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天正18年(1590)小田原北条氏滅亡に伴いその旧領に入封した徳川家康が代官頭の大久保長安(おおくぼ・ながやす、1545~1613)に命じ旧武田氏家臣たちを中心に組織化した八王子千人同心ゆかりの地を散策しました。<br /><br />千人同心は滅亡した旧武田氏遺臣たちを中心に近隣の地侍などで編成組織化された幕府直轄の組織であります。<br /><br />江戸入府したばかりの徳川家康は自らの勢力が脆弱である事を良く認識しており、そのために種々対策を練ります。その中で江戸に繋がる甲州街道については旧武田遺臣等の甲斐からの進攻を防ぐ手立として甲州口の警備・治安維持が求められ、その任務を旧武田氏遺臣らを組織化して国境に配置する事となります。<br /><br />組織としては10組で組は100人で編成され、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統括され、幕府槍奉行の支配を受けておりました。<br /><br />千人同心は警備を主たる任務とする軍事組織でして、徳川将軍家の直参武士として俸禄を受けていましたが、平時は農耕に従事できる半士半農といった特例の身分でありました。<br /><br />千人同心は将軍家より甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地を与えられその地に千人頭と屋敷と千人同心の組屋敷がありました。<br /><br />その後千人同心の役割が変わります。即ち政情が安定し、甲斐領地が徳川親藩続いて直轄領になりますと国境警備の必要性がなくなり、1652年からは家康を祀っている日光東照宮を警備する「日光勤番」が主となりました。この「日光勤番」は千人同心の主たる公務として1868年(慶応4年)の千人隊(後に改称)解散まで216年間の長きに亘り続きます。<br /><br />自分は「千人同心」については漠然として知っていましたがその知識はゼロに等しく、今回初めて関係する史跡現場を実際訪問しますと千人同心の発足の由来、組織構成の変遷や日光東照宮の勤番を主軸としながらその時の時代背景により、例えば関ケ原の戦い、大坂冬夏の陣、朝鮮出兵、第二次長州出兵など様々な場面に否応なく駆出され、残された留守家族の方々を含め、さぞかし筆舌に尽くしがたい数々のご苦労があったかと想像しています。<br /><br /><br /><br />追分交差点脇に建っている千人同心に関する詳細説明については下記の通り記載されています。<br /><br />『 千人同心の成立及び組織と公務<br /><br />【千人同心の成立】<br /><br />八王子千人同心は江戸時代に千人町とその付近の村々に分かれて住んでいた半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐の武田氏の家臣・小人頭(こびとかしら)と配下の小人(同心)たちにあります。<br /><br />1582年(天正10年)、武田氏が滅び同年6月織田信長が本能寺の変で死亡すると、甲斐国は徳川家康が治めるようになります。家康は旧武田氏の家臣を取り立て、その中で9人の小人頭を武田時代と同様に甲州の国境6ヶ所の道筋奉行に任じました。<br /><br />1590年(天正18年)、八王子城が豊臣秀吉の小田原城攻めの時に落城した後、徳川家康は関東に領地換えとなり、小人頭と配下約250人を八王子(現在の元八王子)に移し、落城後の八王子城下の警備にあたらせました。<br />1591年(天正19年)、頭を1名増員し、同心も北条やその他浪人を加え500人とし、戦乱がおさまりきらない時代には戦闘部隊として、朝鮮出兵時に肥前名護屋などにも出陣していました。<br /><br />1593年(文禄2年)、小人頭と小人たちは現在の千人町に拝領屋敷地を与えられ、元八王子から移転します。千人町に移された理由としては、八王子城下の混乱が静まったこと、甲州口の押えとして江戸を守ること等があります。<br /><br />1599年(慶長4年)、関ケ原の戦いを前にして、代官頭・大久保長安の指示により1000人に増員され、文字どおり「八王子千人同心」が成立しました。<br />「千人町」は最初から呼ばれていたのではなく、「五百人町」と呼ばれていたことが記録にあり、「千人同心」「千人町」と呼ばれるようになったのは、しばらくたった寛永年間(1624~1644)頃からと言われています。またこのあたりは千人頭・原家の屋敷があった場所です。(現場説明文)<br /><br /><br />【千人同心の組織と公務】<br /><br />千人町に住んでいたのは頭10人と同心約100人で、他の同心は付近の村々に住んでおり、幕末の1854年(嘉永7年)、組頭・二宮光鄰(にのみや・こうりん)が作成した「番組合之縮図(ばんくみあいのしゅくず)<br />」によると、当時の同心在住村は、東は三鷹市、川崎市登戸、南は相模原市、西は津久井郡、北は飯能市と広域にわたっていました。<br /><br />千人頭10人は幕府・槍奉行配下の旗本(将軍の直臣で1万石未満の者)身分で今の横浜市都築区、千葉県市原市などに200石?500石の知行地を与えられていました。<br /><br />1人の千人頭に10人の組頭と90人の平同心が属し、各組100人の組織でした。同心は将軍の直臣であっても、お目見え以下(将軍に謁見する資格がない)の身分で、日常は農業を営んでおり、公務の時には武士となる珍しい集団でした。<br /><br />当初は関ケ原の戦いや、大坂冬の陣・夏の陣に従事するなど軍事的な役割を担ってましたが、戦乱がおさまるとともに家康の日光への改葬のお供、将軍の日光東照宮の社参のお供、江戸城修築の警備、将軍入洛のお供などを勤め1651年(慶安4年)日光に3代将軍家光の墓が作られると、翌慶安5年に「日光火の番」を命じられ、幕末に至るまでの公務の中心となります。<br /><br />日光火の番は東照宮の整備、防火、消火をおこなうもので、最初は頭2人と属する同心50人ずつ、100人が50日で交代するするものでしたが1791年(寛政3年)からは頭1人と同心50人が半年で交代することになり1868年(慶応4年)まで、216年間に1030回にのぼりました。<br />故郷を離れ、寒い日光での勤番は厳しいものでしたが、武士の身分として勤務する千人同心のほとんど唯一の公務でもありました。(現場説明文)』

