2008/05/22 - 2008/06/08
250位(同エリア2401件中)
falanさん
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- 旅行記58冊
- クチコミ5件
- Q&A回答44件
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- フォロワー11人
壁がある時代の東ドイツで2年間暮らしたころを思い出すと、ある種の緊張感と牧歌的な雰囲気がよみがえってきます。警戒心をあらわする人がいる一方で、たいていの人たちは素朴で人なつこく、すぐに仲良くなれました。なかには怪しい人もいましたが。その前に4年間暮らした西ドイツと比べると、くつろげるというか、そんなに頑張らなくてもいいんだ感が高くて、暮らしやすかったのです。
暗い部分に目をつぶる必要はありませんが、精一杯つつましく、あたりまえの暮らしをしていたあの人たちのことを、なつかしく思い出すようになりました。
それで、東ベルリンやアイゼンヒュッテンシュタットを久しぶりに訪れてみた。変わってしまった部分も少なくありませんが、それでもたくさんの「あのころ」に出会うことができました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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こんなところにトラビが!
かつてはそこら中で見かけたものです。
独特のエンジン音と排気ガスのにおいが忘れられません。 -
とはいえ乗車したことがあっただろうか?
たしかな記憶がありません。
ヴァルトブルクやソ連製のラーダには乗った覚えがあります。 -
仕事仲間の電気技師に、湖のそばの小屋に連れて行ってもらったことがあります。
そのときに乗ったのがトラバントだったような気がします。
「週末には別荘に行き、ちっぽけなヨットで遊ぶ。こんな暮らしでも西側の人たちからは貧しいと言われる。そしてたしかに貧しいのだ」と悲しそうな顔をしたのが印象的でした。 -
私がDDR時代に運転していたのは、社用車のメルセデス、アウディ、VWバンです。ベルリンのホテル「メトロポール」で手配したハイヤーのボルボで出かけることもありました。
DDRでは高級官僚の公用車がボルボだったので、交差点に止まっていた白バイの警官が最敬礼してくれることもありました。 -
盗難防止用のハンドルロック!
トラビを欲しがる人が多いんだろうな。 -
さて通りの角を曲がって進むと、正面にシュタージ本部(国家保安省)が見えます。
ここはぜんぜんなつかしくないというか、当時は地図にも載っていない秘密の場所でした。
縁がなくてよかった。 -
シュタージ博物館の玄関を入ったところです。右手の窓口でチケット購入します。シュタージ文書閲覧の申請書があったので手に取りました。
シュタージ文書とは、シュタージよって監視されていた人物の報告書のことです。
窓口のおばさんが「あなたには必要ないものですよ」と言うので、「1984年から86年にかけてアイゼンヒュッテンに住んでたのです」と答えました。
「それじゃあ、ぜひ申請しなくてはね」とおばさん。 -
じつは旅立つひと月ほど前に、閲覧を申請していました。申請そのものはむずかしくありません。シュタージ文書を管理している役所(BStU)のHPから申請用紙をダウンロードして、必要事項を書き込んでからドイツ大使館で認証してもらい、郵送すればよいだけです。
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うまくすればベルリンに滞在中に閲覧できるかもしれないという目論みでしたが、もっと早く申請しておくべきだったようです。10日ほどで受付確認の手紙を受け取りましたが、私に関する報告書が現存しているかどうかの通知は、出発までに届きませんでした。
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通知は帰国後2週間たってから届きました。結論としては、見つからなかったということでした。しかし見つからなかったということが、報告書が作成されなかったということを意味しているわけではありません。壁が崩壊してから、シュタージは全力で機密文書を焼却したりシュレッダーにかけたりしたのでかなりの文書が失われてしまっています。シュレッダーにかけられた紙片の復元も試みられていますが、膨大な量なので復元し終わるまでに数百年かかるだろうと言われているほどです。
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特定の容疑者だけでなく、一般の市民の多くもシュタージの監視対象になっていたことが今では知られています。資本主義国からやってきた外国人も対象になっていたでしょう。電話をするたびに混じるかすかな雑音は、日本語で話し始めると途切れてしまいますが、ドイツ語だと最後まで聞こえていました。宿舎の部屋においてあったベルリンの壁を西側から写した写真集が、いつの間にか消えてしまっていたこともあります。
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運転手として雇っていた東ドイツ人は、30代の口ひげをはやしたビール腹の陽気な男でした。私たちを乗せて検問所を越えて、西ベルリンへ自由に行ける彼が当局の関係者なのは、公然の秘密でした。
