1614年、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は、忠輝の舅伊達政宗である。
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続きを読むの曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかったとされる。天守はなく、1614年に3重3階の三重櫓を建てて天守の代用とした。その外観は、江戸城富士見櫓に似ていたと伝えられる。
忠輝が1616年に改易されると、高田城には酒井家次が10万石で入った。その後は1618年に松平忠昌、1624年に松平光長が入ったが、1681年の越後騒動により改易され、高田は天領となる。
その後は1685年に稲葉正往、1701年に戸田忠真、1710年に松平定重、1742年に榊原政永が入った。
高田藩は当初は、福井藩とともに大藩前田藩を挟撃する重要な位置づけがされていたが、泰平の世が続き前田家も将軍家と縁戚関係となり、その役割は薄れていった。松平忠輝の改易や越後騒動など、相次ぐ事件の舞台となったことで、高田藩は次第に、不始末を犯した大名の左遷先として扱われるようになった。
明治以降は、陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用するため、土塁の撤去と堀の埋め立てが行われたため、東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には、堀や土塁の一部が残されており、現在は公園となっている。
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投稿日:2015/02/15