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今回、JR駅からハイキング「東海道線辻堂駅開業100周年記念!旧東海道藤沢宿の歴史や文化を巡るハイキング」に参加しました。<br /><br />藤沢と言えば、江の島が近いところで夏のイメージが濃いエリアですが、江戸時代は東海道五十三次の宿場町を端緒に発展した側面もあります。今回はまた違った視点でその歴史や文化を感じながら、楽しくハイキングをしてまいりました。<br /><br />起点駅・集合時間:神奈川・JR東海道線藤沢駅 10時<br /><br />歩行距離・所要時間:約8.5km 約3時間<br /><br />今回のコース:<br />藤沢駅→湘南FUJISAWAコンシェルジュ(スタート)→江の島弁財天道標→蔵まえギャラリー→江戸見附跡→遊行寺→ふじさわ宿交流館→常光寺→伝義経首洗井戸→白旗神社→京見附跡→養命寺→一里塚跡→辻堂駅(ゴール)<br /><br />歩行後のお酒とごはん:伊勢屋<br />

東海道線辻堂駅開業100周年記念!旧東海道藤沢宿の歴史や文化を巡るハイキング

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2016/12/18 - 2016/12/18

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t.oさん

今回、JR駅からハイキング「東海道線辻堂駅開業100周年記念!旧東海道藤沢宿の歴史や文化を巡るハイキング」に参加しました。

藤沢と言えば、江の島が近いところで夏のイメージが濃いエリアですが、江戸時代は東海道五十三次の宿場町を端緒に発展した側面もあります。今回はまた違った視点でその歴史や文化を感じながら、楽しくハイキングをしてまいりました。

起点駅・集合時間:神奈川・JR東海道線藤沢駅 10時

歩行距離・所要時間:約8.5km 約3時間

今回のコース:
藤沢駅→湘南FUJISAWAコンシェルジュ(スタート)→江の島弁財天道標→蔵まえギャラリー→江戸見附跡→遊行寺→ふじさわ宿交流館→常光寺→伝義経首洗井戸→白旗神社→京見附跡→養命寺→一里塚跡→辻堂駅(ゴール)

歩行後のお酒とごはん:伊勢屋

旅行の満足度
4.0

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  • 今日は藤沢駅よりスタート。よく晴れて絶好のウォーキング日和です。

    今日は藤沢駅よりスタート。よく晴れて絶好のウォーキング日和です。

    藤沢駅

  • 先ずは駅構内にあるこの湘南FUJISAWAコンシェルジュで受付、地図をもらって歩き始めます。

    先ずは駅構内にあるこの湘南FUJISAWAコンシェルジュで受付、地図をもらって歩き始めます。

    藤沢駅

  • 最近藤沢市は、夏の海の季節だけではなく、冬はこうして東海道五十三次で町興しをしているようで、街のあちこちにこのような看板を見かけることができます。

    最近藤沢市は、夏の海の季節だけではなく、冬はこうして東海道五十三次で町興しをしているようで、街のあちこちにこのような看板を見かけることができます。

    藤沢駅

  • 先ずは駅北口を出て遊行寺方面に向かいます。

    先ずは駅北口を出て遊行寺方面に向かいます。

    藤沢駅

  • ビッグカメラのビル脇遊行通り(306号線)の道路を北へ進みます。今は裏通りの趣きのこの通りですが、実は立派な古道だそうで、正中2年(1325年)、遊行寺が開山されるや、参拝の庶民がその足で江の島、鎌倉に詣でる唯一の街道として大変な賑わいを見せていたそうです。

    ビッグカメラのビル脇遊行通り(306号線)の道路を北へ進みます。今は裏通りの趣きのこの通りですが、実は立派な古道だそうで、正中2年(1325年)、遊行寺が開山されるや、参拝の庶民がその足で江の島、鎌倉に詣でる唯一の街道として大変な賑わいを見せていたそうです。

  • 江の島弁財天道標<br />遊行通り先の467号線と交わるロータリーの中には市指定文化財の江の島弁財天道標がたっていまました。この道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術の考案者で、江の島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校が、江島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにと寄進したものと伝えらているそうで、この他に市内にほぼ同形の道標が12基指定されているとのこと。<br />

