セビリア旅行記(ブログ) 一覧に戻る
南スペインのアンダルシア州の州都セビリアは、スペイン第4の人口を誇り、スペイン南部の政治、経済、文化の中心地です。セビリアとは「すばらしい」という意味です。また、陽気で情熱的なスペイン人のイメージは、セビリアの人たちのものと言われるほどスペインらしさを象徴するエリアです。セビリア大聖堂やアルカサル、インディアス古文書館は、1987年に世界遺産に認定されています。また、「セビリアの春祭り」は、「パンプローナの牛追い祭り」「バレンシアの火祭り」と並ぶスペイン3大祭として有名です。<br />「セビリアを見ずしてマラビーヤ(驚いた)と言うなかれ」と自慢する言葉さえあります。その理由は、セビリアは世界で最も美しい都市のひとつに数えられ、17世紀には芸術が大きく開花して画家の巨匠ムリーリョやベラスケスを生み、ビゼー『カルメン』やモーツァルト『ドン・ファン』、『フィガロの結婚』、ロッシーニ『セビリア の理髪師』などのイタリア・オペラの舞台としても知られています。更には、新大陸を発見したコロンブスが出航し、そして凱旋帰国した地ですので侮れません。<br />スペイン唯一の内陸港が開かれ、ローマ帝国時代から現在に至るまで、イベリア半島の重要な港のひとつでした。イベリア半島を縦断し大西洋へ注ぐグアダルキビル川河畔に広がるセビリアは、イスラム王国時代に通商で繁栄し、大航海時代には川から運ばれた新大陸の品々の貿易港として栄えました。セビリアの起源はタルテットス族が築いた都市ヒスパリスです。その後紀元前207年にローマ人によりイタリアの語源になった「イタリカ」と名を変えて造営され、それ以降700年間、ローマ帝国の西地中海地方の中心地として栄えました。因みにローマ帝国初の地方出身の皇帝となったトラヤヌス帝やその後継者の甥 ハドリアヌス帝は、「イタリカ」の出身です。<br />5世紀初頭、西ゴート王国の都となるも、8世紀に彼らがトレドへ遷都した後に北アフリカからモーロ人が侵入して支配して「イシュビリア」と呼ぶようになり、それがセビリアの語源となりました。セビリア王国は、キリスト教徒のレコンキスタの進展により、13世紀中期にカスティーリャ王国のフェルナンド3世に征服され、以降はカスティーリャ王国の主要都市として発展しました。<br /><日程><br />1日目:関空→フランクフルト(LH0741 10:05発)<br />    フランクフルト→バルセロナ(LH1136 17:30発)<br />    宿泊:4 Barcelona(二連泊)<br />2日目:グエル公園==サグラダ・ファミリア==カサ・ミラ/カサ・バトリョ(車窓)<br />            ==ランチ:Marina Bay by Moncho&#39;s==カタルーニャ広場<br />            15:00?フリータイム<br />    カタルーニャ広場==サン・パウ病院==サグラダ・ファミリア==<br />            カサ・ミラ--カサ・バトリョ--夕食:Cervecer?・a Catalana(バル) <br />    ==カタルーニャ音楽堂<br />            宿泊:4 Barcelona(二連泊)<br />3日目:コロニア・グエル地下礼拝堂==モンセラット観光--<br />    ランチ:Restaurant Montserrat==ラス・ファレラス(水道橋)<br />            ==タラゴナ観光(円形競技場、地中海のバルコニー)<br />    バレンシア宿泊:Mas Camarena<br />4日目:ランチ:Mamzanil(Murcia)<br />            ==(午後4:00到着)ヘネラリーフェ宮殿<br />            --アルハンブラ宮殿==ホテル Vincci Granada==Los Tarantos<br />           (洞窟フラメンコ)<br />            --サン・ニコラス展望台(アルハンブラ宮殿の夜景観賞)<br />5日目:ミハス散策--ランチ:Vinoteca==ロンダ(午後4:00到着)<br />            フリー散策<br />            宿泊:Parador de Ronda<br />6日目:セビリア観光(スペイン広場--セビリア大聖堂)==<br />            コルドバ観光(メスキータ--花の小径)-==コルドバ駅<br />    AVE:コルドバ→マドリード<br />    夕食:China City<br />    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)<br />7日目:マドリード観光(スペイン広場<下車観光>==ソフィア王妃芸術センター<br />    ==プラド美術館--免税店ショッピング==ランチ:Dudua Palacio<br />    ==トレド観光(サント・トメ教会、トレド大聖堂<外観>)==<br />            ホテル--フリータイム(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、<br />    サンミゲル市場、ビリャ広場、アルムデナ大聖堂、マドリード王宮<br />    オリエンテ広場 、エル・コルテ・イングレス<グラン・ビア>)<br />    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)<br />8日目:マドリード→フランクフルト(LH1123 8:35発)<br />    フランクフルト→関空(LH0740 13:35発)<br />9日目:関空着(7:20)

ときめきのスペイン周遊⑭セビリア

968いいね!

2016/09/02 - 2016/09/10

1位(同エリア988件中)

0

72

montsaintmichel

montsaintmichelさん

南スペインのアンダルシア州の州都セビリアは、スペイン第4の人口を誇り、スペイン南部の政治、経済、文化の中心地です。セビリアとは「すばらしい」という意味です。また、陽気で情熱的なスペイン人のイメージは、セビリアの人たちのものと言われるほどスペインらしさを象徴するエリアです。セビリア大聖堂やアルカサル、インディアス古文書館は、1987年に世界遺産に認定されています。また、「セビリアの春祭り」は、「パンプローナの牛追い祭り」「バレンシアの火祭り」と並ぶスペイン3大祭として有名です。
「セビリアを見ずしてマラビーヤ(驚いた)と言うなかれ」と自慢する言葉さえあります。その理由は、セビリアは世界で最も美しい都市のひとつに数えられ、17世紀には芸術が大きく開花して画家の巨匠ムリーリョやベラスケスを生み、ビゼー『カルメン』やモーツァルト『ドン・ファン』、『フィガロの結婚』、ロッシーニ『セビリア の理髪師』などのイタリア・オペラの舞台としても知られています。更には、新大陸を発見したコロンブスが出航し、そして凱旋帰国した地ですので侮れません。
スペイン唯一の内陸港が開かれ、ローマ帝国時代から現在に至るまで、イベリア半島の重要な港のひとつでした。イベリア半島を縦断し大西洋へ注ぐグアダルキビル川河畔に広がるセビリアは、イスラム王国時代に通商で繁栄し、大航海時代には川から運ばれた新大陸の品々の貿易港として栄えました。セビリアの起源はタルテットス族が築いた都市ヒスパリスです。その後紀元前207年にローマ人によりイタリアの語源になった「イタリカ」と名を変えて造営され、それ以降700年間、ローマ帝国の西地中海地方の中心地として栄えました。因みにローマ帝国初の地方出身の皇帝となったトラヤヌス帝やその後継者の甥 ハドリアヌス帝は、「イタリカ」の出身です。
5世紀初頭、西ゴート王国の都となるも、8世紀に彼らがトレドへ遷都した後に北アフリカからモーロ人が侵入して支配して「イシュビリア」と呼ぶようになり、それがセビリアの語源となりました。セビリア王国は、キリスト教徒のレコンキスタの進展により、13世紀中期にカスティーリャ王国のフェルナンド3世に征服され、以降はカスティーリャ王国の主要都市として発展しました。
<日程>
1日目:関空→フランクフルト(LH0741 10:05発)
    フランクフルト→バルセロナ(LH1136 17:30発)
    宿泊:4 Barcelona(二連泊)
2日目:グエル公園==サグラダ・ファミリア==カサ・ミラ/カサ・バトリョ(車窓)
    ==ランチ:Marina Bay by Moncho's==カタルーニャ広場
    15:00?フリータイム
    カタルーニャ広場==サン・パウ病院==サグラダ・ファミリア==
    カサ・ミラ--カサ・バトリョ--夕食:Cervecer?・a Catalana(バル)
    ==カタルーニャ音楽堂
    宿泊:4 Barcelona(二連泊)
3日目:コロニア・グエル地下礼拝堂==モンセラット観光--
    ランチ:Restaurant Montserrat==ラス・ファレラス(水道橋)
    ==タラゴナ観光(円形競技場、地中海のバルコニー)
    バレンシア宿泊:Mas Camarena
4日目:ランチ:Mamzanil(Murcia)
    ==(午後4:00到着)ヘネラリーフェ宮殿
    --アルハンブラ宮殿==ホテル Vincci Granada==Los Tarantos
    (洞窟フラメンコ)
     --サン・ニコラス展望台(アルハンブラ宮殿の夜景観賞)
5日目:ミハス散策--ランチ:Vinoteca==ロンダ(午後4:00到着)
    フリー散策
    宿泊:Parador de Ronda
6日目:セビリア観光(スペイン広場--セビリア大聖堂)==
    コルドバ観光(メスキータ--花の小径)-==コルドバ駅
    AVE:コルドバ→マドリード
    夕食:China City
    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
7日目:マドリード観光(スペイン広場<下車観光>==ソフィア王妃芸術センター
    ==プラド美術館--免税店ショッピング==ランチ:Dudua Palacio
    ==トレド観光(サント・トメ教会、トレド大聖堂<外観>)==
    ホテル--フリータイム(プエルタ・デル・ソル、マヨール広場、
    サンミゲル市場、ビリャ広場、アルムデナ大聖堂、マドリード王宮
    オリエンテ広場 、エル・コルテ・イングレス<グラン・ビア>)
    宿泊:Rafael Hoteles Atocha(二連泊)
8日目:マドリード→フランクフルト(LH1123 8:35発)
    フランクフルト→関空(LH0740 13:35発)
9日目:関空着(7:20)

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
観光バス 徒歩 飛行機
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
日本旅行

PR

  • アンダルシア平原<br />ロンダからセビリアまでは約2時間のドライブです。車窓には、広漠たるアンダルシア平原の一面に小麦畑が広がっています。ここにヒマワリ畑のパッチワークが加われば最高なのですが・・・。因みにヒマワリ畑は6月が見頃だそうです。<br />しかしながら土地が痩せているため、小麦もヒマワリも草丈は膝小僧ぐらいにしか育たないそうです。勿論、屋敷林も防風林もここにはありません。<br />余談ですが、ヒマワリはスペイン語で「girasol(ヒルソル)」と言いますが、ソルは太陽、ヒラールは動詞で回るという意味ですから、日本語の「ヒマワリ」と同じ意味になります。

    アンダルシア平原
    ロンダからセビリアまでは約2時間のドライブです。車窓には、広漠たるアンダルシア平原の一面に小麦畑が広がっています。ここにヒマワリ畑のパッチワークが加われば最高なのですが・・・。因みにヒマワリ畑は6月が見頃だそうです。
    しかしながら土地が痩せているため、小麦もヒマワリも草丈は膝小僧ぐらいにしか育たないそうです。勿論、屋敷林も防風林もここにはありません。
    余談ですが、ヒマワリはスペイン語で「girasol(ヒルソル)」と言いますが、ソルは太陽、ヒラールは動詞で回るという意味ですから、日本語の「ヒマワリ」と同じ意味になります。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />前日までは本日のセビリアの最高気温は46℃と予測されており、バスから降りられるかどうか心配していましたが、ツアー・メンバーさんたちの日頃の行いが良かったせいか、一気に36℃に下がりました。北アフリカからの熱風が酷暑の原因ですので、風向き次第で±10℃はざらだそうです。しかしまだ10時なのに「暑い」を通り越して、「熱い」です!太陽が灼熱です。セビリアの夏は「フライパンの上の夏」と言われるのが実感できます。<br /><br />バスはポルトガル通りに停車し、そこからスペイン広場へ入場します。<br />スペイン広場は、セビリア中心部からやや南寄りに位置するマリア・ルイサ公園の一角にあります。元々は近くにあるサン・テルモ宮(現アンダルシア州自治政府庁)の庭園でしたが、1893年に市に寄贈され、1914年に市民に解放されました。そして1929年にイベロ・アメリカ博覧会の会場となったのがこの広場です。現在は無料開放されています。<br />因みに「イベロ・アメリカ」とは、スペインやポルトガルの旧植民地諸国と旧宗主国であるスペインとポルトガルを総称しています。

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    前日までは本日のセビリアの最高気温は46℃と予測されており、バスから降りられるかどうか心配していましたが、ツアー・メンバーさんたちの日頃の行いが良かったせいか、一気に36℃に下がりました。北アフリカからの熱風が酷暑の原因ですので、風向き次第で±10℃はざらだそうです。しかしまだ10時なのに「暑い」を通り越して、「熱い」です!太陽が灼熱です。セビリアの夏は「フライパンの上の夏」と言われるのが実感できます。

    バスはポルトガル通りに停車し、そこからスペイン広場へ入場します。
    スペイン広場は、セビリア中心部からやや南寄りに位置するマリア・ルイサ公園の一角にあります。元々は近くにあるサン・テルモ宮(現アンダルシア州自治政府庁)の庭園でしたが、1893年に市に寄贈され、1914年に市民に解放されました。そして1929年にイベロ・アメリカ博覧会の会場となったのがこの広場です。現在は無料開放されています。
    因みに「イベロ・アメリカ」とは、スペインやポルトガルの旧植民地諸国と旧宗主国であるスペインとポルトガルを総称しています。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />天井の格子状の造りも手が込んでいます。<br />驚くのはこれだけではありません。多くの博覧会用の建築物とは異なり、長く残るように建てられているだけでなく、曲線状の堀や高く聳える塔、建物のファサードを見下ろす高いアーチなどにより、スペインでも屈指の魅力的な広場となっています。現在は、建物の中央部分は軍、その他の部分はアンダルシア州政府のオフィスとして使われています。また、スペイン・パビリオンに限らず、他国のパビリオンも現役で利用されているから吃驚です。<br />例え一時のイベントであっても、後世に残せるような建物を造る所が日本の基本コンセプトとは乖離しています。血税を使う側も執行責任を持つという姿勢が明確です。2020年東京五輪、その先の2025年大阪万博(招致候補予定)ではどんな責任を果たしてくれるのか、楽しみです。

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    天井の格子状の造りも手が込んでいます。
    驚くのはこれだけではありません。多くの博覧会用の建築物とは異なり、長く残るように建てられているだけでなく、曲線状の堀や高く聳える塔、建物のファサードを見下ろす高いアーチなどにより、スペインでも屈指の魅力的な広場となっています。現在は、建物の中央部分は軍、その他の部分はアンダルシア州政府のオフィスとして使われています。また、スペイン・パビリオンに限らず、他国のパビリオンも現役で利用されているから吃驚です。
    例え一時のイベントであっても、後世に残せるような建物を造る所が日本の基本コンセプトとは乖離しています。血税を使う側も執行責任を持つという姿勢が明確です。2020年東京五輪、その先の2025年大阪万博(招致候補予定)ではどんな責任を果たしてくれるのか、楽しみです。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />内部はムデハル様式の装飾が施され、廊下や階段、天井、壁面などはシンプルながらハッと息を呑ませる趣を湛えています。また、随所にさりげなくアスレホ(タイル装飾)が配されており、アクセントになっています。<br /><br />博覧会の建造物を有効活用しているスペインですが、近年発生した「スペイン危機」を覚えておられますか?<br />欧州債務危機のひとつで、2012年にスペインが直面した金融・財政危機です。これは、財政を粉飾したギリシア危機とは異なり、1990年代に日本が直面したバブル崩壊による危機と似たものでした。スペインは、民主化の遅れもあり経済発展が西欧諸国から遅れたものの、1986年のEC加盟、1992年のバルセロナ五輪などを契機に飛躍的な経済発展を遂げました。加えて、1999年にEU圏の共通通貨としてユーロが導入されると、EU内の先進国から新興国へ、つまり金利の低い国から高い国へ資金が流入し、その巨額投資のターゲットとされて急速に不動産バブルが膨らんでいきました。この波に乗り、インフラ整備や公共「ハコモノ」建設に注力し、高速道路や鉄道、ニュータウン開発が全国に広がりました。こうした流れは、日本のバブルを経験した人であれば想像に難くないはずです。<br />ところが、2008年のリーマンショックを発端にした世界的金融危機を契機に不動産バブルが崩壊し、スペインの銀行は巨額の不良債権を抱えました。さらに、2010年代の欧州債務危機による景気低迷で銀行経営が深刻化し、2012年には金融システム自体が揺らぎました。また、銀行の不良債権以外に、各地の建設工事は次々に中断され、買い手のいない物件が大量に残り、地方財政悪化という問題も抱えてしまいました。<br />打開策として設立された老舗銀行「カハ・マドリード」を核にした統合銀行「バンキア銀行」は、2012年には公的資金注入が発表され、黒字と公表していた収支が実は30億ユーロもの赤字だったことが発覚すると、国民の金融機関や国家への不信はピークに達しました。<br />こうした状況下、政府はEUに対して正式に金融支援を要請し、ユーロ圏ではギリシア、アイルランド、ポルトガルに次ぎ、圏内4位の経済大国が支援を仰ぐことになりました。その後、ストレステストを行い、国内銀行を優良銀行と不良銀行とに分類し、優良銀行を再編して強化する一方で不良銀行を清算し、また大量の不良債権を処理するための資産管理会社を設立するなどし、銀行システムを改善し、2014年にアイルランドに次いで金融支援プログラムから脱却しました。<br />「スペイン危機」のケースは、「日本のバブル期の再来」と共に「政府の対応の拙さ」が目立ちました。様々な要素が重なって起こる経済危機への完璧な対処法はありませんが、将来、もし日本に経済危機が訪れた場合、スペイン政府のように情報を隠すことで火に油を注ぐようなマネだけはやめていただきたいものです。アベノミクスの失敗を素直に認めず、周囲の警告に傾聴することもせず、なりふり構わず強引に前線突破を指揮する軍団は、第二次世界大戦の軍部の状態を彷彿とさせるものがあります。現在の安部政権と日銀総裁では心もとない所ですが・・・。

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    内部はムデハル様式の装飾が施され、廊下や階段、天井、壁面などはシンプルながらハッと息を呑ませる趣を湛えています。また、随所にさりげなくアスレホ(タイル装飾)が配されており、アクセントになっています。

    博覧会の建造物を有効活用しているスペインですが、近年発生した「スペイン危機」を覚えておられますか?
    欧州債務危機のひとつで、2012年にスペインが直面した金融・財政危機です。これは、財政を粉飾したギリシア危機とは異なり、1990年代に日本が直面したバブル崩壊による危機と似たものでした。 スペインは、民主化の遅れもあり経済発展が西欧諸国から遅れたものの、1986年のEC加盟、1992年のバルセロナ五輪などを契機に飛躍的な経済発展を遂げました。加えて、1999年にEU圏の共通通貨としてユーロが導入されると、EU内の先進国から新興国へ、つまり金利の低い国から高い国へ資金が流入し、その巨額投資のターゲットとされて急速に不動産バブルが膨らんでいきました。この波に乗り、インフラ整備や公共「ハコモノ」建設に注力し、高速道路や鉄道、ニュータウン開発が全国に広がりました。こうした流れは、日本のバブルを経験した人であれば想像に難くないはずです。
    ところが、2008年のリーマンショックを発端にした世界的金融危機を契機に不動産バブルが崩壊し、スペインの銀行は巨額の不良債権を抱えました。さらに、2010年代の欧州債務危機による景気低迷で銀行経営が深刻化し、2012年には金融システム自体が揺らぎました。また、銀行の不良債権以外に、各地の建設工事は次々に中断され、買い手のいない物件が大量に残り、地方財政悪化という問題も抱えてしまいました。
    打開策として設立された老舗銀行「カハ・マドリード」を核にした統合銀行「バンキア銀行」は、2012年には公的資金注入が発表され、黒字と公表していた収支が実は30億ユーロもの赤字だったことが発覚すると、国民の金融機関や国家への不信はピークに達しました。
    こうした状況下、政府はEUに対して正式に金融支援を要請し、ユーロ圏ではギリシア、アイルランド、ポルトガルに次ぎ、圏内4位の経済大国が支援を仰ぐことになりました。その後、ストレステストを行い、国内銀行を優良銀行と不良銀行とに分類し、優良銀行を再編して強化する一方で不良銀行を清算し、また大量の不良債権を処理するための資産管理会社を設立するなどし、銀行システムを改善し、2014年にアイルランドに次いで金融支援プログラムから脱却しました。
    「スペイン危機」のケースは、「日本のバブル期の再来」と共に「政府の対応の拙さ」が目立ちました。様々な要素が重なって起こる経済危機への完璧な対処法はありませんが、将来、もし日本に経済危機が訪れた場合、スペイン政府のように情報を隠すことで火に油を注ぐようなマネだけはやめていただきたいものです。アベノミクスの失敗を素直に認めず、周囲の警告に傾聴することもせず、なりふり構わず強引に前線突破を指揮する軍団は、第二次世界大戦の軍部の状態を彷彿とさせるものがあります。現在の安部政権と日銀総裁では心もとない所ですが・・・。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />パリのオペラ・ガルニエの大階段を彷彿とさせる気品溢れる堂々たる正面階段です。<br /><br />スペインの歴史を変えた歴史的事件「23-F」をご存知でしょうか?<br />スペイン人にとって1981年2月23日は大事な日で、「23-F」という名前で知られています。<br />スペインは、第二次世界大戦の終焉後もフランコの独裁体制が続きました。しかし1975年にフランコが没し、次第に民主化の道を歩み始めました。1977年に最初の選挙が行われ、翌年には新憲法も発効されました。こうして40年以上続いた独裁政権から解放されたのです。しかし、変革は一筋縄にはいきませんでした。<br />フランコ没後、アドルフォ・スアレスが首相を務めましたが、所属する政党が徐々に求心力を失い、やがて辞任に追い込まれました。その後、カルボ・ソテーロが後継候補になり、国会へ政府の計画書を提出しましたが、法律で定められた数の票を獲得できそうにありませんでした。そんな折、2月23日の投票日に、なんと軍隊が国会を占拠したのです。首犯のアントニオ・テヘーロ中将は、手に銃を持ち、自分に従うように命じました。このクーデタに国民は、「やっぱり民主主義は続かないのか・・・」、「また独裁政権に戻るのか・・・」と嘆いたそうです。しかし、このクーデタは失敗に終わりました。当時の国王フアン・カルロス1世が、毅然とした態度で命令に従うことを拒否したのです。彼はこの時、有名なスピーチをしています。それは、自由や民主主義、法律を守ることの大切さを語ったものでした。やがて周りからの支持が得られなかった犯人グループは、国会で人質をとった18時間後に諦めて投降したのです。<br />最近トルコで起こったクーデタを思い出しました。

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    パリのオペラ・ガルニエの大階段を彷彿とさせる気品溢れる堂々たる正面階段です。

    スペインの歴史を変えた歴史的事件「23-F」をご存知でしょうか?
    スペイン人にとって1981年2月23日は大事な日で、「23-F」という名前で知られています。
    スペインは、第二次世界大戦の終焉後もフランコの独裁体制が続きました。しかし1975年にフランコが没し、次第に民主化の道を歩み始めました。1977年に最初の選挙が行われ、翌年には新憲法も発効されました。こうして40年以上続いた独裁政権から解放されたのです。しかし、変革は一筋縄にはいきませんでした。
    フランコ没後、アドルフォ・スアレスが首相を務めましたが、所属する政党が徐々に求心力を失い、やがて辞任に追い込まれました。その後、カルボ・ソテーロが後継候補になり、国会へ政府の計画書を提出しましたが、法律で定められた数の票を獲得できそうにありませんでした。そんな折、2月23日の投票日に、なんと軍隊が国会を占拠したのです。首犯のアントニオ・テヘーロ中将は、手に銃を持ち、自分に従うように命じました。このクーデタに国民は、「やっぱり民主主義は続かないのか・・・」、「また独裁政権に戻るのか・・・」と嘆いたそうです。しかし、このクーデタは失敗に終わりました。当時の国王フアン・カルロス1世が、毅然とした態度で命令に従うことを拒否したのです。彼はこの時、有名なスピーチをしています。それは、自由や民主主義、法律を守ることの大切さを語ったものでした。やがて周りからの支持が得られなかった犯人グループは、国会で人質をとった18時間後に諦めて投降したのです。
    最近トルコで起こったクーデタを思い出しました。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />パビリオンだった建物は中央棟の左右にシンメトリックに伸びた両翼が半円形に湾曲する回廊を持つ美しい煉瓦造りの建物で、その両端に高さ80mの鐘塔が聳えています。セビリア出身の建築家アニバル・ゴンザレスがムデハル様式とルネッサンス様式を取り入れて設計した広場の直径は170m程あります。<br />余談ですが、哀しいかなアニバル・ゴンザレスは、イベロ・アメリカ万博開幕直前に亡くなられたそうです。<br />スペインの建築家ヴィセンテ・トラベルが手がけた噴水は、最近の日照りのために本日はお休みのようです。ここ一週間ほど真夏より暑い45℃越えの日が続いていたそうです。

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    パビリオンだった建物は中央棟の左右にシンメトリックに伸びた両翼が半円形に湾曲する回廊を持つ美しい煉瓦造りの建物で、その両端に高さ80mの鐘塔が聳えています。セビリア出身の建築家アニバル・ゴンザレスがムデハル様式とルネッサンス様式を取り入れて設計した広場の直径は170m程あります。
    余談ですが、哀しいかなアニバル・ゴンザレスは、イベロ・アメリカ万博開幕直前に亡くなられたそうです。
    スペインの建築家ヴィセンテ・トラベルが手がけた噴水は、最近の日照りのために本日はお休みのようです。ここ一週間ほど真夏より暑い45℃越えの日が続いていたそうです。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />映画のロケ地としても使われ、そのひとつは『アラビアのロレンス』(1962年)で英軍が逗留する陸軍司令部が置かれたカイロのホテルとして、もう一つは『スター・ウォーズエピソード2』(2002年)でパドメとアナキンが惑星ナブーに着いた直後のシーンです。映画好きな人にはぜひ訪れていただきたいスポットです。<br />

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    映画のロケ地としても使われ、そのひとつは『アラビアのロレンス』(1962年)で英軍が逗留する陸軍司令部が置かれたカイロのホテルとして、もう一つは『スター・ウォーズエピソード2』(2002年)でパドメとアナキンが惑星ナブーに着いた直後のシーンです。映画好きな人にはぜひ訪れていただきたいスポットです。

  • スペイン広場 パビリオン<br />アーチの曲線と回廊の円弧が連続するアングルで撮ってみました。<br />この列柱が並ぶ美しい回廊は、スターウォーズにもそっくりそのまま登場しています。パドメとアナキンが惑星ナブーに着いた時に、R2-D2と一緒に歩くシーンで使われています。

    スペイン広場 パビリオン
    アーチの曲線と回廊の円弧が連続するアングルで撮ってみました。
    この列柱が並ぶ美しい回廊は、スターウォーズにもそっくりそのまま登場しています。パドメとアナキンが惑星ナブーに着いた時に、R2-D2と一緒に歩くシーンで使われています。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />大きな曲線を描いて広場を囲む回廊とアーチの下には58個のベンチがあり、スペイン48県の特徴や地図、歴史を表すアスレホ(タイル画)が描かれています。<br />セビリアっ子は、お気に入りの壁の前を待ち合わせ場所にするそうです。<br />このタイル画のタイトルは「Sevilla Romana」と言い、セビリアのご当地タイル画です。<br />タイル画の中には、海外在住の陶芸家 北原由紀子さんのグループが復元された作品もあります。それは、アビラ県のものです。しかし時間がなく、探し出せませんでした。

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    大きな曲線を描いて広場を囲む回廊とアーチの下には58個のベンチがあり、スペイン48県の特徴や地図、歴史を表すアスレホ(タイル画)が描かれています。
    セビリアっ子は、お気に入りの壁の前を待ち合わせ場所にするそうです。
    このタイル画のタイトルは「Sevilla Romana」と言い、セビリアのご当地タイル画です。
    タイル画の中には、海外在住の陶芸家 北原由紀子さんのグループが復元された作品もあります。それは、アビラ県のものです。しかし時間がなく、探し出せませんでした。

  • スペイン広場<br />曲線状の水路に架けられた凝った装飾が施された太鼓橋です。<br />とてもデコラティブな陶器製アートで、特に白と青色を巧みに用いた斬新な色合いが目を惹き付けます。<br />セビリア焼きの高価な陶器だと思うと触れるにも度胸がいります。

    スペイン広場
    曲線状の水路に架けられた凝った装飾が施された太鼓橋です。
    とてもデコラティブな陶器製アートで、特に白と青色を巧みに用いた斬新な色合いが目を惹き付けます。
    セビリア焼きの高価な陶器だと思うと触れるにも度胸がいります。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />両腕を伸ばすように建てられた建物はスペインと旧植民地のアメリカ大陸の国々(イベロ・アメリカ)を象徴したもので、アメリカ大陸への基点となったグアダルキビル川の方角を向けて建てられています。<br />つまり、「スペインは中南米の植民地の皆様を母のように両手を広げ、支えてあげますよ!」と言う強いメッセージと新大陸発見によりスペインを繁栄に導いた母なる川へのオマージュです。<br />こんな所にもストーリー性を持たせているのがすごいですね!

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    両腕を伸ばすように建てられた建物はスペインと旧植民地のアメリカ大陸の国々(イベロ・アメリカ)を象徴したもので、アメリカ大陸への基点となったグアダルキビル川の方角を向けて建てられています。
    つまり、「スペインは中南米の植民地の皆様を母のように両手を広げ、支えてあげますよ!」と言う強いメッセージと新大陸発見によりスペインを繁栄に導いた母なる川へのオマージュです。
    こんな所にもストーリー性を持たせているのがすごいですね!

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />パビリオンの前にある曲線状の水路では、ボートに乗ることもできます。<br />例によってここも観光客狙いのスリが多いそうですが、まだ10時過ぎなので観光客も疎らで閑散としているため、スリたちもなりを潜めています。<br />

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    パビリオンの前にある曲線状の水路では、ボートに乗ることもできます。
    例によってここも観光客狙いのスリが多いそうですが、まだ10時過ぎなので観光客も疎らで閑散としているため、スリたちもなりを潜めています。

  • スペイン広場 スペイン・パビリオン<br />派手さこそありませんが、鐘塔の形はとても凝ったデザインでまとめられています。<br />セビリアの世界遺産は大聖堂とヒラルダの塔、そしてアルカサルですが、日本発の大半のツアーはアルカサルに替えて歴史的建造物ではないものの日本人が好むスペイン広場へ案内するようです。しかしこのスペイン広場は、世界各地に同じ名前の広場が五万とある中で、最高に美しいと評価されている広場です。

    スペイン広場 スペイン・パビリオン
    派手さこそありませんが、鐘塔の形はとても凝ったデザインでまとめられています。
    セビリアの世界遺産は大聖堂とヒラルダの塔、そしてアルカサルですが、日本発の大半のツアーはアルカサルに替えて歴史的建造物ではないものの日本人が好むスペイン広場へ案内するようです。しかしこのスペイン広場は、世界各地に同じ名前の広場が五万とある中で、最高に美しいと評価されている広場です。

  • スペイン広場 <br />広場には観光用馬車も走っています。<br />逆光で撮れば、昔日の面影が引き出せるかも?

    スペイン広場
    広場には観光用馬車も走っています。
    逆光で撮れば、昔日の面影が引き出せるかも?

  • スペイン広場 <br />出口付近にはセビリアの歴史を物語る大砲が2門展示されています。<br />スペイン人やその植民地の方にとっては、昔日を物語る生き証人なのでしょう。

    スペイン広場
    出口付近にはセビリアの歴史を物語る大砲が2門展示されています。
    スペイン人やその植民地の方にとっては、昔日を物語る生き証人なのでしょう。

  • ムリーリョ公園 コロンブスの記念塔<br />スペイン広場からセビリア大学の建物を左手に見ながらムリーリョ公園へ入ります。カルメンの勤務先とされたタバコ工場は、現在セビリア大学の校舎として利用されています。<br />公園に建つモニュメントは、コロンブスの偉業を讃えたものです。中央にはコロンブスが乗ったサンタ・クルス号を模した船が掲げられ、舳先の方角は新大陸(アメリカ)に向けられています。また、2本の柱の天辺にはライオンが君臨しています。<br /><br />1492年10月、コロンブスが新大陸航路を発見し、「太陽の沈まない帝国」の礎が築かれていきました。セビリアは、コロンブスが新航路探索へ出発した地であり、彼はセビリア大聖堂に眠っています。こちら側の台座にはコロンブスの肖像が見られます。<br />コロンブスに関わる有名なジョークをひとつ。<br />「徒歩と船なら、断然船が速いだろうね」<br />「そうでもないよ」<br />「なぜそんなことを言うんだい?」<br />「インディアンとコロンブス、どちらが先にアメリカ大陸を発見したか知っているか?」<br />「・・・」

    ムリーリョ公園 コロンブスの記念塔
    スペイン広場からセビリア大学の建物を左手に見ながらムリーリョ公園へ入ります。カルメンの勤務先とされたタバコ工場は、現在セビリア大学の校舎として利用されています。
    公園に建つモニュメントは、コロンブスの偉業を讃えたものです。中央にはコロンブスが乗ったサンタ・クルス号を模した船が掲げられ、舳先の方角は新大陸(アメリカ)に向けられています。また、2本の柱の天辺にはライオンが君臨しています。

    1492年10月、コロンブスが新大陸航路を発見し、「太陽の沈まない帝国」の礎が築かれていきました。セビリアは、コロンブスが新航路探索へ出発した地であり、彼はセビリア大聖堂に眠っています。こちら側の台座にはコロンブスの肖像が見られます。
    コロンブスに関わる有名なジョークをひとつ。
    「徒歩と船なら、断然船が速いだろうね」
    「そうでもないよ」
    「なぜそんなことを言うんだい?」
    「インディアンとコロンブス、どちらが先にアメリカ大陸を発見したか知っているか?」
    「・・・」

  • ムリーリョ公園 コロンブスの記念塔<br />船腹に「FERNANDO」のエンブレムが付けられているのは、カトリック両王のイサベル女王がコロンブスの大スポンサーであった証しです。因みに裏側が「ISABEL」になっています。<br />コロンブスは最初、ポルトガル王に航海のための援助を求めましたが失敗し、スペイン王室に援助を求めに行きます。しかしここでも失敗し、万策尽きたコロンブスが焦燥に駆られてフランスへ出発しようとした矢先、イサベル女王からの伝令が追いつきます。晴れてスペイン王室と契約を結んだコロンブスは、1492年8月、サンタ・マリア号など3隻で出航しました。総乗組員数約90人(120人説もあり)だったと伝えられています。<br />余談ですが、コロンブスは囚人を船員に雇って新大陸に出港したと伝えられています。そんな素人が船で働けるのかと疑問に思われる方も多いのでは?<br />囚人の起用は事実ですが、その数は僅か3人だけで仕事は下級水夫、恩赦を受けた3人はまじめに働いたそうです。しかしコロンブスは、囚人を雇うことを真剣に考えていたそうです。それは女王の命令にも関わらず、船員が集まらなかったからです。その理由は、スペイン人は危険な海(=知らざれる暗黒の世界)によそ者のコロンブス(イタリア人)と一緒に行きたくなかったからと言われています。コロンブスは囚人を雇うことを思案していたのですが、バロス市の海運業を営む名門3家族(ビンソン、ニーニョ、キンテーロ家)が心配し、熱心に船員を集めたり、船や資金の用意をしてくれたのです。名門家の人たちも船長や舵手として乗船したそうです。

    ムリーリョ公園 コロンブスの記念塔
    船腹に「FERNANDO」のエンブレムが付けられているのは、カトリック両王のイサベル女王がコロンブスの大スポンサーであった証しです。因みに裏側が「ISABEL」になっています。
    コロンブスは最初、ポルトガル王に航海のための援助を求めましたが失敗し、スペイン王室に援助を求めに行きます。しかしここでも失敗し、万策尽きたコロンブスが焦燥に駆られてフランスへ出発しようとした矢先、イサベル女王からの伝令が追いつきます。晴れてスペイン王室と契約を結んだコロンブスは、1492年8月、サンタ・マリア号など3隻で出航しました。総乗組員数約90人(120人説もあり)だったと伝えられています。
    余談ですが、コロンブスは囚人を船員に雇って新大陸に出港したと伝えられています。そんな素人が船で働けるのかと疑問に思われる方も多いのでは?
    囚人の起用は事実ですが、その数は僅か3人だけで仕事は下級水夫、恩赦を受けた3人はまじめに働いたそうです。しかしコロンブスは、囚人を雇うことを真剣に考えていたそうです。それは女王の命令にも関わらず、船員が集まらなかったからです。その理由は、スペイン人は危険な海(=知らざれる暗黒の世界)によそ者のコロンブス(イタリア人)と一緒に行きたくなかったからと言われています。コロンブスは囚人を雇うことを思案していたのですが、バロス市の海運業を営む名門3家族(ビンソン、ニーニョ、キンテーロ家)が心配し、熱心に船員を集めたり、船や資金の用意をしてくれたのです。名門家の人たちも船長や舵手として乗船したそうです。

  • ムリーリョ公園<br />現地ガイドさんが、「この木は何の木でしょう?」と質問されました。誰も答えませんでしたが、樹齢250年とも言われる幹の太い巨大なゴムの木です。南米から持ってきたものだそうです。ゴムの木と言えば、か細い観葉植物を思い浮かべてしまう我が身が哀し過ぎます!<br />根が一体化しているようにも見えるので、日本なら「夫婦ゴムの木」といった命名がなされてもおかしくありません。ここには6本ほど植樹されたそうですが、その根が地面を這い回る姿はかの『ラオコーン像』の大蛇を彷彿とさせる迫力です。間近で見ると感動ものです。

    ムリーリョ公園
    現地ガイドさんが、「この木は何の木でしょう?」と質問されました。誰も答えませんでしたが、樹齢250年とも言われる幹の太い巨大なゴムの木です。南米から持ってきたものだそうです。ゴムの木と言えば、か細い観葉植物を思い浮かべてしまう我が身が哀し過ぎます!
    根が一体化しているようにも見えるので、日本なら「夫婦ゴムの木」といった命名がなされてもおかしくありません。ここには6本ほど植樹されたそうですが、その根が地面を這い回る姿はかの『ラオコーン像』の大蛇を彷彿とさせる迫力です。間近で見ると感動ものです。

  • アントニオ・エル・バラリン通り<br />壁で仕切られたアルカサルの庭園を左にして進むと、イスラム時代の雰囲気を残す城壁が見えてきます。この先がサンタ・クルス地区です。<br />セビリア第一の観光名所である大聖堂とヒラルダの塔およびアルカサルを擁する地区です。大聖堂とアルカサルへは車でのアクセスができないため、大通沿いにあるムリーリョ公園を抜けてサンタ・クルス街の石畳の路地を通って行きます。このサンタ・クルス街は、かつてユダヤ人が住んでいた旧市街地で、ユダヤ人が追放された後に住宅地化され、現在に至った歴史ある街です。

    アントニオ・エル・バラリン通り
    壁で仕切られたアルカサルの庭園を左にして進むと、イスラム時代の雰囲気を残す城壁が見えてきます。この先がサンタ・クルス地区です。
    セビリア第一の観光名所である大聖堂とヒラルダの塔およびアルカサルを擁する地区です。大聖堂とアルカサルへは車でのアクセスができないため、大通沿いにあるムリーリョ公園を抜けてサンタ・クルス街の石畳の路地を通って行きます。このサンタ・クルス街は、かつてユダヤ人が住んでいた旧市街地で、ユダヤ人が追放された後に住宅地化され、現在に至った歴史ある街です。

  • 水の小路<br />15世紀頃までユダヤ人たちが居住していたエリアです。<br />この通りは、アルカサルに水を供給していた土管が城壁に埋め込まれていることから「水の小路(アグア通り)」と呼ばれています。<br />よく観ると、太くて丸い土管が2本むき出しになっています。<br />通りの右は白壁の民家、左は石造りの城壁になり、ここを歩くと不思議な感覚に陥ります。<br />

    水の小路
    15世紀頃までユダヤ人たちが居住していたエリアです。
    この通りは、アルカサルに水を供給していた土管が城壁に埋め込まれていることから「水の小路(アグア通り)」と呼ばれています。
    よく観ると、太くて丸い土管が2本むき出しになっています。
    通りの右は白壁の民家、左は石造りの城壁になり、ここを歩くと不思議な感覚に陥ります。

  • 水の小路<br />この通りには『アルハンブラ物語』の著者である米国人外交官ワシントン・アーヴィングが住んでいた家があり、外壁には彼の肖像入りのプレートが掛けられています。また、バロック画家として有名なムリーリョもこの近所に住んでいました。<br /><br />

    水の小路
    この通りには『アルハンブラ物語』の著者である米国人外交官ワシントン・アーヴィングが住んでいた家があり、外壁には彼の肖像入りのプレートが掛けられています。また、バロック画家として有名なムリーリョもこの近所に住んでいました。

  • 水の小路 アーヴィングの家<br />敷地内には、アンダルシア地方特有の美しいパティオがあります。中に入ることはできませんが、アグア通りから覗き込むことができ、沢山の観光客が立ち止まって見学しています。<br />サンタ・クルス地区は、石畳の細い道が入り込んでおり、迷路のようになっています。この道を進むと、アルカサルを経由してセビリア大聖堂に辿り着きます。現在は住宅街やレストランなどが軒を連ねています。

    水の小路 アーヴィングの家
    敷地内には、アンダルシア地方特有の美しいパティオがあります。中に入ることはできませんが、アグア通りから覗き込むことができ、沢山の観光客が立ち止まって見学しています。
    サンタ・クルス地区は、石畳の細い道が入り込んでおり、迷路のようになっています。この道を進むと、アルカサルを経由してセビリア大聖堂に辿り着きます。現在は住宅街やレストランなどが軒を連ねています。

  • サンタクルス街(旧ユダヤ人街)<br />フェルナンド2世がセビリアを征服した際、トレドの次にセビリアにユダヤ人街をつくりました。それが、現在のサンタ・クルス街です。1483年にユダヤ人が追放されて以降、荒廃していましたが、19世紀初頭に住宅地化されたのをきっかけに昔日の面影を残しながら現在に至っています。<br />ところで、ユダヤ街は、何故こんなに細く迷路のような路地ばかりなのでしょうか?<br />ユダヤ人は商売上手です。ですからお金が集まり、またそれを目当てに泥棒も集まります。細い迷路は泥棒にとっては逃げ難く、ユダヤ人にとっては泥棒を捕まえ易いからです。利発なユダヤ人ならではの発想です。冒険心溢れる方にとっては、ワクワク、ドキドキが絶えないスリリングな迷路の彷徨ができること請合いです。<br />この背後にはバンデラスの中庭(PATIO DE BANDERAS)があります。そこの端にユダヤ人街(JUDERIA)という、人家の庭先に入って行くような道もあります。また、サンタ・クルス街には尊者の広場(PLAZA DE LOS VENERABLES)があり、その近隣で放蕩児ドン・ファンが生まれたと伝わっています。このユダヤ街はオペラ『カルメン』の舞台となり、近隣の飲み屋でカルメンはドン・ファンやエスカミーリョと出会った設定になっています。あてどなく路地を彷徨えば、白日夢のように忽然と妖艶なカルメンが姿を現わすかもしれません。

    サンタクルス街(旧ユダヤ人街)
    フェルナンド2世がセビリアを征服した際、トレドの次にセビリアにユダヤ人街をつくりました。それが、現在のサンタ・クルス街です。1483年にユダヤ人が追放されて以降、荒廃していましたが、19世紀初頭に住宅地化されたのをきっかけに昔日の面影を残しながら現在に至っています。
    ところで、ユダヤ街は、何故こんなに細く迷路のような路地ばかりなのでしょうか?
    ユダヤ人は商売上手です。ですからお金が集まり、またそれを目当てに泥棒も集まります。細い迷路は泥棒にとっては逃げ難く、ユダヤ人にとっては泥棒を捕まえ易いからです。利発なユダヤ人ならではの発想です。冒険心溢れる方にとっては、ワクワク、ドキドキが絶えないスリリングな迷路の彷徨ができること請合いです。
    この背後にはバンデラスの中庭(PATIO DE BANDERAS)があります。そこの端にユダヤ人街(JUDERIA)という、人家の庭先に入って行くような道もあります。また、サンタ・クルス街には尊者の広場(PLAZA DE LOS VENERABLES)があり、その近隣で放蕩児ドン・ファンが生まれたと伝わっています。このユダヤ街はオペラ『カルメン』の舞台となり、近隣の飲み屋でカルメンはドン・ファンやエスカミーリョと出会った設定になっています。あてどなく路地を彷徨えば、白日夢のように忽然と妖艶なカルメンが姿を現わすかもしれません。

