建部大社
寺・神社・教会
3.42
建部大社 クチコミ・アクセス・周辺情報
石山寺周辺 観光 満足度ランキング 3位
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祭神とする近江国の一の宮。源頼朝が平家に捕らえられて伊豆に流される途中に源氏再興を祈願し、その願いが叶って以来、武運出世の神として信仰を集めています。また、境内の大野神社は縁結びのご利益があるといわれています。毎年8月17日には、大津三大祭のひとつである水上祭「船幸祭」が開催されます。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
祈願風鈴が飾られていた。
5.0
- 旅行時期 2023/07
- by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
県内で開催されている〝風鈴まつり〟という検索ワードで知った建部大社は9年ぶりの参拝だった。到着した折大雨で身動きが取れなく... 続きを読むなり祈願風鈴が吊るされた神門下で雨宿りをした。そのため時間を十分に取ることができ、あらゆる角度で撮影した写真を得ることが出来たのは怪我の功名と言ったところだろうか。 開催すら知らなかったのだが、規模もそれ程大きくはない。風鈴まつりとしては…となるが、祈願の短冊も数が少ないということは、丁寧に祈願をして貰えると思えるのでそういった観点では訪れる価値があるイベントであると感じられた。 祈願風鈴の奉納は令和5(2023)年7月7日から8月6日で、8月7日に挙行される納涼祭で祈願して貰えるとのこと。また風鈴は8月17日の船幸祭の日まで神門に吊り下げられている。 閉じる
クチコミ・評判 3ページ目
41~50件(全51件中)
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近江一の宮
- 5.0
- 旅行時期:2015/12(約10年前)
- 1
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日本武尊命を祀っています~建部(たけべ)大社~
- 5.0
- 旅行時期:2015/12(約10年前)
- 8
近江國一之宮建部大社は、いにしえより交通の要所として知られる瀬田唐橋東詰から少し離れた神領の地に鎮座します。第十二代景行天... 続きを読む皇の皇子であり、第十四代仲哀天皇の父とされる日本武尊は、幼き頃から美少年でありながら武芸の達人であったとされており、その風貌を利用して敵を油断させ、誅伐して行くといった心理戦を用いていた様に記されています。
父景行天皇の命で九州の熊襲や東国を平定して行く日本武尊でしたが、意外に軽はずみな発言により窮地に陥ることも多かったようです。走水では海をバカにしたことにより、海神の怒りを買い進退窮まります。そこに焼津の地での火攻めの際に日本武尊の優しさを触れた妃の弟橘比売が生贄となって入水し、事なきことを得ます。無事上総国に上陸した日本武尊は、弟橘比売の働きにより無事越えられた海を眺めていると、波に乗る小さな櫛を発見します。それは他ならぬ弟橘比売のものでした。改めて妃の尽力を感じた日本武尊はその地に祠を建て、弟橘比売を祀ります。そして東国平定を成し遂げ、碓氷峠で物想いに耽っていた際に、弟橘比売を思い出し、?吾妻はや(我が妻よ)?と3回呟いたそうです。これが後々東国を?吾妻・東?と呼ぶようになった由来だとされています。
その後も朝廷にはむかう勢力の平定を続けた日本武尊一行でしたが、尾張國に滞在中に?生理中?であった?美夜受比売?と契りを結んだことが、?神?の域から?人?の域に変わってしまったのか・・・、近江國伊吹山の神を退治するために?素手?で向かいます。山の神の化身を?使い?だと冒涜してしまった日本武尊に、山の神は怒り狂い、冷たい雨を降らせました。体調不良に陥った日本武尊は、一旦は麓の泉で息を吹き返すものの、その身体は既に病んでいたようです。その身体で生まれ故郷であり、父のいる大和へと向かうものの、その道中半ば伊勢國能褒野(亀山市)にて31歳で没したとされています。
日本武尊の訃報は大和に即座に伝わり、妃や御子が能褒野の地を訪れました。配下の吉備武彦により埋葬された日本武尊の遺体は、悲しみに咽ぶ妃や御子、家臣達の前で白鳥の姿と化し、大和へと向かって飛んで行ったとされています。
日本武尊の死を嘆き悲しんだ父景行天皇の神勅により、妃の布多遅比売命と御子建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽を?建部大神?として日本武尊を祀ったことに始まった?建部大社?ですが、天武天皇四(675)年に近江國栗太郡勢多の地に近江國の守護神として遷座され現在に至っています。
神を冒涜してしまった結果、亡くなることになってしまった日本武尊の逸話は、自身の子である第十四代仲哀天皇の話と被るところがあります。たとえ?神業を持ってしても?油断するとこのような結果を生んでしまうことの?警め?のようにも聞こえます。
戦後のGHQ支配下で?神道と天皇制?の繋がりによる神社の破壊を考慮し、多くの官幣社では石碑を?塗りつぶす?ことが行われました。官幣大社であった建部大社も例にはもれていません。見かけは平和一色の場所ではあれど、そこにも戦争の色合いは残っていることを知って頂きたいと思います。 閉じる投稿日:2015/12/21
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日本で初の千円札の図柄となった神社。
- 3.0
- 旅行時期:2015/05(約11年前)
- 0
瀬田唐橋から程近くにある神社です。最寄駅は、京阪電車の『唐橋前駅』です。
この唐橋前駅からは、徒歩15分くらいかかります... 続きを読む。
駅からの道は、唐橋を渡りまっすぐなので、比較的分かりやすいかと思います。
建部大社は、近江国の一之宮と定められた場所で、古くからある由緒ある神社です。
正殿も古いですが、趣があって素敵です。
建部大社目当てに観光される方は少ないかもしれませんが、石山寺や唐橋とセットで訪れるのもいいかと思います。神社は、落ち着きのある広い神社なので、ゆっくりするのに、オススメです。
春には『春祭り』や夏には『船幸祭』などがあって、建部大社中心で行われるお祭りも多いです。『船幸祭』の時には、花火も上がるので人出も多く、盛り上がるお祭りのひとつとなっていますよ~。 閉じる投稿日:2015/05/12
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いろんな神社さんが同居されてます。
- 4.0
- 旅行時期:2015/02(約11年前)
- 0
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最寄駅は唐橋前
- 3.0
- 旅行時期:2014/12(約11年前)
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滋賀のパワースポット!!
- 4.5
- 旅行時期:2014/05(約12年前)
- 0
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一之宮
- 4.0
- 旅行時期:2013/04(約13年前)
- 0
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建部大社〔神社〕
- 5.0
- 旅行時期:2012/12(約13年前)
- 50
建部大社(たけべ たいしゃ)は、滋賀県西部に所在する神社庁別表神社である。
該社、御祭祀は、
日本武尊(や... 続きを読むまとたけるのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
大己貴命(おおなむちのみこと)
の3御柱である。
該社、筆頭御祭祀たる日本武尊(やまとたけるのみこと)(景行11年(72年)〜景行43年(113年))は、父君たる景行帝(けいこう てんのう)(垂仁17年(前13)〜景行60年(130年)12月25日)の命を受け東夷平定の帰路、淡海國伊吹山麓に於いて大白猪に遭遇したが、日本武尊は該獣をして単なる山神の使臣と黙殺した処、実は該猪こそ山神の仮姿で、激怒した山神は該山中に大氷雨を降らせ、此れが原因で日本武尊は病に臥し、遂に、伊勢國能褒野(現 三重県亀山市)に於いて薨去するに至った。
景行帝は帰還叶わぬ日本武尊の死を嘆き悼み、景行46年(116年)に、妃 布多遅比売命(ふだじひめ)、及び、遺児 稲依別王(いなよりわけのみこ)に対し、勅命を以って、淡海國神埼郡建部郷千草獄(現 東近江市五個荘)の地に社殿を造営させ、日本武尊を建部大神(たけべのおおがみ)として奉祀したのが該社創建とされる。
源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安3年(1147年)5月9日〜建久10年(1199年)2月9日)は、平治ノ乱(へいじのらん)(平治元年(1160年)1月19日〜同年4月19日)に於いて反乱側加担者として本来は死罪打首が妥当とされたが、若年でもあり死一等を免じ伊豆國流罪が決定し、都を永歴元年(1160年)3月11日に出発したが、同年同月20日に該社に参篭し、前途安泰を祈願した旨が平治物語(へいじ ものがたり)に記載されている。
後に、壇ノ浦の合戦(だんのうらのかっせん)(元歴2年(1185年)4月25日)に拠り平家一族が滅亡した事を受け、後白河法皇(ごしらかわ ほうおう)(大治2年(1127年)10月18日〜建久3年(1197年)4月28日)の招致に拠り、建久元年(1190年)11月に征夷大将軍宣下の為に右大将として上洛途上、報賽の為に該社を再訪し多数の神宝、及び、瀬田郷在300封戸を寄進した。
第82代 後鳥羽天皇(ごとば てんのう)(治承4年(1180年)8月6日〜延應元年(1239年)3月28日)は、建久6年(1196年)1月11日に皇位を長子 土御門天皇(つちみかど てんのう)(建久6年(1196年)1月3日〜寛喜3年(1231年)11月6日)に譲位後は上皇として院政を行使したが、当時の鎌倉幕府への鬱積不満から京都朝廷側への権力奪還を策し、承久3年(1221年)5月に承久ノ変(じょうきゅうのへん)を勃発させた。
然し、畿内の武士だけの朝廷側は、大軍の鎌倉側に対し朝廷軍は多勢に無勢の状態であり、東海道を行軍上洛した北條時房(ほうじょう ときふさ)(安元元年(1175年)〜延應2年(1240年)2月18日)は、上洛途上、瀬田川の合戦(せたがわのかっせん)を目前に該社朝廷側拠点となる事を恐れ、同年6月5日に該社を焼討させ全焼に至らしめた。
現在地に奉遷された際に、翌朝、社頭に杉3株が生えていた事から、瑞兆を奇禍として、爾来、3本杉をして該社御神木、且つ、神紋とした。
世間から忘れられていた該社が息を吹き返すのは、幕末になり全国に尊皇攘夷論が展開し、勤皇思想が勃興した事から、再生への道がはじまる。
該社は、明治32年(1899年)12月8日附で内務省より官幣大社に列せられ国家最高社格が付与された。
此れは、当時の明治政府に拠る歴史修史事業進行と共に皇室に於ける南北朝正統論展開に対する世論台頭の懸念から、日本武尊を筆頭祭祀とする該社を重視させたもので、官幣大社としては武蔵國氷川神社より指定拝命は遅いが、信濃國諏訪神社(現 諏訪大社)、宗像神社(現 宗像大社)等々より遥かに早く、当時の政府が該問題を如何に重要視していたかが、おぼろげながら該論に於ける対抗策が理解される。
皇太子嘉仁(よしひと)親王は、明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日〜明治45年(1912年)7月30日)崩御を受け、直ちに践祚され第123代天皇となったが、大正4年(1915年)11月10日に京都に於いて即位式を敢行される事になり、宮内省から該社造更営が聴許され実施され、殆どの境内社が面目を一新し現在に至る。
建部大社(たけべ たいしゃ)
大津市神領1−15−1
?: 077−545−0038
京阪電気鉄道石山坂本線唐橋前駅 徒歩12分
http://takebetaisha.jp/top/
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=112 閉じる投稿日:2012/12/10
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石山寺とは段違いの落着き
- 3.5
- 旅行時期:2011/10(約14年前)
- 1
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建部大社は、近江国の一宮
- 4.0
- 旅行時期:2011/04(約15年前)
- 0
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