    江の島弁財天道標
    遊行通り先の467号線と交わるロータリーの中には市指定文化財の江の島弁財天道標がたっていまました。この道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術の考案者で、江の島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校が、江島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにと寄進したものと伝えらているそうで、この他に市内にほぼ同形の道標が12基指定されているとのこと。

  • 蔵まえギャラリー<br />遊行通り先のロータリーの左手斜めにある少し細い道を進みます。この道は、藤沢宿から石上、片瀬を通って江島神社に至る江の島道と呼ばれた道筋で、江島神社に参詣する人々が歩いた旧道だそうです。ほどなく行くと左手に元米穀商の土蔵造りの家が、わずかに往事を偲ばせています。このあたりを「蔵前」といい、江戸時代に年貢米を納入する蔵があったところだそうです。<br />

    蔵まえギャラリー
    遊行通り先のロータリーの左手斜めにある少し細い道を進みます。この道は、藤沢宿から石上、片瀬を通って江島神社に至る江の島道と呼ばれた道筋で、江島神社に参詣する人々が歩いた旧道だそうです。ほどなく行くと左手に元米穀商の土蔵造りの家が、わずかに往事を偲ばせています。このあたりを「蔵前」といい、江戸時代に年貢米を納入する蔵があったところだそうです。

    蔵まえギャラリー 美術館・博物館

  • 旧道を抜け国道467号線をさらに進み、藤沢橋を渡り遊行寺坂(国道30号線)を上っていきます。

    旧道を抜け国道467号線をさらに進み、藤沢橋を渡り遊行寺坂(国道30号線)を上っていきます。

  • 江戸見附跡<br />遊行寺坂を上り諏訪神社の鳥居が見えるところに江戸見附跡の案内がありました。<br />かつて東海道を始めとする主要な街道の宿場の出入口には、街道を挟み、見附(みつけ)と呼ばれる構造物があったそうで、一般に、江戸側の出入口にあるものを江戸見附、京(上方)側にあるものを京見附と呼んでいたそうです。この江戸見附と京見附の間が藤沢宿の範囲となりました。<br />

    江戸見附跡
    遊行寺坂を上り諏訪神社の鳥居が見えるところに江戸見附跡の案内がありました。
    かつて東海道を始めとする主要な街道の宿場の出入口には、街道を挟み、見附(みつけ)と呼ばれる構造物があったそうで、一般に、江戸側の出入口にあるものを江戸見附、京(上方)側にあるものを京見附と呼んでいたそうです。この江戸見附と京見附の間が藤沢宿の範囲となりました。

  • 江戸見附を確認して坂を少し下り遊行寺境内に入っていきます。遊行寺は時宗の総本山ですね。

    江戸見附を確認して坂を少し下り遊行寺境内に入っていきます。遊行寺は時宗の総本山ですね。

  • 本堂前右手の高台に時宗の宗祖、一遍上人銅像がありました。<br />全国各地を遊行(布教)した後、上人が初めて藤沢の地を踏まれたのは弘安5年(1282)のことだそうです。<br />当時、各宗の高僧たちは政治の中心地鎌倉での布教をこころみようとしており、一遍上人もそれに倣い鎌倉入りしようとしましたが、乞食のような恰好をした上人の一団は、浮浪者の取り締まりを厳しくしていた幕府により鎌倉入りを禁止され、ここ藤沢で布教をしたのが遊行寺開山に繋がったそうです。

    本堂前右手の高台に時宗の宗祖、一遍上人銅像がありました。
    全国各地を遊行(布教)した後、上人が初めて藤沢の地を踏まれたのは弘安5年(1282)のことだそうです。
    当時、各宗の高僧たちは政治の中心地鎌倉での布教をこころみようとしており、一遍上人もそれに倣い鎌倉入りしようとしましたが、乞食のような恰好をした上人の一団は、浮浪者の取り締まりを厳しくしていた幕府により鎌倉入りを禁止され、ここ藤沢で布教をしたのが遊行寺開山に繋がったそうです。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • 本堂に向かいます。<br />木造銅葺、木造としては東海道随一の規模といわれているそうです。関東大震災で倒壊したのち、昭和10年上棟、同12年に落成。外陣長押に後光厳天皇の勅額「清浄光寺」を掲げているとのこと。

