藤田家大庄屋跡
名所・史跡
3.20
クチコミ・評判
1~2件(全2件中)
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これが入口?のところから入ります。
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- 旅行時期:2021/09(約4年前)
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藤田家は、大庄屋という庄屋よりも1段、格の高い家だったとのことなので、建屋はそれ相応の大きさがあり、入口も相応の広さがある... 続きを読むものと思って訪れました。しかし、思わず通り過ぎてしまうほどの狭い、地味~な路地?でした。明治以降に狭められてしまったのかとも思いますが、せめて、案内板くらいは立てて欲しいと思いました。肝心の藤田家の建屋ですが、屋根は近年瓦屋根に改修された様ですが、周囲の板戸などは傷んでいました。また、庭は草が伸び放題で、ちょっと寂しい思いがしました。
この藤田家はもともとは八代海対岸の芦北で、武士だったそうですが、16世紀中頃にこの地に移り住んだそうです。1641年に庄屋となった時の当主は五右衛門さんです。1661年には善右衛門さんが大庄屋に任命され、幕末まで続くことになります。なお、1770年(明和7年)に大庄屋には苗字、帯刀が許されていますから、その時から藤田家を名乗ったのでしょう。
閉じる投稿日:2022/01/20
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思いのほか小さい家でした。
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- 旅行時期:2021/09(約4年前)
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この藤田家を見た第一印象は思いのほか小さいなぁでした。ここの前に高浜村の庄屋だった上田家を訪れましたが、大層立派なお屋敷で... 続きを読むした。上田家は大庄屋ではなく、途中から大庄屋格の扱いになった家です。藤田家は天草に庄屋制度が導入されて、始めは庄屋でしたが、20年後には大庄屋となっていますから歴史があるのですが・・・。樋島という平地の少ない土地柄も関係しているのでしょうかね。
天草は島原の乱の後、天領となりましたが、全体は86ヶ村(ほかに富岡町が1つ)に分けて庄屋を置き、それを10組(今でいえば郡の様なものでしょう)に括って大庄屋を置いています。この地域は砥岐(とき)組となり、姫浦、ニ間戸、樋島、高戸、大道、御所浦、浦、棚底、宮田の9村が属していました。藤田家は樋島、高戸、大道の庄屋も兼ねています。
島原の乱後の天草の人口は約36、000人だったそうで、およそ200年後の1831年(天保2年)には約140、000人と急増しています。その内、砥岐組は約17、000人で、藤田家が庄屋を兼ねていた樋島、高戸、大道の3村を合わせると約5、000人です。正に、大庄屋に相応しい人口数となります。 閉じる投稿日:2021/12/14
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