レンタカーで行ったのですが、奥深くてびっくり。
途中で「本当にこの道でいいのかな?」と思うぐらいの道でした。
細川...
続きを読むガラシャが暮らした女城と谷を隔てた尾根に男城があったんですね。
男城は、何かあったときに駆けつけることができるガラシャの警護のためのお城だったんですね。
玉(ガラシャ)はココで2年間を過ごしました。
味土野の子供たちに字を教えていたり、流行り病の際は、厄よけの札を作っていたそうです。
「いかでかは 御裳濯川の 流れくむ 人にたたらむ 疫れいの神」
味土野の人々が流行り病で苦しんでいるとき、玉がこの句を読んだら病気が治ったというお話です。
御裳濯川とは味土野の川ではなく、伊勢神宮の川です。御裳濯川の流れとは、天照大神の子孫を意味し、その子孫にたたる病はないですよね?
と言う意味です。
ココに滞在中、玉は多くの句を詠んでいますが、その中でこれが印象的でした。
「身を隠す 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく」
親を呼ぶカッコウのヒナの声に、宮津に残してきた我が子を思った歌ですね。
「味土野山 けふ見る君は 夢ならで 手あたたかき もみじ葉の映え」
秀吉の許しが出て、細川忠興のもとに帰る時の句ですね。
「逢うとみて 重ぬる袖の 移り香の 残らぬにこそ 夢と知りぬる」
恋しい人と逢っていると思っていたのは夢の中だったという悲しい句です。
ここで、玉は清原マリアと言う次女と2年間を過ごします。
秀吉から2年間の幽閉を解かれ、細川忠興の妻として戻ることができた玉はキリスト教の洗礼を受け、細川ガラシャとなります。
それはこの清原マリアの影響も強かったようです。
でもでもこの後は秀吉によるキリスト教弾圧時代に突入します。
もう、玉(ガラシャ)の人生は波乱万丈ですね。
細川玉、ここ味土野での生活、何を思い何を感じていたんでしょう?
彼女の話は、当時イエズス会の宣教師から殉教の実話としてヨーロッパに伝えられました。そしてバロック・オペラ「勇敢な婦人-細川ガラシャ」が誕生し、オーストリアのハプスブルグ家に対し17世紀に上演されています。
この周りの景色は、細川玉がココにいた2年間(1588年から1590年)とあまり変わっていないと思います。
玉はこの景色を眺めていたんですね~
細川ガラシャ隠棲の地をあとにしました。
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投稿日:2022/10/29