2013/10/22 - 2013/10/28
1386位(同エリア1791件中)
明石DSさん
台湾旅行、最後の朝食
帰国日は何故か?気持ちもウキウキと
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7日目:10月28日(月):台中から清水、そして帰国:晴れ
旧清水国民学校と清水神社跡に行く
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2013/平成25年10月28日(月)
■朝の散歩で台中公園へ
台湾最後の日も晴れ。出発時は日本への台風27号接近で出発も不安だったが日本への影響も26号ほどではなく、台湾は好天気が続いてくれた。朝6時半から最後の朝食を食べ、ホテル向かいの台中公園に散歩に行った。
昔の写真をタイルに焼き付け石の台座に嵌め込まれているのに気づき、その写真を撮る。その場で新旧比較でき「以前はこんな風だったのか・・・」と分かって旅行者にはありがたい。台湾ではこういった配慮が多くのところであった。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
お粥と、その他
美味くはないが、それなりに
無論、文句はない -
月曜日の朝、日月湖と湖心亭
-
1908年:台湾縦貫鉄道全通記念式典に備えて
当時の写真がタイルにプリントされて嵌め込んである
目の前で今と見比べることが出来るのでありがたい -
1908年:台湾縦貫鉄道全通記念式典準備の台中公園
-
2003年羊年のランタンフェスティバルの巨大山羊像
えっ?一体なんやねんこれは?と、思っていた
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■台中公園いろいろ
昨日は遠くから見ただけの巨大ヤギの像に近づいた。「一体、なんやねん、これは?」である。その正体は2003年羊年のランタンフェスティバル(燈會 Dēnghuì)のメーン会場が台中市で、その時作られた「ランタンオブジェ」がこの金属製の山羊の像(高20公尺m,重10公噸、トン)。同年6月市民広場から台中公園に移されたとある。『勇ましい雄の山羊と慈愛に満ちた母山羊と跪いて乳を飲む子羊がテーマになっている。』
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BA%E7%81%A3%E7%87%88%E6%9C%83
ランタンフェスティバル(臺灣燈會)
『台湾では、旧正月元旦(2013年は2月10日)があけて初めて迎える満月を祝う日を「元宵節(げんしょうせつ)」と呼び、古くから台湾四大節句のひとつとして各地の寺廟や特設会場でお祭りやイベントが催されてきました。 なかでも盛大なのは、台湾観光局が誇る最大規模の「台湾ランタンフェスティバル」です。』
ちなみに『2014年は、元宵節(旧暦1月15日)にあたる2月14日から2月23日(予定)までの期間、南投県南投市中興新村にて開催されることが発表されました。』とある。2014年の春節1月31日:休日は春節の大晦日「除夕(「大年三十」ともいう)」から1週間、つまり1月30日〜2月5日。日本では「長崎ランタンフェスティバル」が有名のようだ。今年の春節、それとは知らずに台北〜金門島の旅(2013.H25.2.11〜2.15)を計画しホテルの予約が取れずに気づいた。 http://4travel.jp/traveler/akashids/album/10762922/
昨日の日曜日の午後の台中公園の風景とは違って、月曜日の早朝の公園は高齢者がアチコチのグループで体操や踊りをしている。大陸でも台湾でも見慣れた光景だ。そして木の上に結構大きなリスも見つけた。
それから昨日見逃していた閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)が1908年この台中公園で植樹された樟(くすのき)を偶然見つけた。ロープで囲って説明のプレートが設置してあり分かったが、その樟は大樹に育ったが、今は一葉も皆無で枯れてしまっている。それでもしっかりと立っていた。植樹から105年の歳月が経っている。
台中公園内にあるコブコブの大樹に「這是什麼樹:これはなんの樹」と表示があり、その表示をめくると「金龜樹 ジングイシューJīnguī shù」という答えが書いてあった。「金亀樹:きんきじゅ」というらしい。学名:「Pithecellobium imdulce」・・・ホンマ今はネット検索があるので何でも簡単に分かる。紙辞典は不要なのか? -
リスの撮影成功
結構大きなリスがいた
餌には不自由ないのか丸々太っている -
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)植樹の樟(くすのき)
1908年台湾縦貫鉄道全通記念式典に来台時に植樹
すっかり枯れ果てているが何とか立っている -
「這是什麼樹:これはなんの樹」
「金龜樹 ジングイシューJīnguī shù」
コブコブの大樹は公園でよく見かけた -
高架工事中なのでこの駅舎は残っても
駅周辺の風景はきっと変わるのだろう
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■サラバ台中
午前7時50分、「台中福泰桔子商旅公園店:オレンジビジネスホテル」を退房(チェックアウト)し、リュックを担いで駅に向かう。緑川沿いを歩き宮原眼科の前を通り駅前に出たら通勤通学のどことも同じ駅前の風景がある。台中から清水への列車は本数が少なく、朝は「自強・莒光」便はなく區間車も「6:16 8:50 11:08」という少なさだ。
8時50分(発)に乗るので、それまでしばし台中車站で時間を潰す。駅待合室には「持ち帰り専門寿司店」があり、外にケーキ屋さんがあり、そこで「どら焼きアイス」を買って食べた。繁体字では「銅鑼燒」と書いていたが、日本人がこの漢字を読めば「どうらやき」と読めるけどピンインでは「Tóngluó shāo トンロウシャオ 銅鑼燒」となる。台湾人は、これをどう読むのか?聞けば良かった。 -
寿司は世界の食べ物になったのか?
