開拓当時の面影を残す赤煉瓦の建物です。
- 4.5
- 旅行時期:2018/06(約8年前)
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by nichiさん(男性)
札幌 クチコミ:21件
この煉瓦造の建物は1888年(明治21年)設立の「札幌製糖」が1890年(明治23年)に建設した製糖工場だそうです。
1903年(明治36年)に煉瓦造の製糖工場を買い取って製麦工場として使用しましたが、建物は改修や補強をしながら1965年(昭和40年)まで工場として稼働していたとのことです。
所要時間約50分のツアーがあります。
毎時00分、30分スタートでビールの試飲があって一人500円。
次回は14時30分のツアーです。
こちらで500円×2名=1,000円お支払いしてリザーブ。
3階の待合室で待っていたら、14時30分ぴったりに女性のコンパニオンの方が出てきて案内が始まります。
最初は6Kシアターに案内され、映像による明治期に生まれた初の国産ビール「札幌製麦酒」の物語を鑑賞しました。
佐賀出身であった島義勇が明治政府の命で蝦夷開拓を任ぜられました。
無人の原野であった札幌に「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き、京都や故郷の佐賀などを念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした町並みを目指し工事が進められました。
巨大な煮沸器がありました。
一度に85キロリットルのビールを製造できるそう。85キロリットルってどれくらいか?
コンパニオンの方の説明によると、「350ml缶を1日1本飲んでいったら600年かかります。」とのことです。
明治2年、明治新政府は、北海道開拓の為に国家機関である「開拓使」を設置しました。
そして「蝦夷地」と呼ばれていた地域を「北海道」と改めました。
1,871年(明治4年)北海道開拓の指南役にアメリカの農務局長であるホーレス・ケプロンをプロデューサーとして招き、それにより様々な海外の技師者を招き、西洋技術を取り入れた開拓が始まりました。
アメリカの先進的な指導のもと、缶詰技術を導入。
官営工場で、鮭、マス、牡蠣などの海産物だけでなく、鹿肉の缶詰生産も開始しました。
そんな中、ビール醸造人が誕生します。
その名は中川清兵衛!!
新潟県出身の彼は単身ヨーロッパに渡り、日本人として初めて本格的なビール醸造をドイツで学んできました。
本場ドイツで学んできた技術をもとに醸造所を設計し、開拓使ビールを完成させました。
トーマス・アンチセルは、北海道で野生のホップを発見し、ホップ栽培を提言。。
ケプロンは、ホップだけでなく、ビールの生産に欠かせない大麦の栽培も北海道の地に適していることを提言。
よって、開拓使は北海道で醸造所建設を決定!
「北海道でつくるべき!」
開拓使麦酒醸造所建設の責任者であった村橋久成は、幕末に薩摩藩留学生として英国に渡っています。
ロンドン大学に留学し、産業革命の驚異的な成果に触れ、帰国後新政府軍に参加します。
東京で中川清兵衛と会い、開拓使麦酒醸造所建設の責任者となり、ビール事業を立ち上げました。
元々は東京で試験的にビールを醸造し、うまくいったら北海道に工場を造る予定でしたが、そもそもビール醸造に氷が必要であったり、北海道の勧業・勧農が目的であるのであれば、最初から北海道に醸造所を造るべきと考えが変わっていきます。
麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、製糸所の3つの施設を建設することが村西久成に下された命でありましたが、勧業一切を業務とし、越権行為と言える部署を越えた動きを行い、短期に完成させていきました。
当時の麦酒醸造には、氷と水が必要で、北海道はビールつくりには適した環境でした。
そして1,876年にビール醸造所が完成しました。
これがのちのサッポロビールにつながっていきます。
ガイドツアーの最後にビールの試飲がありました。
復元された初期のビールと今のビールの飲み比べ。
一人1杯づつ戴けます。
味は全く違います。
昔の方が苦みが強い感じ。
今の方が美味しいです。
飲みなれているからかなー?
- 施設の満足度
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4.5
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
クチコミ投稿日:2018/11/28
いいね!:4票
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