2015/05/07 - 2015/05/07
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
午前中回った4つの教会はどこも甲乙つけがたく、大満足。ここトラステヴェレには、他にも聖ピエトロが処刑されたジャニコロの丘や途中にあるパオラの泉、彼を祀ったサン・ピエトロ・イン・モントーリオ教会、ルネッサンス期のフレスコが見れるファルネジーナ荘など、まだ行きたい場所が沢山あるのですが、これらはあるかどうかわからない次回に回すことにして、先に参りましょう。ひんやりした聖堂内から一歩出ると、そこは真夏のローマでした!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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わあ〜なんて暑いんでしょう! 5月の初めだというのに、完全に30度は超えているようです。日差しが半端じゃなく眩しくて、サングラスがないと、目を開けていられません。
それはそうと、今回ローマで目立ったのは、工事中のシートがかかった建物。急にスポンサーがついたんだという話も聞きましたが、写真を撮りたいと思ってはるばるやってきた者にとってはがっかりですよね。
トレヴィの泉、スペイン階段上のトリニタ・ディ・モンティ教会、そしてコロッセオ等々 工事は夏のシーズンまでに終わる予定なのか、来年までかかるのか、詳しくはわかりませんが、町中至る所がシートで覆われていました。 -
必ず未練がましく、後ろを振り返るのが私のくせです。1702年にカルロ・フォンタナが修復したポルティコの列柱、そしてその時付け加えられた4聖人の像を再度眺めます。
こちらに埋葬されていて、華麗なる後陣のモザイクにも登場していた、教皇カリストゥス1世、教皇コルネリウス、教皇ユリウス1世に聖カレポディオ(=カレポディウス)の面々です。 -
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレのすぐ近くに、あるブログで見た
The smallest house in Rome, Trastevereがあったので、寄ってみました。 本当にここが一番小さいのかどうかは確かではありませんが、2階建て自体が殆ど見当たらない地域なので、小人の家のように見えます。植木鉢が沢山置いてあり、生活の匂いがするのが良いですね。中世のフレスコ画が描かれているニッチが建物のアクセントになっています。 -
こちらは、歩いている途中に出くわしたサン・ガッリカノ教会。同名の皮膚疾患治療で有名な病院付属の教会です。観光には無縁の教会ですが、こんな「伝説」が隠されていました。
ローマ・ペルシャ戦争における勇猛な将軍だったガッリカノは、キリスト教に改宗した後引退し、土地を寄付し、病院を設立し、皇帝コンスタンティヌス1世(キリスト教を最初に公認したローマの皇帝)時代に教会を寄贈しました。しかし、異教復興を掲げ、キリスト教への優遇を改めた次の皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスの時代にエジプトに追放され、砂漠での隠遁生活の末362年に亡くなりました。
これを伝え聞いた後の時代の人々が、彼の名誉を回復させ、1729年、トラステヴェレに彼の名を冠した病院と小さな教会を建設しました。祭壇画に登場するのは、聖母子、聖ガッリカノ、そして3人の患者だそうです。 -
疲れたので、一休みがてら食事でもしようかなと、トラステヴェレ大通りに向かっている間に、見つけてしまいました。イタリアで見かけた行列の第1号。ラ カーザ デル・スップリという惣菜店。あまり目立たないお店ですが、狭い店内押すな押すなの大盛況。ちょっとためらいましたが、10分ほど並んで、なんとかピッツァとアランチーニをゲットしました! ピッツァが一切れ2ユーロ、アランチーニが1個1ユーロという安さ。
そして食べてびっくりです。お、美味しい!ピッツァの方は、気がつけばあっという間にお腹の中に。アランチーニは、チキンライスのコロッケという感じ。ゆっくり休もうと思ったのに、立ち食いになってしまいました。見かけたら、行列する価値ありです。安くて旨い下町の味と言ったところかな。
見苦しい写真で御免なさいね。 -
スップリは、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂とフランチェスコ・ア・リーパ教会を結ぶvia San Francesco a Ripa沿いにあります。
