長岡・寺泊旅行記(ブログ) 一覧に戻る
新潟県長岡市「河井継之助記念館」を見学しました。長岡藩、北越戦争から無念の死に至った「河井継之助生誕の地」見学です。山本五十六は戊辰戦争と関係があります。戊辰戦争の真っ只中、会津城下に援軍にきた長岡藩大隊長の山本帯刀(たてわき)等が無念の死にあいました。山本家は家系が断絶しないように養子を向かえました。その養子が高野五十六すなわち、山本五十六です。「河井継之助」と「山本五十六」どうも二人の生涯が重なって見えてきました。写真は山本五十六生誕の地に建つ銅像です。近くの「米百俵之碑」と「如是蔵博物館」にも行きました。

624 「河井継之助記念館」「山本五十六記念館」「米百俵之碑」 「如是蔵博物館」 新潟県長岡市

3いいね!

2012/08/15 - 2012/08/17

450位(同エリア557件中)

0

56

しんちゃん

しんちゃんさん

新潟県長岡市「河井継之助記念館」を見学しました。長岡藩、北越戦争から無念の死に至った「河井継之助生誕の地」見学です。山本五十六は戊辰戦争と関係があります。戊辰戦争の真っ只中、会津城下に援軍にきた長岡藩大隊長の山本帯刀(たてわき)等が無念の死にあいました。山本家は家系が断絶しないように養子を向かえました。その養子が高野五十六すなわち、山本五十六です。「河井継之助」と「山本五十六」どうも二人の生涯が重なって見えてきました。写真は山本五十六生誕の地に建つ銅像です。近くの「米百俵之碑」と「如是蔵博物館」にも行きました。

交通手段
自家用車

PR

  • 長岡市、駅の近くの市内観光案内図。長岡駅近くに名所旧跡が集まっています。

    長岡市、駅の近くの市内観光案内図。長岡駅近くに名所旧跡が集まっています。

  • 「河井継之助記念館」駐車場に何枚かの「長岡城之面影」写真が掲示してありました。

    「河井継之助記念館」駐車場に何枚かの「長岡城之面影」写真が掲示してありました。

  • 駐車場東側の画廊

    駐車場東側の画廊

  • 「長岡城之面影」説明版からです。【越後長岡城は慶長10年(1605)から戦国大名、堀直竒(ほりなおより)によって、築城がはじめられた。その後、元和四年(1618) に入封した牧野忠成に引き継がれている。その規模は17の城門と13の隅櫓(すみやぐら)を備える雄大なものだった。別名兜城(かぶとじょう)・八文字構え浮島城ともいった。】

    「長岡城之面影」説明版からです。【越後長岡城は慶長10年(1605)から戦国大名、堀直竒(ほりなおより)によって、築城がはじめられた。その後、元和四年(1618) に入封した牧野忠成に引き継がれている。その規模は17の城門と13の隅櫓(すみやぐら)を備える雄大なものだった。別名兜城(かぶとじょう)・八文字構え浮島城ともいった。】

  • 「長岡城之面影」説明版からです。【長岡城下の風物詩であったふ6月15日は月十五日は蔵王権現社の祭礼日。長岡町18組の屋台が神田口御門から市中へ出る。花屋台15台、囃子方屋台3台は、見物人とともに場内にはいった。】

    「長岡城之面影」説明版からです。【長岡城下の風物詩であったふ6月15日は月十五日は蔵王権現社の祭礼日。長岡町18組の屋台が神田口御門から市中へ出る。花屋台15台、囃子方屋台3台は、見物人とともに場内にはいった。】

  • 「長岡城之面影」

    「長岡城之面影」

  • 「長岡城之面影」説明版からです。【長岡藩の参勤交代は、毎年6月に上府し、一年後の7月中旬に帰城することを通例とした。参府が6月にあたっていたことから、俗に六月大名といわれた。領内の人びとも喜び、出迎えた。】

    「長岡城之面影」説明版からです。【長岡藩の参勤交代は、毎年6月に上府し、一年後の7月中旬に帰城することを通例とした。参府が6月にあたっていたことから、俗に六月大名といわれた。領内の人びとも喜び、出迎えた。】

