2010/04/04 - 2010/04/04
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旅人のくまさんさん
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桜満開の津城址紹介の続きです。城造りの名人、藤堂高虎が大改修したお城でしたが、明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となり、以後、建造物は破却されていきました。
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- タクシー 私鉄
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満開の染井吉野と、模擬櫓の光景です。ネットで目にした津城址の古写真の紹介です。明治元年(1868年)の津城本丸の丑寅櫓の古写真には、右奥に戌亥櫓があり、両者を繋ぐ多聞櫓が見えました。明治18年(1886年)に解体され売却されるまで、津城の象徴的な建物の一つだったようです。この三層の模擬櫓は、多門櫓が直角に折れ曲がった部分に建てられたものです。
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イチオシ
満開の染井吉野の花のズームアップ光景です。蕾が見当たらない光景ですが、既に散った花もないようです。
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同じく、満開の染井吉野の花のズームアップ光景です。緑の葉が出て、花の色もかなり白っぽいようですから、山桜の1種だったかも知れません。
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同じく、青空をバックにした、満開の染井吉野の花のズームアップ光景です。白い花は、青空によく似合います。
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一斉に花が咲き揃ったソメイヨシノの光景です。申し分のない満開でした。桜の種類によって、色々と見所は分かれますが、この光景は何度見ても見飽きません。
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イチオシ
本丸跡から見下ろしたお濠の光景です。外堀ではなく、内堀跡のようです。小さな噴水が上がっていました。藤堂高虎は、高石垣でも有名ですが、巧みにお濠を配したことでも定評があるお城名人です。津城址では、そのお堀の大部分は失われていました。
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本丸を取り囲む石垣の上から眺めた、堂々とした姿の三層の模擬櫓の光景です。この場所から北側に多門櫓繋がった場所には、丑寅櫓がありました。艮(こん)は、北東を意味する『丑寅』を意味しますが、北東は鬼門と呼ばれました。ここから死者、鬼が出入りするとも言われ、良くない方角とされてきました。
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本丸を取り囲む石垣の、その上部の光景です。かつては、五つの櫓があり、多聞櫓と呼ばれる渡り廊下のような建物で繋がれていました。
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多聞櫓の代わりに、今は大木が立ち並ぶ石垣の上の光景です。散策路にもなっていました。
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座り込んで、少し遠くを眺める散歩中のワンちゃんです。染井吉野の絶好の花見ポイントを探し当てたのかも知れません。
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ワンちゃんが見ていたのは、どの桜の木かは分かりませんが、見応えのある桜の木には事欠きませんでした。
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満開の染井吉野の花を咲かせた木のズームアップ光景です。日本に生まれてよかったことを実感できる、春先のひと時です。
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上から見下ろしたお堀の光景です。満開の染井吉野も一緒にお堀を見下ろしていました。日当たりがいいのか、この辺りでは、そろそろ花筏が出来そうでした。
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本丸を取り囲む石垣の上から見下ろした、城内の光景です。石垣の上も下も散策路になっていました。
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ぴったりと閉ざされた、模擬櫓の出入口の光景です。歴史的な造りの扉ではなく、近代的な造りの扉が使われているようでした。
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模擬櫓の建物下部と、石垣上部の光景です。『乱積の打込み接ぎ』の様式の石積ですが、角の部分にはしっかりとした算木積がされていました。
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石垣のズームアップ光景です。この石垣の特徴は、石の表面はおおむね平ら、隙間が大きく、水平の揃いがないことから、『乱積の打込み接ぎ』の様式の石積のようです。
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イチオシ
主役が模擬櫓と、満開の染井吉野の二人ですから、少しだけアングルを替えて、纏めてその光景を紹介します。染井吉野に飾られた、シャチが見える三層の模擬櫓の光景です。
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模擬櫓の上階の光景です。一寸したお城の天守閣のような風格を持った模擬櫓です。また、津城の天守は関ヶ原の戦いで焼失し、再建されなかったとされます。しかし、近年の研究では、寛永年間(1624〜1643年)に描かれた絵図に三重天守と二重小天守が描かれています。これは富田氏2代の城主時代(1695〜1608年)に再建されたものと想定されています。
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同じ場所から撮影した三層の模擬櫓と、染井吉野の光景です。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時、その前哨戦で西軍の攻撃を受け、津の町は戦火で荒廃しました。また、富田氏時代の天守は、寛文2年(1662年)の火災で焼失しました。しかし、藤堂氏は、江戸幕府への遠慮から天守は再建しなかったようです。
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染井吉野の花で飾られた、模擬櫓の1層と2層の城郭光景です。最上階も僅かだけ見えています。
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千鳥破風(ちどりはふ)の1階部分と、その周りの染井吉野の木々の光景です。
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模擬櫓の同じ場所のズームアップ光景です。昭和33年(1958年)に復元された建物です。鉄筋コンクリート造りの建物のようです。
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模擬櫓の石垣と白壁のズームアップ光景です。それを満開の染井吉野の枝先が飾っていました。因みに、干支での方角は北東が艮(こん:うしとら)、南東が巽(そん:たつみ)、南西が坤(こん:ひつじさる)、北西が乾(けん:いぬい)となります。
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少し離れた場所から眺めた模擬櫓の光景です。緑の松と、白の染井吉野の二つで飾られました。
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先ほど上を歩いてきた、本丸を取り囲む石垣の光景です。藤堂高虎と徳川家康に関するエピソードです。その信頼は篤く、家康死去の際には枕元に侍ることを許されました。元和2年(1616年)、家康が没した後、その遺命により日光東照宮造営に関与しました。秋から工事にかかり約半年で完成しました。
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満開の染井吉野の枝先光景です。明治維新の時、いち早く勤王型に味方した藤堂家ですが、日光東照宮を攻めることは、頑として拒否したとされます。高虎と家康の信頼関係が、明治時代まで影響を与えたようです。個人的な見解ですが、子供の時から敵方の人質になって苦労した家康と、家が没落して、子供の頃には農民となって苦労した高虎には、共通の価値観、人生観があったのかも知れません。
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水が引かれた庭園光景です。和風でもなく、洋風一色でもない、和洋折衷の庭園のようにも見えました。
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石垣の上の通り道から降りた城内の光景です。地元の花見客らしい姿がありました。
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『平和の碑』の文字が刻まれた黒い石碑の光景です。白い文字がくっきりと記されていました。昭和56年(1681年)に建設された、津市傷痍軍人会名のものでした。
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