  • サンタクルス街<br />窓枠の天井、そして底にも美しいアスレホが施されています。<br />一見平和そうな路地ですが、14世紀にヨーロッパを席捲したペストにより、ヨーロッパ全土で2000~3000万人が死亡したことがトリガーとなって悲劇が始まります。それまではキリスト教徒とユダヤ教徒は共存していたのですが、ペストの元凶はユダヤ人だとのデマゴーグによって反ユダヤ主義の風潮が高まり、1391年にセビリアでポグロム(ユダヤ人大虐殺)が起こり、各都市に飛び火したと言う痛ましい記録もあります。集団ヒステリーがコルドバ、カスティーリャ、アラゴンに拡散し、やがてバレアレス諸島にまで達し、各地でユダヤ人に対する略奪や虐殺が勃発し、約4000人が殺戮されました。また、10~15万人のユダヤ人が改宗を強いられました。しかしその後もユダヤ人への不信感は払拭されず、度々反ユダヤ暴動が起こっています。<br />こうした暗黒の歴史を知ればこそ、ユダヤ人街の風景も違って見えてきます。

    サンタクルス街
    窓枠の天井、そして底にも美しいアスレホが施されています。
    一見平和そうな路地ですが、14世紀にヨーロッパを席捲したペストにより、ヨーロッパ全土で2000~3000万人が死亡したことがトリガーとなって悲劇が始まります。それまではキリスト教徒とユダヤ教徒は共存していたのですが、ペストの元凶はユダヤ人だとのデマゴーグによって反ユダヤ主義の風潮が高まり、1391年にセビリアでポグロム(ユダヤ人大虐殺)が起こり、各都市に飛び火したと言う痛ましい記録もあります。集団ヒステリーがコルドバ、カスティーリャ、アラゴンに拡散し、やがてバレアレス諸島にまで達し、各地でユダヤ人に対する略奪や虐殺が勃発し、約4000人が殺戮されました。また、10~15万人のユダヤ人が改宗を強いられました。しかしその後もユダヤ人への不信感は払拭されず、度々反ユダヤ暴動が起こっています。
    こうした暗黒の歴史を知ればこそ、ユダヤ人街の風景も違って見えてきます。

  • サンタクルス街<br />路地の前方は、イスラム時代の雰囲気を残す攻撃的な姿のアルカサル城壁で塞がれています。<br />その右脇をすり抜けると、城壁が連なるアルカサルの出口付近が見えてきます。<br />

    サンタクルス街
    路地の前方は、イスラム時代の雰囲気を残す攻撃的な姿のアルカサル城壁で塞がれています。
    その右脇をすり抜けると、城壁が連なるアルカサルの出口付近が見えてきます。

  • アルカサル<br />アルカサルは、かつてはムーア人の王や高官たちが住んでいた宮殿です。<br />14世紀、イスラム文化に心酔していた「残虐王」とも「正義王」とも呼ばれるカスティーリャ国王ペドロ1世の命により、イスラム時代の宮殿の跡地にムデハル様式の宮殿建設が始められました。グラナダのアルハンブラ宮殿への憧憬が強く、アルハンブラ宮殿を意識したデザインが施され、、オリエンタルムードが漂っています。宮殿内では、イスラムの服装を身に纏い、アラビア語の使用を強要したそうです。<br />アルカサルの歴史は、10世紀のアンダルス後ウマイヤ朝時代に6~8世紀の西ゴート王国時代の教会の跡地に総督府を築いた時に遡るとも言われています。<br />また、15~16世紀にも増築され、ゴシックやルネッサンス様式も混在しています。また、素晴らしい庭園の数々が増築され、今日の「人形の中庭」、「乙女の中庭」、「大使の間」などが訪れる人々を魅了しています。<br />

    アルカサル
    アルカサルは、かつてはムーア人の王や高官たちが住んでいた宮殿です。
    14世紀、イスラム文化に心酔していた「残虐王」とも「正義王」とも呼ばれるカスティーリャ国王ペドロ1世の命により、イスラム時代の宮殿の跡地にムデハル様式の宮殿建設が始められました。グラナダのアルハンブラ宮殿への憧憬が強く、アルハンブラ宮殿を意識したデザインが施され、、オリエンタルムードが漂っています。宮殿内では、イスラムの服装を身に纏い、アラビア語の使用を強要したそうです。
    アルカサルの歴史は、10世紀のアンダルス後ウマイヤ朝時代に6~8世紀の西ゴート王国時代の教会の跡地に総督府を築いた時に遡るとも言われています。
    また、15~16世紀にも増築され、ゴシックやルネッサンス様式も混在しています。また、素晴らしい庭園の数々が増築され、今日の「人形の中庭」、「乙女の中庭」、「大使の間」などが訪れる人々を魅了しています。

  • アルカサル<br />馬蹄形アーチの名残りが感じられる門構えです。<br />門の上の紋章には力の象徴とされるライオンが2頭描かれています。キリスト教徒がイスラム教徒に対し、如何にその力を誇示したかったかがこんな所にも読み取れます。<br />余談ですが、慶長遣欧使節の支倉ら使節一行は、この豪奢な宮殿アルカサルに宿泊するという厚遇に浴したそうです。<br />日本とスペインの関係には、どれくらいの歴史があると思いますか?<br />1549年にフランシスコ・ザビエル(バスク人=スペイン人)が薩摩半島の坊津に上陸し、1584年天正遣欧使節団がマドリードでフェリペ2世に謁見しています。その後、独眼竜で知られる伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、支倉常長を大使にして180余人からなる慶長遣欧使節団(実際に欧州に向かったのは28名)を派遣したのが1613年です。<br />1613年10月28日、一行は木造帆船「サン・フアン・バウティスタ号」で宮城県石巻市を出航し、メキシコのアカプルコに入港後、キューバのハバナを経由してスペイン南部のサンルカール・デ・パラメダに到着しました。実に1年に亘る航海でした。1615年、使節団は往時のエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見し、支倉が国王同席の下でカトリックの洗礼を受けた後、さらにローマに移ってローマ教皇パウル5世との謁見も果たしています。<br />使節団の目的は、仙台藩が独自に大西洋ルートを開拓し、エスパーニャと太平洋貿易を行うことであり、日本人が初めて貿易交渉に赴いたという画期的な出来事でした。しかし帰国した1620年、日本の状況は激変しており、キリシタン弾圧に浴していました。支倉は失意のうちに帰国の翌年に病死し、正使ソテロも長崎で火刑に処されて殉教し、使節団の功績は歴史の闇に葬られたのです。<br />ところが、1871~73年にかけて米国や欧州に派遣された岩倉使節団により、250年も前に日本の使節団がスペインと貿易交渉を行っていた事実が明らかになったのです。<br />支倉らは、スペイン南西にあるセビリアのコリア・デル・リオに長期滞在したと伝えられています。往路だけでなく復路では9ヶ月もの間、この地に逗留しました。そして現在、この地域には「ハポン(JAPON)」の名字を名乗るスペイン人が800名程おられるそうです。ハポンとは日本と言う意味です。彼らは 「自分たちは誇り高きサムライの末裔である」と語り、1992年には同地に仙台市から支倉の銅像も贈呈されています。<br />正確な資料は残されていませんが、同地に残った日本人が5~6名いたとの説があります。この地域では日本と同じ水田式の稲作法が伝わっていたり、ハポン姓の子供に蒙古斑が表れたりと、日本との繋がりを示す根拠が見られるものの、記録がないために彼らが仙台藩のサムライの末裔であるかどうかは確認されていないそうです。それでも、「勤勉で優秀な日本人の血が流れている」と信じてハポン姓に誇りを持ってくれていることは、日本人としては嬉しい限りです。

    アルカサル
    馬蹄形アーチの名残りが感じられる門構えです。
    門の上の紋章には力の象徴とされるライオンが2頭描かれています。キリスト教徒がイスラム教徒に対し、如何にその力を誇示したかったかがこんな所にも読み取れます。
    余談ですが、慶長遣欧使節の支倉ら使節一行は、この豪奢な宮殿アルカサルに宿泊するという厚遇に浴したそうです。
    日本とスペインの関係には、どれくらいの歴史があると思いますか?
    1549年にフランシスコ・ザビエル(バスク人=スペイン人)が薩摩半島の坊津に上陸し、1584年天正遣欧使節団がマドリードでフェリペ2世に謁見しています。その後、独眼竜で知られる伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、支倉常長を大使にして180余人からなる慶長遣欧使節団(実際に欧州に向かったのは28名)を派遣したのが1613年です。
    1613年10月28日、一行は木造帆船「サン・フアン・バウティスタ号」で宮城県石巻市を出航し、メキシコのアカプルコに入港後、キューバのハバナを経由してスペイン南部のサンルカール・デ・パラメダに到着しました。実に1年に亘る航海でした。1615年、使節団は往時のエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見し、支倉が国王同席の下でカトリックの洗礼を受けた後、さらにローマに移ってローマ教皇パウル5世との謁見も果たしています。
    使節団の目的は、仙台藩が独自に大西洋ルートを開拓し、エスパーニャと太平洋貿易を行うことであり、日本人が初めて貿易交渉に赴いたという画期的な出来事でした。しかし帰国した1620年、日本の状況は激変しており、キリシタン弾圧に浴していました。支倉は失意のうちに帰国の翌年に病死し、正使ソテロも長崎で火刑に処されて殉教し、使節団の功績は歴史の闇に葬られたのです。
    ところが、1871~73年にかけて米国や欧州に派遣された岩倉使節団により、250年も前に日本の使節団がスペインと貿易交渉を行っていた事実が明らかになったのです。
    支倉らは、スペイン南西にあるセビリアのコリア・デル・リオに長期滞在したと伝えられています。往路だけでなく復路では9ヶ月もの間、この地に逗留しました。そして現在、この地域には「ハポン(JAPON)」の名字を名乗るスペイン人が800名程おられるそうです。ハポンとは日本と言う意味です。彼らは 「自分たちは誇り高きサムライの末裔である」と語り、1992年には同地に仙台市から支倉の銅像も贈呈されています。
    正確な資料は残されていませんが、同地に残った日本人が5~6名いたとの説があります。この地域では日本と同じ水田式の稲作法が伝わっていたり、ハポン姓の子供に蒙古斑が表れたりと、日本との繋がりを示す根拠が見られるものの、記録がないために彼らが仙台藩のサムライの末裔であるかどうかは確認されていないそうです。それでも、「勤勉で優秀な日本人の血が流れている」と信じてハポン姓に誇りを持ってくれていることは、日本人としては嬉しい限りです。

  • アルカサル<br />ライオンの紋章の門の向こうには、バンデラスの中庭が広がっています。<br />ペドロ1世が治めていた時代は、セビリアの産業が栄え、最も安定していました。そのため、セビリアの人々は今でも彼を「正義の王」と口を揃えるそうです。しかしペドロ1世は、残酷王の異名で歴史に名を残しています。父のアルフォンソ11世は希に見る好色男でした。それため16歳で王位を継いだペドロ1世は、王位を守るために多くの異母兄弟を殺害しました。 <br />また、王権を強化するため、有力貴族を弾圧して下級貴族の文官やユダヤ人を登用しました。王妃と愛妾の問題なども入り乱れ、立場を失った貴族たちから残酷王の名で謗られ、その誹謗中傷が世間に広がったということらしいです。

    アルカサル
    ライオンの紋章の門の向こうには、バンデラスの中庭が広がっています。
    ペドロ1世が治めていた時代は、セビリアの産業が栄え、最も安定していました。そのため、セビリアの人々は今でも彼を「正義の王」と口を揃えるそうです。 しかしペドロ1世は、残酷王の異名で歴史に名を残しています。父のアルフォンソ11世は希に見る好色男でした。それため16歳で王位を継いだペドロ1世は、王位を守るために多くの異母兄弟を殺害しました。 
    また、王権を強化するため、有力貴族を弾圧して下級貴族の文官やユダヤ人を登用しました。王妃と愛妾の問題なども入り乱れ、立場を失った貴族たちから残酷王の名で謗られ、その誹謗中傷が世間に広がったということらしいです。

  • セビリア大聖堂 <br />トリウンフォ広場から眺める大聖堂です。更に左側に連なり、フレームに入りきらないほどの規模なのですが、生憎改修工事中です。<br />正式名称は、カテドラル・デ・サンタ・マリア・デ・ラ・セデ・デ・セビリアと言います。元々は、イスラム時代の1179年頃にアルモハッド朝が築いたセビリア最大のメスキータでした。1366年の大地震で崩壊したメスキータを基礎に、1401年、植民地から得た莫大な富を使い、「後世の人たちが狂気の沙汰と思うような巨大な聖堂を建てよう」との教会参事会の決定で竣工され、118年もの年月をかけて1519年に完成しました。そのため、キリスト教建築とメスキータの名残が見事に調和した美しい大聖堂になっています。<br />奥行き116m、幅76mもある大聖堂は、ギネスブックには世界一巨大な大聖堂として認定されていますが、実際はヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次ぐ3番目の大きさを誇っています。<br />ただ豪華絢爛なだけではなく、神聖な雰囲気に満ち溢れたこの広大な空間には、コロンブスの墓だけでなく、アラゴン王アルフォンソ5世やイスラム教徒からセビリアを奪還した聖王フェルナンド3世やその息子の賢王アルフォンソ10世などが葬られています。

    セビリア大聖堂
    トリウンフォ広場から眺める大聖堂です。更に左側に連なり、フレームに入りきらないほどの規模なのですが、生憎改修工事中です。
    正式名称は、カテドラル・デ・サンタ・マリア・デ・ラ・セデ・デ・セビリアと言います。元々は、イスラム時代の1179年頃にアルモハッド朝が築いたセビリア最大のメスキータでした。1366年の大地震で崩壊したメスキータを基礎に、1401年、植民地から得た莫大な富を使い、「後世の人たちが狂気の沙汰と思うような巨大な聖堂を建てよう」との教会参事会の決定で竣工され、118年もの年月をかけて1519年に完成しました。そのため、キリスト教建築とメスキータの名残が見事に調和した美しい大聖堂になっています。
    奥行き116m、幅76mもある大聖堂は、ギネスブックには世界一巨大な大聖堂として認定されていますが、実際はヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次ぐ3番目の大きさを誇っています。
    ただ豪華絢爛なだけではなく、神聖な雰囲気に満ち溢れたこの広大な空間には、コロンブスの墓だけでなく、アラゴン王アルフォンソ5世やイスラム教徒からセビリアを奪還した聖王フェルナンド3世やその息子の賢王アルフォンソ10世などが葬られています。

  • セビリア大聖堂 ヒラルダの塔<br />セビリアのランドマーク的存在であるヒラルダの塔は、1198年のアルモハッド朝時代に建てられた煉瓦造りのメスキータのミナレット(尖塔)を改造したスリムな鐘塔です。この塔は、セビリアで現在一番高い建物になっています。大航海時代には、この塔を目指して川を遡上してきたことでしょう。シンプルな構造の四角い塔ですが、外観に精緻な浮き彫りが施され、かつての尖塔部分にはオリジナルのアラベスク模様が残されています。<br />1568年、地震で崩壊した部位の改修に伴い、エルナン・ルイス2世によって上層の釣鐘部分が付け加えられ、大小24個の鐘が吊られています。また、イスラム風のアラベスク文様が施された塔に、プラテレスコ様式の鐘楼とルネッサンス風バルコニーが付け足されています。

