2012/08/15 - 2012/08/17
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しんちゃんさん
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小さなかわいい「会津新撰組記念館」ですが、内容は奥が深いです。館長個人で蒐集した品々が展示されています。写真OKです。PRも兼ねて見学のご報告をします。(写真NGの博物館・記念館は嫌いです)平成25年度、NHKの大河ドラマは「八重の桜」に決まりました。戊辰戦争で壊滅した会津若松が新島八重(旧姓山本八重)の故郷です。“会津の頑固女”が“日本のナイチンゲール”へ変貌した生涯を垣間見たくなりました。生家、父「山本権八」の石碑のある光明寺、山本家の菩提寺「大龍寺」等ゆかりの地を訪ねてきました。遠く、新潟県長岡市「山本五十六記念館」「河井継之助記念館」南会津郡只見町「河井継之助記念館」も見学しました。パート1「会津新撰組記念館」見学。
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「会津新撰組記念館」は4年前に開館しました。1階は「骨董 むかしや」、2階が「会津新選組記念館」です。館長は高橋一美様骨董品を蒐集しながら、すべて自分で探し当て集めたそうです。NHKへ貸出し中の品もあり、現物が無い物もあります。蔵は明治22(1889)年築造、駐車場は3・4台駐車可能。
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1階は「骨董 むかしや」所狭しと骨董品が陳列
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1階のレジのわきから、記念館入り口です。見学するカップル、しんちゃん得意の「見学しているところを写真撮らせて下さい」「ネット掲載良いですか?」OKをいただきました。
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「松平容保(まつだいら かたもり)」会津藩の第9代(最後の)藩主。京都守護職は本来彦根藩が着くことになっていたが、井伊直弼が暗殺され13歳の家督を継いだ井伊直憲では荷が重いため会津藩に要請された。これが悲劇の始まりである。初めは容保の体調、藩の財政圧迫等、家臣は全員反対していた。では何故最終的に“京都守護職”引き受けたのか…やむにやまれぬ理由がありました。
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新撰組英名録134名、多いときは200名くらいだそうです。
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説明版からです。【火縄銃(井上流十匁玉筒)銘文 無銘 徳川幕府鉄砲方 井上正継(外記)の開いた、井上流砲術仕様の十匁玉軍用士筒で、ステッキの柄のように曲がりを見せた銃把が特徴的で、様式ピストルの影響をうけたものである。】
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説明版からです。【会津藩製五匁玉火縄式銃 銘 会津住渡部理(兵衛)会津藩の鉄砲鍛冶 渡部が 製造した火縄銃】
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【火縄銃弾丸各種 鉛製の丸玉で、火縄銃の口径により何匁玉筒といわれた】説明版よりです。
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新撰組組長「近藤 勇(こんどう いさみ)」武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)出身。14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」へ参加。浪士組は京都で壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊したため「壬生浪士組」という名前になる。後に働きぶりが認められ、朝廷より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。派閥等あったが最終的に近藤勇が組長の「新選組(新撰組)」が立ち上がった。
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「土方歳三」【天保6年5月5日(1835年5月31日)- 明治2年5月11日(1869年6月20日)。 東京・多摩郡石田村(現東京都日野市石田)生まれ。新選組副長。鬼の副長と称され隊士たちから恐れられた。11歳の時に江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現在の松坂屋上野店)へ奉公した。その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね、修行を積んだ。真紅の面紐に朱塗りの皮胴など洒落た防具を使用しており、対戦相手は「この洒落者めが」と見くびったが、いざ竹刀を交えるとたちまち酷い目に遭わされた。高幡不動の境内をよく稽古場所として使っていたともいわれる。函館「箱館一本木関門」にて明治2年(1869年)5月11日、戦死。】Wikipediaより
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【新島八重 帯刀姿 戊辰戦争を彷彿とさせる八重の帯刀姿の写真です。】説明です。今回の旅の目的は新島八重(山本八重)探索であったが、だいぶ脱線、わき道へそれてしまった。時代背景や歴史を学習しなければならず、これが一番苦手である。(新島八重本人は八重子とサインしたときもあった)NHK「八重の桜」イントロダクションです「http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/intro/」新島八重の役は綾瀬はるかさんです。ちょっと美人過ぎると思うが…
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2階「会津新選組記念館」
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山本八重の兄「山本覚馬」説明版からです。【山本八重(新島八重)の兄 会津藩砲術家 山本覚馬(やまもとかくま)会津藩砲術家 山本権八の長男。藩校日新館に学び文武兵学を修得、とくに会津藩で用いられた長沼流 兵法に造詣が深かった。後に江戸へ出て佐久間象山、勝海舟を訪ね、蘭学、洋式砲術を研究。蘭学所を設置し、会津軍の近代化を目指した。元治元年(1864)七月の京都 禁門(蛤御門)の蛮では砲兵隊の指揮を取り長州藩兵を撃退する。慶応四年(1868)一月、鳥羽・伏見の輯いで捕らえられ同藩邸に幽閉。失明と脊髄を損傷しながらも、意見書「山本覚馬建白(管見)」を口述筆記、これを読んだ西郷隆盛らは敬服したという。後に仙台藩邸の病院に移され、ここで岩倉具視の訪問を受け、翌年釈放された。京都府顧問や京都郷商工会議所会頭として活躍。またキリスト教に共感し、妹八重(新島八重)と共に新島襄らの「同志社創立」にも協力した。】山本覚馬の役は西島秀俊です。追加:【「管見」は、慶応4年6月、覚馬が新政府に宛てて(御役所宛てとなっている)出した政治、経済、教育等22項目にわたり将来の日本のあるべき姿を論じた建白書である。自分の見解(「管見」)と謙称している。中略将来を見据えた優れた先見性に富んでおり、明治新政府の政策の骨格とも繋がる。】Wikipediaより【山本覚馬が幽閉されていた薩摩藩邸は、後に山本覚馬が購入し、山本八重の夫となる新島襄が設立した同志社英学校の建設地となっている(現在の同志社大学今出川校)】「あらすじと犯人のネタばれ」より「http://netabare1.blog137.fc2.com/」
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【大政官高札 慶応四年(1868)八月に、新潟の町に掲げられた新政府軍(大政官)の高札】説明版からです。
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説明版からです。【山本(新鳥)八重が鶴ヶ城籠城戦に使用
スペンサー七連発騎兵銃 1860年、アメリカで発明された世界最初の後装式連発銃で、アメリカ南北戦争に活躍。我国では慶応年間に佐賀蕩か輸入したのが最初で、戊辰戦争では薩摩藩が1万6千挺、佐賀藩は2千挺を輸入して奥羽の戦いに投入、奥羽越諸藩からは元込七連発銃と恐れられた。・・・ -
・・・慶応4年(1868)8月23日、会津藩砲術家の娘山本八重(新島八重)は、この銃を持ち鶴ケ城に入城、―隊を率いて北出丸に殺到した新政府軍に向け発砲、この戦いでは土佐藩諸道軍監 小笠原唯八、三番隊長小笠原謙吉が戦死、薩摩藩二番砲隊長 大山弥助(巌)(後に元帥・陸軍大将)が負傷した。】
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スペンサー七連発騎兵銃の詳細な説明書
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ゲベール銃の弾丸とゲベール銃の弾造り鋳造だが…「ゲベール銃の弾造り鋳造」はNHK大河ドラマ「八重の桜」の撮影に使用する為に貸出中
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下記写真説明です。(たまには、見学したつもりで、読んで下さい“行った気になるしんちゃんさんの旅行記”です)
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畑から出土した弾丸
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【「ヤタガン式銃剣」イギリス製エンフィールド銃やスナイドル銃用の銃剣で、突撃の際には鉄砲の筒先に付けて使用した。】説明版からです。
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【中野半三郎・五郎 遥拝碑 会津藩遊撃隊 中野半三郎は、慶応四年(1868)四月二十五日の白河の戦いで25歳で戦死した。当館には、半三郎が戦死の際に付けていた肩章(認識章)が所蔵されており、墓碑は会津藩の共同墓地である大窪山墓地に中野五郎と共にある。】説明版からです。
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【会津に来攻の新政府軍 備前 岡山藩 銃隊士の凱旋写真 戊辰戦争では八百六人が出兵し、小田原・江戸(上野)・二本松・会津へと転職して、五十人が戦死した。仙台藩降伏後に白石城を接収した。】
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「各種雷管」
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【新政府軍 長州藩将校の軍装 会津に来攻した新政府軍 長州藩将校がかぶった「熊毛頭」で、熊毛頭は、毛の色により赤熊(しゃぐま)・白熊(はぐま)・黒熊(こぐま)と称し、主にヤクという動物の毛で作られた。熊毛頭は、戊辰戦争時に突如出現した物で、「官軍」と称した新政府軍将校の威厳と、戦闘時の威嚇効果もあった。この熊毛頭(白熊)は、山□県下関市在住の小川忠文氏より寄付された、長州藩将校が戊辰戦争に使用した物である。】説明版からです。
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「古戦場出土の小銃弾丸」
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「新政府軍 今治半弾薬箱」説明は下記を読んで下さい。
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「新政府軍 今治藩弾薬箱」説明です。
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「会津若松城砲撃の図」説明の要約です【鶴ヶ城から約1600m、南東の小田山中腹からアームストロング砲・四斤山砲等五十門の大砲で天守閣を狙い砲撃を加えた。山本八重も四斤山砲で小田山に向け応戦した】
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「新政府軍 肥前 佐賀藩使用 六ポンドアームストロング野砲弾丸(6ポンド=2722g)」説明は下記を読んで下さい。
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「新政府軍 肥前 佐賀藩使用 六ポンドアームストロング野砲弾丸(6ポンド=2722g)」説明
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「オランダ型十二ドイム臼砲弾丸」説明は下記を読んで下さい。
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「オランダ型十二ドイム臼砲弾丸」説明
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「会津娘子軍 中野姉妹 柳橋(涙橋)出陣の図」説明
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「会津娘子軍 中野姉妹 柳橋(涙橋)出陣の図」
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NHK「八重の桜」で中野竹子役は黒木メイサです。
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【大砲(三百五十匁玉大筒) 幕末頃に製作された重量20キロをこえる大口径の大砲で、銃身は唐金を使用した。戦場では鉄砲隊の後方から敵に砲撃を加え、城攻めでは城門等の破壊に威力を発揮した。代々会津藩砲術家の山本家でも大砲を使用した、射術(砲術)を行っていた。】説明版からです。
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【大砲(大筒)の弾丸戊辰戦争に使用された大砲の鉄製弾丸で古戦場で見つかった。】説明版からです。
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説明版からです。【会津藩の弾薬箱 朱漆で「會」の字が入った会津藩の背負い弾薬箱で、横に五段の引き出しがあり、弾薬・鉄砲道具等を収納し、背負って持ち運んだ。猪苗代町小桧山家蔵品】
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明治7年ごろ撮影された会津若松城の写真。取り壊されるころです。
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2階所狭しと展示物があります。
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有名人も多数訪問
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