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私のように頻繁にドイツ人の同僚たちの家を訪問したり、東ドイツの国内を気ままに旅して回ったりしていた外国人に、シュタージが関心をもつというのはあり得ることだと思います。
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この旅では、ベルリンの次はアイゼンヒュッテンシュタットを訪れる予定でした。旧EKOの工場を訪れ同僚たちと再会して、愉快な一日をすごすことができました。
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もし私の報告書が存在していて、IM(密告者)の氏名欄に、もっとも仲がよかった同僚や女友だちの名前が記されていたとしても、いまさら驚いたりはしません。
そうだったのか、と思うだけです。
再会した何人かのうちの一人が密告者だったとしても、お互いに知らないふりをしてカフェのテラスでおしゃべりをし、別れぎわには抱き合ったでしょう。 -
30年以上にわたってシュタージに君臨したミールケの執務室。
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いちばん奥の部屋は喫茶室になっていました。
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ベルリーナアンサンブル
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そばにあるブレヒトの銅像
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フリードリヒシュトラーセの鹿島建設が建てた国際商業センター。
アイゼンヒュッテンのプラント工事の元請の三井物産も入居していました。 -
共和国宮殿は解体中でした。
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DDR博物館。
背後の建物はかつてのパラストホテル。
このホテルを建てたのも外国の建設会社だったはず。
今はラディソン ブルー ホテルになっています。 -
DDR博物館でもトラバントは人気です。
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東ドイツの国営航空会社、インターフルーク。
一度だけ乗ったことがあります。
シェーネフェルトからプラハまで。
東ドイツの旅行会社のバスツアーに参加しました。
ところが寝坊してバスに乗り遅れてしまいました。
あわててタクシーでベルリンに向かい、飛行機でプラハへ。
プラハのホテルでツアーに合流しました。 -
プラハのホテルのフロントで、ドイツからのツアーは食事中だと言われてレストランに行くと、添乗員に「知らない」と言われてしまいました。
それもそのはず西ドイツからのツアーでした。
フロントにもどって東ドイツからのツアーはいないのか、と確認すると、それなら裏の旧館に泊まっているとのこと。
チェコと東ドイツは盟友なんだから、ドイツといえば東ドイツだろう!
ちょっと悔しかったです。 -
FKK(Freikoerperkultur)の写真です。
いまではFKKは別のものを指すことが多いですね^_^;
西のほうが裸によりおおらかだった気がします。
屋外プールに行くと、まわりの芝生で着替えている女性がけっこういたし、サウナも混浴がふつうでした。
東でもアイゼンヒュッテンの北にあるヘレネ湖に行くと、ヌーディストビーチがありました。 -
ウンターデンリンデンのマイセンのお店。
昔はもっと広かったです。
日本人の同僚数人がマイセン詐欺にひっかったことがありました。
家に伝わる家宝だけど、安くゆずってやると言われて。 -
ブランデンブルク門。
この向こうに壁があり、門の手前で進入禁止になっていました。
この門をくぐることができる日がくるとは。感慨深いです。 -
シュタージ展示室。
こじんまりとしていますが、 -
これは何だっけ?
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ヴォルフ・ビアマン。
東ドイツの反体制歌手です。
西ドイツでの演奏旅行中に市民権を剥奪されて帰国できなくなりました。
マールブルクで彼のライブを聞いたことがあります。 -
郵便の開封、偽装などのための道具です。
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電話の盗聴関連の装置もたくさん展示してありました。
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この曲がり角はよく覚えています。
なぜかさびれた地区でした。 -
そして曲がるとチェックポイントチャーリー。
当時ここを通ったのは50回ほどでしょうか。 -
この新しい施設は、私が帰国する少し前に完成しました。
アイゼンヒュッテンの宿舎を後にして、空港に向かう途中も通過しました。 -
それより前はこんな感じ。
少し異なっていたような気もしますけど、折れ曲がった通路を進みます。
途中でいったん駐車して、書類をもって窓口に行きます。
東に入るときは、チェックはそれほどきびしくありません。
西に出るときも日本人だからか、普段はそれほどきびしくありません。
一度、ひどく検問が厳重で、渋滞していることがありました。
いちいち後ろの座席のシートを取りはずしたり。
あとから聞くと数日前に、検問所の警備兵が集団で逃げ出したのだとか。 -
仲のよい同僚が、どうしても一度西ベルリンを見てみたいというので、
それじゃあ午前に出て夕方戻ってくるというのはどう?