    セビリア大聖堂 ヒラルダの塔
    セビリアのランドマーク的存在であるヒラルダの塔は、1198年のアルモハッド朝時代に建てられた煉瓦造りのメスキータのミナレット(尖塔)を改造したスリムな鐘塔です。この塔は、セビリアで現在一番高い建物になっています。大航海時代には、この塔を目指して川を遡上してきたことでしょう。シンプルな構造の四角い塔ですが、外観に精緻な浮き彫りが施され、かつての尖塔部分にはオリジナルのアラベスク模様が残されています。
    1568年、地震で崩壊した部位の改修に伴い、エルナン・ルイス2世によって上層の釣鐘部分が付け加えられ、大小24個の鐘が吊られています。また、イスラム風のアラベスク文様が施された塔に、プラテレスコ様式の鐘楼とルネッサンス風バルコニーが付け足されています。

  • セビリア大聖堂 ヒラルダの塔<br />塔の先端には、ローマ時代の衣装を身に纏い、右手に天辺に十字架を配した楯、もう一方にシュロ(椰子)の葉を持った女性像がセビリアの街を見下ろすように立っています。風向きが悪く、お尻をこちらに向けていますが、これは「信仰の勝利」を讃えるブロンズの女神像です。1566~68年に巨匠バルトロメスによって造られたブロンズ像で、風によって向きを変える風見鶏の役目もしていることから、「風見」を意味する「ヒラルダ」から塔の名の由来があります。球体部分から上が動くそうですが、高さ4m、質量1288kgあるそうです。<br />地元の人々は、この像を「ヒラルディーヨ」と親しみを込めて呼んでいますが、十字架とシュロの葉から2重の殉教者とも説かれ、セビリアの守護聖人の姉妹、聖フスタと聖ルフィーナのどちらかではないかと言われています。実はレプリカがあり、改修工事中はそちらが塔の上に建てられていたそうでうです。

    セビリア大聖堂 ヒラルダの塔
    塔の先端には、ローマ時代の衣装を身に纏い、右手に天辺に十字架を配した楯、もう一方にシュロ(椰子)の葉を持った女性像がセビリアの街を見下ろすように立っています。風向きが悪く、お尻をこちらに向けていますが、これは「信仰の勝利」を讃えるブロンズの女神像です。1566~68年に巨匠バルトロメスによって造られたブロンズ像で、風によって向きを変える風見鶏の役目もしていることから、「風見」を意味する「ヒラルダ」から塔の名の由来があります。球体部分から上が動くそうですが、高さ4m、質量1288kgあるそうです。
    地元の人々は、この像を「ヒラルディーヨ」と親しみを込めて呼んでいますが、十字架とシュロの葉から2重の殉教者とも説かれ、セビリアの守護聖人の姉妹、聖フスタと聖ルフィーナのどちらかではないかと言われています。実はレプリカがあり、改修工事中はそちらが塔の上に建てられていたそうでうです。

  • インディアス総合古文書館<br />セビリアの旧商品取引所に置かれている公文書館で、アメリカ大陸やフィリピンにおけるスペイン帝国の征服の歴史など、比類のない史料群が収められています。古文書館では徳川家康の書状、市文書館では伊達政宗がセビリアに宛てた書状など、歴史的に大変貴重な資料を閲覧することができます。<br />元々は、1584年、フェリペ2世がエル・エスコリアル修道院を建築したフアン・デ・エレーラに命じて建てた商品取引所です。1785年にカルロス3世の勅令で、インディアス枢機会議がここに置かれ、現在に至っています。<br />所蔵史料の価値も勿論のこと、この建物は、ルネサンス建築の中でも落ち着いた佇まいを持つイタリア風のスペイン建築の例証として際立っているため、セビリア大聖堂やアルカサルと共に世界遺産に認定されています。入館無料です。<br />

    インディアス総合古文書館
    セビリアの旧商品取引所に置かれている公文書館で、アメリカ大陸やフィリピンにおけるスペイン帝国の征服の歴史など、比類のない史料群が収められています。古文書館では徳川家康の書状、市文書館では伊達政宗がセビリアに宛てた書状など、歴史的に大変貴重な資料を閲覧することができます。
    元々は、1584年、フェリペ2世がエル・エスコリアル修道院を建築したフアン・デ・エレーラに命じて建てた商品取引所です。1785年にカルロス3世の勅令で、インディアス枢機会議がここに置かれ、現在に至っています。
    所蔵史料の価値も勿論のこと、この建物は、ルネサンス建築の中でも落ち着いた佇まいを持つイタリア風のスペイン建築の例証として際立っているため、セビリア大聖堂やアルカサルと共に世界遺産に認定されています。入館無料です。

  • セビリア大聖堂 <br />大聖堂の南面です。<br />宝物庫のドームがチラッと見えます。

    セビリア大聖堂
    大聖堂の南面です。
    宝物庫のドームがチラッと見えます。

  • セビリア大聖堂 <br />大聖堂の後陣に当たる壁面です。城砦を彷彿とさせる威圧感のある半円形の部分は王室礼拝堂に当たり、アラゴン王アルフォンソ5世が眠っています。ですから、彼の紋章が壁面に彫られています。<br />セビリアは、レコンキスタにより、グラナダより約200年も早い13世紀半ばにカトリック勢力により再征服されました。コロンブスの新大陸発見の後、新大陸との貿易の富により15~16世紀にかけて最も栄え、交易独占権により往時のヨーロッパの中で最強国になりました。<br />その象徴が「後世の人たちが狂気の沙汰と思うような巨大な聖堂を建てよう」とのスローガンの下に建造されたこの大聖堂です。

    セビリア大聖堂
    大聖堂の後陣に当たる壁面です。城砦を彷彿とさせる威圧感のある半円形の部分は王室礼拝堂に当たり、アラゴン王アルフォンソ5世が眠っています。ですから、彼の紋章が壁面に彫られています。
    セビリアは、レコンキスタにより、グラナダより約200年も早い13世紀半ばにカトリック勢力により再征服されました。コロンブスの新大陸発見の後、新大陸との貿易の富により15~16世紀にかけて最も栄え、交易独占権により往時のヨーロッパの中で最強国になりました。
    その象徴が「後世の人たちが狂気の沙汰と思うような巨大な聖堂を建てよう」とのスローガンの下に建造されたこの大聖堂です。

  • セビリア大聖堂 ヒラルダの塔<br />大聖堂の北東隅から、高さ97mあるヒラルダの塔に上ることができます。教会塔の多くは階段になっていますが、この塔はイスラム時代に騎馬のまま登れるように設計されたため、現在もなだらかな螺旋状のスロープになっており、行程の2/3の70mの高さのテラスまで登坂できます。イスラム教勢力が支配していたこ頃は、塔内をロバで移動し、お祈りの時間を知らせたそうです。<br />1614年には仙台藩主伊達政宗の命でスペインにやってきた慶長遣欧使節の大使の支倉常長がこの大聖堂を訪れ、ヒラルダの塔に登ったという記録があるそうです。17世紀の日本で常長がこれほど高い建造物を見たはずもなく、その威容に圧倒されたに違いありません。<br />また、塔内の鐘楼には28の鐘があり、ヒラルダの塔はこの鐘の音で街に祈りの刻を知らせる役目を担っていました。この鐘楼は1764年から時を告げ続けている、スペイン最古の時計です。展望台からはセビリアの街を一望することができます。<br />また、『 ダビンチコード』で有名なダン・ブランの小説『パズル・パレス』はここが舞台です。主人公の恋人デイヴィットは、殺し屋からセビリア街を必死に逃げ回り、最後にオレンジのパティオからヒラルダの塔に上ってそこで対決します。

    セビリア大聖堂 ヒラルダの塔
    大聖堂の北東隅から、高さ97mあるヒラルダの塔に上ることができます。教会塔の多くは階段になっていますが、この塔はイスラム時代に騎馬のまま登れるように設計されたため、現在もなだらかな螺旋状のスロープになっており、行程の2/3の70mの高さのテラスまで登坂できます。イスラム教勢力が支配していたこ頃は、塔内をロバで移動し、お祈りの時間を知らせたそうです。
    1614年には仙台藩主伊達政宗の命でスペインにやってきた慶長遣欧使節の大使の支倉常長がこの大聖堂を訪れ、ヒラルダの塔に登ったという記録があるそうです。17世紀の日本で常長がこれほど高い建造物を見たはずもなく、その威容に圧倒されたに違いありません。
    また、塔内の鐘楼には28の鐘があり、ヒラルダの塔はこの鐘の音で街に祈りの刻を知らせる役目を担っていました。この鐘楼は1764年から時を告げ続けている、スペイン最古の時計です。 展望台からはセビリアの街を一望することができます。
    また、『 ダビンチコード』で有名なダン・ブランの小説『パズル・パレス』はここが舞台です。主人公の恋人デイヴィットは、殺し屋からセビリア街を必死に逃げ回り、最後にオレンジのパティオからヒラルダの塔に上ってそこで対決します。

  • ビルヘン・デ・ロス・レジェス広場 セビリア大司教区<br />広場の正面にあるのは、18世紀に建てられた大司教館です。<br />セビリアの高位聖職者が暮らす住居だそうです。

    ビルヘン・デ・ロス・レジェス広場 セビリア大司教区
    広場の正面にあるのは、18世紀に建てられた大司教館です。
    セビリアの高位聖職者が暮らす住居だそうです。

  • セビリア大聖堂 <br />大聖堂の基盤は、奥行き(116m)に対し幅(76m)が広くなった長方形をしています。これは15世紀に12世紀末に建設されたイスラム教のモスクを壊し、その基礎の上に十字型の大聖堂を建てたためです。<br />コルドバのメスキータが全体の原型を留めているのとは対照的に、ここで残ったのはモスクの基礎とミナレット(鐘塔)だけでした。<br />しかし随所にイスラム文様が認められているのは、イスラム系の石工たちのせめてもの心のあがきだったのかもしれません。

    セビリア大聖堂
    大聖堂の基盤は、奥行き(116m)に対し幅(76m)が広くなった長方形をしています。これは15世紀に12世紀末に建設されたイスラム教のモスクを壊し、その基礎の上に十字型の大聖堂を建てたためです。
    コルドバのメスキータが全体の原型を留めているのとは対照的に、ここで残ったのはモスクの基礎とミナレット(鐘塔)だけでした。
    しかし随所にイスラム文様が認められているのは、イスラム系の石工たちのせめてもの心のあがきだったのかもしれません。

  • セビリア大聖堂 <br />個人見学者は「サン・クリストバルの門」、団体観光客はヒラルダの塔の右側にある「ラガルトの門」から入場します。現地ガイドさんの見事なJust in Timeのナビゲートで、ほぼ待たずに入場できました。しかし朝の遅い土地柄のため、開門は11時です。しかし日本語パンフレットが準備されており、そこには「あなたの入場料の3分の1は司教区の新しい教会の建設に、3分の2は大聖堂の保存と改修のために配分される」とあり、明朗会計な案内に納得しながら見学できました。<br /><br />スペインでは、時間に遅れないものが3つあると言われています。<br />①AVE。<br />15分遅れたら運賃の半額を払い戻すと公約してから遅れなくなったそうです。<br />(公約前はかなりルーズだったそうです)<br />②闘牛の開始時間。<br />誇り高い一面を表しています。<br />③仕事を終える時間。<br />いかにもスペイン人らしいですね!

    セビリア大聖堂
    個人見学者は「サン・クリストバルの門」、団体観光客はヒラルダの塔の右側にある「ラガルトの門」から入場します。現地ガイドさんの見事なJust in Timeのナビゲートで、ほぼ待たずに入場できました。しかし朝の遅い土地柄のため、開門は11時です。しかし日本語パンフレットが準備されており、そこには「あなたの入場料の3分の1は司教区の新しい教会の建設に、3分の2は大聖堂の保存と改修のために配分される」とあり、明朗会計な案内に納得しながら見学できました。

    スペインでは、時間に遅れないものが3つあると言われています。
    ①AVE。
    15分遅れたら運賃の半額を払い戻すと公約してから遅れなくなったそうです。
    (公約前はかなりルーズだったそうです)
    ②闘牛の開始時間。
    誇り高い一面を表しています。
    ③仕事を終える時間。
    いかにもスペイン人らしいですね!

  • セビリア大聖堂 ラガルト(=トカゲ)の門<br />カテドラルへの入口で上を見上げると「ワニ」の剥製のようなものが吊り下げられています。調べたところ、「ワニ」ではなく「トカゲ」の剥製だそうですが、何のためにここに飾られているかは不明のようです。イスラム神秘主義(スーフィー)では「ワニ」は神聖な生き物とされているのですが、トカゲは・・・。「ラガルト(Lagarto=トカゲ)の門」と呼ばれるのは、この「トカゲ」が由来です。

    セビリア大聖堂 ラガルト(=トカゲ)の門
    カテドラルへの入口で上を見上げると「ワニ」の剥製のようなものが吊り下げられています。調べたところ、「ワニ」ではなく「トカゲ」の剥製だそうですが、何のためにここに飾られているかは不明のようです。イスラム神秘主義(スーフィー)では「ワニ」は神聖な生き物とされているのですが、トカゲは・・・。「ラガルト(Lagarto=トカゲ)の門」と呼ばれるのは、この「トカゲ」が由来です。

  • セビリア大聖堂 <br />ヒメルダの塔の直下にあるのが「トカゲの門」のため、聖堂内に入っていきなり塔へ登ります。混雑を避ける狙いもあるようです。20分程ですが、聖堂内の見所が多いため別行動にし、先回りして要所をチェックすることにします。<br /><br />世界で3番目に大きなカトリック教会ですが、堂内に足を踏み入れた時にはその大きさが実感できません。その理由は、スペインの大聖堂に共通するのですが、堂内の中央にコロと呼ばれる聖歌隊席と内陣が設けられ、見通しを遮っているからです。<br />しかし堂内は、豪華絢爛ながら荘厳な雰囲気に包まれています。高い天井を支えるためにゴシック様式で造られた太い列柱がずらりと並び、その高さは37mもあります。また、セルビア大聖堂の特徴は、ステンドグラスが多いことです。93枚ものステンドグラスからやさしい光が舞っています。<br />また、礼拝堂の数も44あり、半端ではありません。しかしその多くは薄暗く、見るだけでも大変です。

    セビリア大聖堂
    ヒメルダの塔の直下にあるのが「トカゲの門」のため、聖堂内に入っていきなり塔へ登ります。混雑を避ける狙いもあるようです。20分程ですが、聖堂内の見所が多いため別行動にし、先回りして要所をチェックすることにします。