  • 「長岡城之面影」説明版からです。【3月下旬から五月ころまでの日を選び<br />師範たちによる砲術が、城下の中島で行われた。武衛流(ぶえいりゅう)・南蛮堅杯流(なんばんけんばいりゅう)・自得流の砲術師範たちは一貫目玉などの大筒も発射した。黄烟柳(きえんやなぎ)・黒雲雷鳴(こくうんらいめい)と称す昼の合図。銀河星・火柳などという夜の合図の三寸玉から一尺玉が打ち上げられ、長岡花火の原型となった。】

    「長岡城之面影」説明版からです。【3月下旬から五月ころまでの日を選び
    師範たちによる砲術が、城下の中島で行われた。武衛流(ぶえいりゅう)・南蛮堅杯流(なんばんけんばいりゅう)・自得流の砲術師範たちは一貫目玉などの大筒も発射した。黄烟柳(きえんやなぎ)・黒雲雷鳴(こくうんらいめい)と称す昼の合図。銀河星・火柳などという夜の合図の三寸玉から一尺玉が打ち上げられ、長岡花火の原型となった。】

  • 「長岡城之面影」説明版からです。【長岡藩は毎年、1月23日足軽方のと飛び道具の技倆をはかる大目中(おおめあて)という訓練を行った。弓組・鉄砲組・持筒組(もちづつくみ)の足軽のそれぞれ各組25名から30名の代表が、主君や重役の立会いのもと、実射をした。的を見事に射当てたものは扇子一箱をもらった。】

    「長岡城之面影」説明版からです。【長岡藩は毎年、1月23日足軽方のと飛び道具の技倆をはかる大目中(おおめあて)という訓練を行った。弓組・鉄砲組・持筒組(もちづつくみ)の足軽のそれぞれ各組25名から30名の代表が、主君や重役の立会いのもと、実射をした。的を見事に射当てたものは扇子一箱をもらった。】

  • 「長岡城之面影」説明版からです。【長岡藩の御能(おのう)は金春流(こんぱるりゅう)。毎年、藩主、直々の御能が行われていた。図は筆頭家老稲垣平助家で演じられた稽古能。そのため稲垣家は二階建の屋敷であった。】

    「長岡城之面影」説明版からです。【長岡藩の御能(おのう)は金春流(こんぱるりゅう)。毎年、藩主、直々の御能が行われていた。図は筆頭家老稲垣平助家で演じられた稽古能。そのため稲垣家は二階建の屋敷であった。】

  • 「河井継之助記念館」新潟県長岡市長町1丁目甲1675-1<br />「河井継之助記念館」は新潟県長岡市と福島県南会津郡只見町塩沢字上の台850-5の二ヶ所あります。先に長岡市の「河井継之助記念館」を紹介します。

    「河井継之助記念館」新潟県長岡市長町1丁目甲1675-1
    「河井継之助記念館」は新潟県長岡市と福島県南会津郡只見町塩沢字上の台850-5の二ヶ所あります。先に長岡市の「河井継之助記念館」を紹介します。

  • 河井継之助記念館

    河井継之助記念館

  • 河井継之助記念館

    河井継之助記念館

  • 「河井継之助記念館」長岡藩の軍隊は“五間梯子”(ごけんはしご)の印がつけられていました。一間は6尺(181.8Cm)つまり5間は909Cm。約9mの梯子です。

    「河井継之助記念館」長岡藩の軍隊は“五間梯子”(ごけんはしご)の印がつけられていました。一間は6尺(181.8Cm)つまり5間は909Cm。約9mの梯子です。

  • 「河井継之助記念館」受付嬢、館内は一部を除いて写真禁止!

    「河井継之助記念館」受付嬢、館内は一部を除いて写真禁止!