ということで計画を立てたことがあります。
修理の機械部品などをVWバンに積んで西にもちだすとき、木箱に隠れれば、まず見つかることはありません。 -
検問所ではインボイスとパッキングリストを見せるだけです。
機械のはいった木箱はフォークリフトがなければ降ろせませんし、2段に積んであればふたを開けることもできません。
けっきょくどちらかが怖気づいたのか、実行することはありませんでした。
本当に差し迫った事情で脱出したいという人に頼まれたら、きっと実行していたと思います。 -
フリードリヒ・シュトラーセ駅の検問所。
電車で西ベルリンに行くときはここを通りました。
チェックポイントチャーリーと較べて、なぜか注目度が低いですね。
ここで一度、ヒヤッとした経験があります。
当時、西と東のマルクの価値は公式には1対1でしたが、実質は4、5対1くらいでした。
東ベルリンに入る観光客は、入国時に強制的に決められた金額を1:1で両替しなくてはなりませんでした。使い切れなかった分を、捨てるよりマシということで、西に持ち帰って両替する人もいました。 -
東のお金を西から東に持ち込むのは禁止です。
ですが私が西ベルリンで両替した東のマルクをもって、この検問所を通過しようとしたときのことです。
バッグの中身を検査すると言われました。
そんなことは初めてでした。
Zoo駅そばの両替所でしたから、見張っていた誰かに通報されたのかもしれません。靴の中にでも隠しておけばよかった、と思いました。
警官はバッグの中身を一通りあらため、最後にシステム手帳を手に取りました。
開けば東マルク紙幣があらわれます。
観念しました。
警官が私の顔を見つめます。
それからおもむろに、そのまま手帳を返してくれました。
運がよかったのか、あるいは今回は警告に留めるということだったのか。
とにかく心臓がきゅーと締め付けられるような一瞬でした。 -
避難民は歓迎。観光客は出てけ。
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私がドイツにいたころは、西ベルリンで空き家を若者たちが占拠するのが流行ってました。今は旧東地区でも盛んのようです
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壁です。
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ベルナウアー通りの壁。二重になっているのがよくわかります。
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学生たちのグループがひっきりなしにやってきます。
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道具をつかって削り取っていくのは商売の人でしょうか。
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フリードリヒシュトラーセ駅の近くにはベルリーナアンサンブルもあるけど、言葉がわからなくても楽しめるのは、なんと言ってもフリードリヒシュタットパラストのショーでしょうね。
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1984年開館。まさに東ドイツ時代からの伝統が息づいています。
肩肘をはらず見られるので、気分転換にもってこいです。
食事をしながらおしゃれなショーが楽しめる併設のキャバレーは、残念ながら現在は別物になっています。 -
開幕前に、カーテンコールになったら撮影してもよいとアナウンスがあったので、ビデオに撮りました。
http://youtu.be/CcaPiz13KC4 -
チェックポイントチャーリー、フリードリヒシュトラーセ駅とくれば、次はオーバーバウム橋ですね。
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こういうの、嫌いではありません。
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ちょっと歩いていると…
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公園のなかに監視塔が。
ここへ子連れで来ている若い親たちは、壁のことをどれだけ覚えているだろう。
ここに立って当時の写真と見比べてみる。
あの壁、あの空、あの空気…
私はもう思い出せません。 -
ベルリンを後にして、アイゼンヒュッテンシュタットに向かいます。
当時は、東駅から列車が出ていました。
今はベルリン中央駅から直通があります。 -
当時は蒸気機関車も走っていました。
ベルリン近郊ではあまり見かけませんでしたが、アイゼンヒュッテンシュタットではよく見かけました。
SL大好きなので楽しみでした。 -
列車のなかの自販機1
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自販機2
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アイゼンヒュッテンシュタット駅からホテルまで歩きました。
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ホテルの中庭に腰を下ろします。
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まずは一杯。
DDRの普通の食品店で売っている瓶ビールは、けっこうすごかったです。
逆さにすると、おりがどっと舞います。
フィルタで漉していないヘーフェビールというわけではなく、ピルスナーにもかかわらずです。
プレミアムビールは大丈夫でしたけど。 -
翌朝、バスで町へ出かけます。
なにしろ青春時代をすごした場所です。胸が高鳴ります。 -
バス停
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運河を越えると市街地です。
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当時の市街地図を取り出します。
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地図の裏側
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共和国通りで下車。
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繁華街レーニンアレーへの入り口の左手には、かつてのインターホテル「ルーニック」。ほんとうはここに宿泊したかったのだけど、閉鎖されていました。
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ここのレストランには夕食やイベントなどでよく足を運んだものです。
ディスコやインターショップもありました。
一度だけ宿泊したことがあります。
※インターショップは外貨または金券を持っていれば、西側の商品が購入できる店です。 -
右手にはかつてデパート「マグネット」だった建物。
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商店街
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22年前も書店でした。
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この店で買った本が今でもうちに何冊か残っています。
辞書、フェリーニの戯曲集、ゴッホの手紙、ゼーガース、リープクネヒト。 -
向かいのレコード店ではクラシックのカセットテープを数十本購入しました。
ブレヒトが自分で吹き込んだ「三文オペラ」のレコードもどこかにあるはず。
レコード店のとなりのおもちゃ屋では、鉄道模型をたくさん買いました。
何軒かおいて光学製品の店。
お土産用にツアイスの単眼鏡を7、8個は購入したかな。
東のマルクは使い道がなかったという人がいますが、私はいくらあっても足りないほどでした。給料のほかに現地手当てとして、一般の労働者の月給にあたる900マルクを支給されていましたけど。 -
劇場。ときどき映画を観ました。
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この建物は一階がレストラン、2階がディスコでした。
宿舎のすぐそばだったので、よく来てました。 -
残念ながら閉鎖
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若者の多くがこの町を離れてしまったので、仕方ありません。
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Karl-Marx Str.のAWH3(Arbeiter Wohnheim 3)。
私たちが暮らしていた宿舎です。 -
日本人と下請けのユーゴスラビア人作業員が、多いときは合わせて200人近く暮らしていました。
私の部屋はたしか4階の右から7つ目じゃなかったかな。
3人部屋だったけど、私は一人だったので、30平米ほどの部屋の床に鉄道模型のレールを敷いて走らせていました。 -
玄関は昔と変わりません。
通勤着姿の仲間たちがあらわれて「今晩はアクティビスト。いいだろ、つきあえよ」などと話しかけてこないかな。 -
中に入ってみました。
私が赴任したころ、アイゼンヒュッテンシュタットにいた日本人は30人くらいだったかな。工事の最盛期には7、80人くらいになりました。現場と宿舎の往復、休日は西ベルリン、というパターンの人が多かったです。なかにはドイツ語ができなくても同僚と仲良くなる人、仕事帰りにディスコに行って友だちを作るの人がいました。でもDDRでの生活に愛着を感じていた人は少数派です。「前のブラジルの現場はよかった。ここは何もなくて最悪」とか言う人が多かったです。 -
宿舎の裏は運河の行き止まり。
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遊覧船が泊まっています。
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休日にこの船で遠足にでかけたのを覚えています。そのころはまだ工期に余裕があったので、日本人がそろって参加したように記憶しています。
閘門を使って水位調整をする運河を通るのは、私にとって初めての体験でした。 -
時刻表を見ると毎日1便のようですが、運休することも多そうです。
この日も運行していませんでした。 -
中心部の住宅街はブロックごと4、5階建てのアパートに取り囲まれています。
入り口は中庭の側にあります。
中庭は駐車場、子供の遊び場、洗濯物の干し場などに使われています。 -
私がよく訪れていたいくつかの家庭の住居は、広さは60〜70平米くらいだったように記憶しています。冬は極寒の地ですから、暖房はよく効きました。
生活に必要な基本的な食品や日用品は、種類は少ないものの安くじゅうぶんに供給されていました。品質については、どうかなと思うものもありました。 -
少し高級な食料品を扱っている店もありました。
最初のころ私たちは交代で夕食をつくっていたので、
ソ連製のカニ缶を見つけてあるだけ買いこんできたら、みんなに喜ばれましたが、その後棚に並ぶことはありませんでした。
DDR市民のささやかな贅沢を奪ってはいけませんよね。
申し訳ないことをしました。 -
果物や野菜は季節によって、乏しくなりました。
日本ではとうてい売りものにならないような、小さくてしわのあるりんごとかを目にするのはわびしかったです。
上等な肉が入荷したときは、長い行列ができてました。
列ができていたら、とりあえず並ぶ、それから何を売っているのがたずねる、
ということは、たしかにありました。
でも行列を見かけることは、それほど多くはありませんでした。 -
衣類についても、輸出用の商品を扱っているちょっと高級な店がありました。
「サラマンダー」ブランドの靴などは、西でも見かけた覚えがあります。
私も何足か買いました。 -
かつては灰色だった建物が塗りなおされて、おしゃれに変身しています。
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中庭を通り抜けていきましょう。
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中庭って、なんとなくいい感じです。
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DDR時代の建物もわるくないです。
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今では年寄りばかりの町になってしまった、と聞いていました。
子供を見かけるとほっとします。 -
大きくなったら町を出て行ってしまうんだろうな。
EKO(製鉄所)も縮小を続けているようだし。 -
病院はあいかわらず立派です。
具合がわるくなった作業員を、何度か連れてきたことがあるのを覚えています。
日本からやってきて、ひと月たたないうちに淋病にかかってしまったM君は、女医さんに患部を診てもらってから、お尻に注射をうってもらってました。
西ベルリンで遊んできて、そういう病気にかかった人が何人もいました。
医療費が無料のDDRに尻拭いをさせるんですから、困ったものです。 -
DDR時代の絵画もそのままです。
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この病院に入院した後、日本に帰国したAさんのことも忘れられません。
高校を出てすぐに現場に入り、まだ二十歳そこそこだったはずです。
とてもおだやかで感じのいい人でした。
20トンのコイルを油圧で動かす運搬装置に腕をはさまれてしまいました。
見舞いに行くと「申し訳ありません」「申し訳ありません」と涙をこぼしながら何度もくり返すのが、見ていてつらかったです。 -
事故があると、警察の現場検証、調査、対策などで、工事が何日もストップしてしまいます。
工期に間に合わせるために突貫工事をしている最中ですから、大きなダメージです。
私が入所したさい、工事長から最初に言われたのが「絶対にケガだけはするな。ケガをするくらいなら、仕事しないで寝ていてくれたほうが、まだありがたい。わかったか!」でした。
腕を失ったAさんはあんなに若いのに、自分のことよりも会社に迷惑をかけたことのほうを気にしていました。私のほうが少し年上でしたけど、私だったらどうだったかな。 -
たしかこの辺にもインターショップがありました。ここの店においてあったのは、電気製品など高価な品物はなくて、チョコレートなどのお菓子やシャンプー、洗剤、化粧品などの日用品でした。
-
DDRの人たちがどれほど西の商品にあこがれていたことか。インターショップで買い物をするために、西マルク(DM)を欲しがっていたことか。
ここで買い物をするには、西にいる親戚からお金を送ってもらうか、工場でよい成績をあげて褒美に金券をもらうか、しか方法がありません。
たまたま当時は、西側から来た外国人が住んでいましたから、両替してもらう、取引をして手に入れる、という方法もありましたけど。
外貨稼ぎが目的としても、西へのあこがれをかき立てる政策をとったことは、政府自らが墓穴を掘ったのと同じです。 -
この建物はたしか保育園だったはず。
今はなに? DDR日常文化センター!
入ってみない手はありません。 -
あたたかみのあるステンドグラスです。
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DDRといえば、冷たい非人間的な社会を思いうかべる人が多いでしょうけど、懸命に働いて、子育てをして、ささやかな幸せのために生きている人間の心は、そんなに異なるものでありません。
-
私があのころ仲良くしていた16、17歳くらいの人たちは、この保育園で育ったんじゃないかな。いたずら好きの明るくて親切な若者たちでした。
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どこかで見た覚えがあるものも、ないもののあります。
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これは初めて見ました。
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左のシェーバーは私の愛用品でした。
いちばん高価なのを買いました。
ドドドとすごい振動で、迫力満点でした。 -
当時のインテリア。壁紙が大味の柄ばかりでした。
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当時の宣伝デザイン。
あまり射幸心をあおりすぎないよう考えてるのかな。 -
出ました。Forum-Schecks。
これさえあればインターショップで買い物しまくりです。
フランス製の化粧品、ソニーのウォークマン…
これはなかなか手に入らないので、東マルクを西マルクに両替してほしい、と頼まれることがよくありました。相手によりけりですが、私はけっこう気軽に替えてあげました。 -
お店のなかってこんなだった?
量りはなんとなく見覚えがあるけど。 -
もう覚えてないなあ。
-
商品に見覚えはありませんが、こんなふうに店に品物が並んでいました。
けっして物がなくて暮らしに困るという社会ではありませんでした。
ただしもっと品質のよいものを望むのは当然のことです。 -
なつかしい! 青い代用コーヒーの袋。
オペレータ室においてあって、私もしょっちゅう休憩時間にごちそうになりました。オペレータ室は私の控え室でもありましたから。
たしか大豆(チコリー?)をこがして作ってあるじゃなかったかな。
粉が沈みきるのを待って飲まないと、のどがいがいがしてむせそうになります。
3勤1休の4班体制で24時間操業。われわれの圧延機を操作する各班は5人で、うち1名は女性。最年少は19歳、年長者でも20代後半。
どの班とも仲良くしてもらいました。 -
この町に滞在中に禁煙して、現在まで続いています。
DDRのタバコのおかげとも言えるでしょう。 -
男女関係については、とてもおおらかな国でした。
女性もほぼ全員が働いていて経済力があるので、離婚率も高かったです。
DVDにもなっている「コミュニストはSexがお好き?」という映画をごらんになれば、感じがつかめると思います。 -
窓から見下ろすと子供たちが水浴びをしていました。
裏はまだ保育園だったのかな。 -
そろそろ約束の時間なのでEKOに向かいます。
22年ぶりに訪問したいとEKOの広報部に申し込んでいたのです。
当時働いていた人たちに集まるよう、声をかけてくれたとか、どきどきします。
正門近くにこんなものを発見。もちろん昔はありませんでした。 -
正門のそばまでたどりつきました。
淘汰されて消滅した東の企業が多いなか、EKO(Eisenhuetten Kombinat Ost)が操業を続けているのはうれしいです。
広大な敷地を徒歩で広報部のある管理棟まで行くのは、けっこうたいへんでした。
なにしろ町より広いですから。
当時は歩いたことなんかありませんでした。 -
この地下道を通って、工場のいろいろな場所に行けます。
EKOはDDRのシンボルでもありましたから、ホーネッカー議長が外国の賓客を伴って視察に来ることが何度もありました。
オーストリアの首相や北朝鮮の金日成主席などです。 -
ホーネッカー氏と金日成氏がやってきた日のことです。
圧延工場そばの通りには両側に警備兵が立ち並び、そのあいだをボルボの車列が進んでいくのが目に入りました。好奇心を抑えきれず見物に行くことにしました。
行き先は製鋼工場だと見当がついたので、地下道を通って行くことにしました。
とくに警備はしていませんでした。
ここらでいいかなと思って地上にでると、わッ! 10メーター先を二人が歩いてくるところでした。
あたりの空気が張り詰めるのを感じました。
刈上げ頭で身体に合わないスーツをぱたぱたさせた東洋人が駆け寄ってきます。
警備兵も来ます。
逃げるか? 二人に握手を求めに行くか? へたに動かないほうがよいか?
とっさの判断を誤らなくてよかったです。 -
冷間圧延工場のコイルヤードはひっそりしていました。
2万人近くもいたコンビナートの従業員は今では3,200人ほどに削減されてしまったとのこと。社名もEKOから世界最大の製鉄コンツェルンであるアルセロール・ミタルに変わってしまったとのこと。 -
以前は、コイルを移動させるために天井クレーンがしじゅう動き回っていて、ずいぶん活気がありました。猛禽のようにすばやく舞い降りてきて、フックをコイルの穴にとおして軽々とさらっていきます。けっして停止したりしません。見事な早わざでした。
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運転手はたいていオバちゃんで、下から手をふると警笛であいさつを返してくれました。冗談のつもりで「運転させて」と頼んだら、「上っておいで」。
運転席から眺めると、地上はまるでコイルの畑でした。マークを書きこむ作業員はかくれんぼをしている虫みたい。
「下の連中をピンの代わりにして、コイルでボウリングをしてみたいと思ったことあるでしょ?」
「ないわよ」
「ほんとかな。夫婦げんかした日とか―― 正直に言ってみて」
さすがにコイルを吊らせてはもらえなかったものの、となりのクレーンにぶつからないよう移動させたり、フックを左右に動かしたり、しばらく遊ばせてもらいました。 -
われわれの圧延機は今ではあまり使われないそうですが、まだ現役です。
かつての同僚たちが待っていました。 -
当時のオペレータで、今もこの工場にとどまっているのはベルント・シュナーベルだけ。
ほかのオペレータたちは、統一後、この町を去ってしまったとのことです。まだみんな若かったから仕方がありません。親しかったSさんの消息をたずねてみたかったのですが、二人の関係はだれも知らないはずだから思いとどまりました。 -
操作盤
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ガイドローラが見えます。
放射能のマークがついているのは、東芝製の放射線厚み計があるからです。 -
ここはずいぶん手を入れたようです。
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電気室に移動。
-
左の女性は取材に来てくれた地元紙の記者です。
コンピュータ室でいろいろ昔話をしました。 -
新鋭の熱間圧延工場にも案内してくれました。
3つの扉を通って、そのたびに開錠と施錠をくり返すほど厳重に管理しているのに、特別に見せてくれました。
とにかく作業員の姿をほとんど見かけません。
自動化が進んで人手を必要としないのです。
世の中の移り変わりを実感しました。 -
工場見学のあと、町でお茶でも飲もうというこになりました。
もう誰もトラバントには乗っていません。 -
カフェでくつろいでいるところ。
私は運転しないのでビールを頼みました。
それとお菓子の組み合わせ。 -
なにしろ20数年がすぎ去ったのです。
-
みんないい歳になりましたね。
アイゼンヒュッテンシュタットは人口が流出して様変わりしましたが、これから年金生活に入る人たちが余生をすごすには、わるくない町のようです。
町にとどまった年配者は昔なじみと思い出話をしながらおだやかに暮らしているようでした。 -
駅のホームまで見送りに来てくれました。
-
「Die Maerkische Oderzeitung」紙に私の再訪記事が載りました。
こんなにでかでかと。
のどかな町ですから、ほかに記事にする出来事がなかったんでしょうね。
こんなだらだらとした旅行記に最後までおつきあいしてくださって、心よりお礼を申し上げます。
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この旅行記へのコメント (5)
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- jijidarumaさん 2017/03/14 01:39:26
- Kochelseeコッヘルゼー
- falanさん
こんばんは。お立ち寄りとご投票ありがとうございました。
ご投稿のやり取りで、コッフェル湖そばのGoethe-Institutに通いましたとありました。
ツイ、書き込みさせて頂きました。
私は1974年にChiemsee湖畔のPrienプリーンのゲーテ語学校に通いました。
今は同じように閉鎖されて、跡形もありませんが、かつては景観の良い湖畔に
Goethe-Institutがありましたね。
予算が無いのか、志望者が減ったのか、縮小されて寂しい気もします。
尤も会社から2ヶ月の猶予をもらって業務前のドイツ語学習でしたが、
出来の悪い学生にも拘らず、金曜日になるとザルツブルク、インスブルック、ウィーン、
ミュンヘン等に足を延ばしていました。
自動車免許を持っていなかったのでプリーンで初めて運転練習をしました。
勿論、受かるわけもなく、あらためてDuesseldorfでやり直しになりました。
免許を取って翌年の夏の休暇は最初にプリーンに家族を連れて行きました。
思えば、40年以上が経って居ます。
二度目の駐在が1982年からでしたから、falanさんがドイツに来られた頃でしょうか?
