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回向院

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回向院 クチコミ・アクセス・周辺情報

両国 観光 満足度ランキング 3位

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振袖火事と称した江戸の大火で死んだ人を弔うため建てた。以来無縁仏や無縁犬猫を供養する。

ピックアップ クチコミ

  • 満足度の高いクチコミ

    赤穂義士は休息のため入るのを拒絶されましたが、誰でも分け隔てなく埋葬してくれる無縁寺です。

    4.0

    「両国回向院」は、墨田区両国2丁目にあります。「両国回向院」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の西口を出て、左方向に進...  続きを読むむと140m先に「国道14号」(京葉道路)があります。横断歩道を渡るとすぐ目の前に「両国回向院」の朱色の「山門」があります。その「山門」の両脇には、「回向院」を守るように二体の仁王像が安置されています。 「回向院」は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院で、「諸総山無縁寺回向院」と呼ばれています。そして、「回向院」の理念は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」で、江戸時代から変わることなく引き継がれています。なぜ、それは何故かと言うと、「回向院」が開かれた明暦3年(1657年)に、江戸では、「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。そのようなことから無縁寺とも呼ばれている訳です。江戸は火事が多い街で、人口の増加による家屋の密集、冬場に吹く「からっ風」がその要因に挙げられます。その中でも明暦の大火は「振袖火事」でその名が知られています。そして、当時の将軍「徳川家綱」は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸にある現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが「回向院」の歴史の始まりです。 では、「回向院」の「山門」を潜ります。「回向院」の「正門」は、再建され、「正門」は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての「回向院正門」は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです。「正門」の「扁額」と「寺号碑」に注目してください。扁額には古字を用い「囘向院」、そして、「正門」前の「寺号碑」には俗字を用いて「囬向院」と表記されています。 次が、「力塚の碑」が参道を進むと右手にあります。「力塚の碑」は、昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもので、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑となっています。 更に進むと「塩地蔵」があります。「塩地蔵」は、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。 次に、「鳥居清長顕彰碑」です平成25年(2013年)に「鳥居清長顕彰碑」が建立されました。石碑正面には、「鳥居清長」の「大川端夕涼み」に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられています。「鳥居清長」は、江戸の六大浮世絵師の一人でもあります。江戸の六大浮世絵師とは、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」、「葛飾北斎」、「歌川広重」ら六人です。 更に進むと「鼠小僧次郎吉の墓」です。「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗んで町民に配ったと伝えられている時代劇でよく見た義賊です。長年捕縛されなかった運にあやかって墓石を削りお守りとする風習が江戸時代からありました。現在では、特に、合格祈願に来る受験生に人気で、墓石の前に削り取り用の石の「お前立ち」が置かれています。その他の見どころである、「水子塚」、「千体地蔵尊」、「馬頭観世音菩薩像」、「オットセイ供養塔」、「猫塚」など多数ありますので、下記に取りまとめてありますから、ご覧いただければ幸いです。 01_【一口メモ】 ⑴ 所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国2丁目8-10 電話:03-3634-7776 ⑵ 回向院の概要 ①山号…諸宗山 ②院号…回向院 ③寺号…無縁寺 ④宗派…浄土宗 02_【アクセス】 1 電車を利用して ⑴ JR総武本線「両国駅」西口から徒歩4分290m ⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩10分700m 03_【「両国回向院」の見どころ】 ⑴ 「本尊阿弥陀如来」 「回向院」の御ご本尊は、宝永2年(1705年)に安置された銅の「阿弥陀如来座像」です。かつては、野外に置かれ、濡仏さまと呼ばれていました。「阿弥陀如来座像」は、「釜屋六右衛門」の作によるもので、現在は、東京都の有形文化財にも指定されています。「阿弥陀如来座像」は、身の丈六尺五寸五部、蓮座三尺四寸五分もある大きな銅作りの坐像で、数多くの無縁仏を見守ってきたその眼差しは慈愛に満ち溢れています。 ⑵ 「水子塚」 「回向院」の「水子塚」は、寛政5年(1793年)に老中「松平定信」の命によって造立されたもので、「水子供養の発祥」とされています。ちなみに、「水子塚」とは、陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するためものです。「水子塚」の板石には、地蔵菩薩坐像と他では見られないような「水子塚」という大きな文字が刻まれていました。 ⑶ 「塩地蔵」 劣化が激しく「塩地蔵」の建立年は不詳ですが、「塩地蔵」は、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。「東都歳時記」所載の江戸東方48ヶ所地蔵尊参りには、その42番目として数えられています。現在、私の知る限りでは、「西新井大師」、「浄土宗常光山源覚寺(こんにゃく閻魔)」など都内10社寺で確認していますが、かつては48ヶ所にあったのですね。 ⑷ 「千体地蔵尊」 「千体地蔵尊」は、ご本尊の背面にあり、ご先祖の供養や家運や社運の隆昌・繁栄を祈願する人々によって奉安されたものです。関東大震災により焼失してしまった尊像で「増上寺」の「黒本尊」と同木といわれ、「恵心僧都」の作と伝えられた「備中千体阿弥陀如来像」をその由縁としております。後光のようにご本尊を守護するさまは必見です。 ⑸ 「力塚の碑と回向院相撲」 「力塚の碑」は、昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもので、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑となっています。ちなみに、日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集め(寺社建立の資金となる浄財を集めるなど)のための「勧進相撲」興行の形態をとっていました。貞享元年(1684年)、江戸での「勧進相撲」が許可されると相撲はさらに盛んになりました。その後、「勧進相撲」が「回向院」境内で初めて行われたのは明和5年(1768年)で、天保4年(1833年)以降は春秋2回の興行の定場所として江戸での「勧進相撲」を独占しました。そして、明治42年(1909年)の旧両国国技館が完成するまでの76年の間、「回向院相撲の時代」が続きました。「回向院」が定場所となり、回向院で行うことが定例となり、この「回向院」の定場所が今に続く、両国国技館の前身ということですね。そして、「力塚」の敷地内には、「角力記」、「東京相撲記者碑」という相撲の発展に寄与した相撲記者の慰霊碑も建てられています。 ⑹ 「馬頭観世音菩薩像」 「馬頭観音堂」は第4代将軍「徳川家綱」の愛馬の供養として創祀されました。また、「回向院」は動物供養でも知られ、犬、猫、オットセイ、小鳥などの塚や碑もあります。供養のために建てられた「馬頭観音堂」は、回向院二世信誉貞存上人が建立し、自らが鑿をとって彫刻した「馬頭観世音菩薩像」を安置しました。「馬頭観世音菩薩像」は、享保年間頃から「江戸三十三観音」でした。「回向院」の「馬頭観世音菩薩」に祈願をこめると、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めたそうです。現在も昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所となっています。 ⑺ 「一言観音像」 「一言観音」は、奈良の「唐招提寺」の像と同じ木で彫られたもので「恵心僧都源信」作と伝えられています。 元禄16年(1703年)10月に回向院四世「観誉上人」の夢枕にこの観音様が現れ、他所へ遷すように告げられたため、「観誉上人」はこの聖観音像を墓所へ遷したところ、ちょうどその年11月に大地震及び火災により、寺院は倒壊・類焼してしまいました。この移転により聖観音像が倒壊を免れたことが知れ渡り信仰を集めるようになるとともに、その御前で一言願をかけると願い事が叶うと慕われ、いつしか一言観音と呼ばれるようになりました。 ⑻ 「鼠小僧次郎吉の墓」 「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗んで町民に配ったと伝えられている時代劇でよく見た義賊です。計90回の盗みの後、ようやく御用になり処刑されてしまいましたが、長年捕縛されなかった運にあやかって墓石を削りお守りとする風習が江戸時代からありました。現在では、特に、合格祈願に来る受験生に人気で、墓石の前に削り取り用の石の「お前立ち」が置かれています。 ⑼ 「関東大震災供養塔」 東京が一朝にして焼土と化した大正12年(1923年)の関東大震災において、当時の住職であった第21世「浄厳師」は、役僧を引き連れ焼野原を歩き、亡骸を見つけては巡回回向し、また被服廠跡や隅田堤で日夜読経念仏したと伝えられます。大正14年(1925年)に東京市は遺族に対して遺骨の引き取り方を公告しました。各区にわたる死者は分骨して「回向院」にも納骨されました。 ⑽ 「正門」 「回向院」は一般的な表記ですが、「正門」の扁額には古字を用い「囘向院」、そして、「正門」前の「寺号碑」には俗字を用いて「囬向院」と表記されています。令和元年(2019年)に、「正門」に「仁王像」が安置されました。「回向院」の「正門」は、かつては、現在の「両国2-8-10」あたりの位置にありました。残念ながら「回向院」の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、「正門」は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての「回向院正門」は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです ⑾ 「鳥居清長顕彰碑」 「鳥居清長」は、鳥居派四代目として八頭身の美人画を確立したことで知られる浮世絵師です。江戸の六大浮世絵師の一人でもあります。江戸の六大浮世絵師とは、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」、「葛飾北斎」、「歌川広重」ら六人です。「鳥居清長」の墓碑は以前から「回向院」にあったとされていましたが、「関東大震災」や「東京大空襲」により所在不明となっていましたが、近年の調査で過去帳に名が記されていることが発見され、平成25年(2013年)に「鳥居清長顕彰碑」が建立されました。石碑正面には、「鳥居清長」の「大川端夕涼み」に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられています。 ⑿ 「オットセイ供養塔」 「オットセイ供養塔」は、大正15年(1938年)に建てられたオットセイのための供養塔です。漢字で書くと非常に難しく、「膃肭臍」と書いてオットセイと読みます。大正時代に「回向院」のなかにあった見世物小屋にいたオットセイを供養するために建てられたものです。これだけでも「回向院」の栄華が分かりますね。 ⒀ 「猫塚」 「歌川国芳」は、大の猫好きで知られる江戸後期の浮世絵師です。常に数匹、多い時には十数匹の猫を飼い、猫の戒名の書かれた位牌で飾られた猫用の仏壇を自宅に設けていたそうです。「歌川国芳」が生きていた時代にはすでに「回向院」の猫塚は存在し、「歌川国芳」は何匹もの愛猫の供養をお願いしていたそうです。「猫塚」が回向院に築かれることになったきっかけは、次の様な逸話からです。猫を大変かわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。このようなことにより「回向院」の猫塚が築かれたそうです。   閉じる

クチコミ・評判 3ページ目

41~60件(全461件中)

  • 回向院正門跡

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    回向院の裏手の両国幼稚園横の歩道に、回向院正門跡の案内板が立っていました。かつての回向院は現在よりもかなり広く、このあたり...  続きを読むが正門だったようです。現在は当時の正門の姿を思い起こさせるものはありませんが、回向院の勢力の大きさを知ることができます。
      閉じる

    投稿日:2021/09/03

  • 願いが成就した時にお塩を供えます

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    両国の回向院の境内、多くの供養との立っている一角に、時代を感じさせるお地蔵さんが立っています。いつ造られたものかはわからな...  続きを読むいそうですが、江戸の庶民の多くの信仰を集めていたようです。右手に持っているのが錫杖、左手に持っているのが宝珠だそうです。  閉じる

    投稿日:2021/02/11

  • 鼠小僧のお墓の近くにあります

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    両国の回向院、石碑の多く並んだ場所の一角に鼠小僧の墓があります。その近くに猫塚があります。文化3年という江戸時代に建てられ...  続きを読むたお墓です。最近はペットのためのお墓が多くありますが、江戸時代から可愛がった動物を供養する気持ちは一緒なのだと思いました。この猫塚の由来は色々とあるそうですが、どれも可愛がられていた猫が、飼い主へ恩返しをし、その猫の供養のために飼い主が立てたというものだそうです。  閉じる

    投稿日:2021/02/11

  • 鼠小僧は実在の人物だったことがわかります

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    時代劇などでよく出てくる、鼠小僧治郎吉。お話の中の人物と思っている方も多いのではと思いますが、お墓のある実在の人物です。大...  続きを読む名屋敷から千両箱を盗んでは、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去るという義賊でした。なかなか捕まらなったことから、御利益に墓石を削る人が後を絶たず困ったといううことですが、禁止するだけでなく、削っても良い石を墓前に置いてくれていることは粋な計らいだと思います。  閉じる

    投稿日:2021/02/11

  • 兄、京伝と共に回向院にお墓があります

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    両国の回向院に戯作者、岩瀬京山のお墓があります。回向院の本堂近く、案内板が沢山立っているところの中に説明があります。兄であ...  続きを読むる岩瀬京伝のお墓は、京山が立てたそうで、兄弟そろって、回向院に眠っています。歴史に詳しくないと、あまり馴染みのない名前ですが、江戸時代の文化を知る一端となります。  閉じる

    投稿日:2021/02/11

  • 門弟に滝沢馬琴がいるそうです

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    両国の回向院の中に岩瀬京伝のお墓があります。本堂近くに案内板が立っています。江戸時代の戯作者、浮世絵師で山東京伝の名前で、...  続きを読む活躍したそうです。書いた洒落本が発禁処分となり手鎖50日の刑などにもなったそうです。あの滝沢馬琴も門弟だったそうです。  閉じる

    投稿日:2021/02/07

  • 回向院の墓地に、加藤千景のお墓があります。本堂の近くに案内板が立てられています。江戸時代の国学者であり歌人、書家だったそう...  続きを読むです。和洋書家として千蔭流をつくり、仮名書の法帖を数多く出版した方だそうです。墓石の「橘千蔭之墓」の字は自ら書かれたものだとも言われています。  閉じる

    投稿日:2021/02/07

  • この方たちのために回向院が造られました。

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    両国の回向院の境内、大きな石塔がいくつか立つ中に、この供養塔があります。回向院は明暦の大火で亡くなられた無縁の人々のために...  続きを読む建てられたお寺で、この供養塔もその時に建てられたものだそうです。震災、大火、戦災と多くの災いがその後ありましたが、この供養塔の位置はほとんど動いていないそうです。  閉じる

    投稿日:2021/02/07

  • 歴代の相撲年寄りのために建てられたそうです

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    回向院の山門を通ってすぐ、左側に大きな石碑が見えてきます。大きな力強い文字で力塚と書かれています。回向院では江戸時代から境...  続きを読む内で長い間、相撲が行われていて、明治時代には大鉄傘のある国技館が立てられました。そのような関わりの強い回向院の中に昭和11年に建てられたそうです。  閉じる

    投稿日:2021/02/05

  • 参拝されている方も多かったです

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    両国の回向院に向かいました。土曜日だったためか、参拝にいらしている方も多かったです。山門に近いところには、力士のための碑、...  続きを読む力塚や、キャットクラブの新しい碑などが並んでいます。奥にはいると、かなり年月の経った歴史を感じる碑が所狭しと並んでいます。その中に、鼠小僧のお墓があります。
      閉じる

    投稿日:2021/02/03

  • かつては両国橋の正面にあたったようです

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    両国の回向院の西側、現在両国幼稚園門前、一の橋通り沿いに案内板が立っています。当時は両国橋からまっすぐ進んでくると、ここが...  続きを読む正面になったようです。回向院は、江戸時代明暦の大火で亡くなられた10万人以上の人の弔いのために建てられたお寺です。江戸から両国橋を渡って多くの人が、元町、この正門を通ってお墓詣りに来たのだと思います。  閉じる

    投稿日:2021/01/28

  • 歴史ある寺院

    • 4.0
    • 旅行時期:2020/12(約5年前)
    • 0

    360年も前に建立されたとされる浄土宗寺院。
    将軍徳川家綱が、江戸の大火で亡くなった身元もわからない方々を葬るためにこの...  続きを読む地で大法要を行ったことが、この寺院のはじまりとのことでした。
    今では都会の中のオアシスのような雰囲気になっていますが、参拝者は多かったです。  閉じる

    投稿日:2020/12/21

  • 両国では指折りのお寺です

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/11(約5年前)
    • 0

    JR両国駅から南に徒歩3~4分、京葉道路を越えてすぐの場所にある浄土宗寺院です。明暦の大火や安政大地震などの犠牲者を埋葬し...  続きを読むている大きなお寺で、訪れる参拝者も多いです。境内には様々な慰霊碑や供養塔などがあり、両国界隈では屈指の見どころの多いお寺だと感じています。  閉じる

    投稿日:2022/04/04

  • 色々な供養塔

    • 4.0
    • 旅行時期:2020/11(約5年前)
    • 0

    両国駅から京葉道路方向に歩いて5分ほどのところにある、江戸時代はじめの明暦年間に開かれた浄土宗の寺院です。明暦の大火で亡く...  続きを読むなった人を弔うために造られたお堂から始まるお寺で、境内にはりっぱな供養塔も建っています。相撲とも関係が深く、明治時代の終わりに国技館が建つまで相撲興行が行われていた場所でもあります。
      閉じる

    投稿日:2021/08/04

  • 願いが叶うと塩を供する風習のあるお地蔵様

    • 3.0
    • 旅行時期:2020/09(約5年前)
    • 0

    JR総武線両国駅が最寄り駅。
    両国駅西口から南へ約180mのところにある回向院の境内にあります。
    大き目のお地蔵様です...  続きを読むが、かなり風化して古びた感じです。
    説明板のような立派なものはありませんでしたが、地蔵の手前に板が置いてあり、そこに手書きで下記のような内容が書かれていました。
    塩地蔵は宝暦7年(1757)建立。
    「日参の諸人心願成就の上塩を供す」
    俗に塩地蔵と呼ばれたそうです。
    実際、この板の前にいくつかの塩が供えられていて、今でも信心深い人がいるんだなと思いました。
      閉じる

    投稿日:2021/02/22

  • 実在した猫の墓として貴重な文化財

    • 3.0
    • 旅行時期:2020/09(約5年前)
    • 0

    JR総武線両国駅が最寄り駅。
    両国駅西口から南へ約180mのところにある回向院の境内にあります。
    説明板によると、猫を...  続きを読むかわいがっていた魚が生活に困窮し、それを助けた猫の遺体を回向院に葬ったものだそうです。
    この猫の恩返しの話は江戸っ子の間に広まった昔ばなしで、実在した猫の墓として貴重な文化財のひとつとのことです。
    なお、回向院には猫をはじめ、動物を慰霊する碑などが多くあります。
    訪問時、お寺で飼っているのか、本物の猫にも出会えましたが、さすがにこちらのほうが可愛い。

      閉じる

    投稿日:2021/02/22

  • JR総武線両国駅が最寄り駅。
    両国駅西口から南へ約180mのところにある浄土宗のお寺です。
    諸宗山無縁寺と号します。
    ...  続きを読む
    説明板によると、明暦3年(1657)の大火は多くの犠牲者を出しましたが、その遺体の多くは身元不明で引き取り手がありませんでした。
    そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されたのが、回向院の始まりです。
    その後の天災地変、人災などによるあらゆる生命が埋葬供養されています。
    そのため、境内にはやたらと石碑が多く、いちいち見ていると見ごたえがあります。

      閉じる

    投稿日:2021/02/22

  • かつては両国橋から見て真正面にありました

    • 3.0
    • 旅行時期:2020/09(約5年前)
    • 0

    JR総武線両国駅が最寄り駅。
    両国駅西口から南西へ約340mのところに説明板があります。
    それによると、かつての回向院...  続きを読む正門は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです。
    両国橋があたかも回向院の一部をなしているかのようだったということです。
    説明板に貼られている、「江戸名所図会」を見ると、当時の様子がうかがえて興味深いです。

      閉じる

    投稿日:2021/02/16

  • 相撲の発祥地

    • 4.0
    • 旅行時期:2020/09(約5年前)
    • 0

    明暦の大火の犠牲者を葬るために1657年に建立された歴史ある寺院です。
    相撲にも深く関わりがあり、1700年代から勧進相...  続きを読む撲が行われていました。歴代相撲年寄の慰霊のために建立された「力塚」もあります。初めての国技館での相撲観戦の前に参拝しました。  閉じる

    投稿日:2020/09/20

  • 相撲の聖地

    • 4.0
    • 旅行時期:2020/09(約5年前)
    • 0

    相撲の聖地として知られている場所で、現在の両国技館が建てられる1909年までは、ここで春秋2回の定場所相撲大会が行われてい...  続きを読むたそうです。
    また、江戸時代の大泥棒「ねずみ小僧の墓」があることでも有名です。
    「金運アップ」や「合格祈願」のご利益にあやかりたい参拝者が多いそうです。  閉じる

    投稿日:2020/09/08

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基本情報(地図・住所・アクセス)

施設名
回向院
住所
  • 東京都墨田区両国2-8-10
電話番号
03-3634-7776
アクセス
JR総武線両国駅 徒歩 5分
その他
創建年代 江戸
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 寺・神社・教会

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

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