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ローマを北から南へと流れるテレヴェ川にやってきました。イタリア第二の大河で、サン・ピエトロ寺院から30kmほど南西のティレニア海に注いでいます。
ちょっと小さいので分かり難いと思いますが、画面奥やや右寄りに、古い橋の跡が残っています。アエミリウス橋という紀元前179年に最初に架けられた石橋で、現在残っているのは一アーチ分のみ。 -
wikipediaでフリーの写真を見つけたので転載します。
アエミリウス橋(またの名を壊れた橋、ロット橋とも言います)は、なんと2200年前の橋ということになります。橋は何度も洪水で被害を受け、中でも1557年の洪水の際には甚大な損傷を受けたようです。1598年に東側の橋桁が流されて以来、修復はされず、人々が魚釣りに使っていたという話が残っています。 -
今わたっている橋は、チェスティオ橋。この橋を渡ると、テレヴェ川の中州、ティベリーナ島に着きます。
ティベリーナ島はかつてアスクレピオス、ギリシャの医学と癒しを司る神の宮殿があった場所でした。紀元前293年、ペストの流行を受けて、ローマの元老院は、ギリシアの名医アスクレピオスゆかりの聖地エピダウロスに代表団を派遣。神殿の司祭により「神聖な蛇」を授かりました。ところが、代表団の船がここまで戻ってきた時、蛇が逃げ出し、泳いで島に渡り、穴に隠れて見えなくなってしまったのです。これは神殿を作るのに良い前兆とされました。そしてその後すぐに宮殿が建設されたそうです。
また、ここが島であり、ペストや他の病気になった者を隔離するには好都合の場所だったということも理由の一つと言われています。 -
ティベリーナ島に上陸しました。 といっても橋を渡っただけです。
この教会は、サン・バルトロメオ・アッリソラ。998年に、神聖ローマ帝国皇帝オットー3世によって建てられました。アスクレピオスの神殿は、現在教会が建っている敷地内にありました。 -
ティベリーナ島は全体が船の形をしており、ローマ人はそれを意識して、建物を建てていったようです。川上が船首、そこには「神の蛇」が巻き付いたアスクレピオスの杖のレリーフがあるそうですよ。そして今見えている小さなオベリスクがある辺りが船のマストの部分に当たります。
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強烈な太陽の日差しを幾分和らげてくれる、ローマの松は日本のそれとは姿、形が異なっていて、英語ではストーンパイン(石松?)あるいはアンブレラパイン、パラソルパインと呼ばれています。傘というよりはブロッコリーが近いかな。盆栽にしたら、意外とイケるかも・・・
ティベリーナ島の松林の向こう、教会の反対側にある建物は・・・ -
現代のアスクレピオス 病院です。この島はいまだに癒しの場所と考えられているようで、1584年設立のファーテベネフラテッリは現在も病院として機能し続けています。
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上記の建物は、比較的新しい1933年11月の建設。この建物の左奥に病院の入り口がありました。狭い道路はひっきりなしに自動車の出入りがあり、救急車の通行がままならないのが気になりました。
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こちらは、薬局が入った古い建物。FARMACIAの後にF.B.F と書かれていますが、これはファーテベネフラテッリFATE BENE FRATELLIの略称です。
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さあ、もう一つ橋を渡りましょう。先ほど渡ったチェスティオ橋から見えた、アエミリウス橋(ロット橋)は紀元前179年の作。そして今渡っている、ティベリーナ島とテヴェレ川左岸を結ぶファブリチウス橋は、現存する「通行可能な」橋としては最も古い橋。紀元前62年に作られました。名前は、最初の橋の建設者ルチオ・ファブリチウスに因んでつけられました。
ファブリチウスの名前は橋のアーチ部分に4か所描かれていて、今でもはっきりと読むことが出来ます。
この橋は別名クアトロ・カーピ(4つの頭)橋とも呼ばれています。ローマ神話の出入口と扉の神であるヤヌス(Janus 前後2つの顔を持つのが特徴)の像が一時期、二つの欄干に置かれたことによります。 -