2008年の旅行記に22年ぶりに東ベルリンを訪れたとあり、西ドイツにも4年と書かれて
いたので、類推しました。
思い出の地は良いものですね。コッヘルゼーには行かれたのでしょうか?
私は2008年4月にアルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る旅をして、
Mittenwaldをスタートし、コッヘルゼーに車を停めて、小さな町を見学しました。
4階建ての農家は典型的なDurchlaufender Balkonをもち、家の白壁にバルコニーや
緑の色彩が鮮やかな窓の戸袋が調和して、大変美しい建物が多かったです。
Benediktbeuernベネディクトボイエルン(ベネディクト派僧院)を訪ね、Bad Toelz
バードテルツ、Tegernseeテーゲルン湖を周遊しました。
定年後の旅はドイツ主体の旅を楽しんでいます。
長くなりました。恐縮です。
また立ち寄らせていただきます。
jijidaruma
- falanさん からの返信 2017/03/15 12:40:17
- RE: Kochelseeコッヘルゼー
- jijidarumaさん
コメントありがとうございます!
1974年からドイツに駐在されていらっしゃったのですね。
私がコッへル湖のゲーテに通ったのは1980年の2月から3月にかけてです。雪もあって寒かったものの幻想的な風景が素晴らしかったです。いつか再訪したいですが、車でないと不便なところなので、ミュンヘンまで来ても足をのばせずにいます。
日本の免許を学科試験だけでドイツの免許証に書き換えてもらって、東西6年間の滞独中はほぼ毎日運転していました。ですが最近は日本でもほとんど運転することがなく、海外での運転をためらっています。
jijidarumaさんはドイツ中を車でまわられていらっしゃるのですね。当時の紙の免許証を今も携帯されているのですか。それともカード式のものに取り替えてもらったのでしょうか。
博識でいらっしゃるのでとても勉強になります。それにしても奥さまと古城めぐりなんてステキだなあ。コッヘルゼーにもいらっしゃったとか。
小さな村なのでゲーテがなくなって、当時以上にひっそりしているのではないかと想像しています。到着したの日に村人たちの歓迎セレモニーがあり、村の若者たちが民族衣装でダンスを披露してくれました。夜、保養施設に行きサウナに入ると、昼間踊っていた若者たち男女がすっぽんぽんでそこにいたのは驚きました。近頃は日本でもドイツにはおおらかな裸文化があることが知られてきましたが、当時は誰も教えてくれなかったので、最初のカルチャーショックでした。
来年あたりは妻とドイツ旅行をと考えているので、jijidarumaさんの旅行記を参考にさせていただきます。
これからもよろしくお願いいたします。
falan
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- banacoさん 2013/09/17 21:40:09
- 1998年冬
- 正にこのビルの2階から上にGoethe-Institutがあって
約3ヶ月通っていました!
この周り、1998年でも今みたいに観光客なんて全然いなくて
寂しい感じでしたが
私にはそれがまた良くて。
Goetheの先生が
この辺りは歴史的に貴重な場所だと
良く言っていましたが
アンハルター駅の廃墟の一部もあったのですね!!
もっとたくさん写真撮っておけばよかったです。
- falanさん からの返信 2013/09/17 23:46:53
- RE: 1998年冬
- こんなところにGoethe-Institutがあるのですか。
知りませんでした。
ここに通うとは、banacoさんはさすがですね。
私はミュンヘン郊外のコッフェル湖そばのGoethe-Institutに通いました。
今はそのGoethe-Institutはありませんが、風光明媚なよいところでした。
うっかりアンハルター駅の廃墟と書いたのは、私の記憶違いでした。
地図で確認したら500m以上離れていました。
廃墟の前をとおって、この通りまで来たので、その印象がつよくて
そんなふうに書いてしまいました。
気づかせてくださってありがとうございます。
- banacoさん からの返信 2013/09/20 01:18:22
- RE: RE: 1998年冬
- 今はTiergartenのほうに移転したとかで
もうここにはGoetheは無いのですけどね。。
ホントいい場所の時に通えてよかったです。
ちなみに日本で通っていた大学の語学研修だったので
自分で探したわけではないのですけどね^^
湖のそばのGoetheもいいですね!
ドイツの湖はどこもキレイで大好きです。
それにしてもfalanさんは
貴重な時代のベルリンを体験されていて
本気でうらやましいです!!
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