2014/10/05 - 2014/10/06
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frau.himmelさん
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まさに今回の旅は怪我の功名(?)
思わぬ怪我?で前回の旅を中断しなければならなかった私への、神様からのお情けプレゼントだと思っています。
だからあんまり観光・観光と考えないで、のんびりゆっくり致します。
前回のアクシデントのいきさつはこちらの旅行記をご覧ください。
http://4travel.jp/travelogue/10935067
軍事博物館で第一次・第二次世界大戦のことをみっちり勉強した私、次はもう一つウィーンで忘れてはならないユダヤ人問題について調べてみました。
ヨーロッパの大都市の中でも特にユダヤ人の人口比率が高かったウィーンには、アンシュルス以前には約1割のユダヤ人が住んでいました。
私はアルベルティナー広場で、道路にはいつくばってタワシで清掃しているユダヤ人の像を見ました。なんともいえない気持ちになりました。
これは実際にあったことなのです。
音楽や芸術や宮廷文化、それに美しい自然、オーストリアの魅力はたくさんあります。
しかしヒトラーの演説を熱狂して聴いた人々、ドイツへの併合を大多数が受け入れ、ホロコーストにも加わったという暗い歴史があるのも事実です。
美しいだけのウィーンではなく、そういった苦悩の歴史を知ることが出来たのも今回の旅の収穫だと思います。
-
軍事博物館から市電18番で一直線にホテルに戻り、少し休憩してもう一度出直します。
マリアヒルファー通りの、あのメリーポピンズのパネルがかかっている教会、なんていう教会なんでしょうね。 -
西駅に出て、U3に乗り換えてシュテファンプラッツにやって来ました。
シュテファン寺院です。
140メートルの高さの塔、私のカメラにやっと入りました。 -
実はここでどうしても見たかったものがあるのです。
シュテファン寺院の正面入り口、右側の壁を見ると、2枚の装飾展示の下にぼーっと見えるのがありますね。あれがそう。 -
『05』と落書きされた数字。
数字が風化しないようにガラスで覆いがしてあります。
これこそ私が見たかったもの。
この05は暗号なのです。0はO(オー)を5は(E)を表します。
つまりOE、Oウムラウト、オーストリアの意味。
第二次世界大戦中、オーストリアの独立を望むレジスタンスの暗号だったのです。
ウィーンの街中にいくつも見られるそうです。 -
せっかくここまできたので、シュテファン寺院の中に入ります。
ちょうどミサの最中で司教の説教が始まっていました。 -
邪魔にならないようにそーっと出口に向かいます。
-
旧市街のまさに中心、ゴシック様式のシュテファン寺院。
夕暮れ時。 -
ケルントナー通りは大勢の人で賑わっています。
-
ノイエマルクト付近。
大きな泉はドンナーの泉。
周りで写真を撮ったり、水遊びをしたり・・。 -
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ケルントナー通りを国立歌劇場(オペラ座)のほうへ。
ウィーンの建物はどれも重厚そのもの。
ウィーン旧市街は、第二次世界大戦末期、連合軍の空爆で大打撃を受けましたが、見事に蘇りましたね。 -
ウィーン国立歌劇場。
ここも例外ではありませんでした。
一部分を残しただけの見るも無残な姿で焼け落ちました。
そして戦後再建されました。
私の目的はここではありません。 -
あちらに見えるアルベルティナー広場、
街灯に明かりが点き、目的のものが見えてきました。 -
あの客待ちをしている馬車の先に見える白いもの。
白い石像がただ単においてあるだけではありません。 -
この広場に立つ記念碑は、「戦争とファシズムへの戒めの記念碑」。
その中の手前のこれは「暴力の門」
右側はナチス迫害の被害者、左側は戦争の犠牲者を表しています。 -
像をよく見ると、残酷なシーンがあちこちに見られます。
鉄兜をかぶって倒れている兵士、ちょっと上には妊娠した女性の胎内から今にも赤ん坊の頭が出かかっている場面もあります。
爆撃により多くの建物が破壊され、人々が恐怖のうちに亡くなって行った様子が伝わってきます。 -
もともとこの広場には集合住宅が建っていましたが、1945年の3月12日の爆撃で全壊しました。
地下室に避難していた何百人という人々は一人残らず死亡したそうです。 -
戦後、多くの建物は再建されましたが、この場所だけは戦争の悲惨な記念碑として残すことになりました。
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門の間から見えるうずくまったあの物体は?
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有刺鉄線に繋がれて地面にはいつくばっているこの像は、「水晶の夜」後のユダヤ人を表しています。
有刺鉄線は強制収容所に張り巡らせてあったものと同じです。 -
水晶の夜とは、1938年11月ナチスにより、多くのユダヤ人が暴行され殺され、シナゴークは破棄され、多くのユダヤ人の商店や住居も破壊されました。
ドイツに併合されていたオーストリアも例外ではありませんでした。
粉々に散ったガラスの破片から「水晶の夜」と呼ばれています。 -
ナチスはこの責任をユダヤ人に押し付け、ユダヤ人は、大勢の観衆の前で、ひざまずいて道路を清掃させられました。
この像はその時の様子を表したものです。
実際の写真をネットよりコピーしました。
(参考:観光コースでないウィーン) -
ガイドにその残酷な説明を聞いているのでしょうか、観光客が集まっています。
皆さん、どんな感想を持たれたのかなーと気になりました。 -
「戦争とファシズムへの戒めの記念碑」の前のマリアテレジア・イエローの建物は、ツーリスト・インフォメーション。
壁に描かれた人物は世紀末のウィーンの画家「エゴン・シーレ(1890-1918)」。
彼の絵は、ヒトラーにとっては最も嫌いな部類に入ったでしょうね。
ナチス時代の退廃芸術展が開かれた際、シーレの作品が数多く没収されたそうです。
シーレがその時代に生きていたら、亡命か強制収容所送りだったでしょうね。 -
そしてこの方は「ジークムント・フロイト(1859-1939)」。
精神分析学者として有名な人物です。
彼はウィーン出身のユダヤ人です。
アンシュルスの後、生命の危機を感じてロンドンに亡命するまで70数年をウィーンで過ごしました。
亡命の翌年ロンドンで亡くなりました。 -
アルベルティナー広場の壁の彫像
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噴水
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煌々と輝いているウィーン国立歌劇場。
戦後再建されたこの歌劇場はいまや世界を代表する超一流の音楽家が活躍しています。
最も代表的な指揮者はヘルベルト・フォン・カラヤン。
彼は一時ナチスとの関わりを問われたことがありましたが、1956年には芸術監督のポストに就きました。
2002年に日本の小沢征爾氏が同じく音楽監督に就任した話題は日本中の誇りでしたね。 -
ちょうど幕間でしょうか、着飾った観客がバルコニーで談笑している姿が見えました。
優雅ですね〜。
近くのオーパー駅から地下鉄を乗り継いでホテルに戻りました。 -
10月6日 今日は丸一日ウィーン市内観光の日。
シュテファンプラッツ駅に降りたって・・・ -
昨夜ミサ中で内部を見ることが出来なかったので、シュテファン寺院にちょっとだけ入ります。
ゴシック様式の高い天井。
何度も見慣れているはずだけど、いつも凄〜い!と思ってしまいます。 -
精巧な細工がなされた説教壇
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この小祭壇は何を描いた宗教画でしょうか。
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グラーベン通りを散策します。
まず最初に現れるのは「レオポルトの泉」。 -
次に、道路の真ん中に建っているのは「ペスト記念柱:三位一体像」。
バロックの豪華な像です。
1679年、ヨーロッパで猛威を振るったペストの終息を神に感謝して建てられました。
天国と地上、それに地獄を表しています。 -
神に祈りを捧げているレオポルト1世(神聖ローマ皇帝)。
ペスト記念柱は、レオポルド1世の命により建てられたもの。 -
神聖ローマ帝国の紋章である双頭の鷲。
世界中に広大な領地を統治していたハプスブルク帝国、
双頭の鷲は帝国の東の端と西の端を見つめているのだそう。 -
その後、ペーター教会に行きました。
グラーベン通りの中ほど、右にあります。
バロック様式の教会で、レオポルト1世がベルベデーレ宮殿を手がけたルーカス・フォン・ヒルテンブルクに造らせたものです。 -
なんて豪華な内部なんでしょう。
ウィーンで一番美しい教会といわれています。 -
ここで一番有名なのは、天蓋に描かれたロットマイヤー作のフレスコ画「聖母マリアの戴冠」。
ガイドブックには必見と書いてありました。 -
主祭壇の中央にはマリア像。
ここはもともと聖母マリア崇敬が行われていたので、このほかにもマリアの画はいろいろあります。 -
聖ミヒャエル祭壇。
聖ミヒャエルが悪を退治しています。
左は聖ネポムクの祭壇。 -
説教壇と聖家族祭壇。
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入り口頭上のパイプオルガン。
オーストリアで最も美しいパイプオルガンの一つだそう。 -
見事に装飾された丸窓などなど・・。
美しいものを見るのって幸せな気分になれます。
それでは外に出ます。 -
ペーター教会の背後にあたりますね、ホーエルマルクトに出ました。
ウィーンで一番古い広場。
ウィンドボナと呼ばれる古代ローマの時代から存在するウィーン最古の広場だそうです。 -
この泉は職人が皮か布を鋏で切っている像です。
この広場は昔からの庶民の中心地、手工業で栄えた地で、組合などの立派な建物が並んでいます。 -
今でも立派な装飾を施した建物に目を奪われます。
最近では高級ブランド店が軒を連ねています。 -
立派な泉が見えます。
フィーッシャー・フォン・エリラッハの1729年作
「結婚の泉」です。 -
皇帝レオポル1世が息子ヨーゼフ1世の結婚を祝って造らせたものとか。
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その先に見えてきたのは「アンカー時計」。
二つの建物をつなぐ通路に取り付けられた美しい時計です。 -
この仕掛け時計は、グスタフ・クリムトとともに活躍したユーゲントシュティールの画家、フランツ・マッチュのデザインで、1911年から1917年にかけて制作されたものです。
ウィーンの歴史上の人物が一時間に一組づつ登場。
正午の12時には全員勢ぞろいするそうです。
まだまだ正午には早いので先に急ぎます。 -
今来た道をちょっと引き返して、更にまっすぐ行くと、旧市庁舎があります。
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旧市庁舎前の細い路地を入っていくと・・。
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ユーデンプラッツ、ユダヤ人広場の表示が。
この広場は中世時代ユダヤ人のゲットー(ユダヤ居住区)があった場所なんだそうです。 -
広場真ん中にはレッシング像。
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レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)は、ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。
ドイツ文学のあり方を決めた人で、後のゲーテやシラー、ヘルダー、メンデルスゾーンなどに影響を与えた人だそう。 -
この広場の周りには美しい装飾の建物が多い。
この建物は「BOEHMISCHE HOFKANZLEI:ボヘミア宮廷官房」。 -
そして、ここには「モーツアルトが1783年に住んだ」という表示がありました。
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広場の中央には、周りのステキな建物には似つかない感がする四角い箱型のモニュメント・・・。
これはナチスの被害者となったユダヤ人の追悼のモニュメントなのです。 -
第一次世界大戦が終わった1918年、オーストリアには19万人のユダヤ人が住んでいました。
1938年から1945年のナチスのホロコーストで6万5千人が殺されました。 -
この建物の壁はユダヤ人の思い出がたくさん詰まった本を象徴しています。
背表紙はすべて内側を向き、ドアは固く閉ざされています。 -
ここでも観光客がガイドの説明に聞き入っていました。
日本の旅行社でも、ツアーでこういうマイナスの歴史も見せたらいいのにと思いました。 -
奥に見えるのはアム・ホーフ教会。
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ここは、ウィーン時計博物館。
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時計博物館の近くにあった可愛い時計屋さん。
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アムホーフ教会をもう一度振り返って、高級ブランドのステキな幟の模様に目を奪われて・・・
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ひょっと前を向いたら、あれっ、このお店テレビで見たことがあるわ。
でもその前に、観光客が写真を撮っているあそこの建物が気になります。 -
ガイドブックに紹介してあった「エンゲル薬局」でした。
16世紀創業の古い薬局で、1902年にユーゲントシュティール様式に改装されました。
オットー・ワーグナーの弟子、オスカー・ラスケの作。 -
壁に描かれた二人の天使のモザイク画。
腕に巻きついているのはヘビ・・! -
窓の上のひまわりの花、そこにもヘビの絵が・・。
ヘビはギリシャ神話の医術の神、アスクレーピオスの象徴です。 -
さっき見つけたツム・シュヴァルツェン・カメール、黒ラクダ亭。
ここは1618年創業の由緒あるレストラン、カフェ、コンデットライ。
エリーザベトもここのケーキがお気に入りだったそうです。
テレビでこのお店のことをやっていて、私のレストランリストの中には記入済みです。
今10時15分、お昼には早いけど、せっかく見つけたのですもの、喉を潤していきましょう。 -
高級ブランド店が軒を連ねている一画にあります。
プラダ、ルイヴィトン・・。
それらが眺められる席に座りました。
相変わらず、アジアの隣国のブランド漁りの買い物客は多いですね。 -
メニューを見て、ロゼのゲシュプリターを注文しました。
ワインを炭酸で割ったもの。それにフレッシュライムとフレッシュミントが入ってお洒落です。
喉が渇いているのでスイスイといけます。
ところで私の後ろの席で、上品な奥様の二人連れが食べているものが気になります。
あれがテレビで紹介していたカナッペですね。 -
ウェイターさんを呼んで、あれと同じものを2つ頂戴ってお願いしました。
これがそう。
上に乗っているものはチーズの細切りかと思っていたら、なんとホースラディッシュでした。もう辛いのなんのって。
涙を流し鼻水を垂らしながら食べている私に、かっこいいウェイターさんが「マダーム、お味は如何ですか?」ってうやうやしく聞きにきたのです。
恥ずかしかった〜。 -
休憩したところで、もう少し散策いたします。
旧市庁舎の方へ引き返して、またホーエルマルクトの近くにやって来ました。
この辺りもユダヤ人居住区(ゲットー)がありました。
「テオドール・ヘルツル階段」と表示があります。 -
テオドール・ヘルツル(1860-1904年)とは、ハンガリー生まれのユダヤ人作家。
コスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であったが、新聞記者としてドレフュス事件(1894年)の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見と遭遇して衝撃を受け、これを機に失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。(Wikiより要約)
ドレフュス事件とはユダヤ人が関わったスパイ事件なのですね。 -
階段を上り少しいくと、このウィーンで最も古いキリスト教の教会ルプレヒト教会があります。
740年ごろの創建と伝えられています。 -
-
裏に回ってみました。
本当に古い建物です。木が鬱蒼と茂ってツタが建物に絡み付いています。夜なんか通りたくないなーと思います。
ところがこの辺は昼間は静かですが、夜になると、明け方まで開いているバーやディスコがあちこちにあり、若者達に人気の繁華街なのです。
「バミューダートライアングル」と呼ばれるこの地域は、酒を飲んで朝まで帰ってこないというところから付けられたそうです。 -
ユーデンガッセ。
オーストリア、特にウィーンに住んでいたユダヤ人は複雑なのですね。
中世時代、ウィーンの人口の5パーセントがユダヤ人といわれ、ヨーロッパ最大のシナゴークがありました。
しかし1421年、ウィーンのユダヤ人のほとんど追いだされるか殺されるかしています。
例外もありました。
巨額な税金を払ってウィーンに住み続けることが出来た裕福なユダヤ人たちです。
フロイトやマーラー、シェーンベルクなど、世紀末に花開いたウィーン文化の担い手はそれら裕福なユダヤ人の子孫です。 -
しかし1782年にはハプスブルク帝国皇帝ジョセフ2世がユダヤ人がウィーンの町に住むことを許したのです。
多くのユダヤ人が旧市街に住み着きましたが、シナゴークを建てることは許されませんでした。
そこで裕福な皇帝とも懇意な間柄のユダヤ人が再三頼み込んでやっと条件付で許可されました。
外から見てシナゴークと判らないような建物にする、他の建物と接してつくる、と言うものでした。
人が集まっていたこの建物には、イスラエルの文字が。 -
同じ建物(?)なのに、ここには「シナゴーク:ユダヤ教礼拝堂」と。
これがシナゴークとはちょっとわかりません。
そして、1938年11月の「水晶の夜」で他のシナゴークはことごとく壊されたのにここだけ残りました。
旧市街の中心部にあるこのシナゴーク、建物同士が接しているため、火をつければ他の建物に燃え移ることをナチスは恐れたのです。そうなれば旧市街全体が大火事になってしまいますから。
しかしナチスは建物は残したものの、内部はすべて破壊しました。 -
さっきから警官が2人、写真をとっている私をジロジロ見ています。
後から知ったのですが、この近くでテロが起きたため、警官がいつも見守っているのだそう。
シナゴークなどを近くから撮影しようとすると、「撮影禁止!」と怖い顔で睨まれた人もあるそうです。
そんなことは知らない私、その警官に道を尋ねました。
「すみません、シュヴェーデンプラッツ駅はどう行けばいいですか?」
ちゃんと親切に教えてくれました。
後編に続きます。後編では危険な目に遭遇します。
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この旅行記へのコメント (10)
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- utamiumiuさん 2014/12/28 12:37:15
- いつも勉強になります。
- こんにちは。utaです。
frau.himmelさんのウィーン大変勉強になります。
いつも、オペラとコンサートと美術館で費やしてしまうウィーン滞在、こういう旅もあるんだなぁと敬服しました。
次回行くときはこの旅記を参考にしてウィーンの街を歩きたいです。
見慣れた街角が全く違う景色にみえました。
実は来年の5月にウィーンへ一泊だけします。
スロバキアのプレショウというところに列車で行くための乗り継ぎ一泊です。
frau.himmelさんの旅行記を読んでもったいない気がますますしてきましたが、その後の予定が詰まってまして断念!
それに友人親子がいっしょなのでやはり彼らに興味がないと行けない場所ばかりですものね。
怖い目にあった話楽しみにしてます。
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/31 22:33:55
- 今年も残り僅か・・。
- utaさん こんばんは。
今年も残すところあと1時間半。
本当に1年間いろいろとお世話になりました。
返信が遅くなって申し訳ありません。
主婦は(一応)年末はいろいろ忙しくて失礼いたしました。
ウィーンってステキな街ですね。
5月にヨーロッパへいらっしゃるのですか?
今回は中欧にいらっしゃるみたいですね。
utaさんのことだから、いろいろと楽しみな計画を立てていらっしゃるんでしょうね。
私もマイレージの期限切れが迫っていたので6月に一応チケットを抑えてあります。
まだ計画は何も立てていませんが、もう一度ウィーンを訪れたいと思っています。
ついでに、チェコやハンガリーもと思っていますが、
ドイツ方面にも行きたいところがいろいろあるし悩ましいところです。
それでは、来年もよろしくお願いいたします。
himmel
- utamiumiuさん からの返信 2015/01/01 02:01:18
- 明けましておめでとうございます。
- frau.himmelさん
明けましておめでとうございます。
ことしもhimmelさんの旅行記を楽しみにしています。
私はひょんなことから今年の5月中旬からのドイツ旅にスロバキアが加わりました。
スロバキアのプレショウというところで本当にひょんなことから歌を歌うことになりまして、ドイツ旅の始めにスロバキアをくっつけました。
伴奏をしてくれる友人はプロのジャズピアニストでその息子もプロのギタリストで日本の童謡や抒情歌をジャズヴァージョンにアレンジしてもらいかの地で歌ってきます。
その後ドイツを彼女たちを観光案内しながらまわります。
スロバキア、プラハ、ドレスデン、エルフルト、ヴュルツブルク(モーツアルトフェストのチケット手配中です)レジデンツのカイザーザールのコンサートをどうしても友達とその息子に味わってもらいたくて奮闘中です。
飛行機、ホテルはすでに手配しました。
アルタークラーレンに泊まります。5泊するんですが最初の2泊は何と!マイン川ヴューが取れませんでした。半年前の予約なのに!!
ビュルツブルク滞在中にバンベルク、ローテンブルクなど日帰りで行くつもりです。
はたして案内役を迷子にならずにできるかおおいに????ですが。
お正月中に去年のナポリをアップできるかしら?と思っています。
ではでは、また。
uta
-
- ペコリーノさん 2014/12/25 12:24:15
- 知っている街の知らない歴史
- frau.himmelさん、こんにちは。
ウイーンの街歩き、いろいろなところがあるのですね。
ペーター教会を抜けていき、「黒ラクダ亭」のあたりまで、私も何度も歩いたはずなのですが、ユダヤ人の歴史については、無頓着でした。教えていただき、ありがとうございました。
私の心残りとしては、「黒ラクダ亭」でランチしたかったな。と、思ったり、ペーター教会の裏の「カフェ・コルプ」でアプフェル・シュトゥデルを食べたかったな、ということぐらいでしたので。
次の旅行記、ちょっと気になります。年内アップは無理ですか?
ペコリーノ
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/26 00:07:01
- RE: 知っている街の知らない歴史
- ペコリーノさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
ペコリーノさんは、本当にウィーンのいろんなお店をご存知ですね。
「黒ラクダ亭」は、テレビでやっていたから知りましたが、もうご存知だったとは。
高級レストランだそうですね。
私の時は時間的にランチには早くて、ティータイム(って、結局ワインですか・笑)になりましたが、終わって帰る頃、ちゃんとした格好をした人たちがレストランの中に入っていったので、皆さん予約をしてランチをなさる方だったのでしょうね。
ウィーン編がもう1つ残っていますが、ウィーンから一直線にベルリンに入ります。
遅筆ですから、今年中にウィーンから出られるかどうか?(笑)。
himmel
-
- しょうちゃんさん 2014/12/25 11:22:06
- RE: コメント
- 今日は 米陸軍機B24によるウイーンの爆撃について、
壊滅的なーーという表現を使っていますが、オーバーです。なぜなら、ウイーンの主要駅(交通の要衝)を爆撃することが目的だったからです。連合軍は、当初ドイツ国内の都市爆撃(ハンブルグ・フランクフルトなど)が中心でした(国民の戦意を削ぐため)。しかしながら、いっこうに戦意が衰えなかったので、戦略爆撃の目的を変更し、石油精製工場(供給をストップ、例ルーマニアの油田、クラコフ西部の化学工場)、主要駅(軍の移動を妨害するため、例リンツ駅)の爆撃に変更しました。マクガバーン上院議員も当時イタリアのバーリ周辺の飛行場から、爆撃機のパイロット(中尉)として、オーストリアやポーランド南部の爆撃に参加しています(彼の本を参考にしてください)。戦後、彼がオーストリアのウイーンを訪れた際に、誤爆があったことを認めています。なお、ソ連軍とオーストリア・ナチス軍との市街戦で、建物には弾痕の跡は、今でも残っています。
ヒトラーに大きな影響を与えたのは小学校の教師です。もともと、オーストリアは、宗教的にはカトリック(反ユダヤ)でしたから。それに、ドイツではww1後、わずか3%のユダヤ人が国富の40%を独占していましたから、ユダヤ人に対する怨嗟や妬みから、非難や攻の対象になりました。オーストリアも国立銀行が倒産しましたので、どちらの国も失業者があふれていました。経済状況が悪化すれば、強い指導者を求めます。実際、ヒトラーの経済政策(本を参照)はうまくいっていました(除くポーランド侵攻以降)。では
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/25 23:57:44
- RE: コメントありがとうございます
- しょうちゃんさん、こんばんは。
ご無沙汰しています。
さて、今日はコメントをありがとうございます。
実は、いつもこの手の旅行記を書くときはしょうちゃんさんのことを頭に浮かべながら書いています。これはたぶん不合格だろうなとか(笑)。
大先生のしょうちゃんさんの授業を、出来損ないの生徒がかしこまって受けているようなそんな感じです。
さて、
>壊滅的なーーという表現を使っていますが、オーバーです。
私が参考にした書籍では、1945年3月の連合軍の爆撃で、ウィーン市内の50%が全壊および半壊した、とあるのです。
交通関係では、鉄道線路の41%、車両の66%が破壊され、ドナウ川の50%以上が失われた・・とありました。
同じ書籍に
>1945年の爆撃でウィーン市は壊滅的な打撃を受けた・・・
とあったものですから、それを参考にしました。
壊滅的と言うのはどの程度のことを指すのか、人によって判断基準は違うでしょうから一概には言えないと思いますが、ドイツのベルリンやドレスデンほどはひどくなかったとの記述もありましたので、私の旅行記も『大打撃を受けました』にトーンダウンしました。
その他のお話も大変興味深く拝見しました。
ヒトラーの経済政策、そうですね、あの時は救世主だったのですよね。
またヒトラーに影響を与えた先生の話、マクガバーン氏の話などなど、
いろいろ勉強になります。
またお気づきになったことがありましたら、ご指導ください。
himmel
- しょうちゃんさん からの返信 2014/12/26 13:22:26
- RE: RE: コメントありがとうございます
- 拝復 参考にした本のタイトルを教えていただけませんか?
> 私が参考にした書籍では、1945年3月の連合軍の爆撃で、ウィーン市内の50%が全壊および半壊した、とあるのです。→ここで言う連合軍は、おそらくソ連軍による爆撃ではないでしょうか?
> 交通関係では、鉄道線路の41%、車両の66%が破壊され、ドナウ川の50%以上が失われた・・とありました。→ドナウ川にかかる橋は、(例)ブタペシュトの橋は枢軸側が、防衛のため爆破しています。鉄道の爆破もおそらくそうではないでしょうか?(ソ連軍の進撃を送らせる、遅滞作戦のため)
> 同じ書籍に1945年の爆撃でウィーン市は壊滅的な打撃を受けた・・・ とあったものですから、それを参考にしました。→1945年冬から春の中欧戦線は、ブタペシュト攻防戦、ついでバラトン湖方面の(ドイツ側)攻勢とソ連軍(第3ウクライナ方面軍)との戦い、その後ウイーン進撃(市街戦)と続きます>
> 壊滅的、→ワルシャワ市の場合83%がドイツ軍による爆破、ドイツ国内では連合軍(英・米)による空爆で都市のおおよそ80%ぐらいが損害を被っています(ハンブルグ化という)。
> ヒトラーの経済政策、そうですね、あの時は救世主だったのですよね。
なお、戦後もドイツでは、ヒトラーの政策を支持する人が多数いた、ということです。また、ユダヤ人もドイツの方が安全ということで西ドイツに戻っています(参考書、アウシュビッツ後のポーランド)。
最後に、トニー・ジャットの本、ヨーロッパ戦後史上を一読することをすすめます。
- frau.himmelさん からの返信 2014/12/26 21:41:21
- RE: RE: RE: コメントありがとうございます
- しょうちゃんさん、こんばんは。
やはり80%くらい破壊されないと、壊滅的とは言えませんか。
何やら火災保険会社の査定のようでもありますね・・(笑)。
私が参考にした本は「観光コースでないウィーン 高文研」です。
今回この本を持ってウィーンのあちこちをまわりました。私にとって大変面白く参考になった本でした。
ウィーン市はソ連軍が爆撃したのですか?
そういえば、先の軍事史博物館でも見ましたが、戦後ウィーンはソ連の占領下に置かれたのでしたね。
ソ連がウィーンを攻撃していち早く乗り込んできたからでしょうね。
しょうちゃんさんからいただいたコメントを読んで、おぼろげだった歴史の霧が少し晴れたような気がします。
しょうちゃんさんのようなその道の専門家の方からすると、私など老歴女の中学生並みの研究発表なんて笑止ものでしょうね(笑)。
私のいい加減な性格で、これは論文などではなく、旅行記なんだからまっいいか!なんて考えるところがありまして。
少し改めなければならないと思います。
いろいろありがとうございました。
himmel
- しょうちゃんさん からの返信 2015/01/18 01:06:44
- RE: ウイーン爆撃と市街戦
- 1944年から45年の爆撃は都市爆撃から主要目標を急く油施設、輸送機関(鉄道・車両・航空産業)に変更したこと。
1944年10月29日から2月13日までブタペスト作戦・独軍ポーランド戦線の装甲部隊を振り向ける。
1944年3月5日から13日独・春の目覚め作戦(バラトン湖の戦い)両軍80万 1万2500の大砲 1300台の戦車 1800航空機投入。
1945年3月16日から4月15日ウイーン作戦。4月5日から9日ウイーン郊外で激烈な戦闘。4月13日まで激しい市街戦が続く。
3月12日の米空軍(B24・4トン搭載で低速飛行)による空爆。独軍の前線への兵端を絶つためにウイーン・ミッテあるいは南駅の停車場を爆撃したが、誤爆があったと思われる。理由ウイーン市内には幾つかの高性能の高射砲塔(105?,128?装備)があり,高高度爆撃(命中精度が低くなる)により誤爆で国立歌劇場などに命中したのだろう(参考マクガバーン「。
松岡(p55)では建物の50%が全半壊した空襲と記述されているが、引用文献が提示されていない(問題)。ウイーン グラーツ、フィラハなどの都市(リンツの方が被害大だろう)が破壊されました?(この2つの都市も交通の要衝で駅が目標)。
3月12日は米空軍の爆撃だが,4月12日ブルグ劇場とシュテファン寺院は 枢軸軍とソ連軍の戦闘(市街戦・ソ連軍は大砲を使用している)によるものである(この本は区別して書いていないのが問題)。
英米の分類では都市破壊の程度を 50%未満(例ポツダム),50ー75%(例ドレスデン・ハンブルグ), 75%以上に分類してあり,ウイーンには触れていない(おそらく50&以下)。」
> やはり80%くらい破壊されないと、壊滅的とは言えませんか。
> 私が参考にした本は「観光コースでないウィーン 高文研」松岡」著です。4トラに掲載する際、参考文献は記述したほうが良い。>
> ウィーン市はソ連軍が爆撃したのですか?おそらく市街戦によるものでしょう。ソ連側資料が公開されてきていますが、ウイーン戦は支戦場であまり詳しく書かれていません。> そういえば、先の軍事史博物館でも見ましたが、戦後ウィーンはソ連の占領下に置かれたのでしたね。
1955年までソ連軍が占領していましたから,あまり批判できなかったのでは。> ソ連がウィーンを攻撃していち早く乗り込んできたからでしょうね。
枢軸軍特に高射砲大隊は流弾を打ちつくまで戦っていますが、著者は触れていません。なお,この本は2級クラスの資料です。参考文献や引用文献がないもので、割り引いて読んで下さい。おそらく左派系の人でしょう(出版社も)。なんでもそうですが, 主観・価値判断が入った記事(マスコミ・新聞も)は鵜呑みにしないで 疑ってみる目を養って下さい。では
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