武蔵八王子 小田原合戦後に関東入府の家康命により代官頭大久保長安が軍事組織化し江戸城直結の甲州街道を警備防衛する『千人同心歴史』散歩

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2011/11/27 - 2011/11/27

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滝山氏照

滝山氏照さん

天正18年(1590)小田原北条氏滅亡に伴いその旧領に入封した徳川家康が代官頭の大久保長安(おおくぼ・ながやす、1545~1613)に命じ旧武田氏家臣たちを中心に組織化した八王子千人同心ゆかりの地を散策しました。

千人同心は滅亡した旧武田氏遺臣たちを中心に近隣の地侍などで編成組織化された幕府直轄の組織であります。

江戸入府したばかりの徳川家康は自らの勢力が脆弱である事を良く認識しており、そのために種々対策を練ります。その中で江戸に繋がる甲州街道については旧武田遺臣等の甲斐からの進攻を防ぐ手立として甲州口の警備・治安維持が求められ、その任務を旧武田氏遺臣らを組織化して国境に配置する事となります。

組織としては10組で組は100人で編成され、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統括され、幕府槍奉行の支配を受けておりました。

千人同心は警備を主たる任務とする軍事組織でして、徳川将軍家の直参武士として俸禄を受けていましたが、平時は農耕に従事できる半士半農といった特例の身分でありました。

千人同心は将軍家より甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地を与えられその地に千人頭と屋敷と千人同心の組屋敷がありました。

その後千人同心の役割が変わります。即ち政情が安定し、甲斐領地が徳川親藩続いて直轄領になりますと国境警備の必要性がなくなり、1652年からは家康を祀っている日光東照宮を警備する「日光勤番」が主となりました。この「日光勤番」は千人同心の主たる公務として1868年(慶応4年)の千人隊(後に改称)解散まで216年間の長きに亘り続きます。

自分は「千人同心」については漠然として知っていましたがその知識はゼロに等しく、今回初めて関係する史跡現場を実際訪問しますと千人同心の発足の由来、組織構成の変遷や日光東照宮の勤番を主軸としながらその時の時代背景により、例えば関ケ原の戦い、大坂冬夏の陣、朝鮮出兵、第二次長州出兵など様々な場面に否応なく駆出され、残された留守家族の方々を含め、さぞかし筆舌に尽くしがたい数々のご苦労があったかと想像しています。



追分交差点脇に建っている千人同心に関する詳細説明については下記の通り記載されています。

『 千人同心の成立及び組織と公務

【千人同心の成立】

八王子千人同心は江戸時代に千人町とその付近の村々に分かれて住んでいた半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐の武田氏の家臣・小人頭(こびとかしら)と配下の小人(同心)たちにあります。

1582年(天正10年)、武田氏が滅び同年6月織田信長が本能寺の変で死亡すると、甲斐国は徳川家康が治めるようになります。家康は旧武田氏の家臣を取り立て、その中で9人の小人頭を武田時代と同様に甲州の国境6ヶ所の道筋奉行に任じました。

1590年(天正18年)、八王子城が豊臣秀吉の小田原城攻めの時に落城した後、徳川家康は関東に領地換えとなり、小人頭と配下約250人を八王子(現在の元八王子)に移し、落城後の八王子城下の警備にあたらせました。
1591年(天正19年)、頭を1名増員し、同心も北条やその他浪人を加え500人とし、戦乱がおさまりきらない時代には戦闘部隊として、朝鮮出兵時に肥前名護屋などにも出陣していました。

1593年(文禄2年)、小人頭と小人たちは現在の千人町に拝領屋敷地を与えられ、元八王子から移転します。千人町に移された理由としては、八王子城下の混乱が静まったこと、甲州口の押えとして江戸を守ること等があります。

1599年(慶長4年)、関ケ原の戦いを前にして、代官頭・大久保長安の指示により1000人に増員され、文字どおり「八王子千人同心」が成立しました。
「千人町」は最初から呼ばれていたのではなく、「五百人町」と呼ばれていたことが記録にあり、「千人同心」「千人町」と呼ばれるようになったのは、しばらくたった寛永年間(1624~1644)頃からと言われています。またこのあたりは千人頭・原家の屋敷があった場所です。(現場説明文)


【千人同心の組織と公務】

千人町に住んでいたのは頭10人と同心約100人で、他の同心は付近の村々に住んでおり、幕末の1854年(嘉永7年)、組頭・二宮光鄰(にのみや・こうりん)が作成した「番組合之縮図(ばんくみあいのしゅくず)
」によると、当時の同心在住村は、東は三鷹市、川崎市登戸、南は相模原市、西は津久井郡、北は飯能市と広域にわたっていました。

千人頭10人は幕府・槍奉行配下の旗本(将軍の直臣で1万石未満の者)身分で今の横浜市都築区、千葉県市原市などに200石?500石の知行地を与えられていました。

1人の千人頭に10人の組頭と90人の平同心が属し、各組100人の組織でした。同心は将軍の直臣であっても、お目見え以下(将軍に謁見する資格がない)の身分で、日常は農業を営んでおり、公務の時には武士となる珍しい集団でした。

当初は関ケ原の戦いや、大坂冬の陣・夏の陣に従事するなど軍事的な役割を担ってましたが、戦乱がおさまるとともに家康の日光への改葬のお供、将軍の日光東照宮の社参のお供、江戸城修築の警備、将軍入洛のお供などを勤め1651年(慶安4年)日光に3代将軍家光の墓が作られると、翌慶安5年に「日光火の番」を命じられ、幕末に至るまでの公務の中心となります。