テレヴェ川左岸、カンプス・マルティウス地区に入ってきました。別名旧ユダヤ人地区とも呼ばれています。
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テレヴェ川沿いの道を右に折れると、すぐに見えるのがこちらの遺跡。ローマ遺跡にしては新しそう。でもどこにも説明書きがありません。
何だかわからないまま、帰ってから調べてみたら、なんと、ここは16世紀のゲットーでした。ユダヤ人地区のゲットー中心部から少し離れたモンテ・サヴェッロ広場Piazza di Monte Savello脇の小さな空間に、Ghettarelloと呼ばれる小さなゲットーがあったのです。発掘が始まったのは、ごく最近1999年のことです。
1555年、教皇パウロ4世は、キリスト教徒からユダヤ人を分離するローマのゲットーを作ることを宣言しました。結果、メインのゲットーとそれより小さなGhettarelloはその年のうちに建設されました。そして1848年までの約300年の間、ユダヤ人達はその中に住むことを強制されたのです。
こちらのGhettarelloは1735年に閉鎖されましたが、発掘調査に当たったスピッツィキーノ氏によると、ローマ全体では4060人、ここGhettarelloには180家族が住んでいたとしています。調査では、16世紀の舗装、中庭への門、ユダヤのパン マッツァーを焼くオーヴン、かつての宮殿の基礎部分などを発掘しましたが、新たな資金の調達が見込めないため、残りの部分は現在も埋もれたままだそうです。 -
先に参りましょう。
円筒形の後陣が、見るからに古そうな教会はサン・ニコラ・イン・カルチェレ教会です。
ニコラというのは、日本でもサンタクロースでお馴染みの聖ニコラウス(ミラのニコラオス)。カルチェレは牢獄の意味。つまり「牢獄の聖ニコラオス教会」です。
ディオクレティアヌス帝、ガレリウス帝の時代に生きたニコラオスはキリスト教への迫害を恐れずに伝道を行ったため、捕えられ、獄につながれました。そのことと教会の名前に関連があるのか、よくわかりませんでした。ここが中世の時代に牢獄だったということも考えられますが、一切、手がかりは残されていません。 -
この教会で、ぜひとも見たかったものは、外にありました。これこれ!
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ローマ時代の神殿の柱のリサイクルです。ここは、カンピドーリオの丘の麓にあたり、古くはユピテルやユノー、ヤヌスなどの神殿が立ち並んでいた地域。
救済・守護のユノー(juno ローマ神話で女性の結婚生活を守護する女神)の神殿跡にこの教会が建てられたのは1128年。今のような建物に再建されたのは1599年だそうです。どうして、神殿が教会に転用されたのかについては、これまた謎なのですが、「あるものは何でも再利用」というのが当時のローマの人たちの考えだったようです。 -
サン・ニコラ・イン・カルチェレ教会のファサードです。
救済・守護のユノーの神殿には正面に6本の柱が立っていましたが、今見えている柱は、左から2本目と5本目です。2本とも外に出ている部分は半分のみ。後の半分は壁に塗り込められています。左端に黒く写っているのが1本目の柱なのですが、ファサードから少しずれた場所にあったので、見落としてしまいました。
鐘楼は1128年のオリジナルです。元々は要塞の見張り塔として建てられたものだったようです。 -
こちらの図をみると、3つの神殿と今の教会の位置関係がよくわかると思います。
古代、ここには3つの神殿が並んでいました。左から希望の女神の神殿(作られたのは紀元前3世紀)、救済・守護のユノーの神殿(紀元前2世紀)、2つの顔を持つヤヌスの神殿(紀元前3世紀)です。 -
教会内に、模型がありました。左側の神殿は他の二つと比べるとかなり小さいですねえ。
先ほど見た教会の外壁にリサイクルされていた6本の柱は、どうやら一番左の希望の女神の神殿で使われていた柱の一部のようです。(見逃したのですが、教会の反対側の壁にも、一番右のヤヌスの神殿の柱が同じように使われていました。)
時間の都合で、この教会の地下を見学しなかったのですが、地下に下りると、3つの神殿の一部がまだそのまま残されているのを見ることができるそうですよ。 -
身廊と側廊を隔てる柱は、ここでもサイズ、形がバラバラのリサイクル品のようです。身廊は奥の聖域に近い3本の柱のある部分が、それ以降の部分より幾分広くなっているのが見て取れますが、何か意味があるのかな?
