“北ドイツ周遊の旅”
2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間 ;
1982年から数えて 23年ぶりの北ドイ...
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4/25 (月) 、
リューネブルクは千年の昔から、“白い黄金”と呼ばれた塩の生産地として栄えた町である。それは市庁舎やアム・ザンデ広場の建築群を見れば、納得する。
ここはかつてザリーネ(製塩場)として、20世紀後半まで現役であったが、今は塩の博物館となっている。
ドイツの各地には例えば、南独・Oberbayernオーバーバイエルン地方の南東にあるBad Reichenhallバート・ライヘンハルではキリスト誕生の頃から、塩が産出されたと云う。
当時、塩は“白い黄金”として、これを持つ者にとって権力と富の源泉であった。近くのBerchtesgadenベルヒテスガーデンには岩塩坑(見学可能)があり、そこから岩塩を採掘していたが、バート・ライヘンハルでは“白い黄金”が泉から噴出していた。ヨーロッパで最も濃度の高い、この塩水から水を蒸発させて(この為、燃料となる森を必要とした)、塩を得ていたという。ここにもAlte Salineアルテ・ザリーネ(製塩場)があって、塩の博物館を併設している。
北方であるLueneburgリューネブルクでも1000年の昔から、“白い黄金”と呼ばれた塩の生産地として栄え、港町・リューベックに至る“塩の道”の出発点であった。
ハンザ都市は塩、塩で樽詰めにしたニシン、木材、鉄、岩石などをバルト海沿岸、北ドイツを中心に商い、特権的な交易で栄えたのは良く知られている。
【黄金の塩とリューネブルガー・ハイデ 】
リューネブルクの地層は地下40mが土、その下に厚さ4kmに及ぶ岩塩があり、岩塩を溶かした湧き水には25%の塩分が含まれていた。湧き水の場所に製塩所を建て、かまどを炊いて、塩を製産したそうです。最盛期には年3万トンの生産となり、ハンザ同盟圏での塩の独占販売権を握ったリューネブルグは大変な富を持つことになった。
16世紀の後半になると、ルターの宗教改革により、人々が肉を食べるようになり、ニシンの需要が減ったこと、また、地中海沿岸地域の塩が安く出回りだしたことで、独占的地位が低下し、衰退に向かったという。
今は塩水を健康センターに供給して、皮膚病、美容に利用されている程度で、むしろ、塩の地下水を吸い上げてきた結果、地盤低下に困っている地域も出てきているとか。
南ドイツのバート・ライヘンハルでもそうであったように、リューネブルクでもかまどの火の原料は当時木材であり、水分を蒸発する為には大量の木材を要した。この為、リューネブルグの西にある森林地帯から木材を切り出したそうだ。
現在、そのあたりはNaturschutzpark Lueneburger Heide自然保護公園リューネブルガー・ハイデ(1921年指定)となり、夏には赤紫色のきれいなエリカ(イギリスではHeathヒース)の花が原野一面を埋めつくす。
“エリカ街道”という観光用の名前が付けられたのも、此処からきているわけだ。
ドイツの観光街道のうち“エリカ街道”も“塩の道”もリューネブルクに絡んでいるので、ここに書いてみた。
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投稿日:2019/04/04