2017/02/17 - 2017/02/19
545位(同エリア4565件中)
Donkyさん
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2月19日 京都市内は「2017京都マラソン」でいつもと違う朝を迎えていました。
1万6千人の市民ランナーの走路は 朝8時半に西京極競技場からスタート。四条通を抜けると 桂川に沿って北上 嵐山高架橋を通って 清滝寺から一条通へ仁和寺・龍安寺・金閣寺前を通過 西賀茂橋まで北上しUターン 加茂街道を南下 北山通で修学院まで行ってまたまたUターン北山通を戻って京都コンサートホールでまたたまたUターン 賀茂川河川敷を南下し 京都御所から市役所前を行ったり来たりして丸太町通は市役所前でUターン 河原町通から川端通を経て東一条通から今出川通りへ出て銀閣寺前でまたまたUターン。残り3キロは東大道通を経てゴールの平安神宮へ。主な名所名跡の前を駆け抜けます。
著名な名所名跡を走り抜けるのが京都マラソンの最大の特徴です。
ゆえに この日は定期観光バスもお休みです。嵐電と市バスを乗り継いで行ける範囲で回ることにしました。
まずは四条大宮から嵐山電鉄で嵐山へ向かい途中「帷子の辻」(かたぴらのつじ)で乗り換え終点「北野白梅町」で下車 早春の梅が開花した「北野天満宮」へ ついで天満宮前から市バスで「金閣寺」へ。 散策後「金閣寺」から(マラソンランナーを市バスの車窓から眺めながら)「銀閣寺」へというルートです。
注)記事中 京都マラソン詳細は「2017京都マラソン実行委員会」公式サイトからデータを抜粋。 北野天満宮・金閣・銀閣の説明はウイキペディアより抜粋加筆したものです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JALグループ ANAグループ JRローカル 私鉄 徒歩
-
京都マラソン2017
わが国で最初の駅伝は京都の三条大橋から始まって100年となる記念の年に、
「ロードレースのまち・京都」で第6回京都マラソン大会が開催されました。
図は冒頭くどくど説明した主要観光名所を網羅するコースです。 -
そんなわけで市内各所で交通規制 定期観光バスもさすがに今日はお休み 市バスもコース変更を余儀なくされています。
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第6回京都マラソン 定員
(1)マラソン 16,000名※
(2)ペア駅伝 200組400名
(3)車いす競技 20名
※主催者が推薦する競技者等を含む。このうち公募(自費)参加者は15,000名 -
第6回京都マラソン 種目
(1)マラソン(42.195㎞)
(2)ペア駅伝(1区27.6㎞、2区14.6㎞)
(3)車いす競技(6.1㎞) -
制限時間 マラソン・ペア駅伝 6時間
この制限時間がランナーにとってはとても重圧みたいです。
26日の東京マラソンへ自信満々参加した林家たい平師のタイムは5時間58分でした。
中間の21キロ折り返し点までは悠々と走っていましたが・・・。 -
ランナーたちが西京極競技場からスタートしたのをテレビで確認したのち「嵐電 四条大宮駅」へ向かいました。
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四条大宮駅
京都府京都市下京区四条大宮町にある京福電気鉄道嵐山本線の駅で駅ナンバリングはA1。
地下駅である阪急電鉄大宮駅の駅舎が、四条大宮交差点を挟んだ対面側に設置されています。
駅名は四条通と大宮通が交差する「四条大宮」に駅があることに由来。
1910年(明治43年)3月 嵐山電車軌道の京都駅(きょうとえき)として開業。
1925年(大正14年)11月 四条大宮駅に改称 -
嵐山本線(あらしやまほんせん)は、京都府京都市下京区の四条大宮駅から右京区の嵐山駅までを結ぶ京福電気鉄道の軌道路線です。
北野線と併せて嵐山線、通称嵐電(らんでん)と呼ばれます。
嵐山を始めとする洛西エリアの観光地への行楽路線であるとともに、繁華街である四条通へ出るための足ともなっています。 -
東映大秦映画村へはこの電車で行くと便利です。
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途中「帷子ノ辻」(かたぴらのつじ)駅でのりかえ 北野白梅駅へ向かいます。
駅名は嵯峨天皇の后である、檀林皇后(だんりんこうごう)の思いが関係しています。
皇后は生前に「私がもし死んだら、嵯峨野の原へ捨てて欲しい」という遺言を残していました。恋慕愛執を絶ちきるための皇后から帝への愛ある遺言だったのです。
当時は“風葬(ふうそう)”が一般的でしたが、高貴な人は火葬が行われていましたので、檀林皇后が風葬にされるということは、至って異例のことでした。
皇后が亡くなると、遺言通り、皇后の亡骸は嵯峨野の原へ運ばれていきました。
その道中のことです。皇后が身にまとっていた経帷子(きょうかたびら:死装束)が、風で舞い上がってしまったのです。そして、その経帷子が落ちた場所が辻であったことから、それ以来、この場所を「帷子ノ辻」と呼ばれるようになったそうです。(京都トリビア 一風変わった地名より抜粋) -
北野白梅町駅(きたのはくばいちょうえき)は、京都市北区下白梅町にある京福電気鉄道北野線の駅。駅ナンバリングはB9。
1925年(大正14年)の北野線の開業時には設置されていなかったのですが、1943年(昭和18年)の京都市電西大路線の全通に際して開業しました。開業時の駅名は白梅町駅(はくばいちょうえき)でしたが、1958年(昭和33年)7月に北野線の当駅 - 北野間が休止され、北野駅に代わって当駅が新しい終着駅となったのちに、北野駅と白梅町駅の両駅名を合わせる形で改称されました。 -
北野天満宮への道は「妖怪ストリート」
水木しげるさんのおかげでしょうか・・・妖怪にも市民権?が与えられたのか境港や東京郊外やら色んなところで見かけるようになりました。 -
北野天満宮
所在地 京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町
主祭神 菅原道真公 創建 天暦元年(947年) -
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社です。
旧称は北野神社で二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」です。 -
通称として天神さん・北野さんとも呼ばれています。天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われています。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めています。
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本殿、石の間、拝殿、楽の間(合1棟)慶長12年(1607年)に建立。
入母屋造の本殿と、同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して1棟とする、権現造社殿です。
屋根はすべて檜皮葺き。本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟としており、国宝に指定されています。 -
さて祭神は以下の3柱です。菅原道真公だけではありません。
主祭神 菅原道真公
相殿神 中将殿 - 菅原高視(道真長子)を指す
吉祥女 - 道真正室を指す -
東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花
主なしとて 春を忘るな
この短歌は、菅原道真(すがわらみちざね・菅公)がうたった有名なものです。 -
彼は、もともと低い身分でしたが、学問に優れていたため、右大臣にまで出世しました。 当時の左大臣の藤原時平からねたまれ、あらぬ罪で、大宰府に左遷させられました。
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その時に、梅が大好きだった菅公が京都の紅梅殿の梅に向けて詠んだ歌のようです。 現在も大宰府の天満宮には、梅があり、飛梅伝説として残っているようです。 「春を忘るな」は、「春な忘れそ」という記述の方が多いようです。
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北野天満宮の梅苑は梅の開花状況に合わせて一般公開されます。
一般公開の時期は開花状況によって数日ずれますが、2月上旬(2017年は1月28日(土))に公開されます。(詳しくは北野天満宮Facebookや北野天満宮HPにて情報公開されます)。 -
開花時期は、2月上旬から3月下旬まで。
早咲きの「寒紅梅」に始まり、うっすらと青緑色の「月の桂」、「黒梅」、「雲龍梅」。
1本の樹に紅梅と白梅が乱れて咲く「思いのまま」など、1500本、50品種の梅が植えられているので、楽しめる期間が長いのです。 -
開花期間が長い分集客力がありこの時期境内は参拝客でにぎわいます。
ところで クロワッサンのたい焼きってなんでしょね? -
古くからある「長五郎餅」も境内では出店中。
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北野天満宮のお膝元にある、「とようけ茶屋」前の行列。
老舗豆腐店が営む豆腐料理の専門店です。今出川通沿いにあり、市バスのバス亭からも程近く。
営業時間が11:00~15:00ということで、お昼時に行けばいつも大行列になっているお店で有名です。 -
北野さん前から金閣寺へ市バスで移動しました。
ちょうどお昼時です。
喜(表記は七を三個)福庵 金閣寺みち店 (きふくあん)でランチタイム -
喜福庵 金閣寺みち店 で 白みそうどん
上品な味です。 -
うたい文句の福の字は昆布で切り抜いたものです。
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この界隈 さすがに「金粉ソフト」だの
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金閣ソフトだの・・・ この土地なりのネーミングソフトを目にしましたが時節柄試食まではいきませんでした。
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鹿苑寺 金閣への入り口 「金閣寺道」です。
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金閣寺
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺です。 -
寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむものです。
山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。
義満の北山山荘をその死後に寺としたものです。 -
建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られています。
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相国寺の山外塔頭寺院です。
足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ鹿苑寺舎利殿。 -
山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。
義満の北山山荘をその死後に寺としたものです。 -
舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築でしたが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955年)に再建されました。
平成6年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されています。 -
舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき明治30年(1897年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、昭和4年(1929年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定されました。
周囲の金箔は10.8センチ四方の金箔約20万枚(約20キロの金)を使用。
張り替え前の10倍の量を、金箔の厚さは5倍で、しかもそれを二重に貼ってあるそうです。総工費は7億4千万円。 -
また、明治37年(1904年)から明治39年(1906年)に解体修理が行われました。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により大正14年(1925年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により昭和31年(1956年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されています。
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昭和25年(1950年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失(金閣寺放火事件)。
文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定されました。再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ、昭和27年(1952年)着工、昭和30年(1955年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元されたものです。 -
金閣寺前から市バスを使って一路銀閣寺を目指しました。
バスを降りると銀閣寺に向けて「哲学の道」が・・・ -
銀閣寺に向かう「哲学の道」
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「哲学の道」を速足で10分以上歩き やっと銀閣寺の入り口に着きました。
金閣寺みちよりずっとずっと長いのです。金閣より2倍以上の徒歩が必要です。 -
銀閣寺 正式には史跡 慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院です。
相国寺の境外(けいがい)塔頭にあたります。
室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有しています。 -
銀閣寺垣
慈照寺の門から庭園を結ぶ入り口の道の両側の垣根は銀閣寺垣(ぎんかくじがき)と呼ばれています。 -
室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られています。
「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれています。
山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされています。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山といいます。 -
銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建っています。
長享3年(1489年)の上棟です。
屋根は宝形造、杮葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置いています。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていたそうです。 -
鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を張った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は張られておらず、張られていた痕跡も残っていません。
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初層は「心空殿」と称し、住宅風の造りになっています。初層東側には落縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)となり、こちら側が正面であることを示しています。
上層は当初は内外とも黒漆塗でした。初層の平面規模は東面および西面が8.2メートル、北面が7.0メートル、南面が5.9メートルです(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1メートルほど長くなっています)。 -
錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園。
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「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされています。
これは「向月台」 -
「銀沙灘」(ぎんしゃだん)波紋を表現しています。
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「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りと東求堂(とうぐどう)
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東求堂(とうぐどう)は一重入母屋造、檜皮葺きで、文明18年(1486年)の建立です。
軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いています。義政の持仏堂として建立されたものですが、様式的には住宅建築の要素が強いものです。 -
平面は正方形で、東西南北の各面とも6.9メートル、三間半四方の規模です
(ここで言う「間」は畳の長辺の長さ)。
南を正面とし、内部は4室に分かれています。正面側は西(向かって左)を8畳大の仏間、東を縦4畳の室。奥側は西が6畳、東が「同仁斎」と呼ばれる4畳半の書斎。仏間は床を板敷、天井を折上小組格天井。他の3室は畳敷で天井は棹縁天井、室境はいずれも襖。 -
慈照寺の庭園は「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされますが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているといわれています。
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東方山麓の枯山水庭園は昭和6年(1931年)に発掘されたもので、室町時代の面影を残すとされています。
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室町幕府8代将軍足利義政は文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。
この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っています。 -
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していましたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていました。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられていましたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいました。
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ちょうど苔の手入れをしている職人(職員?)に出会い 入念に手入れし続けることの大変さを説明され 裏方の尽力を垣間見ました。
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東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父・3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないものの、ある程度政治的機能ももっていました。
ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみです。 -
京都マラソンのおかげもあって、定期観光バスや団体旅行の来場がないため、ゆったりと見て歩けました。
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寺内部 案内板がなんとも観光地っぽさを漂わせ・・・。
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お土産売り場にはフィギュア土産も 外国人向けですね。
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案内図通りいくと 慈照寺の中で抹茶のサービスもあります。
蛇足ながら 銀閣・慈照寺の拝観料は500円
金閣・鹿苑寺は 400円です。
実際に訪れてみると 金額以上の差を感じます。
銀閣のほうがどこか奥の深さを感じさせますね。 -
参詣を終え もと来た道を戻ります。
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道すがら お土産屋さんが軒を並べ その数の多いことといったら・・・。
さすが京都です、納得。 -
品数豊富 そしてリーズナブルプライス。
低価格は外国人向け必須要件 -
こんなTシャツや 扇子も
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銀閣から15分ほど歩いて バス通りのある今出川通りの交差点へ出ます。
今出川通りの交差点は京都マラソンの折り返し点で ゴールの平安神宮までは残り3キロ弱の地点に。すでにスタートして5時間半が経過しようとしていました。 -
バスの車窓に最後尾のランナー?
コース上を走っているのは最後尾のランナーでしょうか後ろに救護カーがゆっくりと追走していました。
一度 堀川今出川の宿に戻って、近くの鶴屋義信で最後のお土産を調達。
京都駅経由で伊丹空港に向かいます。 -
さて最後は 京都の玄関口に佇み、住人、観光客を温かく迎える京都タワー。
白くほっそりとしたフォルムは海のない京都の街を照らす灯台をイメージ。
京都市街で一番高く、地上100メートルにある展望室からは東山三十六峰に囲まれた古都京都の市街地が360度見渡せます。時間、四季によって様変わりする京都の全てを感じる事ができます。(京都タワー オフィシャルサイト) -
午後6時前 伊丹 大阪国際空港に到着
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空港内レストランで この旅最後の夕食です。
これで3泊4日の旅の終了です。 -
軽いディナーのつもりが150グラムのステーキと
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親子あんかけうどん いずれも結構なお味でした。
今回は予想外の京都マラソンに遭遇したりハプニングはありましたが、そこそこ予定通りに日程消化でき後半は天候にも恵まれ結構な旅になりました。
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