右の奥から4本目の赤い柱は、他とは全然違う石で作られていて、大層目立ちました。トルコに近いギリシャのキオス島でとれる赤大理石だそうです。
他には、どこを見ても神殿の面影はありませんね。 -
祭壇後ろの後陣にはヴィンチェンツォ・パスカローニによるフレスコ画がありました。1865年の作。
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左側廊の礼拝堂で祭壇に飾られていたのは、なぜかメキシコで最も敬愛されているグアダルーペの聖母。
こちらは、シルクに描かれた複製品で、1773年にメキシコから送られてきたとのことです。 -
こちらは、2010年1月に私が撮ったグアダルーペの聖母像です。
1531年、メキシコのインディオ、ファン・ディエゴの前に聖母が現れ、司教に大聖堂を建ててほしいと伝えるよう、ディエゴに話したとされています。彼が聖母を見たと言われるテペヤクの丘には、今古い聖堂の隣に超近代的なグアダルーペ聖堂が建っていて、聖母はこの中で見ることが出来ます。この褐色の肌の聖母を見るために、空港にあるような「動く歩道」が用意されています。要は、立ち止まり禁止。写真を撮るのにとても苦労したことを思い出しました。
なんとも懐かしい再会でした。 -
この絵は、有名な画家の絵ではないようですが、テーマが「聖顔布」だったので、思わず撮ってしまいました。
キリストが十字架を担いでゴルゴダの丘を上っていく途中で、ヴェロニカという女性が汗を拭こうと差し出した布に、キリストの顔が写し取られたという、これまた「奇跡」の物語で、多くの画家たちがよく取り上げるテーマの一つです。
「本物」のヴェロニカの聖顔布は、サンピエトロ大聖堂にある祭壇にロンギヌスの槍の穂、聖女ヘレナの聖十字架の断片、聖アンデレの頭部の他の三つの聖遺物とともに安置されています。 -
サン・ニコラ・イン・カルチェレ教会を出て、左方向に歩いていくと、すぐにマルケルス劇場Teatro Di Marcelloが見えてきます。
この辺り3歩歩くと何かに当たると言っても過言でないほど、遺跡の宝庫です。こちらは紀元前13年〜11年、皇帝アウグストゥスの時代に作られたマルケルス劇場の集合住宅部分。15000人収容の劇場でしたが、後に要塞化され、ルネッサンス期には集合住宅となったという歴史を持っています。
何度も改装されましたが、現在もアーチの上層階には、一般人が住んでいるというのですから、驚きです。 -
ふと、通りの先に目をやると、おお〜 サンタ・マリア・イン・アラコエリ聖堂とヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂が、ほんの数百m先に見えています。
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煉瓦造りの聖堂と、それに続く長い階段、そしてブロッコリーのような松の木々。そこに無理やり割り込んだようなヴィットリオ・エマニュエーレ2世記念堂は、完全に景観をぶち壊す存在ですねえ。
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マルケルス劇場を見る前に、ちょっと寄り道。マルケルス劇場への入場口があるモンタナーラ通りを数十m進むと、サンタ・マリア・イン・ポルティコ・イン・カンピテッリ教会。長〜い名前の教会ばかり・・・
道幅はそのままですが、教会の手前から道の名前はカンピテッリ広場と変わり、ジャコモ・デッラ・ポルタが作った噴水が左に現れます。 -
ああ 残念。閉まっていました。お昼休み中のようです。
サンタ・マリア・イン・ポルティコ・イン・カンピテッリ教会の「お宝」は25cm位の小さな聖母のイコンで、病気封じの言い伝えがあるものです。今日何番目の「奇跡」でしょうか?
