嫌いです)
ですので、中国の旅行なら、都会より、自然と歴史のほうがいいと思います。
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2005/10/14 06:28:07
- 地元の人と、外からの旅行者の感覚は違うのです
- Denilsonさん、どうも、はじめまして。
あなた上海人ですか・・・・上海はどちらですか・・・私は盧湾区の打浦橋です。
都会嫌いですか・・・珍しいですね・・・上海人にしては・・・。
私の家族も上海人です。
ですから、私が、下町歩きをしてますと、なんであんなところへ行くの、なんて言います。
また道端の屋台で売ってるものを食べようとしますと、ダメだといいます。
先日、私のページを見てくれた日本からの旅行者と朱家角へ行きました。
彼らはその前日、上海市内観光をしたそうです。
上海人のガイドが付いたそうです。
私のページを見てから、上海に来られた方ですので、
下町っぽいところが好きでして、文廟付近の下町通りを散歩しようとしましたら、
上海人のガイドに、何で、そんなところに行くの言われて、嫌がられたそうです。
日本の町は、整然として静か。日本人は、そういうのが好きで、合ってるんでしょう。
でも、日本から出て、海外まで行ったら、別世界を求める人がいます。
また、日本人の中にも下町的ないくらか喧騒なところが、もともと好きな人も居ます。
この4travelの上海旅行記投票ランクがあります。
http://4travel.jp/overseas/area/asia/china/shanghai/travelogue/
をご覧ください。
1位は私の「上海の下町散歩・董家渡から文廟・孔乙己酒家まで」です。
上海には歴史がない、なぁんて・・・Denilsonさんは、北京人みたいな言い方しますね。
たしかに、上海は、ココ200年の歴史しか有りません・・・・・・・・
ですが、濃いものが、一杯詰まっています。それが、面白いのです。
都会好きの上海人も、近頃はDenilsonさんと同じように、自然や歴史に興味を
持ち始めてる人が多くなってるように思えます。
しかし「上海」は、上海の都会っぽさ、オールド上海が、上海の「売り」だと
分かってますから、そういう方向の街づくりをしています。
その開発事業に伴い、下町っぽいところは、ドンドン消えていってます。
と言うことで、私は、自分自身の記録として、楽しみとして、
下町の写真を撮っていこうと思っています。
Denilsonさん、いつか、上海でお会いしましょう。
- Denilsonさん からの返信 2005/10/14 12:07:29
- RE: 地元の人と、外からの旅行者の感覚は違うのです
- ご返信、有難うございます。
実は、私は建築専門で、大学の時、バンドとか、石窟門とか、いろいろ調査を行いました。素晴らしい建物だと思います。でも、最近の新しい建物はだめですね。学生たち、皆そう思っています。
もう2年上海に帰っていませんので、井上@打浦橋@上海さんの方が上海に詳しいかもしれませんね。
ええ、家。小さい頃は徐家○(何で読む?)中心部の下町に住んでいました。今、桂林公園近くの康建新村です。ええ、田舎?桂林公園の行事、桂花節、まだ行っていますか。高校は桂林公園の近くですので、懐かしいです。
上海の食べ物を食べたいです。大学の時、いつも友達と庶民レストランで食事していました。同済大学の周り、美味しいものいっぱいありました。今、まだ、やっていますか。松屋で牛丼とか、カレーとか、もう飽きました。
都会嫌い?人が多いのは大変です。今殆どありませんが、昔、バスに乗るのは戦争でした。ですので、東京通勤ラッシの地下鉄なんか、全然平気です。
18日の飛行機を予約しました。上海は私にとって、なんと新鮮な感じがします。わくわくしています。
- Denilsonさん からの返信 2005/10/14 12:17:30
- RE: RE: 地元の人と、外からの旅行者の感覚は違うのです
- ああ、思い出した。振○鶏、食べたいです。まだ、やっていますか。
- Denilsonさん からの返信 2005/10/14 12:45:56
- RE: RE: RE: 地元の人と、外からの旅行者の感覚は違うのです
- どこの投票、忘れましたが、行ってがっかりしたところの1位は上海で、悲しいです。理由を見ると、町が中途半端、水が臭い、マナーが悪い、事実だと思います。でも、人によって、見方は違いますね。東京はまるで機械なように、規則正しい動いているに対し、上海はまさにhappening多いの町です。矛盾溢れるの中国ですから、皮肉文化が日本より先進国ですね。
- Denilsonさん からの返信 2005/10/14 12:56:45
- RE: RE: RE: RE: 地元の人と、外からの旅行者の感覚は違うのです
- ちなみに、小学校はあの有名な徐家○天主教会の隣の第二中心小学校です。観光名所になるなんで、昔毎日飽きるほど見ていました。
すみません、もうすぐ帰るので、わくわくして、書き込みは止まれないです。
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2005/10/14 14:57:51
- 上海のことイロイロ
- Denilsonさん、儂好。
「Denilson」ってサッカーの選手のことですか・・・・?
いやぁ、たくさん返事が来ましたね。
「実は、私は建築専門で、大学の時、バンドとか、
石窟門とか、いろいろ調査を行いました」・・・・・
そうですか・・・
私は、全く専門的なことは分かりませんが、
外灘の建物や、石庫門住宅はイイなぁ、と思います。
上海のことは、
上海に住んでる上海人(95%以上の上海人)より、
私のほうが知ってるでしょう。
道のこともバスのことも・・・・。
町中で、道やバスのことをよく聞かれますが、
90%以上答えられますね。
子供の頃は、徐家匯の中心部と言うことですね。
いまや徐家匯は日本の渋谷か新宿って感じです。
いずれ、追い抜くでしょう。
桂林公園近くの康建新村は知ってますよ。
知り合いが上海師範大学で日本語教師をしてましたので、
あの辺りはよく行きました。
ジョギングで行ったことも何度かあります。
バスで行く時は打浦橋から43路バスですね。
昔は殆ど2階建バスでしたが、今は普通のバスと、半々ですね。
あなたも43路バスはよく利用しましたでしょう。
桂林公園は昔のヤクザの大親分・黄金栄の別荘でした。
あなた同済大学ですか・・・・優秀ですね。
同済大学あたりというのは詳しくないです。
四平路沿いですよね。
以前、自転車で五角場の更に向こうへ行った時に
見かけましたが・・・・。
振○鶏は振鼎鶏でしょう。
「鼎」は「かなえ」で出て来ます。
旨いです、ここの鶏肉は、私も大好き。
まだ、やってますよ、安心してください。
「理由を見ると、町が中途半端、水が臭い、マナーが悪い・・・・・」
水が臭い、マナーが悪い・・・・は未だに、という感じですが・・
いやいやマナーに関しては徐々によくなってきています。
町が中途半端・・・・は、そんなことないと思いますよ。
そういう人は分かてないんです。
中途半端と言うことでなくて、イロイロな顔があるということなんです。
「矛盾溢れる中国ですから、皮肉文化が日本より先進国」・・・・
正にそうです。
私なんか、もう、日本のキッチリしすぎる社会は、疲れますね。
「小学校はあの有名な徐家○天主教会の隣の第二中心小学校」
そうですか。
あそこは以前、上海歴史散歩の会で、ジックリ見学させてもらいました。
風格ありますね。
ああいうところで、勉強できたということは、誇りに思っていいです。
どんどん、気の済むまで書き込んでください。
- Denilsonさん からの返信 2005/10/15 12:47:42
- 一部の写真、見られないです。
- 一部の写真(5枚)、見られないです。なんでだろう?
Denilsonって、ブラジルのサッカー選手ですよ。ブラジルチーム、大好きです。
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2005/10/15 19:51:18
- 蘇州河の北側
- Denilsonさん、儂好。
やはりサッカーの選手でしたか。
Denilsonさんは、どうですか、四川北路まで来る事ありましたか・・・?
あまり、無かったのでは、と想像しますが・・。
なかなか、蘇州河の向こうに行くと言うことは無かったのかと思います。
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