太原市からそう遠くは無い郊外にある「晋祠」は、市区から南西へ約25km行ったところ、懸瓮山の麓にあります。
太原周辺の大...
続きを読むきな水源地でもあり、大自然に古代建築物と庭園や彫塑に石碑などが溶け合った素晴らしい景勝地となっています。
園内では、宋、元、明、清の各時代の建築物が集められており、将に「国の至宝」と言っても過言では無い位の庭園です。
晋祠は北魏に建設が始まり、周武王の次男である「叔虞」を記念するために造られました。
当初、その名にちなんで「唐叔虞祠」と名付けられました。
11世紀の西周時代、周武王が病で亡くなると、その長男が地位を継承しました。しかしまだ幼かったため、伯父が代わって天子の職権を執行したそうです。歴史上で言われる「周公による摂政」ですね。西周が土地分配制を実施し成王が地位を継承した当初、唐国で武庚の反乱が発生し、周公は自ら兵を率いて唐国に赴き、その反乱を収めました。
或る日、成王は弟の叔虞と庭で遊んでいました。
ふと地面から一片のアオギリの葉を拾い上げ、圭(下が四角で上がとがった玉(ぎょく)で、天子が諸侯を封じた際に、その証しとして与えるもの)の形に切ると、「この圭をお前にやろう!唐国を諸侯に封じるぞ!」と言いました。
傍らに居た史佚はこれを聞くなり、すぐに成王に吉日を選ばせ、諸侯を封じる儀式を行うよう指示しました。
まだ幼い成王は、「まだ叔虞と遊んでいたい」と頼みますが、史佚は「天子にそんな我が侭はゆるされません。
口に出したからには、史書に彼のことを記載し、音楽と歌と踊りで彼のために祝わなければなりません。儀式は彼の為です!」と言いました。そこで成王は、本当に叔虞を唐国の諸侯に封じた(統治した)・・と伝えられています。
叔虞は唐国に来ると政治に精励ししました。
晋の水を利用して農地を開拓し、その地で農業を大々的に発展させました。唐国の庶民生活はみるみる安定し、楽しく働き生活が豊かになり、その後700余年の生活が安定しました。
こうして、国家安泰という繁栄に向けて、しっかりとした基礎が築かれました。
叔虞の逝去後、人々は彼を記念するため、この山紫水明の地を選んで祠を築き、そこに彼を祭って「唐叔虞祠」と名付けました。
境内に晋の水が流れている点から、新たな国家の国号として「唐」から「晋」に改めたので、祠の名前を「晋王祠」、略称「晋祠」と改名し今に至ります。
千数百年来、晋祠はその悠久の歴史と希少な景観から、多くの人々の心を引き付け、歴史の帝王や宰相も訪れました。
遊覧する間に詩を詠み文を綴りましたが、それらは300余りの石碑や標札となって残されています。
晋祠は、中部と北部、そして南部の3つのブロックに別れています。
中部は晋祠の中心部に当たり、大門を入り水鏡台から会仙橋、金人台、対越坊、献殿、鐘鼓楼、魚沼飛梁を経て聖母殿がある当たりまでを指します。ここが晋祠の主体部分で、博物院となっています。ここでは、芸術的価値が極めて高く、厳格優雅な建築構造を観覧する事が出来ます。
晋祠内で最も著名な殿堂が聖母殿であり、宋代天聖年(1023〜1032)の建立で、威厳に満ち、どっしりとした趣があります。現存する宋代の建築物の中で最も完璧な姿で残っている建築物。高さ19m、屋根は回廊柱と庇部分の柱に支えられていますが、建築学上の計算によると、柱は12本少なく済ませられており、古代の建築書「営造法式」に記されている、「減柱営造法」による建造となっています。こうすることで、殿内の空間はより高く広く深く奥行きのあるものにする事が可能。殿内の木造の柱に彫られた龍は、中国国内に現存する最古の木彫芸術品です。
晋祠を簡易紹介したブログ→http://chinaart.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12
住 所 : 山西省太原市晋源区晋祠鎮
電 話 : (0351)6020014, (0351)6021393
地 図 : http://map.baidu.com/?l=16&c=12519601.892704,4513092.8505918&s=tpl%3ACity
時 間 : 09:00-18:00(冬期09:00-15:00)
門 票 : 70元(ガイド料込み)
バ ス : 太原駅前バス停発の804路,408路バスで「晋祠公園バス停」まで1時間少々/料金2元
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投稿日:2012/01/14