    世界で3番目に大きなカトリック教会ですが、堂内に足を踏み入れた時にはその大きさが実感できません。その理由は、スペインの大聖堂に共通するのですが、堂内の中央にコロと呼ばれる聖歌隊席と内陣が設けられ、見通しを遮っているからです。
    しかし堂内は、豪華絢爛ながら荘厳な雰囲気に包まれています。高い天井を支えるためにゴシック様式で造られた太い列柱がずらりと並び、その高さは37mもあります。また、セルビア大聖堂の特徴は、ステンドグラスが多いことです。93枚ものステンドグラスからやさしい光が舞っています。
    また、礼拝堂の数も44あり、半端ではありません。しかしその多くは薄暗く、見るだけでも大変です。

  • セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇<br />美しい仕切り格子の先に金色の木製祭壇が見えます。<br />めくるめく装飾の奔流に俗世が押し流される思いです。

    セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇
    美しい仕切り格子の先に金色の木製祭壇が見えます。
    めくるめく装飾の奔流に俗世が押し流される思いです。

  • セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇<br />王専用の礼拝堂の正面に飾られているのは、カトリックで世界最大と称される「黄金色の木製祭壇」です。大聖堂内の中央付近にあり、イエスと聖母マリアの生涯が45場面に分けられ、ゴシック・フランボワイヤン様式でマリアとイエスを中心に1000体を超える彫刻群で構成されています。<br />1482~92年までは設計者ピーター・ダンカルトが制作し、その後、ホルフェ・フゥルナンデスの工房で複数の職人や芸術家の手によって制作され、1525年に完成しました。その後、金箔が施こされています。<br />

    セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇
    王専用の礼拝堂の正面に飾られているのは、カトリックで世界最大と称される「黄金色の木製祭壇」です。大聖堂内の中央付近にあり、イエスと聖母マリアの生涯が45場面に分けられ、ゴシック・フランボワイヤン様式でマリアとイエスを中心に1000体を超える彫刻群で構成されています。
    1482~92年までは設計者ピーター・ダンカルトが制作し、その後、ホルフェ・フゥルナンデスの工房で複数の職人や芸術家の手によって制作され、1525年に完成しました。その後、金箔が施こされています。

  • セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇<br />セビリアの黄金期を象徴するかの如く、驚くほど繊細な彫刻が施されている木製のレタベル(祭壇衝立)は、実に金3トンを用いて黄金色に彩色されているそうです。<br />コロンブスの新大陸発見がスペインの繁栄の始まりを告げ、その象徴として新大陸から入ってきた黄金で主祭壇の巨大なレタベルが制作されたそうです。高さ20m、幅13mもあり、圧倒されるような巨大なレタベルです。まさにギネス級の規模ですが、じっと見つめていると吸い込まれそうな美しさです。

    セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇
    セビリアの黄金期を象徴するかの如く、驚くほど繊細な彫刻が施されている木製のレタベル(祭壇衝立)は、実に金3トンを用いて黄金色に彩色されているそうです。
    コロンブスの新大陸発見がスペインの繁栄の始まりを告げ、その象徴として新大陸から入ってきた黄金で主祭壇の巨大なレタベルが制作されたそうです。高さ20m、幅13mもあり、圧倒されるような巨大なレタベルです。まさにギネス級の規模ですが、じっと見つめていると吸い込まれそうな美しさです。

  • セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇<br />最大の特徴は、中央下部に鎮座するのがイエス像ではなく、マリア像と言うことです。元々アンダルシア地方は4世紀頃からマリア信仰が根強く、19世紀以降はローマ教皇にも認められた教義です。この祭壇からもそれが窺えます。大きさも勿論のこと、その彫刻の素晴らしさは圧巻です。<br />この教会にはマリア像が多くあり、「世界の根本は聖家族」というメッセージが込められているそうです。

    セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇
    最大の特徴は、中央下部に鎮座するのがイエス像ではなく、マリア像と言うことです。元々アンダルシア地方は4世紀頃からマリア信仰が根強く、19世紀以降はローマ教皇にも認められた教義です。この祭壇からもそれが窺えます。大きさも勿論のこと、その彫刻の素晴らしさは圧巻です。
    この教会にはマリア像が多くあり、「世界の根本は聖家族」というメッセージが込められているそうです。

  • セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇<br />レタベルの頂点にあるのは「イエス磔刑」です。<br />首をもたげ、とてもリアルな表現の磔刑像です。

    セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇
    レタベルの頂点にあるのは「イエス磔刑」です。
    首をもたげ、とてもリアルな表現の磔刑像です。

  • セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇<br />イエス磔刑の直下にあるのは、「ピエタ」です。<br />「ピエタ」とは、聖母子像のうち、磔刑された十字架から降ろされたイエスを抱く聖母マリアの彫刻や絵の事を指します。<br />マリアの儚げな表情が手に取るように判ります。マリアの背後にいるのは12使徒です。

    セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇
    イエス磔刑の直下にあるのは、「ピエタ」です。
    「ピエタ」とは、聖母子像のうち、磔刑された十字架から降ろされたイエスを抱く聖母マリアの彫刻や絵の事を指します。
    マリアの儚げな表情が手に取るように判ります。マリアの背後にいるのは12使徒です。

  • セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇<br />翼廊側から見た木製祭壇の仕切り格子です。金色に輝く借景に装飾模様がシルエットになり、とても華麗です。<br />木製祭壇の仕切り格子の制作は、16世紀初頭の最高の職人と称されたハエンのバルトロメス父子とフリアール・フランシスコ・デ・サラマンカの手によるものです。木製祭壇と競うように精魂込めて造られたことが窺えます。<br /><br />

    セビリア大聖堂 黄金色の木製祭壇
    翼廊側から見た木製祭壇の仕切り格子です。金色に輝く借景に装飾模様がシルエットになり、とても華麗です。
    木製祭壇の仕切り格子の制作は、16世紀初頭の最高の職人と称されたハエンのバルトロメス父子とフリアール・フランシスコ・デ・サラマンカの手によるものです。木製祭壇と競うように精魂込めて造られたことが窺えます。

  • セビリア大聖堂 <br />こちらのステンドグラスは聖書の中の『受胎告知』を綺麗に描いています。<br />フランスの大聖堂にある12~13世紀の深みのあるステンドグラスとは一味違いますが、15世紀以降の色彩鮮やかなものが数多く嵌め込まれています。<br />

    セビリア大聖堂
    こちらのステンドグラスは聖書の中の『受胎告知』を綺麗に描いています。
    フランスの大聖堂にある12~13世紀の深みのあるステンドグラスとは一味違いますが、15世紀以降の色彩鮮やかなものが数多く嵌め込まれています。

  • セビリア大聖堂 聖歌隊席<br />この仕切り格子もバルトロメス父子とフリアール・フランシスコ・デ・サラマンカの手によります。<br />両脇の上部には立派なバロック様式のイベリア式パイプオルガンがあります。因みに長さ10m、7500本ものパイプを持っています。全てが桁外れのスケールです。<br />

    セビリア大聖堂 聖歌隊席
    この仕切り格子もバルトロメス父子とフリアール・フランシスコ・デ・サラマンカの手によります。
    両脇の上部には立派なバロック様式のイベリア式パイプオルガンがあります。因みに長さ10m、7500本ものパイプを持っています。全てが桁外れのスケールです。

  • セビリア大聖堂 聖歌隊席<br />大聖堂内の中央付近、大礼拝堂の向いに佇むのが「聖歌隊席」です。一般的に聖歌隊席と言いいますが、実際は高位聖職者の人々が祈りを捧げるための祈祷席です。<br />マルダーハウル・スタイルの聖歌隊席は全部で117席あり、その椅子は高価なマホガニー材で作られています。絵に描いたような細かい浮彫彫刻が施された空間が広がり、重厚感と神聖かつ荘厳な雰囲気を漂わせています。<br />中央奥には、イエスとマリアの絵画に挟まれた司教席があります。<br />西ファサードのバラ窓の上には、黄金色に輝く身廊が伸び、まるで15世紀のまま、時が止まってしまったような不思議な空間です。

    セビリア大聖堂 聖歌隊席
    大聖堂内の中央付近、大礼拝堂の向いに佇むのが「聖歌隊席」です。一般的に聖歌隊席と言いいますが、実際は高位聖職者の人々が祈りを捧げるための祈祷席です。
    マルダーハウル・スタイルの聖歌隊席は全部で117席あり、その椅子は高価なマホガニー材で作られています。絵に描いたような細かい浮彫彫刻が施された空間が広がり、重厚感と神聖かつ荘厳な雰囲気を漂わせています。
    中央奥には、イエスとマリアの絵画に挟まれた司教席があります。
    西ファサードのバラ窓の上には、黄金色に輝く身廊が伸び、まるで15世紀のまま、時が止まってしまったような不思議な空間です。

  • 聖歌隊席にあるパイプオルガンの裏側です。<br />天井を突き破って天高く飛び出さんばかりの勢いを持つ巨大なパイプオルガンとその装飾は瞠目に値します。<br /><br />

    聖歌隊席にあるパイプオルガンの裏側です。
    天井を突き破って天高く飛び出さんばかりの勢いを持つ巨大なパイプオルガンとその装飾は瞠目に値します。

  • セビリア大聖堂 クロッシング部<br />天井ドームを仰ぎ見ると、白亜の複雑な丈の低いリブ・ボールトが見て取れます。<br />今まで見た大聖堂とは明らかに異なる様式です。度重なる地震で崩落、修復していると言われていますが・・・。<br />大聖堂のクロッシング部は、十字の形をした教会の基本構造の中で長い方の身廊と短い方の翼廊の交差する部分を言い、クロスする四隅の大柱は中央ドームを支える重要な役割を担っています。<br />中央ドームにもステンドグラスが配されています。

    セビリア大聖堂 クロッシング部
    天井ドームを仰ぎ見ると、白亜の複雑な丈の低いリブ・ボールトが見て取れます。
    今まで見た大聖堂とは明らかに異なる様式です。度重なる地震で崩落、修復していると言われていますが・・・。
    大聖堂のクロッシング部は、十字の形をした教会の基本構造の中で長い方の身廊と短い方の翼廊の交差する部分を言い、クロスする四隅の大柱は中央ドームを支える重要な役割を担っています。
    中央ドームにもステンドグラスが配されています。

  • セビリア大聖堂 コロンブスの柩<br />大聖堂で外せないのが、南の翼廊にあるクリストファー・コロンブスの墓です。<br />セビリアは、コロンブスが新航路探索へ出発した地でもあり、帰国凱旋を行なった場所でもあります。コロンブスのミイラが入れられた柩は、4体の像に担がれています。この像は当時スペインを構成していた4国(カスティーリャ、アラゴン、ナヴァラ、レオン)の国王を象徴したもので、各国の結び付きの強さを表わしています。このようにスペインに富をもたらしたコロンブスは、まさに国家のヒーロー的存在です。しかしコロンブスの出身は、イタリアのジェノバなのですが・・・。<br /><br />新大陸発見を祝賀する席で、コロンブスの成功を妬んだ輩が「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」と蔑みました。それに対してコロンブスは、「この卵を机に立ててもらえないか」と言い、誰もできなかった後、卵の尻を軽く机に叩いてへこませてから立てました。「そんな方法なら誰でもできる」と言う輩に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と返しました。これが「コロンブスの卵」の逸話であり、「誰でもできる事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」や「逆転の発想」という意の故事として今日でも良く使われていますが、逸話自体は後世の創作だそうです。

    セビリア大聖堂 コロンブスの柩
    大聖堂で外せないのが、南の翼廊にあるクリストファー・コロンブスの墓です。
    セビリアは、コロンブスが新航路探索へ出発した地でもあり、帰国凱旋を行なった場所でもあります。コロンブスのミイラが入れられた柩は、4体の像に担がれています。この像は当時スペインを構成していた4国(カスティーリャ、アラゴン、ナヴァラ、レオン)の国王を象徴したもので、各国の結び付きの強さを表わしています。このようにスペインに富をもたらしたコロンブスは、まさに国家のヒーロー的存在です。しかしコロンブスの出身は、イタリアのジェノバなのですが・・・。

    新大陸発見を祝賀する席で、コロンブスの成功を妬んだ輩が「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」と蔑みました。それに対してコロンブスは、「この卵を机に立ててもらえないか」と言い、誰もできなかった後、卵の尻を軽く机に叩いてへこませてから立てました。「そんな方法なら誰でもできる」と言う輩に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と返しました。これが「コロンブスの卵」の逸話であり、「誰でもできる事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」や「逆転の発想」という意の故事として今日でも良く使われていますが、逸話自体は後世の創作だそうです。

  • セビリア大聖堂 コロンブスの柩<br />柩の裏側には、スペインの紋章が描かれています。<br />コロンブスは、大航海時代にスペインの援助を受け新大陸を発見し、スペインに巨万の富をもたらした立役者です。<br />1492年、コロンブスはグラナダを攻略してレコンキスタを終えたカトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)の資金援助を受けて、船団を率いて出航しました。彼は、大西洋を横断する4回の航海で新大陸に到達するという快挙を成し遂げました。しかし、彼は発見した島々の統治に失敗して失脚し、不遇な晩年を送っています。彼は最後まで、自分が発見した新大陸(アメリカ大陸)をインドだと信じて疑わなかったそうです。<br />しかし、新大陸では莫大な金銀が発掘され、その恩恵でセビリアは新大陸貿易の拠点として空前の繁栄を極めました。15~17世紀には、全ヨーロッパの供給量の1/5に当たる18万トンの黄金と全ヨーロッパの保有量の3倍に当たる160万トンの銀がセビリアを経由してヨーロッパ各地に流れ込みました。<br />この莫大な金銀は、ハプスブルク家のカルロス1世とその息子フェリペ2世が統治するスペイン王国の覇権を支えました。しかし、やがて相次ぐ戦争やペストの流行によってセビリアは荒廃していきます。こうした状況の中、17世紀以降のセビリアでは、心の拠り所として聖母マリア信仰が盛んになっていったのです。この大聖堂の内部にも、聖母マリアが祀られた祭壇が多数あります。

    セビリア大聖堂 コロンブスの柩
    柩の裏側には、スペインの紋章が描かれています。
    コロンブスは、大航海時代にスペインの援助を受け新大陸を発見し、スペインに巨万の富をもたらした立役者です。
    1492年、コロンブスはグラナダを攻略してレコンキスタを終えたカトリック両王(フェルナンド王とイサベル女王)の資金援助を受けて、船団を率いて出航しました。彼は、大西洋を横断する4回の航海で新大陸に到達するという快挙を成し遂げました。しかし、彼は発見した島々の統治に失敗して失脚し、不遇な晩年を送っています。彼は最後まで、自分が発見した新大陸(アメリカ大陸)をインドだと信じて疑わなかったそうです。
    しかし、新大陸では莫大な金銀が発掘され、その恩恵でセビリアは新大陸貿易の拠点として空前の繁栄を極めました。15~17世紀には、全ヨーロッパの供給量の1/5に当たる18万トンの黄金と全ヨーロッパの保有量の3倍に当たる160万トンの銀がセビリアを経由してヨーロッパ各地に流れ込みました。
    この莫大な金銀は、ハプスブルク家のカルロス1世とその息子フェリペ2世が統治するスペイン王国の覇権を支えました。しかし、やがて相次ぐ戦争やペストの流行によってセビリアは荒廃していきます。こうした状況の中、17世紀以降のセビリアでは、心の拠り所として聖母マリア信仰が盛んになっていったのです。この大聖堂の内部にも、聖母マリアが祀られた祭壇が多数あります。

