2012/05/31 - 2012/05/31
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belleduneさん
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津軽統一を成し遂げた津軽為信が、慶長8年(1603)に計画を立て、2代目藩主信枚が慶長15年(1610)に工事を開始し、翌年に完成しました。以後、廃藩置県までの260年間、津軽藩政の中心となってきました。
明治28年に弘前公園として開放され、昭和27年に史跡に指定。
染井吉野、枝垂桜、八重桜など約2600本の桜があります。
追手門、東門、北門、亀甲門、春陽門、一陽門を渡って、城内へ。さらに進んで、南大門の脇に辰巳櫓、未伸櫓があります。東大門傍に与力番所があります。更に進むと丑寅櫓があります。この三つの櫓が現存しています。
本丸へ行くには下乗橋、反対側からだと波祢橋と鷹丘橋を渡ると行けます。
天守閣は当初五層五階の天守でしたが、寛永4年(1627)の落雷で焼失し、2百年近く天守のない時代が続きましたが、文化7年(1810)に蝦夷地警備の功績を認められた九代藩主寧親が、隅櫓の改築を理由に天守再建を行い、翌年三層三階の御三階櫓(天守)が完成しました。
江戸時代に再建された天守としては、東北に現存する唯一のもので、重要文化財に指定されています。
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三の丸追手門から入ります。
江戸時代、4万7千石の居城として津軽地方の政治・経済の中心地となっていました。
城郭は、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭から構成された梯郭式平山城です。 -
内外に枡形を設けた二層の櫓門で、一層目の屋根を高く配し、全体を簡素な素木造りとしていることから、古形式のものだと言われています。
棟高11,7m。 -
素焼きの大甕を模して、三分のニに縮小して作成したものです。
薄手て、貯水用としてよりも、能楽堂や舞台の床下に埋設して、音響効果を高めるために、使用したものと推測されます。
津軽家の家紋「七つ葉の杏葉牡丹」です。 -
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二の丸大枝垂桜ですが、平成23年12月26日の大雪で、根元から倒れてしまい、翌年1月に主幹の三分の一を切断し、立て直したものです。
殆どの根が切断されているため、現在再生に向けて、治療中だそうです。頑張れ!枝垂桜よ。 -
寛永5年(1682)、天海大僧正により「鷹岡」を「弘前」と改称したため、城名も弘前城と改められました。
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南内門
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明治4年(1871)に弘前城は廃城となります。その後、明治28年(1895)に弘前公園として、一般に開放されることとなりました。
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下乗橋から天守を。
本丸と二の丸を結ぶ下乗橋は、ここで藩士が馬を下りるよう定められていたことからこの名が付きました。
下乗橋は、築城当時は橋の両側は土留板でしたが、文化8年(1811)に石垣に直されました。以前は擬宝珠(ぎぼし)が十二支を模ったものでした。
この辺りに、武者屯御門(ぶしゃだまりごもん)がありました。 -
天守の屋根瓦は、寒冷地のため銅瓦が葺いてあります。
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天守の外壁は、白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に、長押形を施しています。東面と南面は1層と二層目に大きな切り妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いて、小さな建物を大きく見せる工夫を見ることができます。
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御滝桜
高さ約7,4mで、大正3年に植栽されました。石垣から水面に長く枝を垂らしている様を棟方志功画伯がこう命名したそうです。 -
天守の西面と北面には破風を付けず、連子窓を単調に並べた「二方正面」となっています。
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天守から眺めた津軽富士・岩木山
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天守の内部の構造は、簡素で、床も敷居がなく、当初から倉庫として利用するためとなっています。
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弘前城の模型
創建当時の規模は、東西612m、南北947m、総面積385,200?でした。 -
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この辺りでも、地元の方とお話をすることがありました。毎日散歩に来ても良い気持ちの良いところです。
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本丸井戸の跡
本丸御殿の絵図では、この他にも数カ所の井戸がありましたが、確認出来るのはここだけです。
地元の安土岩を刳り抜いた堅牢な造りで、周囲には番所や塀がありました。 -
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館神跡(たてがみあと)
館神とは、津軽二代藩主信枚公が太閤秀吉の木像を御神体として祀った場所でした。
ここでは、藩主や場内の安全に関わる加持・ご祈祷が行われており、ここに出入りできたのは、藩主、神官、その家族でした。 -
平成11年〜12年の発掘調査では、鳥居の礎石、本殿の柱穴、柵列跡などの遺構が確認されたほか、藩政時代の陶磁器や土器が多数出土しました。
発掘された遺構は、盛り土で保護し、その上に鳥居の礎石、柱、本殿の柱、柵列の柱などが保存してあります。 -
すこし歩いたところにある子(ね)の櫓跡です。
来たの郭(くるわ)北東隅の土塁上には、藩政時代を通して三層の櫓がありました。櫓の中には武具の他、藩庁日記なども保管されていました。
子の櫓は、廃藩以降も保存されていましたが、明治39年の花火で焼失しています。 -
平成13年の発掘調査で、正方形に並ぶ櫓の礎石と石段が認識されました。櫓の礎石には、石切の際の矢穴や柱を据えた凹みのあるものがあり、中央には束石(つかいし)があります。
櫓の規模は、4間四方(約8m)で、二の丸に現存する三棟の櫓と同じ規模でした。 -
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四の丸にある護国神社
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現在修復中でしたが、お参りをしてきました。
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北門(亀甲門)から出て、旧伊東家、梅田家、岩田家を訪ねます。
北門は、現存する五棟の中で、特に規模が大きく、形状も異なる最古の形式の城門です。元は、大光寺城の城門を慶長16年の築城にあたり、追手門といして移築再建したものでした。柱などから多くの矢傷跡が見つかっています。
弘前城は築城以来、実践の経験が無いため、この北門が唯一の実践痕跡のある貴重な城門となっています。
棟の両端にある鯱も、他の門より古い形式で、矢狭間、鉄砲狭間が無い点など見るべきところの多いものとなっています。現在写真を検索中! -
一陽橋
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