世界中を旅してみたいけど -
銅鑼燒 どら焼きを食う
味は変わらず美味かった -
清水駅から駅前を写す
市の中心部はここから左方向(北)に広がっている
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■清水(せいすいorきよみず)
午前8時50分「台中よサラバ」で區間車(¥45元)で清水(せいすいorきよみず)に向かった。台中では「寶覺寺」も行くつもりですっかり忘れてたし、台中神社があった今の忠烈祠にも行きたかった。そしてその他にもまだまだ日本時代の旧跡があるようだ。再び台中に来ることはあるのか?今は分からない。
定刻に2月台(二番ホーム)から出発。「 臺中 08:50→大慶→烏日→新烏日→成功→追分→大肚→龍井→沙鹿→清水 09:32(着)」 高鐵:台中駅は台鐵:新烏日駅と同じ場所。車窓の景色を眺めているうちに清水(チンシュイ Qīngshuǐ)駅(住所:臺中市清水區南社里中正街115號)に着いた。
清水での目的は、「清水國民小學」(住所:臺中市清水區南寧里光華路125號)と清水神社跡に行く。この「清水國小.紫雲巖.清水神社.牛罵頭.鰲峰山」ホーム頁の地図をプリントして持参していた。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BA%E4%B8%AD%E5%B8%82%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%8D%80%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%9C%8B%E6%B0%91%E5%B0%8F%E5%AD%B8
http://www.tonyhuang39.com/tony0822/tony0822.html
台湾の日本統治が始まったのは割譲が決まった1895年5月17日の四日後の5月21日からだ。その翌月6月には初代総督:樺山資紀の「教育こそ最優先すべき」とし六士先生で知られる「芝山巌学堂」を設立している。その芝山巌学堂は当初6人の生徒だったが、三ヵ月後の9月には次第に周辺住人に受け入れられ生徒数も21人になって甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。
「周辺住人に受け入れられ・・・」ということは現地人を対象の学校だったのだろう。このことからも初めて日本が手に入れた植民地経営は、西欧列強の植民地支配とまったく思想が違うことが良く分かる。その教育環境整備の早さは「教育こそ最優先」のスローガンに偽りない言行一致の証だ。欧米列強の植民地経営と同列にすべきではない。
そして統治開始から二年後には、この清水でも学校が出来た。1897年二月に台中國語傳習所「現在:台中市忠孝國小」の分校として鰲峰山の麓に「牛罵頭分教場」が出来、翌年の1898年(明治31年)に独立して「牛罵頭公學校」となった。台湾では現地の事情を考慮し、「台湾人の通う公学校」「原住民が通う蕃人公学校」「日本人が通う小学校」と三つに区別された。そして『1941年(昭和16年)3月 台湾教育令を修正し公学校、小学校、蕃人公学校を統合し国民学校に改編。』となっている。
牛罵頭公學校から「1921年(大正10年4月)清水第一公學校」→「1941年(昭和16年4月)清水南國民學校」→「1945年(昭和20年)清水國民學校」→「1968年(民國57年)清水國民小學」となり現在に至る。この学校の日本時代の校舎が今も当時の姿を美しく留め使われながら残っている。
「清水車站」は1920年(大正9年)12月15日開業したが、1935年(昭和10年)の清水街震災で初代駅舎は壊れ、翌年5月今の駅舎が完成している。昭和11年に出来た日本時代の駅舎は、こじんまりしているがなんか立派な駅だと思ったら。へぇ〜こんなのがあった。「臺灣?史建築百景列表」の中にこの清水駅の駅舎も14番目に入っている。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BA%E7%81%A3%E6%AD%B7%E5%8F%B2%E5%BB%BA%E7%AF%89%E7%99%BE%E6%99%AF%E5%88%97%E8%A1%A8
駅にコインロッカーはなく担いだリュックを預けようと駅員に尋ねたら、その駅員さんが預かってくれた。駅事務所に入って名前を書いて、リュックは札を付けて事務所の片隅に置いておくだけのようだった。そしてその駅員さんに今日の目的地の駅から一番遠い清水神社跡がある「鰲峰山公園まで、歩いて行けますか?」と尋ねたら「遠くはない、20分くらいで行けますよ」と教えてもらう。
静かな駅前で、清水區はえらい「田舎町」かと思ったが、この駅は賑やかな中心街から南の外れで、町の中心は駅より北側に広がっている。清水國民小學を目指して歩いたら、学校らしき建物があり近づくと「清水高級中学」と校門に表記されていた。高級中学は日本の高校。台湾は「国民小學」「国民中學」「高級中學」が、日本の小中高。 -
ムムム、何か芸術建築を思わす柱
ギリシャのパルテノン神殿のエンタシス柱?
さりげなく上部が細くなっている
何でこんなかっこいい駅がこんなところに
1935年(昭和10年)の清水街震災で初代駅舎は壊れ
翌年5月今の駅舎が完成・・・とある -
当時の日本人はこんな地方の駅まで
手を抜かずというか、こだわって
こんな立派な駅舎を建てたのか? -
駅から駅前を写す
町の中心街から外れたところに駅があり
駅周辺は静かなたたずまい -
清水南國民學校(現:清水國民小學)に行くつもりが
清水高級中学(高校)だった -
遠くから見ても日本時代の学校の雰囲気がある
盆栽に瓦屋根、1935年(昭和10年)竣工
台湾人の通う公学校として建てられた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%A6%E6%A0%A1
日本人の通う学校は小学校
蕃人の通う学校は蕃人公学校
台湾事情を考慮して分けていた
これを差別と言うな愚か者!
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■清水南國民學校(現:清水國民小學)を訪ねる
http://www.tonyhuang39.com/tony0822/tony0822.html
もう一度地図を見直し向かった先に、「清水国民小學」の正門らしきが目に入った。校門は閉まっていたが正面に大きく立派な盆栽のように手入れされた木がある。ここだここだと思って入ろうとしたが門が閉まっているので、入り場所を探して塀伝いに南に歩き、そのまま塀に沿って西方向に歩いたが塀が続くばかりで入り口見当たらず。
又来た道を戻り回転式の出入り口から進入した。月曜日で授業があると思い込んでいたが、中に入っても人影なく不思議だった。そして日本時代に煉瓦造り三合院様式で作られた校舎へ向かう途中、用務員らしき年配の叔父さん(Tさん仮名)が花壇に水を撒いていた。
「日本から来ました。学校内を見学したいのですが・・・」と言うと、Tさんは満面笑顔になり、急に早口で説明をしだした。内容はよく分からないが、校舎の説明をしてくれているようで、校内を案内するからとホースを置いて歩き出した。中庭のようになっている運動場は素晴らしい天然芝のグランドでサッカーゴールがある。赤レンガの校舎に囲まれた天然芝の運動場、絵てきにも素晴らしい。
月曜日なのに児童がいないのは、昨日の日曜日創校117周年の祝賀運動会があって今日は代休とのこと。運動場に昔の朝礼台と新しい朝礼台がある。Tさんが「こっちが古い朝礼台で、後ろに計7本のポールが並んでいる。真ん中は国旗?で、左右に三本づつ1、2,3,4,5,6年の旗が立つ」と教えてくれた。廊下の天井を指差して、「これも昔のまま」屋根を指差して「屋根瓦は日本から取り寄せた」と修復時のことなのか?そんなことを説明してくれたと思う。私の漢語能力では正確に聞き取れない。
今年71歳のTさんは退職してから、この仕事をしているようだ。講堂は少し離れたところにあり閉まっていたが、この学校と同じく1935年竣工とあった。内部をガラス越しに見たが立派なものだ。この学校に来て、そしてこの校舎を見た日本人は驚くだろう。何故か?とにかく小学校とは思えない。赤レンガで造られ風格がある。煉瓦作りの建物に惹かれるものがある私は余計にそう感じるのかもだけど・・・。
まるでイギリスの貴族の坊ちゃんが通うスクールのようだ。運動場に面した回廊の円柱の柱といい、瓦屋根の美しさといい。修復したからこれほど美しい校舎として今もここにあるのだろうが、きっと元々はもっと美しい立派な校舎だったろう。この小学校を見て感動した。当時の日本人は小学校にこれだけのお金を掛け、これだけの立派な校舎を作った。「教育が大事」という気持ちが本当でなければ田舎町にこんな素晴らしい小学校を建てれるものではない。
そんな校舎の教室に「一年乙班」とあった。小学校1年生の教室である。こんな学校で学ぶ子供も先生も校門を一歩潜れば背筋は伸びる。職員室の内部が窓ガラス越しに見えたが天井には並んでアンティークな扇風機が付いていた。1935年竣工は、まだ公学校(台湾人の通う学校)時代に建てた学校だ。日本統治が如何なるものだったのか、この学校を見ても伝わってくる。
戦後日本人には先人を侵略者呼ばわりする者がいる。同胞でありながら情けない限りだ。正面玄関前には1937年(昭和12年)川村秀徳校長が芝山巌から自然石を持ち帰り「誠」という一文字を掘り込んだ石碑が玄関大樹の下に白文字鮮やかに置かれている。
新しい校門には「吾愛吾校:吾母校を愛す」と、学校名の下に学校名の三倍の大きさで書かれていた。私にとって戦後の日教組左翼教師は、軽蔑の対象でしかない。
そしてこの日本時代の校舎も921地震で相当傷んだようだが、ここまで綺麗に修復し使い続けてくれる台湾の人たちに心から感謝と敬意を表す。見事成り。本当に美しく気品ある小学校だ。一人でも多くの日本人にこの学校を見てもらいたい。「臺中市清水區清水國民小學詳細資料」
http://www.tc.edu.tw/school/list/detail/id/453
Tさんの早口と早足での案内にお礼を述べ「もう少し一人でゆっくり見せてもらいます」と別れた。終始笑顔の優しいTさんだった。旅先の一期一会のありがたい出会いがここでもあった。Tさんと別れ一人で余韻に浸りながらもう一度“ゆっくり”見て回った。赤レンガ、屋根は真っ黒な瓦。そんな平屋の校舎がU字型に配置され、その校舎に囲まれ中庭のような天然芝の運動場。新校舎が背後になければ映画のロケにも十分使える。そんな映画のワンシーンが目に浮かぶ。来て良かった。ここを見れて良かった。
出る時は、警備員が常駐している玄関から出た。入る時は反対側に行ったのでこの門のことは分からなかった。 -
日曜日で入る場所分からず
半周周ってここから入った
警備員のいる今の校門は、旧正門の左方向にあった -
この叔父さん(Tさん)が案内してくれた
笑顔で早口、ほとんど理解できないが
この校舎の素晴らしさを感情込めて
語ってくれていることはひしひしと伝わる
日本時代に作られた赤レンガの小学校
ここに来て心から感動した
こんな素晴らしい校舎で学ぶ子供たちの幸せ
こんな素晴らしい小学校を建てた当時の日本人
是非、是非、是非!
この小学校を一人でも多くの日本人が訪ねることを願う -
後ろの新校舎がなければ・・・
この芝生運動場と赤レンガ校舎は
英国の貴族の子弟が通うエリート小学校を想起する
台北でも高雄でも台南でもないこの清水に
こんな小学校を作った日本人の心根に感動す
そして今も大切に修復保存し実用してくれている
台湾、清水の人たちに心から感謝する。非常感謝! -
古蹟講堂の名あり
今も現役講堂として立派に用を勤めている -
天井はアーチ型、格子状の木組み
立派なり、立派なり、品と風格あり -
日本時代に作られた七本の掲揚台
中央に国旗?
左右に三本づつ学年ごとの旗が揚げられたようだ -
私は国内外通じてこんな素敵な小学校をみたことがない
廊下の柱はパルテノン神殿を思わすエンタシス柱
美しく学校を保ち続け、沿革も正しく伝えて頂き
大げさと言われても一日本人として喜びにたえない
清水國民小學簡史
http://www.cses.tc.edu.tw/~history/history.htm
清水國民小學
http://dns.cses.tc.edu.tw/joomla2/ -
鐘楼もある
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Tさんが天井を指差して説明してくれたが
何を言っているのか分からず
でも美しい天井だというのは見て分かる -
職員室もガラス越しに覗けたが
アンティークの天井扇風機に格子模様天井
先生の机の仕切りも・・・
何から何まで風格あり
日教組教師に席はない -
1937年(昭和12年)川村秀徳校長
芝山巌から自然石を持ち帰り
「誠」
という一文字を掘り込んだ石碑 -
「吾愛吾校」
学校名の三倍の大きさの文字
こっちが新しい校門のようだ
警備員もいた
清水国民学校
http://youtu.be/rPp4aQ8wuE0 -
清水神社の裏参道入り口
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■清水神社跡に向かう
学校を出て清水神社跡に向かって歩く。道沿いにある廟で立ち止まりながら歩いた。地図の通り大街路を北に歩けば、「臺中市清水地政事務所」が右手にあり、建物横が裏参道だ。表参道は道路になって昔の面影はないが、裏参道は往時の姿を留めている。「日冶時期後参道」の写真入標識が壁に貼り付いていた。この辺り一帯を含めて「牛罵頭(ニューマァトウ Niú mà tóu)遺址文化園區」となっている。牛罵頭は清水の旧地名で1920年から臺中州大甲郡清水街となった。
1937年(昭和12年)清水神社建設の際に、石器や陶器などの考古品が出土し、1943年東アジア先史学研究の「國分直一」(1908年4月28日東京生〜2005年 享年97歳)の調査によって正式に「牛罵頭遺址」と認定された。國分直一は台湾に戦後四年間「留用」されている。
http://youtu.be/4ER1ZkqKSOc
裏参道入り口には人体像の彫刻モニュメントがあり台座は黒御影石で「清水公園」と金文字で刻まれた立派ものがあった。灯籠とは違ってこの場に違和感もあるが「1996.5.10 台中港區扶倫社捐建(寄付)」と記されている。何かの新興宗教か?と思ったら、扶倫社とはロータリークラブ(Rotary club)のことだった。ロータリークラブ(RC)にもライオンズクラブ(LC)にも残念ながら縁もなくこのマークを見ても分からなかった。
写真で見ていた場所に来た。目の前に見事な階段が上に続いている。家でネット写真を見ながら「もうすぐこの階段を上るだろう」と想像していたことが現実になる瞬間だ。いつもなら階段の数を数えるが、この長さを仰ぎ見てその気は失せた。ネットに書いていたし「288段」の階段を数えず上る。写真で見ていた以上に綺麗な階段参道だった。着物を着て上る人たちも多かっただろう。そんなよき時代のよき風景は、もう見れることはない。
上り、止って下を見て、また上り、288階段は値打ちがある。体育クラブの“しごき”“鍛錬”にはもってこいの階段だ。私の後にも誰か上ってきた。上りきる手前右横に「清水街震災祈念碑」がある。1935年(昭和10年)4月21日新竹台中大地震:清水の死亡326人。台湾全体で3276人死亡、1万1976人負傷。
日本人被害者の数が日本のネット検索では分からなかったが、台湾のウィキペデイア(維基百科)「1935年新竹台中地震」では『地震共造成3279人死亡,受傷者則有11976人,死傷者共計15255人。死者中,屬於?地人(日本本土人)者有8人,來自中華民國者有17人,其餘則皆為本島人。』とあり、日本人死者は8人、大陸中国人17人、その他は全て本島人と書かれている。
http://zh.wikipedia.org/zh-tw/1935%E5%B9%B4%E6%96%B0%E7%AB%B9%E5%8F%B0%E4%B8%AD%E5%9C%B0%E9%9C%87
この震災祈念碑は台座の上に立っている碑柱は補修されている。多分元の碑柱に亀裂が出来、その上から大理石の板をあて四隅をL字の金属で補強しているように見える。阪神淡路大震災で高速道路の橋脚にヒビが入り、その補強のために鉄板で囲んだように。元の台座部分には犠牲者の名前が刻まれていた。ざっと150名くらいの名前だと思うが、その中に日本人らしき名前は見つけることは出来なかった。 -
臺中市清水地政事務所
この横が神社の裏参道 -
裏参道入り口のモニュメント
黒御影石の台座に
「清水公園」と金文字で彫られている
ロータリークラブ(Rotary club)寄贈・・・ふ〜ん -
私は数えなかった288段の階段
和服姿の日本人参拝姿を想像しながら歩く -
神社建立1937年(昭和12年)
67年前の光景は如何に?
