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その他の都市(ポーランド) の博物館・美術館・ギャラリー ランキング

3.11
アクセス
2.00
コスパ
5.00
人混みの少なさ
5.00

クリップ

  • 満足度の高いクチコミ(1件)

    酷寒の地と食糧不足に悩まされた収容所生活の中で名曲を作曲した、フランスの作曲家メシアン

    5.0

    旅行時期:2019/11(約5年前)

    フランスの作曲家メシアンは第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となり、収容所生活を強いられる。酷寒... 
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    の地と食糧不足に悩まされた収容所生活の中でメシアンを後に名曲として最大限の賛辞を送られる四重奏を作曲し、収容所内の困難な状況下で初演まで行なう。 そのメシアンがかつて収容されていた捕虜収容所 Stalag VIII-A を訪れる為に、ポーランドとドイツの国境の町に向かった。 ポーランド ズゴジェレツにあるメシアンが収容されていた捕虜収容所 Stalag VIII-A の跡地はいつでも見学することができる。跡地入口には記念碑があり、その奥にはドイツとポーランドの共同プロジェクトで2014年に建てられたヨーロッパ文化センターがある。 この建物周辺の雑木林一帯が収容所跡で散策路となっている。町から離れていることもあって、訪れる人もおらず、散策路は落ち葉で埋もれ、説明の看板なども酷く色あせていた。その散策路を順にたどると教会跡、図書室跡、キッチン跡などがある。訪れた際の欧州はちょうど冬の入口、ここで収容された人は寒さと飢えに苦しんだと書籍にはあったが、この荒涼たる景色を見ると想像にかたくない。 この曲は1941年1月15日、ポーランドの国境近くのシレジア地方のゲルリッツの第8A捕虜収容所で、5000人の捕虜という聴衆を前にして初演された。第2次世界大戦の開始とともに一兵卒としてフランス軍に召集されたメシアンは序盤戦で捕虜になってしまう。 収容所に連行されるやいなや、捕虜はすべての所持品がとりあげられるが、メシアンの雑のうに入っていたのはバッハの『ブランデンブルク協奏曲』、ベルクの『行情組曲』、ストラヴィンスキーの 『結婚』のポケット・スコア。音楽好きのドイツ将校はこれらの楽譜の所持を認め、これがメシアンにとって飢えや寒さで苦しい時の慰めになった、更にドイツ将校は作曲の為の鉛筆や消ゴムや五線譜をメシアンに特別に与えた。 メシアンはこの収容所で出会った音楽家に励まされ、厳しい環境の中『世の終りのための四重奏曲』を完成させる。そして、この曲は真冬の1941年1月15日に収容所のバラックホールで初演される。楽器は古びて鍵盤のずりおちそうなアップライトのピアノ、3本の弦しかないチェロなどで、4人の音楽家たちは破れてぼろぼろの兵服をまとい、雪中作業のための大きな木靴を履いていた。 しかし、聴衆は5000人、ドイツ軍の将校に加え捕虜など農民・知識人・職人・牧師・ 医者などさまざまな階層の人が集った。メシアンは演奏前に楽曲解説をする「この曲は囚われの身の時が終ることを示しているのではなく、過去と未来の観念の終り、すなわち永遠の開始を描いた作品」と。そして、自分の作品があのように注意深くそして理解力をもって聴かれたことはなかった、とメシアンは回想する。 このライナーにある『世の終わりのための四重奏』の作曲初演の物語を読めば誰もが心打たれるだろう。そして、この曲のうつろう音に、永遠の時を感じることに魅了されない者はいないだろう。 詳細はコチラから↓ https://jtaniguchi.com/%e3%83%a1%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%b3-%e4%b8%96%e3%81%ae%e7%b5%82%e3%82%8f%e3%82%8a%e3%81%ae%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ae%e5%9b%9b%e9%87%8d%e5%a5%8f%e6%9b%b2%e3%81%ae%e5%88%9d%e6%bc%94/ https://jtaniguchi.com/%e3%82%b2%e3%83%ab%e3%83%aa%e3%83%83%e3%83%84-gorlitz-%e3%82%ba%e3%82%b4%e3%82%b8%e3%82%a7%e3%83%ac%e3%83%84-zgorzelec-%e5%9b%bd%e5%a2%83-%e6%98%a0%e7%94%bb%e3%81%ae%e8%a1%97/  
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    ごーふぁー

    ごーふぁーさん(非公開)

    その他の都市のクチコミ:8件

営業時間
月~金 10:00~16:00
3.11
アクセス
4.00
コスパ
5.00
人混みの少なさ
4.50
展示内容
5.00

クリップ

  • 満足度の高いクチコミ(1件)

    戦後、ユダヤ人が故国に帰国するも、待ち受けていたのは悲惨な境遇であった、戦後のポーランド人の手によるユダヤ人虐殺事件として大きな問題を残したポグロム

    5.0

    旅行時期:2019/11(約5年前)

    ヤン・カルスキ協会(The Jan Karski Society / Stowarzyszen... 
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    ie im. Jana Karskiego) キエルツェ ポグロムについては歴史博物館とは別に重要な史跡、資料館がある。それがヤン・カルスキ協会(The Jan Karski Society / Stowarzyszenie im. Jana Karskiego)、キェルツェ ポグロムの資料館であり、事件の中心現場となった建物でもある。 第二次世界大戦終結後の1946年、「ユダヤ人に誘拐されていた」との少年の嘘からユダヤ人の死者42人、重傷者50人にもおよぶ虐殺がここキェルツェで発生した。その虐殺をおこなったのがポーランド人であること、ナチスドイツが敗退した後の戦後であることもあって、このポグロムはポーランド国内で大きなしこりを残している。 少年が地下室に監禁されていたと嘘をついた場所が、このヤン・カルスキ協会の建物である。しかし、この建物に地下室はなく嘘は間もなく発覚した。しかし、住民達はそれでも暴走をやめず、この建物の中でもユダヤ人の虐殺が行われた。 このキエルツェ ポグロムは、教会や警察含めて住民皆が見ぬふりをした為に、詳細がなかなか判明しなかった。当時、ユダヤ人は子供の血を抜く等の妄言もまだ残っていたらしく、憎悪に満ちた環境が事件の露呈を阻んでいたようだ。戦後のポーランドにおいても、如何にユダヤ人差別が根深かったのかが、このことからもわかる。 このヤン・カルスキ協会には、当地でのユダヤ人問題やポグロムの資料が所狭しと展示されており、壁一面に説明書きがある様子は壮絶である。 例えば、キェルツェのユダヤ人史なども興味深い。 1833年 ポーランド王国がユダヤ人がキエルツェに永住することを許可したが、住民の抗議により撤回され、1862年に皇帝が法の前に平等であることを宣言して、やっとユダヤ人が町に定住し貿易や工芸品に従事するようになったとある。このことからも、かなり昔から反ユダヤの思考が強かったことがうかがえる。 そして、1918年にはユダヤ人の自治を求める集会で、反ユダヤの騒乱が起きる。この時は4人のユダヤ人が死亡、約200人が負傷し町中のユダヤ人商店が取り壊された。後年のポグロムの前触れのような出来事である。 しかし、キエルツェにはその後も多くのユダヤ人が住み続けていた。1931年の国勢調査では、キエルツェの住民58,236人のうち、40,784人がポーランド語を母国語とし、16,332人がイディッシュ語、879人がヘブライ語、140人がロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、52人がドイツ語、49人が他の言語を話すという記録が残っている。イディッシュ語やヘブライ語を話す人がとても多く、実際に町の人口の29.5%をユダヤ人が占めていた。 第二次世界大戦直前の1938年にはキェルツェには2万人のユダヤ人が住んでおり、町の不動産の20.7%を所有し、そのほとんどが通りに面している好立地だったようだ。しかし、キエルツェ歴史博物館で見たように戦争開始直後にナチスドイツによってユダヤ人のゲットーが作られ、大半のユダヤ人がすぐに強制収容所に送られ絶命してしまう。 このゲットーからの悲痛な手紙がヤン・カルスキ協会で紹介されていた。ユダヤ人の少女が家族に宛てたもので、食料や石鹸をせがむ内容とともに、こちらのことは心配しないで、とある。逆にゲットーでの辛い日々が伝わってくる内容であった。結局、この手紙のやりとりをした家族はドイツ軍を避け、命からがらリヴィウに逃れたが、リヴィウがソビエトに支配されると全員シベリアに追放されたと言う。 ゲットーでのドイツ軍の虐待も酷かった。シナゴーグの前で男たちを裸にさせ雪玉を投げつけ、その後全員が銃殺されたという写真が掲示されている。 詳細はコチラ↓ https://jtaniguchi.com/kielce-poland-museum-jankarski-pogrom/  
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    ごーふぁー

    ごーふぁーさん(非公開)

    その他の都市のクチコミ:8件

住所
ul. Planty 7, 25-508 Kielce
3.09
アクセス
4.50
コスパ
5.00
人混みの少なさ
5.00
展示内容
4.00

クリップ

アクセス
ワルシャワやグダニスク等から鉄道でマルブルク駅乗り換えでクフィジン駅まで行き徒歩15分
営業時間
クフィジン城内博物館 9時~15時(月曜休館)
休業日
月曜

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3.09
アクセス
4.50
コスパ
4.50
人混みの少なさ
5.00
展示内容
4.00

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  • 満足度の高いクチコミ(1件)

    事前情報がなかなかとりにくい町なので重宝、ほのぼのとした昔の写真や展示品も多いが、戦時中の記録も多い郷土資料館

    4.5

    旅行時期:2019/11(約5年前)

    キエルツェ歴史博物館(History Museum of Kielce / Muzeum Hi... 
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    storii Kielc) 日本では事前情報がなかなかとりにくい町であったので、最初に歴史博物館を訪れると勝手がわかって具合がよい。 朝一番の来訪ということもあって、例によって博物館スタッフが行く先々の展示室の電灯をつけてくれながらの閲覧となる。展示内容は、石器時代から始まる郷土資料館にありきたりな内容だが、丁寧なキャプションとブース構成である。ほのぼのとした昔の写真や展示品も多く、この地の暮らしぶりがよくわかる。 ポーランドのオートバイ SHLはキエルツェで製造されていた。展示されていたのは初代のモデルで、エンジンは英国製の98cc、重量78kg、お値段は768PLNとある。1938年に生産開始され、改良を重ね第二次大戦の開戦1939年まで2000台が製造された。戦後SHLブランドは復活するも、当局がオートバイメーカーの絞り込みを行ない1970年に生産停止になってしまった。 第二次世界大戦のキエルツェは、開戦直後の9月1日に早速ドイツ軍がこの町を爆撃し、9月5日には占領されている。戦中はレジスタンスやパルチザンなどの多くのグループがこの町に展開し、活発に活動をしていた。 ナチスドイツに送り込まれたポーランド総督ハンス・フランク(Hans Michael Frank)がこの地を訪れた時の写真が展示されている。彼はIDO(クラクフで運営された差別的な研究機関、ドイツ東部労働研究所)を主導した人物であり、ポーランド人にとっては目の敵の人物、ヴロツワフの現代美術館で見た特別展の題材とかぶる。 詳細はコチラから↓ https://jtaniguchi.com/kielce-poland-museum-jankarski-pogrom/  
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    ごーふぁー

    ごーふぁーさん(非公開)

    その他の都市のクチコミ:8件

営業時間
火、木、金 8:00~16:00
水 8:00~17:00
土、日 9:00~16:00
休業日
月曜日
3.06
アクセス
4.00
コスパ
4.00
人混みの少なさ
4.00
展示内容
4.00

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アクセス
ルブリンから私営バス『Transport Dariusz Piskorski』でルバルトゥフで乗り換え、コズフカ下車
1日4~6便、所要1時間~1時間30分
営業時間
3月中旬~6月、9・10月 10:00-16:00
7・8月 10:00-17:00
11月 10:00-15:00
休業日
月曜、12~3月中旬
予算
ガイドツアー 大人 20zl、子供・学生 10zl

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