日光火の番は東照宮の整備、防火、消火をおこなうもので、最初は頭2人と属する同心50人ずつ、100人が50日で交代するするものでしたが1791年(寛政3年)からは頭1人と同心50人が半年で交代することになり1868年(慶応4年)まで、216年間に1030回にのぼりました。
故郷を離れ、寒い日光での勤番は厳しいものでしたが、武士の身分として勤務する千人同心のほとんど唯一の公務でもありました。(現場説明文)』

交通手段
徒歩

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  • 八王子市周辺観光案内図<br /><br />まず社寺をひとつひとつ見て参りたいと思います。

    八王子市周辺観光案内図

    まず社寺をひとつひとつ見て参りたいと思います。

  • 曹洞禅寺 興岳寺(こうがくじ)<br /><br />幕末に新政府軍に無傷で日光を明け渡しますが、その後八王子で自害した千人頭の石坂弥次右衛門(いしざか・やじえもん)の墓となっています。

    曹洞禅寺 興岳寺(こうがくじ)

    幕末に新政府軍に無傷で日光を明け渡しますが、その後八王子で自害した千人頭の石坂弥次右衛門(いしざか・やじえもん)の墓となっています。

  • 石坂弥次右衛門墓説明<br /><br />1868年(慶応4年)3月、日光勤番に赴き、同年4月板垣退助ら新政府軍が日光に迫りますが、交戦せず日光を明渡し日光東照宮を今日にあらしめた功績者の一人として評価されています。<br /><br />

    石坂弥次右衛門墓説明

    1868年(慶応4年)3月、日光勤番に赴き、同年4月板垣退助ら新政府軍が日光に迫りますが、交戦せず日光を明渡し日光東照宮を今日にあらしめた功績者の一人として評価されています。

  • 曹洞禅寺 興岳寺・本堂

    曹洞禅寺 興岳寺・本堂

  • 石坂弥次右衛門の顕彰碑

    石坂弥次右衛門の顕彰碑

  • 千人町交差点標識<br /><br />陣馬街道との分岐点が「追分」で、ここからJR中央線西八王子駅に至る甲州街道に千人同心に関係する訪問先があった事から「千人町」の名が命名されました。但し当初は「五百人町」と呼ばれており、現在の町名になったのは1599年(慶長4年)1000人に増員された時以降と思われます。

    千人町交差点標識

    陣馬街道との分岐点が「追分」で、ここからJR中央線西八王子駅に至る甲州街道に千人同心に関係する訪問先があった事から「千人町」の名が命名されました。但し当初は「五百人町」と呼ばれており、現在の町名になったのは1599年(慶長4年)1000人に増員された時以降と思われます。

  • 馬場横丁入口石標<br /><br />

    馬場横丁入口石標

  • 馬場横丁説明<br /><br />江戸時代に千人隊拝領の馬場が宗格院(そうかくいん))の北側、現在の第五小学校の前の通りにありましたので当時からこの所より宗格院迄の道を馬場横丁と呼んでいました。<br /><br />

    馬場横丁説明

    江戸時代に千人隊拝領の馬場が宗格院(そうかくいん))の北側、現在の第五小学校の前の通りにありましたので当時からこの所より宗格院迄の道を馬場横丁と呼んでいました。

  • 曹洞禅寺 宗格院(そうかくいん)<br /><br />宗格院は千人同心ゆかりの寺です。組頭で蘭学者だった松本斗機蔵(まつもと・ときぞう)の墓があります。又北側に流れる浅川の反乱を防ぐために当地総奉行大久保長安(オオクボナガヤス)が敷設した石見土手(イワミドテ)の一部が残されています。

    曹洞禅寺 宗格院(そうかくいん)

    宗格院は千人同心ゆかりの寺です。組頭で蘭学者だった松本斗機蔵(まつもと・ときぞう)の墓があります。又北側に流れる浅川の反乱を防ぐために当地総奉行大久保長安(オオクボナガヤス)が敷設した石見土手(イワミドテ)の一部が残されています。

  • 松本斗機蔵墓説明<br /><br />松本斗機蔵は幼少の時から学問を好み、昌平坂学問所で天文・地学・兵制等洋学を修め、江川太郎左衛門英龍・渡辺崋山らと交流があり、海外事情に精通し日本開港を主張したそうです。

    松本斗機蔵墓説明

    松本斗機蔵は幼少の時から学問を好み、昌平坂学問所で天文・地学・兵制等洋学を修め、江川太郎左衛門英龍・渡辺崋山らと交流があり、海外事情に精通し日本開港を主張したそうです。

  • 石見土手(いわみどて)説明<br /><br />氾濫する浅川に対し八王子小門町に屋敷を構える関東代官頭の一人である大久保石見守長安は川沿いに堤防を築きます。これが石見土手と言われており、現在は当寺に一部残されているだけです。<br /><br />

    石見土手(いわみどて)説明

    氾濫する浅川に対し八王子小門町に屋敷を構える関東代官頭の一人である大久保石見守長安は川沿いに堤防を築きます。これが石見土手と言われており、現在は当寺に一部残されているだけです。