ベルニーニの弟子たちが作ったというイコンを中心とした祭壇を見たかったのですが、次回にしましょう。
ファサードはカルロ・ライナルディの設計。バロック様式ですが、何本もの柱が直線的で、バロックによく見られる飾りなどを極力排除しているところに、今までにない力強さを感じます。 -
じゃ〜ん。マルケルス劇場です。ここから見ると円形に見えますが、博物館にある復元図を見ると、オリジナルは正確な半円形でした。山の斜面を使ったギリシャの劇場とは全く異なる都市型施設であることに改めて気が付きました。
素晴らしい眺めです! 反対側から見た集合住宅の景色とは、随分異なっていますね。
道路から伸びる長いスロープを伝って、劇場の前まで行くことが出来ます。
右側に見えているのは、アポロ神殿Tempio de Apolloの列柱です。 -
元は三層から構成されていたそうですが、テヴェレ川に架かる橋の石材として使われたり、集合住宅へと改装される際に撤去されたりして、現在は二層しかありません。
ガイドブックには外壁には、比較的柔らかい凝灰岩が使われているとありましたが、一層部分と二層部分の色がかなり違うので、同じ石なのか?? 二層部分は修復したのか、アーチ部分を含めてとてもきれいです。 -
アポロ神殿というのは、ローマ市内のパラティーノの丘にもあるので、こちらの名前は最後に神殿を建て直した執政官ガイウス・ソシウスの名をとって Tempio di Apollo Sosianoと呼ばれています。
現在残っている3本の柱は、アウグスティヌス時代に再建されたものですが、神殿そのものは紀元前431年に当時流行していたペスト撲滅の願いを込めて、アポロ・メディクス(医学の神アポロ)に捧げられたものです。
ヨーロッパとペストの関わりというのは、中世だけでなく、古代から続いていたんですね。 -
3本の柱以外は、こんな具合に、煉瓦の壁や礎石などが残るだけです。
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劇場とアポロ神殿の間の道を進んで行きます。
マルケルス劇場の外壁が、ここから突然煉瓦?に変わりました。最近の修復のように見えますね。 -
建物の間からひょっこり顔を出したのは、ユダヤ教のシナゴーグです。イタリア語では、Tempio Maggiore di Romaと呼ばれています。
ローマでのユダヤ人の歴史は古く、紀元前2世紀に遡ります。帝政ローマ期の66年から74年まで続いたローマ・ユダヤ戦争後には、多くのユダヤ人が奴隷としてローマに連れてこられました。ユダヤ人が最終的に解放されたのは、前述の通り、1848年のことです。
現在のシナゴーグは、イタリア統一後の1870年に構築されました。 -
出ました! シートはありませんが、修復中のこちらの建物、何が何だかさっぱりわかりません。
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こちらは、ポルティコ・ドッタヴィア 「オッタヴィアの列柱」と呼ばれるローマ時代の遺跡のはずなんですが・・・
オッタヴィアの列柱は、アウグスティヌス帝時代の紀元前27年頃に作られた長方形の柱廊で、その中にはユピテルとユノーの神殿が並んでいました。オッタヴィアとは、アウグスティヌス帝の姉の名前です。
現在は、写真中央の入り口部分しか残っていないようですが、上の写真では、まったく想像できませんね。次回まわしがまた増えてしまいました! -
旧ゲットーの中心地にあるシナゴーグから戻ります。反対側から見た景色も、中央にアポロの神殿の列柱が見えて、なかなかです。
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こちらは、真実の口広場に向かう途中にあった、名門クレシェンツィ家の邸宅の塔Casa dei Crescenziです。1040年〜1065年の間に、その頃はまだ通行可能だった前述のアエミリウス橋(壊れた橋)の見張り塔として、ニコラ・クレシェンツィにより建てられたものです。当時は橋の通行料を徴収していて、この塔から見張っていたようです。
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興味深いのは、この家の装飾は、ほぼすべてがローマ遺跡からのリサイクルだということ。ローマ帝国が滅びて以来、廃れる一方だった中世のローマでは、ごく当たり前の話だったのかもしれませんが、見れば見るほど味わい深い佇まいですよね。
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家の横の壁には、ほらっ! ちゃんと列柱が使われているのが分かりますね。家の背後に緑が見えますが、その先はもうテレヴェ川。アエミリウス橋はクレシェンティ邸の延長線上にありました。
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あちこち、ウロウロしながら、ようやく真実の口広場Piazza della Bocca della Veritàに辿り着きました。何せ、見る物多すぎ!なので、トラステヴェレを出発してから大した距離歩いていないんですけれどね。でも暑いので、日陰探して涼みましょう。
こちらポルトゥヌスの神殿です(フォルトゥナの神殿ともいう)。背後に真実の口が置いてあるサンタ・マリア・コスメディン教会が写っていますよ。 -
この神殿は、古代ローマの港の神ポルトゥヌスに捧げられた神殿で、紀元前75年の建設です。ローマ帝国時代、ここにはテレヴェ川運の港、そして市場がありました。フォルトゥナ神殿というのは、どうやら誤った命名だったようです。
屋根がついたきちんとした形で残っている神殿を見たのは初めてなので、興味津々です!