    本堂に向かいます。
    木造銅葺、木造としては東海道随一の規模といわれているそうです。関東大震災で倒壊したのち、昭和10年上棟、同12年に落成。外陣長押に後光厳天皇の勅額「清浄光寺」を掲げているとのこと。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • 遊行寺は正中二年(1325)遊行四代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしたのが始まりだそうでこれが藤沢山清浄光院(のちに清浄光寺)、時宗の総本山遊行寺となったそうです。

    遊行寺は正中二年(1325)遊行四代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしたのが始まりだそうでこれが藤沢山清浄光院(のちに清浄光寺)、時宗の総本山遊行寺となったそうです。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • 東門から右手、本堂わきの細い道(通称 車坂)をたどると長生院というお寺がありました。”小栗堂”とも言い、浄瑠璃で名高い小栗判官・照手姫ゆかりのお寺だそうで、入ったところに小栗判官と十勇士の墓がありました。

    東門から右手、本堂わきの細い道(通称 車坂)をたどると長生院というお寺がありました。”小栗堂”とも言い、浄瑠璃で名高い小栗判官・照手姫ゆかりのお寺だそうで、入ったところに小栗判官と十勇士の墓がありました。

    小栗判官公並びに十勇士の墓 寺・神社・教会

  • 照手姫のお墓です。<br />応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。<br />助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされているそうです。<br />

    照手姫のお墓です。
    応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。
    助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされているそうです。

    小栗判官公並びに十勇士の墓 寺・神社・教会

  • 脇には名馬鬼鹿毛の墓もありました。<br />そう言えば、以前新座を歩いたとき、鬼鹿毛伝説に因んだ馬頭観音像があったことを思い出しました。何か関連があるのかな?

    脇には名馬鬼鹿毛の墓もありました。
    そう言えば、以前新座を歩いたとき、鬼鹿毛伝説に因んだ馬頭観音像があったことを思い出しました。何か関連があるのかな?

    小栗判官公並びに十勇士の墓 寺・神社・教会

  • 遊行寺の境内に戻ってくると、骨董市が開催されていました。ぶらぶらと見て回ります。

    遊行寺の境内に戻ってくると、骨董市が開催されていました。ぶらぶらと見て回ります。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • 中雀門(市指定重要文化財)です。<br />安政六年(1859)に建立された、遊行寺境内で最も古いの建造物だそうです。建立者は紀伊大納言徳川治宝(とくがわはるとみ)だそうです。

    中雀門(市指定重要文化財)です。
    安政六年(1859)に建立された、遊行寺境内で最も古いの建造物だそうです。建立者は紀伊大納言徳川治宝(とくがわはるとみ)だそうです。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • 明治天皇御膳水井<br />明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸だそうです。

    明治天皇御膳水井
    明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸だそうです。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • 境内の中央には大銀杏がそびえたっておりました。樹齢500年(一説に700年)といわれ、藤沢市の天然記念物に指定されているそうです。

    境内の中央には大銀杏がそびえたっておりました。樹齢500年(一説に700年)といわれ、藤沢市の天然記念物に指定されているそうです。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • 大銀杏から惣門へいろは坂を降りる途中、富士山が見えました。

    大銀杏から惣門へいろは坂を降りる途中、富士山が見えました。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • 遊行寺の惣門。今日では遊行寺の黒門と呼ばれているそうです。この門前に藤沢宿が広がっておりました。

    遊行寺の惣門。今日では遊行寺の黒門と呼ばれているそうです。この門前に藤沢宿が広がっておりました。

    清浄光寺(遊行寺) 寺・神社・教会

  • ふじさわ宿交流館<br />遊行寺の門前、藤沢宿の広小路と呼ばれていた場所付近にあり、ウオーキングや歴史散策の休憩に誰もが気軽に立ち寄れる施設です。旧東海道藤沢宿関連資料の展示等を実施しております。<br />

    ふじさわ宿交流館
    遊行寺の門前、藤沢宿の広小路と呼ばれていた場所付近にあり、ウオーキングや歴史散策の休憩に誰もが気軽に立ち寄れる施設です。旧東海道藤沢宿関連資料の展示等を実施しております。

    藤沢市ふじさわ宿交流館 名所・史跡

  • 中に入るとかつての藤沢宿のジオラマがありました。遊行寺の門前町として栄えていた当時の様子がよくわかりますね。

    中に入るとかつての藤沢宿のジオラマがありました。遊行寺の門前町として栄えていた当時の様子がよくわかりますね。

    藤沢市ふじさわ宿交流館 名所・史跡

  • 交流館を出て遊行寺橋を渡り右折します。

    交流館を出て遊行寺橋を渡り右折します。

  • 通り沿いのトランスボックスには、藤沢宿の昔の写真がプリントされており、往事の賑わいを想像しながら歩を進めていきます。

    通り沿いのトランスボックスには、藤沢宿の昔の写真がプリントされており、往事の賑わいを想像しながら歩を進めていきます。

  • 桔梗屋の建物が見えました。桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家だそうです。本社は横浜に移転しましたが、現在も藤沢の店蔵は支店として営業を続けているそうです。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで東海道の旧宿場的雰囲気を伝えています。

    桔梗屋の建物が見えました。桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家だそうです。本社は横浜に移転しましたが、現在も藤沢の店蔵は支店として営業を続けているそうです。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで東海道の旧宿場的雰囲気を伝えています。

  • 国道467号線、かつての宿場町の通りを京都方面に進んで行きます。

    国道467号線、かつての宿場町の通りを京都方面に進んで行きます。

  • 和菓子屋の店頭に貼られていたキャンペーンのポスター。さすが旧東海道、かつてのお茶屋さんの名残なのか、街道沿いには一定の距離おきに和菓子屋があります。ついつい寄り道しまいます。

    和菓子屋の店頭に貼られていたキャンペーンのポスター。さすが旧東海道、かつてのお茶屋さんの名残なのか、街道沿いには一定の距離おきに和菓子屋があります。ついつい寄り道しまいます。

    豊島屋本店 グルメ・レストラン

  • 藤沢宿の問屋場跡の標識です。江戸時代の村々には、名主(あるいは庄屋)・組頭(あるいは年寄)・百姓代と呼ばれる村役人が置かれ、領主・代官との折衝や村政の運営を行っていましたが、同じように宿場にも、宿場を円滑に運営するために、宿役人が存在していたそうです。この宿役人が業務を行うために詰めていたのが問屋場(といやば)だとのこと。ここで江戸と全国各地の間で送付される幕府の書状の継立(つぎたて)や、参勤交代の大名行列時などに周辺の村々から動員された人足・馬の差配を取り仕切っていたそうです。

    藤沢宿の問屋場跡の標識です。江戸時代の村々には、名主(あるいは庄屋)・組頭(あるいは年寄)・百姓代と呼ばれる村役人が置かれ、領主・代官との折衝や村政の運営を行っていましたが、同じように宿場にも、宿場を円滑に運営するために、宿役人が存在していたそうです。この宿役人が業務を行うために詰めていたのが問屋場(といやば)だとのこと。ここで江戸と全国各地の間で送付される幕府の書状の継立(つぎたて)や、参勤交代の大名行列時などに周辺の村々から動員された人足・馬の差配を取り仕切っていたそうです。

  • 歩いていると消防署がありその脇を入ると、常光寺の山門が見えました。創建年<br />元亀3年(1572年)、正式名は「八王山 摂取院 常光寺」鎌倉光明寺の末寺だったそうです。 明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた場所でもあるそうです。

    歩いていると消防署がありその脇を入ると、常光寺の山門が見えました。創建年
    元亀3年(1572年)、正式名は「八王山 摂取院 常光寺」鎌倉光明寺の末寺だったそうです。 明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた場所でもあるそうです。

    常光寺 寺・神社・教会

  • 境内の紅葉がちょうど見頃になっている様子です。

    境内の紅葉がちょうど見頃になっている様子です。

    常光寺 寺・神社・教会

  • 本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基あります。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重です。もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じを与えます。

    本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基あります。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重です。もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じを与えます。

    常光寺 寺・神社・教会

  • 墓所を包むようにひろがる約7900haの静かな寺林は、天然記念物として市の指定を受けているそうです。ひときわ目を引くのは、高さ約25m、推定樹齢300〜400年にもなるカヤの巨木で、県選定の「かながわの名木100選」にも挙げられているとのこと。

    墓所を包むようにひろがる約7900haの静かな寺林は、天然記念物として市の指定を受けているそうです。ひときわ目を引くのは、高さ約25m、推定樹齢300〜400年にもなるカヤの巨木で、県選定の「かながわの名木100選」にも挙げられているとのこと。

    常光寺 寺・神社・教会

  • 常光寺のカヤの説明書ですね。

    常光寺のカヤの説明書ですね。

    常光寺 寺・神社・教会

  • 境内には、英文学者で詩人の「野口米次郎(1875-1947)」の碑があります。米次郎は「ヨネ・ノグチ」の名で英・米詩壇で認められ、帰国後も浮世絵をはじめ日本の文化、文芸を世界に紹介しました。碑には、彼が詠んだあじわい深い詩が刻まれています。

    境内には、英文学者で詩人の「野口米次郎(1875-1947)」の碑があります。米次郎は「ヨネ・ノグチ」の名で英・米詩壇で認められ、帰国後も浮世絵をはじめ日本の文化、文芸を世界に紹介しました。碑には、彼が詠んだあじわい深い詩が刻まれています。

    常光寺 寺・神社・教会

  • 伝義経首洗井戸<br />旧東海道(国道467号線)白旗交差点近くの交番手前の小道を入っていくと、公園の片隅に伝義経首洗い井戸がありました。義経は兄頼朝に鎌倉を追われ奥州平泉に逃げていましたが、文治5年(1189)藤沢泰衡は亡父秀衡がかくまっていた義経を攻め、ついに衣川で義経を自刃させました。平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、首実検の後に片瀬の浜に捨てられたといわれているそうです。潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した義経の首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたということです。一説によれば、鎌倉に入る前に首実検に備えて化粧を施したとも、また、夜間に鎌倉方面から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んできたとも伝えられているそうです。<br /><br />

    伝義経首洗井戸
    旧東海道(国道467号線)白旗交差点近くの交番手前の小道を入っていくと、公園の片隅に伝義経首洗い井戸がありました。義経は兄頼朝に鎌倉を追われ奥州平泉に逃げていましたが、文治5年(1189)藤沢泰衡は亡父秀衡がかくまっていた義経を攻め、ついに衣川で義経を自刃させました。平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、首実検の後に片瀬の浜に捨てられたといわれているそうです。潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した義経の首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたということです。一説によれば、鎌倉に入る前に首実検に備えて化粧を施したとも、また、夜間に鎌倉方面から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んできたとも伝えられているそうです。

    伝義経首洗井戸 名所・史跡

  • 井戸のそばにあった義経の首塚です。

    井戸のそばにあった義経の首塚です。

    伝義経首洗井戸 名所・史跡

  • 井戸を後にして国道467号線を白旗の交差点から北に行っところに白旗神社の鳥居がありました。

    井戸を後にして国道467号線を白旗の交差点から北に行っところに白旗神社の鳥居がありました。

    白旗神社 寺・神社・教会

  • この神社は創立年代不詳ながら鎌倉時代以前より寒川神社を勧請した寒川神社だったそうで、、宝治3年(1249年)9月に源義経が合祀され白旗明神、白旗神社となったとのことです。

    この神社は創立年代不詳ながら鎌倉時代以前より寒川神社を勧請した寒川神社だったそうで、、宝治3年(1249年)9月に源義経が合祀され白旗明神、白旗神社となったとのことです。

    白旗神社 寺・神社・教会

  • 源義経鎮霊碑。 1999年(平成11年)建立とのこと。腰越で義経の首実検が行われた6月13日に首級を埋葬したと伝わる藤沢市と胴体を埋葬したと伝わる宮城県栗原市栗駒の判官森御葬礼所の土を合祀したそうです。

    源義経鎮霊碑。 1999年(平成11年)建立とのこと。腰越で義経の首実検が行われた6月13日に首級を埋葬したと伝わる藤沢市と胴体を埋葬したと伝わる宮城県栗原市栗駒の判官森御葬礼所の土を合祀したそうです。

    白旗神社 寺・神社・教会

  • 白旗神社は源氏の旗の色に因んで名付けられ、頼朝が祀られることが多いらしいのですが、ここは義経が祀られているのですね。

    白旗神社は源氏の旗の色に因んで名付けられ、頼朝が祀られることが多いらしいのですが、ここは義経が祀られているのですね。

    白旗神社 寺・神社・教会

  • 弁慶の力石。その昔、この石は神社西側の茶屋の前に置かれていて、茶屋で一服していた近郊農家や町の力自慢が持ち上げ比べをした石だそうです。

    弁慶の力石。その昔、この石は神社西側の茶屋の前に置かれていて、茶屋で一服していた近郊農家や町の力自慢が持ち上げ比べをした石だそうです。

    白旗神社 寺・神社・教会

  • 白旗神社を後にして小田急線藤沢本町駅の踏切を渡ります。

    白旗神社を後にして小田急線藤沢本町駅の踏切を渡ります。

    藤沢本町駅

  • 藤沢本町駅の近く、伊勢山橋を渡ります。

    藤沢本町駅の近く、伊勢山橋を渡ります。

  • 京見附跡<br />伊勢山橋を渡り、少し西に進んだところに、京見附跡の標識がありました。『古図では位置がはっきりしなかったが、言い伝えでこの辺りだった』と書かれています。だいたい藤沢宿はこの辺りまでだったようです<br />

    京見附跡
    伊勢山橋を渡り、少し西に進んだところに、京見附跡の標識がありました。『古図では位置がはっきりしなかったが、言い伝えでこの辺りだった』と書かれています。だいたい藤沢宿はこの辺りまでだったようです

  • さらに旧東海道を進み引地橋を渡ります。

    さらに旧東海道を進み引地橋を渡ります。

  • 引地川の流れです。

    引地川の流れです。

  • 旧東海道をさらに進み養命寺の辺りまで到達です。

    旧東海道をさらに進み養命寺の辺りまで到達です。

  • 養命寺<br />養命寺は、旧東海道沿いにある曹洞宗の寺です。<br /> 1570年(元亀元年)に本寺の宗賢院第三世の暁堂元龍によって創建されたと伝えられているそうです。<br /> 本尊は、1197年(建久8年)の銘をもつ薬師如来坐像。<br /> 源頼朝に仕えた大庭景義の子景兼の守護仏であったと伝えられ、国の重要文化財に指定されているとのこと。<br />布袋尊像もあり、藤沢七福神の一つだそうです。 <br />

    養命寺
    養命寺は、旧東海道沿いにある曹洞宗の寺です。
    1570年(元亀元年)に本寺の宗賢院第三世の暁堂元龍によって創建されたと伝えられているそうです。
    本尊は、1197年(建久8年)の銘をもつ薬師如来坐像。
    源頼朝に仕えた大庭景義の子景兼の守護仏であったと伝えられ、国の重要文化財に指定されているとのこと。
    布袋尊像もあり、藤沢七福神の一つだそうです。

    養命寺 寺・神社・教会

  • 養命寺の境内やお堂は由緒の割には比較的こじんまりとしており、すぐ後にします。それより目を引いたのは隣のメルシャンの大きなワイン工場でした。試飲や工場直売はやっていなかったようで残念!

    養命寺の境内やお堂は由緒の割には比較的こじんまりとしており、すぐ後にします。それより目を引いたのは隣のメルシャンの大きなワイン工場でした。試飲や工場直売はやっていなかったようで残念!

  • さらに旧東海道を西に進みます。

    さらに旧東海道を西に進みます。

  • しばらく行くと、駅からハイキングと提携している老舗和菓子屋丸寿がありました。

    しばらく行くと、駅からハイキングと提携している老舗和菓子屋丸寿がありました。

    御菓子処 丸寿 グルメ・レストラン

  • お店の主人の人柄も良く、ここで色々とお菓子を買わせて頂きました。<br />ここの名物は大庭城最中という和菓子です。この近くにかつては大庭城というお城があり、その形を模した最中だということで、藤沢の銘菓ガイドにも登場する評判のお菓子です。<br />因みに奈良平安時代は大庭郷と呼ばれていたそうで、藤沢と呼ばれるようになったのは後世のことだそうです。

    お店の主人の人柄も良く、ここで色々とお菓子を買わせて頂きました。
    ここの名物は大庭城最中という和菓子です。この近くにかつては大庭城というお城があり、その形を模した最中だということで、藤沢の銘菓ガイドにも登場する評判のお菓子です。
    因みに奈良平安時代は大庭郷と呼ばれていたそうで、藤沢と呼ばれるようになったのは後世のことだそうです。

    御菓子処 丸寿 グルメ・レストラン

  • さらに旧東海道を進み四ッ谷の交差点を越えて旧大山道との分岐点辺りまで到達しました。大山道は大山頂上にある大山阿夫利神社まで長くのびる古道でして、その神社の一の鳥居がここ、大山道入口にあるのですね。

    さらに旧東海道を進み四ッ谷の交差点を越えて旧大山道との分岐点辺りまで到達しました。大山道は大山頂上にある大山阿夫利神社まで長くのびる古道でして、その神社の一の鳥居がここ、大山道入口にあるのですね。

  • 大山道入口脇には四ッ谷不動尊と言われる道標が立っておりました。不動明王を頭上にいただくこの道標は、1670年代後半に建てられたそうです。道標の上に不動明王がのっているのは大山道の行きつく先、伊勢原の大山寺の本尊が不動明王だからだそうです。高幡不動や成田山新勝寺とともに関東三大不動のひとつにも数えられているのだそうです。<br />

    大山道入口脇には四ッ谷不動尊と言われる道標が立っておりました。不動明王を頭上にいただくこの道標は、1670年代後半に建てられたそうです。道標の上に不動明王がのっているのは大山道の行きつく先、伊勢原の大山寺の本尊が不動明王だからだそうです。高幡不動や成田山新勝寺とともに関東三大不動のひとつにも数えられているのだそうです。

  • 案内板などによると、この辺りは四ツ谷辻と呼ばれていて、東海道と大山道の交差する場所として立場があり、茶屋が立ち並び賑わっていたとのことです。あと、このあたりの地名「四ツ谷」は、家が4軒あったことから、かつては「四ツ家」とよばれ、それが「四ツ谷」に転じたとも。かつての賑わっていた辻も最初は4軒からスタートしたのですね。<br /><br /><br />

    案内板などによると、この辺りは四ツ谷辻と呼ばれていて、東海道と大山道の交差する場所として立場があり、茶屋が立ち並び賑わっていたとのことです。あと、このあたりの地名「四ツ谷」は、家が4軒あったことから、かつては「四ツ家」とよばれ、それが「四ツ谷」に転じたとも。かつての賑わっていた辻も最初は4軒からスタートしたのですね。


  • 一里塚跡<br />四ツ谷辻を過ぎ、さらに旧東海道を進み羽鳥交番前の交差点を過ぎたあたりに一里塚跡がありました。かつて、このあたりの道路の両側に一里塚があったそうです。一里塚は、主要な街道の一里(約4キロメートル)ごとに江戸幕府が 設けたもので、旅程の目印として利用されていました。

    一里塚跡
    四ツ谷辻を過ぎ、さらに旧東海道を進み羽鳥交番前の交差点を過ぎたあたりに一里塚跡がありました。かつて、このあたりの道路の両側に一里塚があったそうです。一里塚は、主要な街道の一里(約4キロメートル)ごとに江戸幕府が 設けたもので、旅程の目印として利用されていました。

  • 一里塚の先は松並木があり旧東海道の雰囲気を醸し出しております。

    一里塚の先は松並木があり旧東海道の雰囲気を醸し出しております。

  • 一里塚を過ぎ二ツ谷の交差点にまで到達しました。ゴールが近付いてきておりますね。

    一里塚を過ぎ二ツ谷の交差点にまで到達しました。ゴールが近付いてきておりますね。

  • ふと見ると二ツ家神社がありました。二ツ谷=二ツ家?<br />後で調べてみたら、  現在、この辻は二ツ谷と呼ばれていますが、かつてここには二軒の立場茶屋があったことから、古くは二ツ家という地名だったそうです。<br />因みに先ほどの四ツ谷辻もそうですが、宿と宿の間にある村を「間(あい)の村」といい、間の村の中で、馬を継ぎ立てたり、人足や駕籠かきなどが休息する場所を立場と言ったそうです。ここも、藤沢宿と平塚宿の間の村があったところなのですね。

    ふと見ると二ツ家神社がありました。二ツ谷=二ツ家?
    後で調べてみたら、 現在、この辻は二ツ谷と呼ばれていますが、かつてここには二軒の立場茶屋があったことから、古くは二ツ家という地名だったそうです。
    因みに先ほどの四ツ谷辻もそうですが、宿と宿の間にある村を「間(あい)の村」といい、間の村の中で、馬を継ぎ立てたり、人足や駕籠かきなどが休息する場所を立場と言ったそうです。ここも、藤沢宿と平塚宿の間の村があったところなのですね。

    二ツ家稲荷神社 寺・神社・教会

  • さらに二ッ谷交番前の交差点を辻堂駅方面に南方に折れ曲がり暫く歩いたところに、湘南クッキーの自動販売機を見つけました。湘南から小田原エリアまで見られる大変レアな駄菓子屋をそのまま自動販売機にしたような独特の自販機で100円ほどのご当地クッキーや様々な駄菓子を購入できます。一行はテンションがあがり、写真をいっぱい撮ったりしました。

    さらに二ッ谷交番前の交差点を辻堂駅方面に南方に折れ曲がり暫く歩いたところに、湘南クッキーの自動販売機を見つけました。湘南から小田原エリアまで見られる大変レアな駄菓子屋をそのまま自動販売機にしたような独特の自販機で100円ほどのご当地クッキーや様々な駄菓子を購入できます。一行はテンションがあがり、写真をいっぱい撮ったりしました。

  • 湘南クッキーを過ぎてこの日のゴール辻堂駅に到着です。湘南テラスのショッピングモールは大変な人の賑わいです。

    湘南クッキーを過ぎてこの日のゴール辻堂駅に到着です。湘南テラスのショッピングモールは大変な人の賑わいです。

  • それにしても、大変な行列ができていたので、不思議に思っていたところ、通りすがりの人がテラスモール湘南でChristmas SPECIAL LIVEが行われると教えてくれました。どうやら整理券を求める行列だったようですね。

    それにしても、大変な行列ができていたので、不思議に思っていたところ、通りすがりの人がテラスモール湘南でChristmas SPECIAL LIVEが行われると教えてくれました。どうやら整理券を求める行列だったようですね。

  • 我々はそんなテラスモールをスルーし、南口側にある伊勢屋で昼食をいただくことにしました。

    我々はそんなテラスモールをスルーし、南口側にある伊勢屋で昼食をいただくことにしました。

    伊勢屋 グルメ・レストラン

  • こちらのお店は地魚料理を提供する昔ながらの地元に根付いた大衆食堂です。店内は独特な雰囲気ながら老若男女(この時はどちらかというと老が多かった印象です)のお客で賑わっておりました。昼2時から居酒屋タイムに入るらしいのですが、このときは2時前のランチタイムだったので定食を頼みその美味しいおかずを肴にお酒で歩行の疲れを癒しました。<br />

    こちらのお店は地魚料理を提供する昔ながらの地元に根付いた大衆食堂です。店内は独特な雰囲気ながら老若男女(この時はどちらかというと老が多かった印象です)のお客で賑わっておりました。昼2時から居酒屋タイムに入るらしいのですが、このときは2時前のランチタイムだったので定食を頼みその美味しいおかずを肴にお酒で歩行の疲れを癒しました。

    伊勢屋 グルメ・レストラン

  • 我々は良い気分で店を後にし辻堂駅に戻ってきました。辻堂駅開設記念碑がありますね。そういえば、今回の駅ハイは「辻堂駅開設100周年記念」と銘打っておりました。辻堂駅は地元の強い請願で大正5年12月1日にようやく建設されたという駅だそうです。<br />

    我々は良い気分で店を後にし辻堂駅に戻ってきました。辻堂駅開設記念碑がありますね。そういえば、今回の駅ハイは「辻堂駅開設100周年記念」と銘打っておりました。辻堂駅は地元の強い請願で大正5年12月1日にようやく建設されたという駅だそうです。

  • その辻堂駅から今回も充実したウォーキングを終了し大満足のうちに帰路につきました。

    その辻堂駅から今回も充実したウォーキングを終了し大満足のうちに帰路につきました。

    辻堂駅

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