2018/11/20 - 2024/03/25
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砂布巾さん
1909(明治42)年10月26日~ 伊藤博文、安重根と千葉十七(人物、韓国)
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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日本国初代総理大臣で、朝鮮統監府の初代長官でもあった伊藤博文は、清のロシア勢力圏に属するハルビンで標記日にち午前10時に大韓国人安重根(アン ジュングン)によって射殺された。その場でロシア官憲に捕らえられ、身柄はすぐ日本側へ渡された。翌年2月7日に初公判が開かれ、1週間後に死刑判決。弔い刑のためか、死刑は射殺からちょうど5ヶ月後の同時刻に執行された。
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旅順獄中の安重根は、短い期間に日本人の検事、憲兵、看守、通訳たちに主張をせつせつと説いていった。内容は次のようなものだった。
「中国と韓国(1897年に李氏朝鮮から大韓帝国に改称)と日本は同じ腹から生まれた三人兄弟のようなものだ。だから、三兄弟は仲良く助け合って欧米列強の侵略から互いを守らなければならない。そうしてこそ、東洋の平和が実現できる。ひとり日本ばかりがおごりたかぶっているのでは、けっして東洋のためにならない。伊藤の政策を許せば、韓国のためにならないばかりか、日本の将来のためにもよくない。ひいては東洋の平和のためにもよくないのだ」。 -
日本人たちは、その人格に深い感銘を受け、親愛の情と畏敬の念が次第に芽生えていった。日本人たちは「書」が立派なことを知って、「記念」に書いてもらうことをつぎつぎ願い出た。
筆にたっぷりと墨を含ませると、差し出された白い絹地に一気に「書」をしたためた。最後に「大韓独立」の願いをこめて左手を押印した。左手の薬指は小指の長さしかなかった。訳をパネルの説明から引用すると、「断指の由来。祖国の独立と東洋の平和のため、1909年1月にロシア領ノボキエフスクにおいて同志十一名とともに左手の薬指を切断し、その血で太極旗に『大韓独立』の4文字を書き、天地に誓いを立てた」。 -
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処刑の1時間前、当時24歳だった看守役の憲兵千葉十七の求めに応じて「為国献身 軍人本分」という「書」を残した。
「あなたのような立派な人を重大犯人として看守するのがつらい」と打ち明けた千葉十七に対して、「自分が義兵中将として国のために身を捧げるように、日本の軍人であるあなたも自国の為に身を捧げるのが本分でしょう」と諭して、思いやりを込めて書いた。
こうして安重根の「最期の遺墨」が残された。 -
その後の千葉十七と「書」について。退役後、彼は故郷の宮城県に帰り、安重根の遺徳をしのびつつ「書」を家宝として大切にした。50歳で亡くなった後は、妻が夫の遺志をついで、夫の位牌とともに安重根の写真を仏壇に並べ、朝晩礼拝を欠かさなかった。
妻の死後も「書」は遺族によって大切に保管され、1979年、処刑から80年振りに大韓民国(以下 韓国)の土を踏み、安義士記念館に寄贈された。
その後の千葉十七と「書」について。退役後、彼は故郷の宮城県に帰り、安重根の遺徳をしのびつつ「書」を家宝として大切にした。50歳で亡くなった後は、妻が夫の遺志をついで、夫の位牌とともに安重根の写真を仏壇に並べ、朝晩礼拝を欠かさなかった。独立記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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*国旗の数が半端ない
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*日本による拷問の様子が蝋人形で再現され、それらを見学する人々。まだあまり判断力がない子どもに残酷なものを見せるのは良くないと思うが…
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*竹島が韓国領であることを強調している 至る所にこの類のものがある
以前「ニュースキャスター」で観たが、韓国では誰でも知っている独島(竹島のこと)の歌や高校には独島クラブがあるなど、とにかく国民への啓蒙、宣伝は日本の何百倍も進んでいる -
妻の死後も「書」は遺族によって大切に保管され、1979年、処刑から80年振りに大韓民国(以下 韓国)の土を踏み、安義士記念館に寄贈された。
*以下6枚の写真はソウル市南山にある記念館安重根義士記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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その後の千葉十七と「書」について。退役後、彼は故郷の宮城県に帰り、安重根の遺徳をしのびつつ「書」を家宝として大切にした。50歳で亡くなった後は、妻が夫の遺志をついで、夫の位牌とともに安重根の写真を仏壇に並べ、朝晩礼拝を欠かさなかった。
妻の死後も「書」は遺族によって大切に保管され、1979年、処刑から80年振りに大韓民国(以下 韓国)の土を踏み、安義士記念館に寄贈された。
1992年には日本での2人の合同法要に、初めて安重根の遺族が参加した。 -
安重根は単なる殺人犯と思っていたが、祖国の独立や東洋の平和への思い、決意を知ることによって、一言で片付けるのは惜しい気がした。ただ「素晴らしい人だ」と褒め称えるのも複雑だ。
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*記念館の祭壇(1997年訪問)
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日清戦争の講和条約、下関条約で台湾、澎湖諸島を獲得していた日本は、読売新聞が第0次大戦と位置付ける日露戦争以後、大韓帝国に2度にわたる日韓協約を迫るなど徐々に支配を強めていく。1907年には日本に支配の不当性を訴えようとするハーグ密使事件が起こるが、帝国主義列強は耳を貸さなかった。皮肉なことに処刑からちょうど5か月後の8月26日、大韓帝国(1897年「李氏朝鮮」から改称)を植民地として併合し、1945年8月15日の「光復」の日まで、36年間の植民地支配を受けることになる。併合に慎重だったとも言われる伊藤博文が殺されなかったら、どうなっていただろう。現在の韓国では、日本の支配に抵抗した義士として大きな尊敬を集めている。
*教科書でよく見た写真! -
本項目は、神谷丹路著「韓国 近い昔の旅」(凱風社)の「最期の遺墨」を参考にした。
1997年夏の韓国旅行では、ソウルの南山(ナムサン)にある安義士記念館を、2005年の南北同時訪問の際には、第1章で紹介する柳寛順の故郷近く天安にある独立記念館を再訪した。記念館は日本の植民地時代の展示が中心なので、当然彼の展示も多い。(2005年8月14日ほか訪問)
*かつての朝鮮総督府の建物(最後の写真)は、議論が分かれ最終的に大統領の決断で解体されたが、その尖塔部分は記念館近くに展示されている -
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*手前の銅像は豊臣軍と戦った李舜臣(イ・スンシン)将軍
1992年 新婚旅行 http://4travel.jp/travelogue/10276974
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