2010/06/12 - 2010/06/12
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かめさん
京都 太秦 広隆寺と妙心寺です。
広隆寺も妙心寺も観光客は少なくじっくり見て回れます。
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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嵐電と広隆寺の仁王門です
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広隆寺の仁王門
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広隆寺 忠魂碑
忠魂碑は、日清戦争や日露戦争での戦死者の供養のための碑です -
広隆寺 講堂
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広隆寺 本堂
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広隆寺 本堂
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広隆寺 仁王門
国宝第一号 弥勒菩薩像の写真はありません。
撮影禁止ですから。 -
JR花園駅です。
高架になってきれいになっています -
近くの今宮神社です
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ここからは妙心寺です
慈雲院 非公開です
つつじがきれいです
開祖は妙心寺百九十四世湛月紹円(たんげつしょうえん/大虚霊光禅師)。承応2年(1653)、大坂の橘屋新兵衛(たちばなやしんべえ)が湛月を開祖に請(しょう)じて創建した。当初は慈雲庵(じうんあん)と称し、妙心寺北総門前に所在していた。山内へ移ったのは明治11年(1878)で、文禄(ぶんろく)年中(1592〜96)に池田輝政(いけだてるまさ)が宙外(ちゅうがい)を請じて創建した盛岳院(せいがくいん)の跡地である。このとき、湛月が中興した松濤庵(しょうとうあん)および大森(おおもり)の寿仏寺(じゅぶつじ)を併合している。二世池田信輝(のぶてる)と母堂の盛岳院(せいがくいん)の墓地がある。 -
妙心寺 大同学院の碑
大同学院(だいどうがくいん)は、満州国に設けられた中堅官吏研修機関 -
妙心寺 大同学院の碑
大同学院(だいどうがくいん)は、満州国に設けられた中堅官吏研修機関 -
妙心寺 山門
東福寺三門、大徳寺三門に次いで古い三門建築です。上層には須彌壇が置かれ観世音菩薩像、善財童子、月蓋長者、十六羅漢などの木造が安置されています。彩色絵は狩野権左衛門筆。
6月18日には観音懺法会7月15日には山門施餓鬼会が執り行われます。 -
妙心寺 浴室
山門の東側に位置する浴室は、通称「明智風呂」と呼ばれています。明智光秀(?〜1582)の叔父で、塔頭の太嶺院(廃寺)の開基である密宗和尚が、天正15年(1587)に明智光秀の菩提を弔うために創建したものです。その後、明暦2年(1656)に改建されました。
一重切妻造本瓦葺、浴室内中央に浴槽と洗場があり、その南側に休憩室が設けられています。浴槽は蒸し風呂形式で、簀子(すのこ)板敷の隙間から蒸気を出し、四壁は正面に出入口と調節窓をもち、他の三方は板壁で閉ざされています。入り口正面には位牌棚があり、その中央に跋陀婆羅尊者(ばっだばらそんじゃ/狩野宗信筆)が掲げられています。 -
妙心寺 仏殿
文政10年(1827)竣工法要を終えて再興、その後13年まで内装にかかって完成しました。工事の棟梁は神森若狭藤原勝信。
入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)の上屋根と裳階(もこし)の屋根の大小の均整もよく、外観はきわめて落ち着いた姿をみせています。
廊下で北側の法堂(はっとう)と繋がっています。創建当時は法堂も兼ねていました。 -
妙心寺 法堂
法堂(はっとう)は、開山300年遠忌を記念して承応4年(1655)から明暦3年(1657)にかけて建造されました。山内の建築物の中では最も大きなお堂です。
堂内には禅宗様式の須彌壇(しゅみだん)及び鏡天井には狩野探幽筆の雲龍図があります。
住持が法を説く場である法堂は、普段は何も祀られていませんが、法要に応じてその都度、その法要の対象の仏祖が須彌壇上に祀られます。 -
妙心寺 山門
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妙心寺 大方丈
入母屋造単層檜皮葺、承応3年(1654)の建造、方丈はもと住持の居所を意味しましたが、今は檀信徒の祖先を祀って、その供養を行う所、また、説教、講演その他の会合の場所ともなり、多数賓客を応待するところになります。
本尊阿弥陀三尊はもと石清水八幡宮の奥の院に祀ってあったもので、鎌倉時代の傑作です。襖の画は狩野探幽と狩野益信の筆になります。 -
妙心寺にある 西田幾太郎の墓
西田幾多郎(1870-1945)明治3-昭和20
哲学者。近代日本の代表的哲学者として,その哲学はしばしば〈西田哲学〉と呼称される。
石川県に生まれ,1894年東京大学哲学科選科を卒業,96年に金沢の第四高等学校講師,次いで教授となった。
そのころから,物心両面の苦悩のうちに参禅の経験を重ねたが,
やがて当代の日本に広い影響を与えていた T. H. グリーンの理想主義的人格主義倫理学や
W. ジェームズの純粋経験の哲学にも学びつつ,
主客未分の〈純粋経験〉の世界を実在の根本実相と観ずる立場に到達した。
それを論述したのが《善の研究》(1911)であり,この書は,近代合理主義,理想主義と,
現実の日本の非合理的情念,実利主義との間で近代的自我の確立に苦しんでいた当代の青年に,
衝撃的な影響を与えた。
やがて学習院教授を経て,1910年京都大学哲学科倫理学講座の助教授に着任し,13年教授となって,
前任の桑木厳翼の東大転出とともに哲学講座の中心となった。
京大哲学科はそのころから波多野精一,深田康算,朝永三十郎,やがては田辺元らを擁して
日本のアカデミー哲学の中心となり,
三木清をはじめ多くの青年が西田や波多野を慕って京大に学ぶようになった。 -
麟祥院
開祖は碧翁愚完(へきおうぐかん)。徳川家光(とくがわいえみつ)の乳母春日局(かすがのつぼね)が、妙心寺七十四世単伝士印(たんでんしいん)の法孫、鍋島勝茂(なべしまかつしげ)の子碧翁を請(しょう)じて創建した。寛永(かんえい)十年(一六三三)家光がその地にあった天神社を鎮守(ちんじゅ)として春日局のために創建したとも、同十一年に春日局が子稲葉正勝(いなばまさかつ)の死を悼(いた)んで興したともいう。当初は現在の花園(はなぞの)高等学校の敷地内にあり、明治三十年(一八九七)に現在地に移建された。春日局の木像をまつる霊屋(おたまや)は、元和(げんな)年間(一六一五〜二四)、内裏(だいり)庭園内の御亭(ごちん)であったとか、後水尾(ごみずのお)天皇より拝領して二条城内に設営した釣殿(つりどの)であったとも伝えられる。 -
退蔵院
開祖は妙心寺三祖の無因宗因(むいんそういん)(興文円慧禅師)。波多野重通(はたのしげみち)の建立になり、応永11年(1404)の創建と伝える。元来下京(しもぎょう)の波多野義重(よししげ)邸内に所在していたが、長禄年間(1457〜60)以前に妙心寺境内(けいだい)に移建された。一説に当時霊雲(れいうん)院東の地にあったというが、のち東林(とうりん)院の東に位置し、永正年間(1504〜21、中興祖亀年禅愉(きねんぜんゆ)によって現在地に移された。近世に入り千山玄松(せんざんげんしょう)のとき、大岩(だいがん)庵や艮(ごん)庵を併合しつつ諸堂宇(どうう)の整備充実がはかられた。如拙(じょせつ)筆「瓢鮎(ひょうねん)図」(国宝)、「花園天皇宸翰」(重文)、「後奈良(ごなら)天皇宸翰」(重文)などを有する。 -
退蔵院 庭園
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退蔵院 庭園
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退蔵院 庭園
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退蔵院 庭園
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退蔵院 庭園
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妙心寺 仏殿
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大心院
細川政元(ほそかわまさもと)が妙心寺十世景川宗隆(けいせんそうりゅう)本如実性禅師を勧請(かんじょう)開祖として創建した塔頭(たっちゅう。年次と場所は諸説があり、それぞれ明応(めいおう)元年(一四九二)説、文明(ぶんめい)十一年(一四七九)説、妙心寺山内(さんない)説、上京清蔵口(かみぎようせいぞうぐち)説などがある。いずれにしろ山外(さんがい)に所在した時期があったことは明確とされ、天正(てんしょう)一五七三〜九二ごろの細川幽斎(ゆうさい)の助力による材岳宗佐(ざいがくそうさ)の中興の際には、山内における寺観(じかん)が整備されたものと思われる。さらに寛永(かんえい)十一年(一六三四)、蒲生(がもう)家の援助を得て嶺南崇六(れいなんすうろく)が再興をなした。鎌倉時代の「羅漢(らかん)図」(重文)を有する。 -
東林院
非公開でした。
開祖は妙心寺第五十一世直指宗鍔(じきしそうがく)。山名豊国(やまなとよくに)が開基(かいき)となり、弘治(こうじ)二年(一五五六)に創建された山名家の菩提所塔頭(ぼだいしょたっちゅう)。その前身は上京清蔵口(かみぎょうせいぞうぐち)にあった細川(ほそかわ)家屋敷内の三友(さんゆう)院で、直指が妙心寺山内(さんない)に寺基(じき)を改め、東林(とうりん)院とした。天保(てんぽう)三年(一八三二)、諸堂宇(どうう)が大破したが、山名家によって本堂、庫裏(くり)などが再建されている。 -
嵐電 妙心寺駅です
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おまけ
京阪電車 トーマス号
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