  • 松本斗機蔵墓

    松本斗機蔵墓

  • 曹洞宗 長安寺<br /><br />千人同心組頭・伊藤家墓があります。

    曹洞宗 長安寺

    千人同心組頭・伊藤家墓があります。

  • 曹洞宗 長安寺本堂

    曹洞宗 長安寺本堂

  • 組頭・伊藤家墓

    組頭・伊藤家墓

  • 真覚寺(しんがくじ)説明文<br /><br />古くから蛙合戦で有名とされていますが、宅地開発により蛙の数が減り最近では蛙合戦は見られません。<br />

    真覚寺(しんがくじ)説明文

    古くから蛙合戦で有名とされていますが、宅地開発により蛙の数が減り最近では蛙合戦は見られません。

  • 真覚寺本堂

    真覚寺本堂

  • 真覚寺庭園

    真覚寺庭園

  • 高宰(たかさい)神社・全景

    高宰(たかさい)神社・全景

  • 高宰神社・拝殿

    高宰神社・拝殿

  • 高宰神社由来説明<br /><br />当神社は南北朝時代末期、南朝の公家と思われる高貴の御方が当地に居を定めたことから始まります。その後幾多の移築がありましたが、生保慶安の頃、真覚寺境内に移し、そこで高宰神社と命名し現在に至ります。<br />同時に八王子千人同心の神として深く崇敬され周辺町の守護神でもあります。<br />

    高宰神社由来説明

    当神社は南北朝時代末期、南朝の公家と思われる高貴の御方が当地に居を定めたことから始まります。その後幾多の移築がありましたが、生保慶安の頃、真覚寺境内に移し、そこで高宰神社と命名し現在に至ります。
    同時に八王子千人同心の神として深く崇敬され周辺町の守護神でもあります。

  • 興福寺<br /><br />千人同心組頭中村家の墓があります。

    興福寺

    千人同心組頭中村家の墓があります。

  • 興福寺・山門

    興福寺・山門

  • 興福寺・本堂

    興福寺・本堂

  • 扁額<br /><br />本堂上部には寺号である「興福寺」が描かれています。<br />

    扁額

    本堂上部には寺号である「興福寺」が描かれています。

  • 千人同心一族の墓

    千人同心一族の墓

  • 千人同心一族の墓<br />

    千人同心一族の墓

  • 千人同心一族の墓

    千人同心一族の墓

  • 千人同心一族の墓

    千人同心一族の墓

  • 追分の道標<br /><br />江戸から高尾までの甲州街道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所建てられた道標の一つだそうです。

    追分の道標

    江戸から高尾までの甲州街道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所建てられた道標の一つだそうです。

  • 追分道標説明板

    追分道標説明板

  • 追分道標碑位置を示す地図

    追分道標碑位置を示す地図

  • 追分歩道橋から見た道標

    追分歩道橋から見た道標

  • 千人同心屋敷跡碑<br /><br />江戸時代、八王子の治安維持や将軍上洛の警護などに携わった千人同心の屋敷跡碑です。永年八王子に居住していますが、ここに記念碑があるとは知りませんでした。

    イチオシ

    千人同心屋敷跡碑

    江戸時代、八王子の治安維持や将軍上洛の警護などに携わった千人同心の屋敷跡碑です。永年八王子に居住していますが、ここに記念碑があるとは知りませんでした。

  • 千人同心屋敷跡碑近景<br /><br />石碑の周辺の手入れはイマイチですが、説明文の中身はひじょうに濃いものが感じられます。説明板の表裏にビッシリと写真・絵図等を交えて記載されて千人同心達の生々しい迫力ある生き様が強く感じられます。

    千人同心屋敷跡碑近景

    石碑の周辺の手入れはイマイチですが、説明文の中身はひじょうに濃いものが感じられます。説明板の表裏にビッシリと写真・絵図等を交えて記載されて千人同心達の生々しい迫力ある生き様が強く感じられます。

  • 千人同心屋敷跡説明板

    イチオシ

    千人同心屋敷跡説明板

  • 千人同心の成立及び組織と公務<br />【千人同心の成立】<br />八王子千人同心は江戸時代に千人町とその付近の村々に分かれて住んでいた半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐の武田氏の家臣・小人頭(コビトカシラ)と配下の小人(同心)たちにあります。<br />1582年(天正10年)、武田氏が滅び同年6月織田信長が本能寺の変で死亡すると、甲斐国は徳川家康が治めるようになります。家康は旧武田氏の家臣を取り立て、その中で9人の小人頭を武田時代と同様に甲州の国境6ヶ所の道筋奉行に任じました。<br />1590年(天正18年)、八王子城が豊臣秀吉の小田原城攻めの時に落城した後、徳川家康は関東に領地換えとなり、小人頭と配下約250人を八王子(現在の元八王子)に移し、落城後の八王子城下の警備にあたらせました。<br />1591年(天正19年)、頭を1名増員し、同心も北条やその他浪人を加え500人とし、戦乱がおさまりきらない時代には戦闘部隊として、朝鮮出兵時に肥前名護屋などにも出陣していました。<br />1593年(文禄2年)、小人頭と小人たちは現在の千人町に拝領屋敷地を与えられ、元八王子から移転します。千人町に移された理由としては、八王子城下の混乱が静まったこと、甲州口の押えとして江戸を守ること等があります。<br />1599年(慶長4年)、関ケ原の戦いを前にして、代官頭・大久保長安の指示により1000人に増員され、文字どおり「八王子千人同心」が成立しました。<br />「千人町」は最初から呼ばれていたのではなく、「五百人町」と呼ばれていたことが記録にあり、「千人同心」「千人町」と呼ばれるようになったのは、しばらくたった寛永年間(1624〜 )頃からと言われています。またこのあたりは千人頭・原家の屋敷があった場所です。(現場説明文)<br /><br />【千人同心の組織と公務】<br />千人町に住んでいたのは頭10人と同心約100人で、他の同心は付近の村々に住んでおり、幕末の1854年(嘉永7年)、組頭・二宮光鄰(ニノミヤコウリン)が作成した「番組合之縮図(バンクミアイノシュクズ)」によると、当時の同心在住村は、東は三鷹市、川崎市登戸、南は相模原市、西は津久井郡、北は飯能市と広域にわたっていました。<br />千人頭10人は幕府・槍奉行配下の旗本(将軍の直臣で1万石未満の者)身分で今の横浜市都築区、千葉県市原市などに200石〜500石の知行地を与えられていました。<br />1人の千人頭に10人の組頭と90人の平同心が属し、各組100人の組織でした。同心は将軍の直臣であっても、お目見え以下(将軍に謁見する資格がない)の身分で、日常は農業を営んでおり、公務の時には武士となる珍しい集団でした。<br />当初は関ケ原の戦いや、大坂冬の陣・夏の陣に従事するなど軍事的な役割を担ってましたが、戦乱がおさまるとともに家康の日光への改葬のお供、将軍の日光東照宮の社参のお供、江戸城修築の警備、将軍入洛のお供などを勤め1651年(慶安4年)日光に3代将軍家光の墓が作られると、翌慶安5年に「日光火の番」を命じられ、幕末に至るまでの公務の中心となります。<br />日光火の番は東照宮の整備、防火、消火をおこなうもので、最初は頭2人と属する同心50人ずつ、100人が50日で交代するするものでしたが1791年(寛政3年)からは頭1人と同心50人が半年で交代することになり1868年(慶応4年)まで、216年間に1030回にのぼりました。<br />故郷を離れ、寒い日光での勤番は厳しいものでしたが、武士の身分として勤務する千人同心のほとんど唯一の公務でもありました。(現場説明文)<br /><br />

