≪青梅宿・千ヶ瀬の渡しと怪談・雪女≫
一歩人さん
多くの日記にご投票いただきありがとうございました。
さて、古い日記から拝見すると、青梅の御岳や昭和レトロ館の事が書かれていましたので、遅ればせながら、コメントさせていただきます。
以下は、青梅生まれの私が自分史の中に書いたものから、一部抜粋したものです。少々長くなりますが、ご参考まで。
≪青梅宿・千ヶ瀬の渡しと怪談・雪女≫
JR青梅駅を降りて、駅前のロータリーを大通りまで歩く。大通りを左手に行くと、丘の上に祀られた住吉神社があり、その少し先に信号があって、下り坂がずっと多摩川に向かって下りてゆく。
多摩川には今は3代目となる立派な調布橋がかかっているが、かつては“舟による渡し”があった。
我が実家は多摩川の河岸段丘が発展した青梅宿から一段下の段にある。つまり私が生まれたのはかつての調布村(合併前の名は千ヶ瀬村)である。多摩川に面した長方形の村であった。
私共が2代目のアーチ型の調布橋を渡っていた頃は、小学校でも村の古老たちからも“雪女”の話を聞いた事が無かった。
平成の世になって初めて、“雪女”は郷土の伝説話のひとつとして、日の目を見たようだ。
当時、多摩川の上流の沢井村から羽田の河口まで“41ヶ所”の渡し場があった。
その36番目に千ヶ瀬の渡し(上長淵の渡し)があった。
今の調布橋の下方の川原にあった千ヶ瀬と上長淵を結ぶ“渡し”である。南のあきる野市(旧五日市)から、ニツ塚峠を経て多摩川を“渡し”で往来し、五日市と青梅を結ぶ道となっていた。
その青梅から更に川越・飯能方面に行く道に繋がり、ここは大事な渡しであったようだ。現在の“秋川街道”につながるルートである。
この辺りは千ヶ瀬川原と呼ばれ、木材の筏流しが盛んであった頃はここで筏の組み直しを行い、羽村堰の堰落としの間、時間待ちをしたと云う。
18世紀の中頃には筏流しの管理、保護の為、千ヶ瀬に三田領筏師仲間の会所(現在の千ヶ瀬町3丁目500番地)を置き、筏の通行にかかる冥加金・会所料を収納したとされる。
かつての我が家の親族である千ヶ瀬村の名主であったXXX家は、この“渡しの番人”の役目を持っていたらしい。上述した千ヶ瀬村に置かれた筏師仲間の会所にも肝いりとして参画したであろうことも推測できる。
この千ヶ瀬の渡しも雨で川が増水し、水かさが増すと、渡し舟がとまってしまうことから、 調布村有志が力を合わせ、大正11年(1922年)に 幅3mの吊り橋を完成させた。
大正時代でも吊り橋であったのは驚きでもあるが、この完成で、“千ヶ瀬の渡し場”は廃止された。
平成13年には町おこしの「妖怪たちの青梅宿」と題した企画があり、上述の“千ヶ瀬の渡し場”は小泉八雲の怪談「雪女」に登場する渡し場ともいわれ、調布橋のたもとには「雪おんな縁の地」の碑が建てられている。
【小泉八雲の「雪女」】ウィキメディアに依れば:
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、ここ数年研究が進み、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い=*千ヶ瀬村)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている。
この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は相当な確度を持っていると考えられ、秋川街道が多摩川をまたぐ「調布橋」のたもとには「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。
100年前は現在とは気候が相当異なり、東京の中野から西は降れば大雪であったことから、気象学的にも矛盾しない。
雪女のお話はご存知の方も多いが、 YOUTUBEで見るのも面白い。
YOUTUBE・朗読:小泉八雲「雪女」田部隆次訳
http://www.youtube.com/watch?v=AyhyeY7TO10以上
jijidaruma