いつも、神殿の柱の内側(内陣)はどういう構造をしていたんだろうと思っていたので、じっくりと観察。と言っても柵があるので、内部の見学はできません。 -
正面から見ると4本、側面から見ると7本のイオニア式柱が並んでいます。(さあ、全部で柱は何本? という問題昔やりましたね。)側面4本と背面の柱は、半分内部の壁に食い込んでいます。
872年以降、教会として使われ、最初はSanta Maria in Gradellis、1492年以降はSanta Maria Egiziaca(エジプトの聖マリア)に捧げられています。彼女は5世紀のアレキサンドリアの娼婦で、エルサレム訪問の際にキリスト教徒となり、ユダヤの砂漠で亡くなるまで苦行に励みました。しばしばマグダラのマリアと間違えられますが、別人です。
1921年、考古学者らのロビー活動が実り、この建物は政府の管理下に置かれ、神殿に逆戻りしました。と言っても、フェンスを回して、鍵をかけておくだけのようですが・・・いずれにせよ、自然崩壊を免れたのは教会のおかげかもしれませんね。 -
真実の口広場にもう一つある円筒形の神殿、こちらはヘラクレス・ウィクトール神殿です。紀元前2世紀の建築で、ローマでは最古の大理石の建物です。円形に並べられた20本の列柱が取り囲んでいますが、そのうちの19本がオリジナルというから驚きです。中には、やはり円形の内陣があります。
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こちらの神殿も1132年以来教会に転用され、名前も数回変わっています。
1935年に古代モニュメントとしての指定を受け、それ以降は政府の管理下に置かれています。
古代の建造物をいかにして保存していくかという問いに対しては、個人的には「使い続ける」のが唯一の答えだと思っています。内陣にガラス窓がはめ込まれているのを見ると、オリジナルの状態での保存の難しさを考えてしまいますが、ポルトゥヌスの神殿もこちらの神殿も、教会として使い続けたからこそ今があるわけで、風化・崩壊を食い止めるためには多少の犠牲はやむを得ないのではないかと思ってしまいます。 -
真実の口広場から通りを隔てた駐車場の向こうにヤヌスのアーチ、その横にサン・ジョルジョ・イン・ベラーブロ教会の鐘楼、そしてその背後には、パラティーノの丘が見えました。
全てが渾然一体となった、ローマならではの景色ですね。 -
左手にフランチェスコ・バッツァッケリが1717年に制作した噴水を見ながら、サンタ・マリア・コスメディン教会に近づいていきます。
古代のマンホールの蓋「真実の口」が置いてあることで有名な教会ですが、教会自体の建物もとても素敵。9層からなるロマネスク様式の鐘楼と幅の広い6つのアーチを持つポルティコのある建物の色がマッチしていて、一体感があります。 -
真実の口に手を入れて写真を撮る人たちの列が気になっていたのですが、今日は、行列が外まで溢れてということはなさそうです。
もう3時半を回ったことだし、教会の中に入れるかもしれません。ということで、通りを渡って、ご面会です。 -
教会中のポルティコには、やはり写真撮影の列が出来ていたので、こちらの写真は、ポルティコの格子の隙間からカメラを入れて撮りました。もう少し、アングルを変えられるかな?
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初めまして。
ようやくお目にかかることが出来ました。
真実の口はあまりにも有名なので、説明は不要だと思います。1世紀ころに作られた古代の神(おそらくはテヴェレ川の神)が彫られている大理石のマンホールあるいは噴水の蓋と言われています。最有力なのは、コスメディン教会のポルティコにあった下水道の蓋説です。 -
最期に、ご要望があったので、歩いたところを辿った地図をつけました。グーグルで調べても、全長たった1.6kmしかありません。そこを2時間位かけてほっつき歩いたことになりますね。
長くなりましたので、この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その5 ローマ 真実の口広場〜アヴェンティーノの丘で
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