    千人同心の成立及び組織と公務
    【千人同心の成立】
    八王子千人同心は江戸時代に千人町とその付近の村々に分かれて住んでいた半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐の武田氏の家臣・小人頭(コビトカシラ)と配下の小人(同心)たちにあります。
    1582年(天正10年)、武田氏が滅び同年6月織田信長が本能寺の変で死亡すると、甲斐国は徳川家康が治めるようになります。家康は旧武田氏の家臣を取り立て、その中で9人の小人頭を武田時代と同様に甲州の国境6ヶ所の道筋奉行に任じました。
    1590年(天正18年)、八王子城が豊臣秀吉の小田原城攻めの時に落城した後、徳川家康は関東に領地換えとなり、小人頭と配下約250人を八王子(現在の元八王子)に移し、落城後の八王子城下の警備にあたらせました。
    1591年(天正19年)、頭を1名増員し、同心も北条やその他浪人を加え500人とし、戦乱がおさまりきらない時代には戦闘部隊として、朝鮮出兵時に肥前名護屋などにも出陣していました。
    1593年(文禄2年)、小人頭と小人たちは現在の千人町に拝領屋敷地を与えられ、元八王子から移転します。千人町に移された理由としては、八王子城下の混乱が静まったこと、甲州口の押えとして江戸を守ること等があります。
    1599年(慶長4年)、関ケ原の戦いを前にして、代官頭・大久保長安の指示により1000人に増員され、文字どおり「八王子千人同心」が成立しました。
    「千人町」は最初から呼ばれていたのではなく、「五百人町」と呼ばれていたことが記録にあり、「千人同心」「千人町」と呼ばれるようになったのは、しばらくたった寛永年間(1624〜 )頃からと言われています。またこのあたりは千人頭・原家の屋敷があった場所です。(現場説明文)

    【千人同心の組織と公務】
    千人町に住んでいたのは頭10人と同心約100人で、他の同心は付近の村々に住んでおり、幕末の1854年(嘉永7年)、組頭・二宮光鄰(ニノミヤコウリン)が作成した「番組合之縮図(バンクミアイノシュクズ)」によると、当時の同心在住村は、東は三鷹市、川崎市登戸、南は相模原市、西は津久井郡、北は飯能市と広域にわたっていました。
    千人頭10人は幕府・槍奉行配下の旗本(将軍の直臣で1万石未満の者)身分で今の横浜市都築区、千葉県市原市などに200石〜500石の知行地を与えられていました。
    1人の千人頭に10人の組頭と90人の平同心が属し、各組100人の組織でした。同心は将軍の直臣であっても、お目見え以下(将軍に謁見する資格がない)の身分で、日常は農業を営んでおり、公務の時には武士となる珍しい集団でした。
    当初は関ケ原の戦いや、大坂冬の陣・夏の陣に従事するなど軍事的な役割を担ってましたが、戦乱がおさまるとともに家康の日光への改葬のお供、将軍の日光東照宮の社参のお供、江戸城修築の警備、将軍入洛のお供などを勤め1651年(慶安4年)日光に3代将軍家光の墓が作られると、翌慶安5年に「日光火の番」を命じられ、幕末に至るまでの公務の中心となります。
    日光火の番は東照宮の整備、防火、消火をおこなうもので、最初は頭2人と属する同心50人ずつ、100人が50日で交代するするものでしたが1791年(寛政3年)からは頭1人と同心50人が半年で交代することになり1868年(慶応4年)まで、216年間に1030回にのぼりました。
    故郷を離れ、寒い日光での勤番は厳しいものでしたが、武士の身分として勤務する千人同心のほとんど唯一の公務でもありました。(現場説明文)

  • 千人同心姓名在所員表

    イチオシ

    千人同心姓名在所員表

  • 千人同心年表<br /><br />1590年(天正18年)7月、小田原城開城と同時期に「小人頭と配下の小人約250人を八王子城下に配置する」とありますがこれがその後の千人同心の原型であります。<br />1591年(天正19年)、「小人頭を1名増員し同心も増員し500人とする」とありますが増員背景の一つは秀吉による朝鮮出兵を念頭に入れたと思います。<br />1599年(慶長4年)、「同心1,000人に増員される「八王子千人同心」の成立」とありますが、翌年は関ケ原の戦いがあり、戦力増強の時代を反映した事情と思われます。

    イチオシ

    千人同心年表

    1590年(天正18年)7月、小田原城開城と同時期に「小人頭と配下の小人約250人を八王子城下に配置する」とありますがこれがその後の千人同心の原型であります。
    1591年(天正19年)、「小人頭を1名増員し同心も増員し500人とする」とありますが増員背景の一つは秀吉による朝鮮出兵を念頭に入れたと思います。
    1599年(慶長4年)、「同心1,000人に増員される「八王子千人同心」の成立」とありますが、翌年は関ケ原の戦いがあり、戦力増強の時代を反映した事情と思われます。

  • 日光馬町火の番屋敷絵図

    日光馬町火の番屋敷絵図

  • 蝦夷地開拓<br /><br />千人頭・原胤敦(ハラタネアツ1747−1827)は幕府に蝦夷地(北海道)の警備と開拓を願い出て許され、1800年(安政2年)3月、弟新介(シンスケ)とともに千人同心の子弟100人を引き連れ、白糠(シラヌカ白糠町)と勇払(ユウフツ苫小牧)に入植しました。また秋には後続30人が合流し、警備、開拓、道路建設などに従事しましたが、慣れない環境と厳しい寒さのため、4年後の1804年(文化元年)までに病死者32人、帰国者19人を出し、事業を中止されると残りの者も順次帰国してしまいました。<br />またこれらとは別に、家族とともに勇払場所派遣された組頭見習・河西祐助(カサイユウスケ)は、3年後妻・梅を亡くし、さらに4年後祐助自身も死亡して幼い2人の子が残される悲劇となり、今も苫小牧市に夜泣き梅女の伝説とともに語り伝えられています。苫小牧市民会館に立つ開拓記念の像は2人がモデルになっています。(現場説明文)

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    蝦夷地開拓

    千人頭・原胤敦(ハラタネアツ1747−1827)は幕府に蝦夷地(北海道)の警備と開拓を願い出て許され、1800年(安政2年)3月、弟新介(シンスケ)とともに千人同心の子弟100人を引き連れ、白糠(シラヌカ白糠町)と勇払(ユウフツ苫小牧)に入植しました。また秋には後続30人が合流し、警備、開拓、道路建設などに従事しましたが、慣れない環境と厳しい寒さのため、4年後の1804年(文化元年)までに病死者32人、帰国者19人を出し、事業を中止されると残りの者も順次帰国してしまいました。
    またこれらとは別に、家族とともに勇払場所派遣された組頭見習・河西祐助(カサイユウスケ)は、3年後妻・梅を亡くし、さらに4年後祐助自身も死亡して幼い2人の子が残される悲劇となり、今も苫小牧市に夜泣き梅女の伝説とともに語り伝えられています。苫小牧市民会館に立つ開拓記念の像は2人がモデルになっています。(現場説明文)

  • 幕末の千人同心<br /><br />外国船が盛んに日本沿岸に近づくようになり、1853年(嘉永6年)ペリーが来航し開国を迫ると、幕府は外国対策や軍制改革の必要性を痛感し、大砲等の海岸防備の整備、台場の築造等の海岸防備に取りかかります。<br />千人同心も1855年(安政2年)、西洋銃の訓練を命じられます。<br />そして近代装備を身に付けた千人同心は、日光火の番の一方で、戦闘集団として将軍家茂(イエモチ)上洛のお供、横浜警備、第2次長州出兵に出陣するなど、休みなく動員されます。<br />また1865年(慶応元年)9月陸軍奉行の支配下となり、翌慶応2年10月、幕府の兵制改革により「千人同心」は「千人隊」と改称されます。<br />1868年(慶応4年)、江戸を目指して進軍する東山道鎮撫軍(とうさんどうちんぶぐん)参謀、板垣退助ら約2000人は3月11日八王子に到着し、千人頭らはこれを迎え入れ、恭順の意を示し、勤皇を誓い、徳川家に対する寛大な処分を願う嘆願書を提出しました。<br />一方、日光勤番中の千人頭・萩原頼母(はぎわら・たのも)が3月15日に急死し、代番に千人頭・石坂弥次右衛門(いしざか・やじえもん:左手写真)が決定し、3月28日に日光に着任します。<br />4月11日の江戸城明け渡し等に不満を持つ幕臣たちは幕府脱走軍となり、2000名が大鳥圭介、土方歳三らに率いられ、4月24日の宇都宮での敗戦後、日光山内に立てこもり、これを許さない官軍と対峙します。<br />日光の社寺は戦火の危機にさらされますが幕府脱走軍は官軍・谷干城(たに・たてき)、板垣退助らの攻撃前夜の29日に会津に引き上げ、弥次右衛門らは約2ヶ月前に八王子で出迎えた板垣退助を再び迎え入れることになります。<br />そして日光を戦火にかけることなく引き渡し、216年続いた日光火の番は終わりとなります。<br />弥次右衛門は、閏4月10日八王子に帰着しますが、戦わずに日光を明け渡した責任を問われ、切腹して果てました。(現地説明文)

    幕末の千人同心

    外国船が盛んに日本沿岸に近づくようになり、1853年(嘉永6年)ペリーが来航し開国を迫ると、幕府は外国対策や軍制改革の必要性を痛感し、大砲等の海岸防備の整備、台場の築造等の海岸防備に取りかかります。
    千人同心も1855年(安政2年)、西洋銃の訓練を命じられます。
    そして近代装備を身に付けた千人同心は、日光火の番の一方で、戦闘集団として将軍家茂(イエモチ)上洛のお供、横浜警備、第2次長州出兵に出陣するなど、休みなく動員されます。
    また1865年(慶応元年)9月陸軍奉行の支配下となり、翌慶応2年10月、幕府の兵制改革により「千人同心」は「千人隊」と改称されます。
    1868年(慶応4年)、江戸を目指して進軍する東山道鎮撫軍(とうさんどうちんぶぐん)参謀、板垣退助ら約2000人は3月11日八王子に到着し、千人頭らはこれを迎え入れ、恭順の意を示し、勤皇を誓い、徳川家に対する寛大な処分を願う嘆願書を提出しました。
    一方、日光勤番中の千人頭・萩原頼母(はぎわら・たのも)が3月15日に急死し、代番に千人頭・石坂弥次右衛門(いしざか・やじえもん:左手写真)が決定し、3月28日に日光に着任します。
    4月11日の江戸城明け渡し等に不満を持つ幕臣たちは幕府脱走軍となり、2000名が大鳥圭介、土方歳三らに率いられ、4月24日の宇都宮での敗戦後、日光山内に立てこもり、これを許さない官軍と対峙します。
    日光の社寺は戦火の危機にさらされますが幕府脱走軍は官軍・谷干城(たに・たてき)、板垣退助らの攻撃前夜の29日に会津に引き上げ、弥次右衛門らは約2ヶ月前に八王子で出迎えた板垣退助を再び迎え入れることになります。
    そして日光を戦火にかけることなく引き渡し、216年続いた日光火の番は終わりとなります。
    弥次右衛門は、閏4月10日八王子に帰着しますが、戦わずに日光を明け渡した責任を問われ、切腹して果てました。(現地説明文)

  • 千人同心の解体<br /><br />1868年(慶応4年)、千人隊に対して、駿府(静岡)に移った徳川家に従うか、新政府に仕えるかを願い出るよう、通達されました。<br />千人頭全員は徳川家に従う事を願い出て、家族とともに小島陣屋(静岡市清水小島町)に移住しました。<br />隊士たちはそれぞれの道を選び、67名が新政府に仕えることを希望し、護境隊として八王子付近の治安の維持にあたりました。ほとんどの者の約820名は徳川家に御暇(おいとま)を願い出て、それぞれの村に戻り農業に従事する道を選んだのでした。(現地説明文)

    千人同心の解体

    1868年(慶応4年)、千人隊に対して、駿府(静岡)に移った徳川家に従うか、新政府に仕えるかを願い出るよう、通達されました。
    千人頭全員は徳川家に従う事を願い出て、家族とともに小島陣屋(静岡市清水小島町)に移住しました。
    隊士たちはそれぞれの道を選び、67名が新政府に仕えることを希望し、護境隊として八王子付近の治安の維持にあたりました。ほとんどの者の約820名は徳川家に御暇(おいとま)を願い出て、それぞれの村に戻り農業に従事する道を選んだのでした。(現地説明文)

  • 案内板の裏面内容説明

    案内板の裏面内容説明

  • 寛政元年の千人町

    寛政元年の千人町

  • 千人同心の文化①<br /><br />原胤敦は1812年(文化9年)、幕府から地誌探索の命令を受け、組頭らとともに1825年(文政8年)まで約13年かけて、武蔵国の多摩部、秩父部などを調査します。これらの成果は「新編武蔵国風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」としてまとめられました。<br />また、地誌探索に参加した組頭・植田孟譜(うえだ・もうしん)は独自にまとめた「武蔵名勝絵図(むさしめいしょうえず)」を残しています。これらは現在、八王子や多摩地区の歴史を研究する上で重要な資料となっています。<br />寛政の改革(1787-93)で文武が奨励されて、さまざまな流派の剣術・柔術などが学ばれるようになります。<br />組頭・塩野適斎(しおの・てきさい、1775-1847)は大平真鏡流(おおひらしんきょうりゅう)の八王子総指南役として多くの千人同心を指導しました。適斎は千人同心の歴史を記した「桑都日記(ソウトニッキ)」を書いたことでも有名です。<br />組頭・増田蔵六(1786?-1871)は天然理心流の創始者・近藤長裕に入門、その後指南免許を得て千人町の屋敷に道場を開いて千人同心や付近の農民などの多くの門弟を指導しました。<br />洋学は外国で唯一オランダに外交を開いていた長崎から伝わり、文化・文政期(1800年頃)から蘭学として多摩にも伝わります。組頭・伊藤正純の弟猶白(ユウハク1747-1831)は医師で、晩年に蘭方を学び、オランダ語の手書辞書を残しています。<br />また組頭・秋山佐蔵(あきやま・さぞう、1816-1887)は江戸で蘭方を学んだ内科医で、わが国の印刷史初期の1858年に、金属活版印刷でドイツ医学書の翻訳刊行をおこないました。<br />千人同心随一の学者といわれる組頭・松本斗機蔵(1793-1841)は八王子に12年間滞在した北方探検家・最上徳内の書籍を写すなどして、最新の海外事情にも通じていました。<br />また蘭学者・高野長英、渡辺崋山、幕府天文方・高橋景保とも交流し、日本に近づく外国船に対する幕府の対応を憂い、海防論「献芹微衷(けんきんびちゅう)」を水戸藩主・斉昭へ、異国船打ち払いに慎重であるべきとする「上書」を幕府に提出しました。<br />1841年(天保12年)には、その見識を買われて、浦賀奉行所に着任することになりましたが、直前に亡くなってしまいます。(現場説明文)

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    千人同心の文化①

    原胤敦は1812年(文化9年)、幕府から地誌探索の命令を受け、組頭らとともに1825年(文政8年)まで約13年かけて、武蔵国の多摩部、秩父部などを調査します。これらの成果は「新編武蔵国風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」としてまとめられました。
    また、地誌探索に参加した組頭・植田孟譜(うえだ・もうしん)は独自にまとめた「武蔵名勝絵図(むさしめいしょうえず)」を残しています。これらは現在、八王子や多摩地区の歴史を研究する上で重要な資料となっています。
    寛政の改革(1787-93)で文武が奨励されて、さまざまな流派の剣術・柔術などが学ばれるようになります。
    組頭・塩野適斎(しおの・てきさい、1775-1847)は大平真鏡流(おおひらしんきょうりゅう)の八王子総指南役として多くの千人同心を指導しました。適斎は千人同心の歴史を記した「桑都日記(ソウトニッキ)」を書いたことでも有名です。
    組頭・増田蔵六(1786?-1871)は天然理心流の創始者・近藤長裕に入門、その後指南免許を得て千人町の屋敷に道場を開いて千人同心や付近の農民などの多くの門弟を指導しました。
    洋学は外国で唯一オランダに外交を開いていた長崎から伝わり、文化・文政期(1800年頃)から蘭学として多摩にも伝わります。組頭・伊藤正純の弟猶白(ユウハク1747-1831)は医師で、晩年に蘭方を学び、オランダ語の手書辞書を残しています。
    また組頭・秋山佐蔵(あきやま・さぞう、1816-1887)は江戸で蘭方を学んだ内科医で、わが国の印刷史初期の1858年に、金属活版印刷でドイツ医学書の翻訳刊行をおこないました。
    千人同心随一の学者といわれる組頭・松本斗機蔵(1793-1841)は八王子に12年間滞在した北方探検家・最上徳内の書籍を写すなどして、最新の海外事情にも通じていました。
    また蘭学者・高野長英、渡辺崋山、幕府天文方・高橋景保とも交流し、日本に近づく外国船に対する幕府の対応を憂い、海防論「献芹微衷(けんきんびちゅう)」を水戸藩主・斉昭へ、異国船打ち払いに慎重であるべきとする「上書」を幕府に提出しました。
    1841年(天保12年)には、その見識を買われて、浦賀奉行所に着任することになりましたが、直前に亡くなってしまいます。(現場説明文)

  • 千人同心の文化②<br /><br />千人町を本拠地とする千人同心の約300年の活動により、八王子には千人同心関係の古文書や史跡などの文化財が多く残されています。これらから千人同心のことが明らかになってきました。<br />また、千人同心の蝦夷地開拓が縁になり、昭和48年に苫小牧市と、日光火の番を縁として昭和49年に日光市と、姉妹都市の盟約を結んでいます。(現場説明文)

    千人同心の文化②

    千人町を本拠地とする千人同心の約300年の活動により、八王子には千人同心関係の古文書や史跡などの文化財が多く残されています。これらから千人同心のことが明らかになってきました。
    また、千人同心の蝦夷地開拓が縁になり、昭和48年に苫小牧市と、日光火の番を縁として昭和49年に日光市と、姉妹都市の盟約を結んでいます。(現場説明文)

  • 蘭方医 伊藤尊白(いとう・ゆうはく)が写したオランダ語辞書

    蘭方医 伊藤尊白(いとう・ゆうはく)が写したオランダ語辞書

  • 信松院の玉垣<br /><br />松姫没後132年後に千人同心組頭らが信松院に玉垣を寄進しました。<br /><br />信松院は武田信玄の娘である松姫が八王子に逃れ、その後尼となって建てた寺ですが、亡き父と婚約者であった織田信忠の霊を弔いつつ同地に逃れてきた数多くの遺臣たちの面倒をみたそうです。<br /><br />

    信松院の玉垣

    松姫没後132年後に千人同心組頭らが信松院に玉垣を寄進しました。

    信松院は武田信玄の娘である松姫が八王子に逃れ、その後尼となって建てた寺ですが、亡き父と婚約者であった織田信忠の霊を弔いつつ同地に逃れてきた数多くの遺臣たちの面倒をみたそうです。

  • 千人頭らが寄進した時の鐘(上野町念仏院)

    千人頭らが寄進した時の鐘(上野町念仏院)

  • 幕府と千人同心組織図<br /><br />老中の傘下である槍奉行の支配下にあることがわかります。<br /><br />武田遺臣を庇護し活用した事は家康の懐の深さを感じない訳にはゆきませんが、他方彼らを陽の当るところへの処遇をしない冷徹さ・用心深さも感じられます。

    幕府と千人同心組織図

    老中の傘下である槍奉行の支配下にあることがわかります。

    武田遺臣を庇護し活用した事は家康の懐の深さを感じない訳にはゆきませんが、他方彼らを陽の当るところへの処遇をしない冷徹さ・用心深さも感じられます。

  • 追分交差点歩道橋から千人同心屋敷跡碑を望む<br /><br />右手道路が陣馬街道、(画面には出ませんが)左手の甲州街道に挟まれて千人同心屋敷跡碑がひっそりと佇んでいます。この陣馬街道と手前の甲州街道に挟まれた地域が千人同心の屋敷がありました。<br /><br />

    追分交差点歩道橋から千人同心屋敷跡碑を望む

    右手道路が陣馬街道、(画面には出ませんが)左手の甲州街道に挟まれて千人同心屋敷跡碑がひっそりと佇んでいます。この陣馬街道と手前の甲州街道に挟まれた地域が千人同心の屋敷がありました。

  • 夕暮れの甲州街道(右手)とバイパス(左手)<br /><br />追分交差点歩道橋から甲州街道(新宿方面)を望みます。あたりは知らないうちに暗くなってきました。<br /><br /><br /><br />

    夕暮れの甲州街道(右手)とバイパス(左手)

    追分交差点歩道橋から甲州街道(新宿方面)を望みます。あたりは知らないうちに暗くなってきました。



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