  • セビリア大聖堂 コロンブスの柩<br />前列向かって右側の王は、十字架の付いた槍でザクロを刺しています。ザクロはスペイン語でグラナダ(イスラム勢力)を象徴した図象のため、キリスト勢力がレコンキスタによってグラナダからイスラム勢力を追いやったことを意味しています。<br /><br />晩年は不遇のまま1506年にスペインのバジャドリッドで病没したコロンブスの遺骨は、このセビリア大聖堂に納められたそうです。しかしその後、彼の遺骨は各地を転々と彷徨いました。1542年にドミニカ共和国のエスパニョーラ島にあるサント・ドミンゴ教会に移され、1795年には仏西戦争でフランス軍がエスパニョーラ島を占領し、今度はキューバのハバナに移されました。そして1892年の米西戦争で植民地キューバを失った際にスペインに持ち帰られ、1902年に再びこのセビリア大聖堂に戻されたそうです。近年、柩の内容物のDNA鑑定が行われ、コロンブス本人と認められたそうです。<br />何故遺骨がドミニカ共和国にあったかと言うと、コロンブスが生前に残した遺書でエスパニョーラ島に埋葬されることを望んだからです。コロンブスは大西洋を苦労して航海してバハマ諸島に到着し、その後カリブ海に面するエスパニョーラ島に辿り着いたという経緯があり、彼にとって忘れられない場所だったのでしょう。

    セビリア大聖堂 コロンブスの柩
    前列向かって右側の王は、十字架の付いた槍でザクロを刺しています。ザクロはスペイン語でグラナダ(イスラム勢力)を象徴した図象のため、キリスト勢力がレコンキスタによってグラナダからイスラム勢力を追いやったことを意味しています。

    晩年は不遇のまま1506年にスペインのバジャドリッドで病没したコロンブスの遺骨は、このセビリア大聖堂に納められたそうです。しかしその後、彼の遺骨は各地を転々と彷徨いました。1542年にドミニカ共和国のエスパニョーラ島にあるサント・ドミンゴ教会に移され、1795年には仏西戦争でフランス軍がエスパニョーラ島を占領し、今度はキューバのハバナに移されました。そして1892年の米西戦争で植民地キューバを失った際にスペインに持ち帰られ、1902年に再びこのセビリア大聖堂に戻されたそうです。近年、柩の内容物のDNA鑑定が行われ、コロンブス本人と認められたそうです。
    何故遺骨がドミニカ共和国にあったかと言うと、コロンブスが生前に残した遺書でエスパニョーラ島に埋葬されることを望んだからです。コロンブスは大西洋を苦労して航海してバハマ諸島に到着し、その後カリブ海に面するエスパニョーラ島に辿り着いたという経緯があり、彼にとって忘れられない場所だったのでしょう。

  • セビリア大聖堂 <br />1555年に制作されたステンドグラスのようです。<br />細か過ぎて全体像が掴み難いのですが、「受胎告知」でしょうか?<br /><br />ヒラルダの塔登頂組みと合流した後、案内されたのは、銀の祭壇、黄金色の木製祭壇、聖歌隊席、コロンブスの柩、特別展示場、最後がサン・アントニオ礼拝堂でした。その内、それらしき説明があったのはコロンブスの柩とサン・アントニオ礼拝堂だけでした。塔に登る時間も含めて滞在時間45分ではやむをえないかもしれません。逆に現地ガイドさんの方が犠牲者なのかもしれません。<br />ですからツアーの場合は、塔に登るか、その間に聖堂の要所を回るか決めておかれることをお勧めします。実は案内されなかった聖杯の礼拝堂や主聖具納室、参事会室(サーラ・カピトラル)は主祭壇に次ぐ見所なのですが、ここは案内してもらえるだろうと思っていたためフリータイムに回らず、結局見逃してしまいました。ムリーリョやスルバランの『無原罪のお宿り』やゴヤの『聖フスタと聖ルフィーナ』があります。ひょっとしたら、外壁が工事中だったので立ち入り禁止になっていたのかもしれませんが・・・。そう言えば南側は人も疎らだったような気もします。

    セビリア大聖堂
    1555年に制作されたステンドグラスのようです。
    細か過ぎて全体像が掴み難いのですが、「受胎告知」でしょうか?

    ヒラルダの塔登頂組みと合流した後、案内されたのは、銀の祭壇、黄金色の木製祭壇、聖歌隊席、コロンブスの柩、特別展示場、最後がサン・アントニオ礼拝堂でした。その内、それらしき説明があったのはコロンブスの柩とサン・アントニオ礼拝堂だけでした。塔に登る時間も含めて滞在時間45分ではやむをえないかもしれません。逆に現地ガイドさんの方が犠牲者なのかもしれません。
    ですからツアーの場合は、塔に登るか、その間に聖堂の要所を回るか決めておかれることをお勧めします。実は案内されなかった聖杯の礼拝堂や主聖具納室、参事会室(サーラ・カピトラル)は主祭壇に次ぐ見所なのですが、ここは案内してもらえるだろうと思っていたためフリータイムに回らず、結局見逃してしまいました。ムリーリョやスルバランの『無原罪のお宿り』やゴヤの『聖フスタと聖ルフィーナ』があります。ひょっとしたら、外壁が工事中だったので立ち入り禁止になっていたのかもしれませんが・・・。そう言えば南側は人も疎らだったような気もします。

  • セビリア大聖堂 銀の祭壇<br />コロンブスの墓から後方を振り返ると、北の翼廊には大きな銀の祭壇が鎮座しています。巨大な王冠や聖母マリア像、聖人イシドロ像などが配された豪華絢爛な祭壇です。<br />コロンブスの墓と銀の祭壇の上部には、共に円形のステンドグラスが嵌め込まれており、北の翼廊側は「イエスの復活」のようです。

    セビリア大聖堂 銀の祭壇
    コロンブスの墓から後方を振り返ると、北の翼廊には大きな銀の祭壇が鎮座しています。巨大な王冠や聖母マリア像、聖人イシドロ像などが配された豪華絢爛な祭壇です。
    コロンブスの墓と銀の祭壇の上部には、共に円形のステンドグラスが嵌め込まれており、北の翼廊側は「イエスの復活」のようです。

  • セビリア大聖堂 銀の祭壇<br />強烈なナトリウム・ランプのせいで金色にしか見えませんが、祭壇全体で銀が2.5トンも使われているそうです。<br />この教会は、ステンドグラスが沢山あって採光が潤沢のように思われるかもしれませんが、表面積に占めるステンドグラスの割合は低く、ライトがないと暗すぎて足元がおぼつかなくなるそうです。その反動でここまでライトアップしてしまったようです。<br />荘厳かつ静謐な聖堂を期待したのですが、きんきら金で興醒めの場所も少なからずありました。一方、暗過ぎて見辛い礼拝堂も沢山あります。照明のバランスが悪いのは、照明デザイナーの偏見なのでしょうか?

    セビリア大聖堂 銀の祭壇
    強烈なナトリウム・ランプのせいで金色にしか見えませんが、祭壇全体で銀が2.5トンも使われているそうです。
    この教会は、ステンドグラスが沢山あって採光が潤沢のように思われるかもしれませんが、表面積に占めるステンドグラスの割合は低く、ライトがないと暗すぎて足元がおぼつかなくなるそうです。その反動でここまでライトアップしてしまったようです。
    荘厳かつ静謐な聖堂を期待したのですが、きんきら金で興醒めの場所も少なからずありました。一方、暗過ぎて見辛い礼拝堂も沢山あります。照明のバランスが悪いのは、照明デザイナーの偏見なのでしょうか?

  • セビリア大聖堂 <br />壮麗な雰囲気を醸し出しだす無数のステンドグラスの中で、どことなくイスラムの香りを漂わせる形をしたステンドグラスです。イスラム系の職人の手によるものなのでしょうか?<br />しかしステンドグラスにまでナトリウム・ランプを照射するのはいかがなものでしょうか?オレンジ色がスペイン人の好みなのでしょうか?

    セビリア大聖堂
    壮麗な雰囲気を醸し出しだす無数のステンドグラスの中で、どことなくイスラムの香りを漂わせる形をしたステンドグラスです。イスラム系の職人の手によるものなのでしょうか?
    しかしステンドグラスにまでナトリウム・ランプを照射するのはいかがなものでしょうか?オレンジ色がスペイン人の好みなのでしょうか?

  • セビリア大聖堂 特別展示場<br />現地ガイドさんの説明では、「ピエタ」に関する聖堂の所蔵品の幾らかがここに特別に展示されているとのことでした。博物館に展示された仏像も同様ですが、本来あるべき場所にないと味気ないものになってしまうことが多々あります。周りの雰囲気とセットで愛でるはずのものですから・・・。<br /><br />聖母マリアの祭壇にある、セビリア生まれの彫刻家フアン・マルティネス・モンタネスが1628~31年に制作した『無原罪のお宿り』です。作品は、精神的には画家スルバランの作風に近いような気がします。スルバランはスペイン絵画の黄金時代の画家で、作品には深い宗教的感情が表現されているのが特徴です。カラヴァッジオのような明暗の劇的な対比を見せた作品もあります。<br />伏せられた視線に仄かに頬が赤く染まり、その美しさ故に、深層心理が滲み出ています。また、折り重なるドレープの襞やモス・グリーンの色彩も卓越しています。<br />しかし本来背後にあるべき黄金細工の壁龕がないため、「なんだかな~」のものに映っているような気がします。祭壇では衆目を集めたことでしょうが、ここでは誰も立ち止まりません。こうして写真を撮るのも憚られるほどです。やっぱり本来の場所に置かれたものが一番神々しいと思います。<br />ところで、「無原罪のお宿り」は「ピエタ」ではないのですが・・・。恐らく、ガイドさんの勘違いだと思います。

    セビリア大聖堂 特別展示場
    現地ガイドさんの説明では、「ピエタ」に関する聖堂の所蔵品の幾らかがここに特別に展示されているとのことでした。博物館に展示された仏像も同様ですが、本来あるべき場所にないと味気ないものになってしまうことが多々あります。周りの雰囲気とセットで愛でるはずのものですから・・・。

    聖母マリアの祭壇にある、セビリア生まれの彫刻家フアン・マルティネス・モンタネスが1628~31年に制作した『無原罪のお宿り』です。作品は、精神的には画家スルバランの作風に近いような気がします。スルバランはスペイン絵画の黄金時代の画家で、作品には深い宗教的感情が表現されているのが特徴です。カラヴァッジオのような明暗の劇的な対比を見せた作品もあります。
    伏せられた視線に仄かに頬が赤く染まり、その美しさ故に、深層心理が滲み出ています。また、折り重なるドレープの襞やモス・グリーンの色彩も卓越しています。
    しかし本来背後にあるべき黄金細工の壁龕がないため、「なんだかな~」のものに映っているような気がします。祭壇では衆目を集めたことでしょうが、ここでは誰も立ち止まりません。こうして写真を撮るのも憚られるほどです。やっぱり本来の場所に置かれたものが一番神々しいと思います。
    ところで、「無原罪のお宿り」は「ピエタ」ではないのですが・・・。恐らく、ガイドさんの勘違いだと思います。

  • セビリア大聖堂 特別展示場<br />身廊奥内陣部にある聖歌隊席の裏側のルネッサンス様式の障壁です。その奥が黄金色の木製祭壇になります。<br />手前にあるのは特別展の「イエス磔刑」像ですが、本来は重みのある作品なのでしょうが、貧相なものにしか映りません。

    セビリア大聖堂 特別展示場
    身廊奥内陣部にある聖歌隊席の裏側のルネッサンス様式の障壁です。その奥が黄金色の木製祭壇になります。
    手前にあるのは特別展の「イエス磔刑」像ですが、本来は重みのある作品なのでしょうが、貧相なものにしか映りません。

  • セビリア大聖堂 聖母被昇天の扉のステンドグラス<br />特別な時にしか開けられない「聖母被昇天の扉」は、世界でローマ教皇とスペイン国王だけの2人専用の扉です。<br />その扉の上に設けられたステンドグラスは、柔らかな光を聖堂内に迎え入れています。このバラ窓の中心には、四福音書記(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)が配されています。<br />ここもナトリウム・ランプがきつく残念なことになっています。ステンドグラスは周りを暗くした方が鮮やかに見えるような気がしますが・・・。

    セビリア大聖堂 聖母被昇天の扉のステンドグラス
    特別な時にしか開けられない「聖母被昇天の扉」は、世界でローマ教皇とスペイン国王だけの2人専用の扉です。
    その扉の上に設けられたステンドグラスは、柔らかな光を聖堂内に迎え入れています。このバラ窓の中心には、四福音書記(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)が配されています。
    ここもナトリウム・ランプがきつく残念なことになっています。ステンドグラスは周りを暗くした方が鮮やかに見えるような気がしますが・・・。

  • セビリア大聖堂 サン・アントニオ礼拝堂<br />この礼拝堂にも宗教画が多数展示されており、中でもムリーリョ作『サン・アントニウスの幻視』は見逃せない作品のひとつです。サン・アントニオ(パドヴァ)司祭教会博士の前に幼子イエスが出現した図です。ムリーリョは、画家100選にも掲載されず、日本ではあまり名の通った画家ではありませんが、スペインでの人気は絶大です。彼の作品は、甘美な表情の聖母像や愛らしい子どもの絵が特徴的です。「スペインのラファエロ」と称されるのも判る気がします。<br />描かれているのは、ポルトガル出身でイタリアのパドヴァで活躍した「パドヴァのサン.アントニオ」と称されるフランシスコ会の聖人です。15歳でアウグスチノ会に入って司祭となり、後にフランシスコ会に入り、志願して北アフリカのモロッコに渡り、決死の宣教活動をした方だそうです。病気による帰国後に便説を認められ、説教活動で福音を広めたと言われています。36歳で亡くなり、遺骸はパドヴァの聖堂に葬られたそうですが、その墓で多くの奇跡を起こしたそうです。こちらの聖人は何故か紛失物を捜す時の神様や婚姻・花嫁の守護の聖人として知られているようです。<br />上段が『バプテスマ(洗礼者)のヨハネによるイエスの水の洗礼』です。<br />写真を撮っている当方の背後には、ムリーリョ『聖母子とルイス・トリスタン『三位一体』があります。