  • 「一部を除いて写真禁止」の“一部”をしつこく写真を撮るしんちゃんであった…

    「一部を除いて写真禁止」の“一部”をしつこく写真を撮るしんちゃんであった…

  • 「ガドリング砲」武装中立は果たせなかった。

    「ガドリング砲」武装中立は果たせなかった。

  • 「ガドリング砲」レプリカです。本物は行方不明、川・沼・池等に投棄されたか、洞穴に隠されたか?現在探し出せば、お宝物間違い無し。

    「ガドリング砲」レプリカです。本物は行方不明、川・沼・池等に投棄されたか、洞穴に隠されたか?現在探し出せば、お宝物間違い無し。

  • 平成17年12月27日、日本テレビ系で放映された「河井継之助 駆け抜けた蒼龍」河井継之助を演じる中村勘三郎

    平成17年12月27日、日本テレビ系で放映された「河井継之助 駆け抜けた蒼龍」河井継之助を演じる中村勘三郎

  • ビデオにて「河井継之助」の生涯をお勉強します。

    ビデオにて「河井継之助」の生涯をお勉強します。

  • ビデオ開始

    ビデオ開始

  • 河井継之助の会津への足跡。「八十里コシヌケ武士ノ越ス峠ト継之助ガ吟ジタトコロ」と記されています。

    河井継之助の会津への足跡。「八十里コシヌケ武士ノ越ス峠ト継之助ガ吟ジタトコロ」と記されています。

  • 河井継之助屋敷の庭。

    河井継之助屋敷の庭。

  • 「山本元帥生誕の地」(山本五十六生誕の地)

    「山本元帥生誕の地」(山本五十六生誕の地)

  • 「山本元帥誕生地記念公園」として一角に生家が建てられている。新潟県長岡市坂之上町3丁目3番地内

    「山本元帥誕生地記念公園」として一角に生家が建てられている。新潟県長岡市坂之上町3丁目3番地内

  • 「山本元帥誕生地記念公園記」と題して説明版があった。銅版のため文字が読みにくかった。

    「山本元帥誕生地記念公園記」と題して説明版があった。銅版のため文字が読みにくかった。

  • 公園の銅像

    公園の銅像

  • 公園の一角に生家が復元されていた。(北側から)

    公園の一角に生家が復元されていた。(北側から)

  • 南側から

    南側から

  • 南側から

    南側から

  • 「山本五十六記念館」公園から北へ150m。新潟県長岡市呉服町1丁目4−1入館料金、大人500円

    「山本五十六記念館」公園から北へ150m。新潟県長岡市呉服町1丁目4−1入館料金、大人500円

  • 館内展示室は撮影禁止。展示室以外をしつこく撮るが、撮るものがない!

    館内展示室は撮影禁止。展示室以外をしつこく撮るが、撮るものがない!

  • 館内は撮影禁止、ギリギリまで写真撮影するしんちゃんです。長岡市呉服町1丁目4番1号

    館内は撮影禁止、ギリギリまで写真撮影するしんちゃんです。長岡市呉服町1丁目4番1号

  • やはり、「山本五十六記念館」の方が知名度が違う。次から次と見学者が多かった。

    やはり、「山本五十六記念館」の方が知名度が違う。次から次と見学者が多かった。

  • 受付と多少の商品が並ぶ陳列ケース

    受付と多少の商品が並ぶ陳列ケース

  • 何冊かの図書も置いてあった。日独伊三国同盟に断固反対したが、第二次世界大戦の真珠湾攻撃、総指揮官になりました。日本海軍は、日露戦争での日本海海戦の大勝利を模範としましたが、時代は変りました。アメリカの工業力、軍事力が日本より勝っていました。アメリカ駐在武官として渡米、ハーバード大学に入学した山本五十六は十分理解していたと思いますがなぜ開戦に至ってしまったのでしょう。館内ではブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜された「海軍一式陸上攻撃機」の左翼の一部が展示されていた。24年前パプア・ニューギニア政府から