きっと今より百倍美しかったと思う -
清水街震災祈念碑
死者3279人,受傷者11976人,死傷者共計15255人
日本人死者は8人
大陸中国人17人
その他は全て本島人
「1935年新竹台中地震」
http://zh.wikipedia.org/zh-tw/1935%E5%B9%B4%E6%96%B0%E7%AB%B9%E5%8F%B0%E4%B8%AD%E5%9C%B0%E9%9C%87 -
このデカイ扉の隙間から覗き込んでいたら
いきなりゴロゴロと扉が開いた
管理員に「神社跡を見に来た」と言ったら中に入れてくれた
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■清水神社跡
階段を上りると幹線道路があり左方向を見ると大きなゲートがあった。門は閉まっていたが周囲の風景から門の向こうに神社があったのだろうと直感した。門に近づいて隙間から覗き込んだりしていると、その大きな門扉が動き開いた。中に一歩踏み込むと管理の人が「何のようか?」と聞いてきたので「神社跡を見に来たのですが・・・」と言うと中に入れてくれた。
http://proj1.sinica.edu.tw/~photo/subject/2_temple/intro-06.html
清水神社は昭和12年11月23日に鎮座したが戦後取り壊され1997年まで陸軍駐屯地になっていた。そして2002年「牛罵頭遺跡公園」となった。しかし今は公園として開放している様子はなく荒れ果てていた。それでも門を入ればすぐに神社跡は分る。正面に階段がある一段高い神社の本殿基礎部分がどっしりと構え、いつものことだが現実に無くてもそこに神社が建っているように思える。神社跡は一見してどこも同じあり、ここも左右に狛犬が今も健気に「無き本殿」を守り続けている。狛犬と南極に生き残ったタロ・ジロ、それに忠犬ハチ公の姿がダブル。
この辺りの約3500年前〜4500年前の地層から人が生活していた痕跡を示す石器・陶器などの出土品が発見され、それらの展示館がある。今は管理の人が何人かいるだけで普段は門も閉じられたままなのだろう。ネットで紹介されている写真も門の上に手を伸ばして撮った写真が多い。私もたまたま門を開けてもらえたようで運が良かった。
ここの狛犬の横に狛犬の説明板があった。写真に写していたので帰国後見たら次のようなことが書かれていた。『狛犬の開いた口は「阿(あ)」を表し、閉じた口は「吽(うん)」を表している。「阿」「吽」はサンスクリット語で、二つの文字がセットになって宇宙の万物を象徴する』そうだったのかと今分かった。「阿吽」「阿吽の呼吸」「阿吽の仲」『阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。』・・・なるほど。
それと『皇紀2600年を祝うため、台湾総督府が進めた政策により、台湾各地で神社の建立ブームが起こった。当時の台中州大甲郡は清水街に設けられたために、台座に「祝皇紀2600年」「奉納」「大甲郡小学校職員一同」などの文字が刻まれている』と書かれている。そうか皇紀2600年は昭和15年1940年。今年2013年は皇紀2673年。西暦に660年足せば皇紀となる。
私は年賀状には毎年皇紀年を書いている。来年は皇紀2674年なり。世界標準として西暦の使用も必要だが、日本人は皇紀をいつも念頭に置くことも大切だ。それだけの歴史ある国に生まれたことに感謝する。国を守り続けるのは簡単なことでは決して無い。ほぼ単一民族で独立を保ち続けた国は世界に唯一日本だけだ。先人が戦い守ってきた。米国庇護に頼る太鼓持ち国などいつ消滅しても不思議ではない。
落書きされたのか口の周りを赤や白のペンキでなぞられた狛犬と別れを告げ、管理員に「謝謝!」と礼を述べ門を出た。 -
基礎台の左右に狛犬あり、神社がまぶたに浮かんだ
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清水神社:1937年、昭和12年11月23日に鎮座
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http://proj1.sinica.edu.tw/~photo/subject/2_temple/intro-06.html
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清水神社
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口を閉じた狛犬は吽(うん)を表す
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狛犬の開いた口は「阿(あ)」を表し「阿」「吽」はサンスクリット語で
二つの文字がセットになって宇宙の万物を象徴する・・・とのこと
台座に『祝 紀元二千六百年 大甲郡小公學校職員一同』と記されている
私は残念ながらそこまで注意力が無く、見落としていた
2012/5/12臺中州大甲郡清水街~清水神社
http://tw.myblog.yahoo.com/mizuho19790514/article?mid=39940 -
神社跡を背にして扉方向を写す
私が入って来たので扉が少し開いている -
台中懸清水鎮鰲峰山公園
内部は人影なく建物も放置されている
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■鰲峰山公園と要塞陣地跡
牛罵頭遺址文化園區を含めてこの一帯は「鰲峰山(アーフンシャン Áofēngshān )市鎮公園」となっている。「鰲」は伝説の大海ガメらしい。以前は清水公園と呼ばれており今も当地の人はその呼称が普通のようだ。「台中懸清水鎮鰲峰山公園」と書かれた入場門があり入って行ったが、今はもう建物だけで人影もなく営業されていないようだった。
神社沿いに紫雲巖方向に歩いていたら芝生公園が広がっていた。そして鵝卵のような石を敷き詰めた石堤があった。これは何なのか?土砂崩れを防ぐ砂防ダムのようなものなのかと思っていたが
「清水鬼洞」
http://blog.goo.ne.jp/taichungleehostel/e/1eca52c3ad7e847bd72ef5a50384671c
「?山戰備道」
http://tw.myblog.yahoo.com/leafymylife-168/article?mid=760
と言われるもので日本軍が構築した地下要塞陣地の一部のようだ。
何も知らず日本軍陣地を見ていたが、傍まで行きながら残念無念。でも『内部は総延長4キロに及ぶトンネルが掘られており、現在一部400メートルが公開されています。平日は一般開放されておらず、土曜日、日曜日の9時から15時までのみの開放となっています。』とあるので、その日は月曜日で分かっていても入れなかったけど。戦争末期に作られたとあり完成していなかったかもだが、台湾決戦の覚悟が伺われる。それを思えば、こういった隠れた地下要塞は他にもあるのかも。
私は満洲各地で関東軍が作った大規模要塞を何ヶ所も見ているので、ここの規模も驚かないがこういった要塞を見るたび戦争の凄さを思う。「生きるか死ぬか?」「勝利か奴隷か?」の選択となれば、どんなことでも成そうとする。必死の力比べだ。そのエネルギーや覚悟は似非平和を生きてきた私にはきっと想定外の次元だろう。 -
芝生公園
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鵝卵のような石を敷き詰めた石堤
「?山戰備道」
日本軍が構築した陣地跡があり
この石堤も陣地の一部なのかも?
http://blog.goo.ne.jp/taichungleehostel/e/1eca52c3ad7e847bd72ef5a50384671c -
金ぴかの寺院はどうも違和感がある
日本の寺院も創建時は絢爛豪華だったのかもだが
やはり日本の寺に派手な彩色は似合わない
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■紫雲巖
鰲峰山公園から坂を下っていくと紫雲巖(住所:臺中縣清水鎮大街路206號)が現れた。三百有余年の歴史があり台中最大の観音寺とある。どこのお寺も同じように豪華絢爛度派手を競うかのように建っている。やはり“お伊勢さん”のように飾り気がないが気品ある社こそ日本人の原点だと信じる。文化価値感の違いだ。
月曜日のお昼、参詣客は多かった。何処の廟に行ってもお供えは山のようにあり、いつも綺麗な供花で溢れ、線香の煙は絶える事ない。みんなのお参りの様子を見ているだけでホッとする。寺院のなかは殺伐さとは無縁の心安らぐ場所であり、こういった祈りの場所があるだけで人々の日々の行いに落ち着きをもたらす。
そんな空間がなければならない。大陸漢族と台湾漢族の違いは宗教への関わりの有無よるところが大きいと感じる。「目に見える」「手に触れる」物質・金にしか価値を求めない世界は悲惨だ。それが共産主義というものだ。 -
台湾ではどこの寺院を巡っても供花に溢れ
熱心な参拝客が祈りを捧げている
創価学会のように政治に関与は最悪だが
宗教は人心に落ち着きを与える -
成功宮
鄭成功を祀る廟がここにもあった
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■清水駅に戻る
清水區に来て清水國民小學を見学し、清水神社跡を巡り、紫雲巖に辿り着き予定終了となった。ちょうど午後12時頃。清水駅まで戻る途中に紫雲巖とは比較にならない小さな祠だが、成功宮があった。開臺聖王「鄭成功」、やはりこの祠の中も綺麗に整えられパイナップルが幾つも供えられていた。
内部には机と椅子が置いてありこの場が地域住民の歓談の場でもあるのだろう。羨ましく思う。私の住んでいる地域では、自治会にも入らない人が増えている。地域崩壊は国の崩壊に繋がり、家族の崩壊にも繋がる。国なくして家族や個人の幸せなどあるはずもない。
駅方向に向かいながら途中で小吃店に入った。擔仔麺¥35元を頼んで食べた。二日目に赤嵌樓の傍にある「赤崁擔仔麺」で食べた擔仔麺¥50元より、こっちの方が美味しかったし値段も安いのに量も多かった。「台南 擔仔麺」という看板を出している店だった。そこから10分ほど歩いて清水國民小學近くで日本家屋らしきが数棟並んでいるのを見つけた。
どう見ても日本家屋で、学校の塀と同じような赤煉瓦塀に囲まれた中に家があった。小学校の職員住宅だろうと思ったが、やはり「清水公學校日式宿舍群」であり、保存はしているが放置され開放されていない。今後修復され数軒でも史蹟として残して欲しい。清水國民小學の塀には創校117周年を祝花の飾りが沢山並んで立て掛けていた。
12時55分清水駅に到着。清水→新烏日行き(¥33元)區間車は、13時13分(発)。ちょうど良い時間に戻れた。預けていたリュックを受け取ってホームで待った。新烏日駅までに追分という古い駅舎があったので写真を撮ったら、やはりこれも日本時代の駅舎だった。 -
開臺聖王
鄭成功鎮座
台湾ならではのお供えのパイナップル -
「台南 擔仔麺」で昼食を
-
越南(ベトナム)のメニューも並んでいた
ベトナム人夫婦の店かも
客への応対、感じはすこぶる良かった -
擔仔麺¥35元
台南の有名店「赤崁擔仔麺」の
擔仔麺¥50元よりも味も良し、量も多し
清水に来られた方は是非この店で
清水國小の近く(北方向) -
清水公學校日式宿舍群
住所:清水區鎮南街59號~77號
学校のすぐ横に残っていた日本家屋
歴史建築として保存されているようだが開放はされていない
臺中市清水區清水國民小學
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BA%E4%B8%AD%E5%B8%82%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%8D%80%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%9C%8B%E6%B0%91%E5%B0%8F%E5%AD%B8 -
日本家屋の学校宿舎
昔、ここで日本人家族の生活あり -
2013年10月28日(月)昨日27日(日)は創校117周年の祝運動会
こういった花輪が学校の塀に並んでいた -
祝運動会を見れずに残念無念
もう一日早くここに来れば良かった
地域ぐるみでさぞかし盛会だったことだろう
今日、月曜日は代休で休み -
清水→新烏日の途中、日本風の駅舎を見て写真を撮った
帰国後調べたらやはり日本時代に建てた駅舎(1922年、大正11年)だった
「追分火車站」
http://guide.easytravel.com.tw/scenic.aspx?CityID=10&AreaID=128&PlaceID=2879 -
何も無いところに巨大な近代駅が出現
10年後この駅周辺はどうなってるのか?
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■高鐵:台中站
30分程で新烏日(シンウリー Xīn wū rì)駅に到着。高鐵:台中駅と一緒の場所にある。まだ時間が早いので、高鐵は15:01分(発)に乗ることにした。それまで1時間あるので高鐵台中の駅内を散策する。
ドデカイ駅だ。台中市街から南に離れ、彰化(チャンホア Zhānghuà Chanhua)懸に接した場所にある。まだこれから駅の周囲は発展して行くのだろうが今は町外れもいいとことだ。でも客待ちタクシーがびっしりと停まっていた。休憩のために「紙箱王」なる店に入る。テーブルも椅子も全てダンボールで作られている。紙製品も沢山販売していた。
この「紙箱王」は、台湾各地に店舗展開しているようだから今のところ儲かっているのだろう。この台中「烏日店園區」は心配の人の入りだったが。コーヒーを頼んで紙の椅子に座って小休止。座り心地は良くない。座り心地が良くなければダメだ。
休憩を終えて窓口で切符を購入。台中→桃園¥590元(日本円¥2035円)。「車廂9 座位17E」準備万端、外の風景を見てぶらぶらしながら時間を潰した。そして15:01(発)で桃園に向かう。通路側のことは「走道 ゾウダオ Zǒudào(通路)」 窓側の席は「窗邊 チュアンビエン Chuāng biān」と書いていた。快適な新幹線の移動は、あっという間に終わり定刻15:38分に桃園到着。 -
日本にもこんな店、あるのかなあ?
日本で作ってもあんまり流行るとは思えないけど
http://www.cartonking.com.tw/dkrest.asp?BKID=1 -
椅子の座り心地が悪い
日本ならこんな椅子はNGだろう
きっと座り心地の良い紙の椅子を作るはずだ -
並んで切符を購入
台中→桃園¥590元(日本円¥2035円) -
おびただしい客待ちタクシーの行列
まさか二日ほど並んで待っているのではあるまいが -
やって来ました台湾新幹線
快適、快適 -
台湾も山が多い
-
桃園站を降りてここからリムジンバスで飛行場へ
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■桃園国際机場へ
来る時乗った緑色の桃園空港⇔高鐵桃園駅のリムジンバス(統聯巴士)は、2公車月台(2番乗り場)から出ていた¥30元。バスは概ね満員、15分ほどで桃園空港第二ターミナルに着いた。午後4時3分。18:50発まで2時間47分ある。でも帰国への待ち時間は幾ら長くても苦にならない。ホッとし旅の充実感に浸りながら搭乗手続きが始まるのを待つ。
桃園空港内のバーガーキング「麗思坊」で、ハンバーグとオレンジジュースを頼んで一休み。搭乗手続きが始まったのでピーチのカウンターに行った。16:45分。もうすでに並んでいたがそんな時間も掛からず搭乗券を受け取り、手荷物検査場に向かう。
リュックの中味がエックス線検査で疑われリュックから荷物を出す羽目になった。過去にも二、三度あるけど久しぶりでうっとうしい体験になる。何が疑問だったか分からないままOKが出た。
ピーチ航空「MM 28(18:20発−22:10着)」搭乗口はD3、免税店で土産のチョコレートを買い、午後5時半には搭乗を待つだけとなる。しかしこの日、桃園飛行場は滑走路が一つ使えなくなり出発が遅れることになってしまった。関空について三ノ宮までのリムジンバスの最終は23:00。そんな心配をする羽目になるとは・・・。 -
緑色の統聯巴士に乗車
進行方向に背中を向けて座り気分悪し、しまった! -
桃園飛行場に無事到着
心は早くも関空へ -
バーガーキング「麗思坊」で休憩
-
ハンバーグとオレンジジュース
時間潰しと腹ごしらえ -
ピーチで搭乗手続き
地球の上空、日々何機の飛行機が飛ぶのだろう
なかなか落ちないのが今も不思議で仕方がない -
関空到着が遅いからか?
満席ではなかった -
サラバ台湾また来る日まで
充実の七日間だった
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■桃園空港→関空→自宅へ
結局定刻18:20から30分くらい遅れて離陸した。その遅れを速度アップで挽回できないものかと思うが、そうは行かないようで到着も30分遅れ22:40分に飛行機から降りた。定刻ならリムジンバス10:35(発)に乗るつもりだったが、最終に間に合っただけで良しとしなければ。最終午後11時発で三ノ宮に向かう。
三ノ宮に到着してからも何故か気持ちが焦る。走るのはみっともないが焦った。三ノ宮駅前バスの到着が零時18分。4分後の22分の新快速に乗ろうと地下通路に走って降りたらドアが閉まっていた。慌てて駆け上がり広い道路を走って横切った。リュックを担いで深夜に“おっさん”が走る。22分の次は47分にある。
たった25分が惜しくて息を切らして走る。みっともないけどとりあえずベストを尽くす。これで車に轢かれたらお笑いだ。ホームのエスカレーターに辿りついたら目の前の青年が走って上がった。つられてエスカレーターを走る。青年が停車中の車輌に飛び乗った。
「やった俺も間に合った・・・」と続いて飛び乗ったら、反対側ホーム上に人が並んでいた。慌てて閉じようとするドアを両手で押さえ飛び降りた。青年が駆け込んだのは先発の各駅普通車だった。まだ22分に一分ほどあった。知らん振りして息を整え何気なく待った。“みっともない”と思うけど25分の遅れなどどうでも良いと思えない。死んでも直らない損得勘定・・・か。
帰国は28日のはずが、自宅に戻ったのは今日の午前一時前。まず仏壇の前に座って無事に到着を報告した。そして帰国後からまた旅は始まる。旅行記作りの旅は時間が掛かるし、しんどいけど、やめれない。 -
関空(着)は、デジカメ時間午後10時36分
さあ、ダッシュでバス乗り場に行こう -
タラップを降りたのが午後10時40分
結局最終バス(午後11時発)に乗ることになった -
JR三ノ宮駅深夜のプラットホーム
へぇ〜、これが午前零時を回ったホームの様子なのか
とても深夜零時だとは思えない。みんな元気で夜更かし平気か
10月29日(火)になった。私の旅行は六泊八日になった -
午前零時44分の西明石駅
へぇ〜、みんな普通にご帰宅風景
こんな様子が毎日あるのか?
自分の暮らしとは別世界がある -
JR西明石在来線駅
西明石には新幹線の駅もある
新快速・快速・普通はむろん停まる
温暖・台風等の災害も少なく住めば都 -
西明石商店街を歩く
ダイエーの灯りが煌々と
無事帰国す、ご先祖様に感謝
了
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台南・嘉義・台中・清水の旅から帰国して思うこと
台湾は1895年から1945年(昭和20年)まで日本が半世紀に渡って統治していた歴史もあり、何となく外国と言うよりもっと身近な感じがするところだった。満洲とロシア・北朝鮮の国境沿いなどと違って私にとって未知なる世界ではなく海外旅行として行きたい国とならなかった。
しかし昨年の尖閣問題以降、大陸行きは億劫になり、その代わりに台湾へ行ったのが今年の二月、金門島であり台北だ。そこで台湾のことを調べだしたら知らないことばかりで興味が徐々に出てきた。その興味とは、一言で言えば「台湾の不思議」、その不思議とは「何故、親日なのか?」「同じ漢族なのに大陸シナ人と違う?」がある。
台湾は八田與一に代表されるように日本人の業績を正当に評価してくれている。おまけに日本人が祭神となって今も地域で祀られている廟まである。その廟には日本の国旗もはためいていた。そんな現実を目の当たりにして台湾の不思議を思うようになった。
「隣国との真の友好などあり得ない」というのが私の考えだ。なにかと利害が絡む隣国とは時に戦争する敵対国か、或いは力の上下関係の下に成り立っている。でもそれは一対一の関係であり数ヶ国間では「敵の敵は味方」という作用が働く。東アジアでの日本と台湾は互いの隣国シナの脅威に「敵の敵は味方」という関係が友好の絆となっていることもあるが、どうもそれだけではないように思う。
それと同じ漢族でありながら台湾人と大陸シナ人の資質が違うことだ。台湾人は事実を客観的に認め歴史の捏造は良しとしない。その他いろんな行動様式も違う。本省人が彼らと違うのは、日本統治の半世紀に渡る「精神・道徳・文化」等々の影響があると思う。そして「犬去りて豚来る」の豚であった外省人も、圧倒的多数派の本省人に徐々に感化されたのだろう。それに加えて共産主義・文化大革命の愚が違いを際出させるようになったのではと感じている。
しかし「台湾の不思議」も、まだまだ「そうかも?」「そうだろう」という程度ではっきりしない。台湾人の「親日」と「資質」の不思議が台湾への興味となった。そのことについて自分で納得できる答えに到達できるか否か分からないが、今後も台湾への旅を続けようと思う。日本人の足跡を追いながら「不思議の答え」を求めて全島巡りを目標とする。これが今回の旅を終えての私の思いだ。
皇紀2673年、2013年、昭和25年、12月吉日(記)
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清水神社跡・そして帰国
http://youtu.be/NxkulhADtW0
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