    セビリア大聖堂 サン・アントニオ礼拝堂
    この礼拝堂にも宗教画が多数展示されており、中でもムリーリョ作『サン・アントニウスの幻視』は見逃せない作品のひとつです。サン・アントニオ(パドヴァ)司祭教会博士の前に幼子イエスが出現した図です。 ムリーリョは、画家100選にも掲載されず、日本ではあまり名の通った画家ではありませんが、スペインでの人気は絶大です。彼の作品は、甘美な表情の聖母像や愛らしい子どもの絵が特徴的です。「スペインのラファエロ」と称されるのも判る気がします。
    描かれているのは、ポルトガル出身でイタリアのパドヴァで活躍した「パドヴァのサン.アントニオ」と称されるフランシスコ会の聖人です。15歳でアウグスチノ会に入って司祭となり、後にフランシスコ会に入り、志願して北アフリカのモロッコに渡り、決死の宣教活動をした方だそうです。病気による帰国後に便説を認められ、説教活動で福音を広めたと言われています。 36歳で亡くなり、遺骸はパドヴァの聖堂に葬られたそうですが、その墓で多くの奇跡を起こしたそうです。こちらの聖人は何故か紛失物を捜す時の神様や婚姻・花嫁の守護の聖人として知られているようです。
    上段が『バプテスマ(洗礼者)のヨハネによるイエスの水の洗礼』です。
    写真を撮っている当方の背後には、ムリーリョ『聖母子とルイス・トリスタン『三位一体』があります。

  • セビリア大聖堂 サン・アントニオ礼拝堂<br />ここに祀られているサン・アントニオは、捜し物の聖人だけでなく、婚姻・花嫁の守護聖人でもあります。そのために1874年に絵画の右下のサン・アントニオの部分だけが切り取られて盗まれるという憂き目に遭いましたが、翌年、ニューヨークで発見され無事に戻ってきたそうです。スペイン移民の男がムリーリョの絵の部分だと言ってニューヨークの美術館に売ろうとし、美術館はこの男に250ドルで購入すると伝える一方、スペイン領事館に通報したそうです。確かによく見ると無惨にもサン・アントニオの頭上に傷うぃ修正した跡が見られます。<br /><br />ムリーリョは、正式名をバルトロメ・エステバン・ムリーリョと言い、セビリアに生まれセビリアで亡くなった、17世紀のスペイン絵画の黄金期を代表する画家です。マドリードでも活躍しましたが、セビリアに戻って美術アカデミーを創設し、画業と教育に尽力し、マドリードの宮廷から呼ばれてもセビリアを出ることを肯んじなかったそうです。その彼が64歳にしてアンダルシアのカディスにあるカプチーノ派修道院のために祭壇画『聖カテリーナの神秘の結婚』、その他の絵を描く仕事を請け負いセビリアを出ました。そして完成直前に足場から落ちて重傷を負い、這うようにしてセビリアに戻り、そのまま亡くなったとのことです。<br />どこかセビリアとの強い因縁を感じさせる逸話です。

    セビリア大聖堂 サン・アントニオ礼拝堂
    ここに祀られているサン・アントニオは、捜し物の聖人だけでなく、婚姻・花嫁の守護聖人でもあります。そのために1874年に絵画の右下のサン・アントニオの部分だけが切り取られて盗まれるという憂き目に遭いましたが、翌年、ニューヨークで発見され無事に戻ってきたそうです。スペイン移民の男がムリーリョの絵の部分だと言ってニューヨークの美術館に売ろうとし、美術館はこの男に250ドルで購入すると伝える一方、スペイン領事館に通報したそうです。確かによく見ると無惨にもサン・アントニオの頭上に傷うぃ修正した跡が見られます。

    ムリーリョは、正式名をバルトロメ・エステバン・ムリーリョと言い、セビリアに生まれセビリアで亡くなった、17世紀のスペイン絵画の黄金期を代表する画家です。マドリードでも活躍しましたが、セビリアに戻って美術アカデミーを創設し、画業と教育に尽力し、マドリードの宮廷から呼ばれてもセビリアを出ることを肯んじなかったそうです。その彼が64歳にしてアンダルシアのカディスにあるカプチーノ派修道院のために祭壇画『聖カテリーナの神秘の結婚』、その他の絵を描く仕事を請け負いセビリアを出ました。そして完成直前に足場から落ちて重傷を負い、這うようにしてセビリアに戻り、そのまま亡くなったとのことです。
    どこかセビリアとの強い因縁を感じさせる逸話です。

  • セビリア大聖堂 サン・アントニオ礼拝堂 ステンドグラス(1686年作)<br />聖フスタと聖ルフィーナ姉妹、ヒラルダの塔が描かれたステンドグラスが嵌め込まれています。<br />2人はセビリアの守護聖人で、1504、1655、1755年の3度のセビリア大地震の際にこの2人が突然現れ、倒れかかったヒラルダの塔を支えたという伝説があります。<br />頭上に天使を載せた2人の聖人の間に描かれているのは、彼女らが支えて倒壊から守ったと伝えられるヒラルダの塔です。<br />3世紀 、セビリア出身の陶工の姉妹フスタとルフィーナは、ローマ司祭に命じられた異教礼拝用の供物制作を拒んだために虐待を受けて殉死しました。そのため、手にシュロの葉と陶器を持たせた図象のものが多いようです。ここでは、塔の左下に陶器が置かれています。<br />ルフィーナはライオンが放たれた競技場に放り出されましたが、ライオンはまるでペットのように尾を振り彼女の足元に大人しく踞りました。それを見たローマ司祭は怒り狂い、 断頭の末に遺体を焼き捨てました。ルフィーナの足元に時々ライオンが描かれているのはこの逸話によります。

    セビリア大聖堂 サン・アントニオ礼拝堂 ステンドグラス(1686年作)
    聖フスタと聖ルフィーナ姉妹、ヒラルダの塔が描かれたステンドグラスが嵌め込まれています。
    2人はセビリアの守護聖人で、1504、1655、1755年の3度のセビリア大地震の際にこの2人が突然現れ、倒れかかったヒラルダの塔を支えたという伝説があります。
    頭上に天使を載せた2人の聖人の間に描かれているのは、彼女らが支えて倒壊から守ったと伝えられるヒラルダの塔です。
    3世紀 、セビリア出身の陶工の姉妹フスタとルフィーナは、ローマ司祭に命じられた異教礼拝用の供物制作を拒んだために虐待を受けて殉死しました。そのため、手にシュロの葉と陶器を持たせた図象のものが多いようです。ここでは、塔の左下に陶器が置かれています。
    ルフィーナはライオンが放たれた競技場に放り出されましたが、ライオンはまるでペットのように尾を振り彼女の足元に大人しく踞りました。それを見たローマ司祭は怒り狂い、 断頭の末に遺体を焼き捨てました。ルフィーナの足元に時々ライオンが描かれているのはこの逸話によります。

  • セビリア大聖堂 北の翼廊<br />南北の翼廊は、左右に小さな尖塔を持ち、バラ窓がシンボルになっています。ここにある門は「王子たちの扉」と呼ばれています。<br />大聖堂の石の色とオレンジの木の緑がコントラストを創り、大聖堂の北の翼廊とヒラルダの塔を間近で見ることができます。<br />外壁の装飾はとても複雑怪奇なものになっており、ムデハル様式の面目躍如と言えます。一部、崩落のためか網が被せられていますが、イスラム建築に見られるアイアン・ワークの柄を彷彿とさせる繊細さです。

    セビリア大聖堂 北の翼廊
    南北の翼廊は、左右に小さな尖塔を持ち、バラ窓がシンボルになっています。ここにある門は「王子たちの扉」と呼ばれています。
    大聖堂の石の色とオレンジの木の緑がコントラストを創り、大聖堂の北の翼廊とヒラルダの塔を間近で見ることができます。
    外壁の装飾はとても複雑怪奇なものになっており、ムデハル様式の面目躍如と言えます。一部、崩落のためか網が被せられていますが、イスラム建築に見られるアイアン・ワークの柄を彷彿とさせる繊細さです。

  • セビリア大聖堂 北の翼廊<br />逆光を積極的に利用してシルエットにしてみました。

    セビリア大聖堂 北の翼廊
    逆光を積極的に利用してシルエットにしてみました。

  • セビリア大聖堂 オレンジの中庭<br />ぺルドン門の手前にはオレンジの中庭が広がっています。ここはイスラム教徒のモスクが建っていた頃の名残です。規則正しく配列されたオレンジの木とオアシスとなる水盤が数ヶ所設けられています。オレンジの木はレコンキスタ後にキリスト教になってから植樹されたもので、そこから名が付けられています。また、水はけを良くするために溝が縦横無尽に設けられています。<br />モスクにおいては、中庭は重要な役割を持っています。中央には八角形の噴水があり礼拝前に身を清める場所であると同時に、来世である天国を表現するのが中庭の役割とされます。その起源はアダムとイヴが暮らした楽園とされていますが、イスラム教の天国の楽園は、多様な木々が生い茂り、泉が湧き出し、果実がたわわに実るという理想郷を指すそうです。

    セビリア大聖堂 オレンジの中庭
    ぺルドン門の手前にはオレンジの中庭が広がっています。ここはイスラム教徒のモスクが建っていた頃の名残です。規則正しく配列されたオレンジの木とオアシスとなる水盤が数ヶ所設けられています。オレンジの木はレコンキスタ後にキリスト教になってから植樹されたもので、そこから名が付けられています。また、水はけを良くするために溝が縦横無尽に設けられています。
    モスクにおいては、中庭は重要な役割を持っています。中央には八角形の噴水があり礼拝前に身を清める場所であると同時に、来世である天国を表現するのが中庭の役割とされます。その起源はアダムとイヴが暮らした楽園とされていますが、イスラム教の天国の楽園は、多様な木々が生い茂り、泉が湧き出し、果実がたわわに実るという理想郷を指すそうです。

  • セビリア大聖堂 ペルドン門(免罪の門)<br />北側にあるペルドン門から退場して大聖堂の見学は終了です。<br />ペルドン門のアーチ部分は、モスク時代の名残である馬蹄形アーチが残されています。手前のアーチの内周に施された繊細な彫刻は見応え充分です。

    セビリア大聖堂 ペルドン門(免罪の門)
    北側にあるペルドン門から退場して大聖堂の見学は終了です。
    ペルドン門のアーチ部分は、モスク時代の名残である馬蹄形アーチが残されています。手前のアーチの内周に施された繊細な彫刻は見応え充分です。

  • セビリア大聖堂 ペルドン門<br />門の外側は、5世紀に亘ってキリスト教の像や彫刻などが付け加えられ、イスラムとキリスト教が仲良く同居する世界となっています。<br />世の中もこうあって欲しいものです。

    セビリア大聖堂 ペルドン門
    門の外側は、5世紀に亘ってキリスト教の像や彫刻などが付け加えられ、イスラムとキリスト教が仲良く同居する世界となっています。
    世の中もこうあって欲しいものです。

  • 黄金の塔<br />バスを待つ間に黄金の塔を撮りました。<br />セビリアの街中を流れるグアダルキビール川沿いに立つ正12角形の塔で、各面は12方位を指しています。バダホスにあるエスパンタペロス塔をモデルに設計され、その塔は1220年のアルモハッド時代にモーロ人が建造した軍事用の塔で、検問や防衛の役割を担っていました。<br />黄金の塔は、かつては金色の陶器パネルで覆われ、この反射によって黄金色に見えたことからこの名があります。2連のブラインドアーチの列と胸壁とが全体を引き締める視覚効果を果たしています。中程から下にある窓は後世に加えられたもので、往時は矢狭間があるだけだったそうです。天辺の小さな円塔と円蓋も後世のものです。<br />往時は対岸にも要塞だった銀色の塔があり、その間に太い鉄鎖を渡して夜間に敵の船から奇襲をかけられないようにし、昼間はその鎖を川底に沈めて船を航行させていたそうです。<br />実は、かのマゼランの世界一周の航海は、何とこの地から始まったそうです。そんな経緯もあり、現在は船舶博物館として使用され、塔の上からは街の景色が一望できます。奥の方にはマエストランサ闘牛場もあります。<br />

    黄金の塔
    バスを待つ間に黄金の塔を撮りました。
    セビリアの街中を流れるグアダルキビール川沿いに立つ正12角形の塔で、各面は12方位を指しています。バダホスにあるエスパンタペロス塔をモデルに設計され、その塔は1220年のアルモハッド時代にモーロ人が建造した軍事用の塔で、検問や防衛の役割を担っていました。
    黄金の塔は、かつては金色の陶器パネルで覆われ、この反射によって黄金色に見えたことからこの名があります。2連のブラインドアーチの列と胸壁とが全体を引き締める視覚効果を果たしています。中程から下にある窓は後世に加えられたもので、往時は矢狭間があるだけだったそうです。天辺の小さな円塔と円蓋も後世のものです。
    往時は対岸にも要塞だった銀色の塔があり、その間に太い鉄鎖を渡して夜間に敵の船から奇襲をかけられないようにし、昼間はその鎖を川底に沈めて船を航行させていたそうです。
    実は、かのマゼランの世界一周の航海は、何とこの地から始まったそうです。そんな経緯もあり、現在は船舶博物館として使用され、塔の上からは街の景色が一望できます。奥の方にはマエストランサ闘牛場もあります。

  • 黄金の塔<br />現在の景観からは往時の緊迫した様子を想像することは難しいですが、中世の時代には、牢獄に使われたり、また建築物自身のセキュリティーの高さが買われ、16世紀初頭にはスペイン無敵艦隊アルマーダによって新大陸から運ばれた金や銀等の金属類を保管する倉庫でもあったそうです。<br />また、この塔は、2度の取り崩し計画に遭っています。1度目は、1755年のリスボア地震の後、少々崩れかけた塔を当時の侯爵が塔の脇を走る道幅を広げようと塔の取り壊しを提案したものです。しかし、市民の猛反対に合い、やがて国王までもが反対したため、取り止めとなったそうです。<br />2度目は1868年のスペイン名誉革命時、塔自体が売却されそうになりましたが、やはり市民の猛反対を受け、取り止めとなっています。<br />長い歴史を乗り越えて今は寡黙にセビリアの景観にもたげたその姿は、悲哀に満ちていますが美しいものです。<br /><br />この続きは、ときめきのスペイン周遊⑮コルドバ(前編)にてお届けいたします。

    黄金の塔
    現在の景観からは往時の緊迫した様子を想像することは難しいですが、中世の時代には、牢獄に使われたり、また建築物自身のセキュリティーの高さが買われ、16世紀初頭にはスペイン無敵艦隊アルマーダによって新大陸から運ばれた金や銀等の金属類を保管する倉庫でもあったそうです。
    また、この塔は、2度の取り崩し計画に遭っています。1度目は、1755年のリスボア地震の後、少々崩れかけた塔を当時の侯爵が塔の脇を走る道幅を広げようと塔の取り壊しを提案したものです。しかし、市民の猛反対に合い、やがて国王までもが反対したため、取り止めとなったそうです。
    2度目は1868年のスペイン名誉革命時、塔自体が売却されそうになりましたが、やはり市民の猛反対を受け、取り止めとなっています。
    長い歴史を乗り越えて今は寡黙にセビリアの景観にもたげたその姿は、悲哀に満ちていますが美しいものです。

    この続きは、ときめきのスペイン周遊⑮コルドバ(前編)にてお届けいたします。

この旅行記のタグ

968いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

スペインで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
スペイン最安 373円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

スペインの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから海外旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP