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日本武尊命を祀っています~建部(たけべ)大社~

  • 5.0
  • 旅行時期:2015/12(約8年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

石山寺周辺 クチコミ:113件

近江國一之宮建部大社は、いにしえより交通の要所として知られる瀬田唐橋東詰から少し離れた神領の地に鎮座します。第十二代景行天皇の皇子であり、第十四代仲哀天皇の父とされる日本武尊は、幼き頃から美少年でありながら武芸の達人であったとされており、その風貌を利用して敵を油断させ、誅伐して行くといった心理戦を用いていた様に記されています。

父景行天皇の命で九州の熊襲や東国を平定して行く日本武尊でしたが、意外に軽はずみな発言により窮地に陥ることも多かったようです。走水では海をバカにしたことにより、海神の怒りを買い進退窮まります。そこに焼津の地での火攻めの際に日本武尊の優しさを触れた妃の弟橘比売が生贄となって入水し、事なきことを得ます。無事上総国に上陸した日本武尊は、弟橘比売の働きにより無事越えられた海を眺めていると、波に乗る小さな櫛を発見します。それは他ならぬ弟橘比売のものでした。改めて妃の尽力を感じた日本武尊はその地に祠を建て、弟橘比売を祀ります。そして東国平定を成し遂げ、碓氷峠で物想いに耽っていた際に、弟橘比売を思い出し、?吾妻はや(我が妻よ)?と3回呟いたそうです。これが後々東国を?吾妻・東?と呼ぶようになった由来だとされています。

その後も朝廷にはむかう勢力の平定を続けた日本武尊一行でしたが、尾張國に滞在中に?生理中?であった?美夜受比売?と契りを結んだことが、?神?の域から?人?の域に変わってしまったのか・・・、近江國伊吹山の神を退治するために?素手?で向かいます。山の神の化身を?使い?だと冒涜してしまった日本武尊に、山の神は怒り狂い、冷たい雨を降らせました。体調不良に陥った日本武尊は、一旦は麓の泉で息を吹き返すものの、その身体は既に病んでいたようです。その身体で生まれ故郷であり、父のいる大和へと向かうものの、その道中半ば伊勢國能褒野(亀山市)にて31歳で没したとされています。

日本武尊の訃報は大和に即座に伝わり、妃や御子が能褒野の地を訪れました。配下の吉備武彦により埋葬された日本武尊の遺体は、悲しみに咽ぶ妃や御子、家臣達の前で白鳥の姿と化し、大和へと向かって飛んで行ったとされています。

日本武尊の死を嘆き悲しんだ父景行天皇の神勅により、妃の布多遅比売命と御子建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽を?建部大神?として日本武尊を祀ったことに始まった?建部大社?ですが、天武天皇四(675)年に近江國栗太郡勢多の地に近江國の守護神として遷座され現在に至っています。

神を冒涜してしまった結果、亡くなることになってしまった日本武尊の逸話は、自身の子である第十四代仲哀天皇の話と被るところがあります。たとえ?神業を持ってしても?油断するとこのような結果を生んでしまうことの?警め?のようにも聞こえます。

戦後のGHQ支配下で?神道と天皇制?の繋がりによる神社の破壊を考慮し、多くの官幣社では石碑を?塗りつぶす?ことが行われました。官幣大社であった建部大社も例にはもれていません。見かけは平和一色の場所ではあれど、そこにも戦争の色合いは残っていることを知って頂きたいと思います。

施設の満足度

5.0

クチコミ投稿日:2015/12/21

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