    何冊かの図書も置いてあった。日独伊三国同盟に断固反対したが、第二次世界大戦の真珠湾攻撃、総指揮官になりました。日本海軍は、日露戦争での日本海海戦の大勝利を模範としましたが、時代は変りました。アメリカの工業力、軍事力が日本より勝っていました。アメリカ駐在武官として渡米、ハーバード大学に入学した山本五十六は十分理解していたと思いますがなぜ開戦に至ってしまったのでしょう。館内ではブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜された「海軍一式陸上攻撃機」の左翼の一部が展示されていた。24年前パプア・ニューギニア政府から

  • 入り口

    入り口

  • チケットといただいたパンフレット

    チケットといただいたパンフレット

  • 「米百俵之碑」

    「米百俵之碑」

  • 朝市の準備か終了か「米百俵之碑」の北側路地裏

    朝市の準備か終了か「米百俵之碑」の北側路地裏

  • 「米百俵之碑」が判らないため、南側の朝市の方に聞いた。

    「米百俵之碑」が判らないため、南側の朝市の方に聞いた。

  • 記念碑判りますか?左下、柱の間に小さくあります。

    記念碑判りますか?左下、柱の間に小さくあります。

  • 「野本互尊翁」銅像。長岡再発見Webからの一部コピーです。【大正4年11月、商人だった野本恭八郎は大正天皇の即位を記念して、互尊文庫に使ってほしいと23万円の株券を長岡市に寄付しました。同6年11月、その寄付金で現在の東坂之上町1丁目に全国でも5指に入る立派な図書館が完成しました。以下略】Webは「http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/」

    「野本互尊翁」銅像。長岡再発見Webからの一部コピーです。【大正4年11月、商人だった野本恭八郎は大正天皇の即位を記念して、互尊文庫に使ってほしいと23万円の株券を長岡市に寄付しました。同6年11月、その寄付金で現在の東坂之上町1丁目に全国でも5指に入る立派な図書館が完成しました。以下略】Webは「http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/

  • 「互尊文庫」図書館

    「互尊文庫」図書館

  • 「如是蔵博物館」財団法人日本互尊社(如是蔵博物館)は互尊文庫を寄付した野本恭八郎(互尊翁)が創立者です。長岡再発見Webからの一部コピーです。【「如是蔵」は「これ蔵のごとし」の文字どおり、ここにはいろいろなものがあるということを意味しています。建物は戦前から中心市街地に残る数少ない鉄筋コンクリート製の建造物です。1階には、野本恭八郎の胸像や野本をしのんで書かれた「清修自守」の軸などの資料が展示してあります。2階には、連合艦隊司令長官の山本五十六の資料が集められています。圧巻は明治38年(1905)5月の日本海海戦で山本が重傷を負ったときの血染めのハンカチ、衣服です。3階には、駐米大使を務めた斎藤博や法務大臣などを歴任した小原直ら戊辰戦争以降の長岡の人びとの資料が展示してあります。】<br />

    「如是蔵博物館」財団法人日本互尊社(如是蔵博物館)は互尊文庫を寄付した野本恭八郎(互尊翁)が創立者です。長岡再発見Webからの一部コピーです。【「如是蔵」は「これ蔵のごとし」の文字どおり、ここにはいろいろなものがあるということを意味しています。建物は戦前から中心市街地に残る数少ない鉄筋コンクリート製の建造物です。1階には、野本恭八郎の胸像や野本をしのんで書かれた「清修自守」の軸などの資料が展示してあります。2階には、連合艦隊司令長官の山本五十六の資料が集められています。圧巻は明治38年(1905)5月の日本海海戦で山本が重傷を負ったときの血染めのハンカチ、衣服です。3階には、駐米大使を務めた斎藤博や法務大臣などを歴任した小原直ら戊辰戦争以降の長岡の人びとの資料が展示してあります。】

  • 長岡駅東側、うっそうと茂る林の中に怪しい“蔵”が如是蔵博物館です。長岡市内を足早に観光見学しました。八十里超えは自動車は」通れないため、六十里超えをして只見町へ移動します。

    長岡駅東側、うっそうと茂る林の中に怪しい“蔵”が如是蔵博物館です。長岡市内を足早に観光見学しました。八十里超えは自動車は」通れないため、六十里超えをして只見町へ移動します。

この旅行記のタグ

3いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP