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浜松城の内部紹介の続きです。城内に展示された軒丸瓦や展示パネル等の紹介と、天守閣からの四方の眺望などの紹介です。

2009春、桜の季節の浜松城(4/5):城内展示品、軒丸瓦、歴史説明パネル、天守からの眺望

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2009/04/02 - 2009/04/02

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旅行記グループ 2009春、桜の名城巡り

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旅人のくまさん

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浜松城の内部紹介の続きです。城内に展示された軒丸瓦や展示パネル等の紹介と、天守閣からの四方の眺望などの紹介です。

交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル 私鉄

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  • 出土品らしい、軒丸瓦の展示品紹介です。三つ巴の紋です。浜松城第3代城主、堀尾義春(在位:1590〜1599年)の時代の軒丸瓦です。

    イチオシ

    出土品らしい、軒丸瓦の展示品紹介です。三つ巴の紋です。浜松城第3代城主、堀尾義春(在位:1590〜1599年)の時代の軒丸瓦です。

  • 出土品らしい、軒丸瓦の展示品です。5枚の花弁を持つ花模様の紋です。第9代の太田資宗(在位:1644〜1671年)から時代の太田資次 (在位:1671〜1678年) の時代の軒丸瓦です。

    出土品らしい、軒丸瓦の展示品です。5枚の花弁を持つ花模様の紋です。第9代の太田資宗(在位:1644〜1671年)から時代の太田資次 (在位:1671〜1678年) の時代の軒丸瓦です。

  • 出土品らしい、軒丸瓦の展示品です。こちらも5枚の花弁を持つ花模様の紋のようです。こちらも第9代の太田資宗(在位:1644〜1671年)から時代の太田資次 (在位:1671〜1678年) の時代の軒丸瓦です。

    出土品らしい、軒丸瓦の展示品です。こちらも5枚の花弁を持つ花模様の紋のようです。こちらも第9代の太田資宗(在位:1644〜1671年)から時代の太田資次 (在位:1671〜1678年) の時代の軒丸瓦です。

  • 出土品らしい、軒丸瓦の展示品紹介です。丸に九つの釘抜きをあしらった紋です。第二代城主の松平資俊(在位:1602〜1623年)の時代の軒丸瓦です。あるいは、第18代の松平資訓(在位:1649〜1652年)か19代の松平資昌 (在位:1652〜1658年)の時代の軒丸瓦かもしれません。

    出土品らしい、軒丸瓦の展示品紹介です。丸に九つの釘抜きをあしらった紋です。第二代城主の松平資俊(在位:1602〜1623年)の時代の軒丸瓦です。あるいは、第18代の松平資訓(在位:1649〜1652年)か19代の松平資昌 (在位:1652〜1658年)の時代の軒丸瓦かもしれません。

  • 井上河内守の井桁紋の軒丸瓦の光景です。老中にもなった20代の井上正経(在位:1758〜1766年)か、25代の井上正春(1845〜1847年)の時代の軒丸瓦です。

    井上河内守の井桁紋の軒丸瓦の光景です。老中にもなった20代の井上正経(在位:1758〜1766年)か、25代の井上正春(1845〜1847年)の時代の軒丸瓦です。

  • 『戦国の面影残す野面積み』のタイトルがあった説明パネルです。外観は粗雑に見えますが、400年の風月に耐えた丈夫な石垣です。

    『戦国の面影残す野面積み』のタイトルがあった説明パネルです。外観は粗雑に見えますが、400年の風月に耐えた丈夫な石垣です。

  • 『青山家文書・浜松城二の丸絵図』のタイトルがあった説明パネルです。浜松市史によれば、二の丸の主要な建造物は『表御殿』と『奥御殿』からなり、『表御殿』には藩の行政機関が置かれ、『奥御殿』は城主の居館だったとされます。

    『青山家文書・浜松城二の丸絵図』のタイトルがあった説明パネルです。浜松市史によれば、二の丸の主要な建造物は『表御殿』と『奥御殿』からなり、『表御殿』には藩の行政機関が置かれ、『奥御殿』は城主の居館だったとされます。

  • 同じく、『青山家文書・浜松城二の丸絵図』の図面の方のズームアップです。<br />『表御殿』には、『唐破風』の玄関の奥に広間・使者の間があり、正面奥には近習詰所・年寄詰所・祐筆所などが並び、その左側には上壇間・書院などの城主の執政などに用いられる部屋があり、右側には御用所・勘定所・勝手・台所・番人部屋などの部屋があり、3箇所の坪庭も設けられていました。<br />『奥御殿』には、大奥番所を経て廊下により通じ、左側が城主の平素起居する居間、右側にはこれに付属する諸種の部屋がありました。<br />

    同じく、『青山家文書・浜松城二の丸絵図』の図面の方のズームアップです。
    『表御殿』には、『唐破風』の玄関の奥に広間・使者の間があり、正面奥には近習詰所・年寄詰所・祐筆所などが並び、その左側には上壇間・書院などの城主の執政などに用いられる部屋があり、右側には御用所・勘定所・勝手・台所・番人部屋などの部屋があり、3箇所の坪庭も設けられていました。
    『奥御殿』には、大奥番所を経て廊下により通じ、左側が城主の平素起居する居間、右側にはこれに付属する諸種の部屋がありました。

  • 『三方ケ原合戦の武田軍侵攻と家康』のタイトルがあった説明パネルです。右下に元亀年(1572年)10月3日、甲斐(甲府)を発ち、一旦北上した後で南下する本体と、西に分かれて飯田城と岩村城を攻め、三方ケ原付近で本体と合流する支隊のルートが表示されていました。説明文では、『信玄軍は伊那谷から高遠に入り、そこで兵を三つに分けた』と記していました。三方ケ原大地に上った信玄軍は2万5千、一方の家康軍は1万1千と紹介されていました。

    『三方ケ原合戦の武田軍侵攻と家康』のタイトルがあった説明パネルです。右下に元亀年(1572年)10月3日、甲斐(甲府)を発ち、一旦北上した後で南下する本体と、西に分かれて飯田城と岩村城を攻め、三方ケ原付近で本体と合流する支隊のルートが表示されていました。説明文では、『信玄軍は伊那谷から高遠に入り、そこで兵を三つに分けた』と記していました。三方ケ原大地に上った信玄軍は2万5千、一方の家康軍は1万1千と紹介されていました。

  • 『三方ケ原合戦、徳川軍・武田軍の陣形』と題した説明パネルです。右手に青色で豊臣軍の『鶴翼の陣』、左手に赤色で武田軍の『魚鱗の陣』が表示されていました。戦闘開始は、武田方の『甲陽軍鑑』では申の刻(現在の夕方4時頃)、午後6時頃には徳川軍は総退却となりました。家康が大敗したことで有名な戦いとなりました。

    『三方ケ原合戦、徳川軍・武田軍の陣形』と題した説明パネルです。右手に青色で豊臣軍の『鶴翼の陣』、左手に赤色で武田軍の『魚鱗の陣』が表示されていました。戦闘開始は、武田方の『甲陽軍鑑』では申の刻(現在の夕方4時頃)、午後6時頃には徳川軍は総退却となりました。家康が大敗したことで有名な戦いとなりました。

  • 『犀ケ崖(さいががけ)古戦場』のタイトルがあった説明パネルです。犀ケ崖での戦いは、元亀3年(1573年) 、武田信玄軍と徳川家康・織田信長連合軍が戦った、『三方ヶ原の戦い』の終盤の出来事です。徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰りました。浜松城に戻った家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行い、警戒した相手が去ったことで危機を脱しました。同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ケ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させる、犀ケ崖の戦いをしかけました。その詳細については不明です。

    『犀ケ崖(さいががけ)古戦場』のタイトルがあった説明パネルです。犀ケ崖での戦いは、元亀3年(1573年) 、武田信玄軍と徳川家康・織田信長連合軍が戦った、『三方ヶ原の戦い』の終盤の出来事です。徳川軍の一方的な敗北の中、家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰りました。浜松城に戻った家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行い、警戒した相手が去ったことで危機を脱しました。同夜、一矢報いようと考えた家康は大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ケ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させる、犀ケ崖の戦いをしかけました。その詳細については不明です。

  • 浜松市の市政施行70周年、浜松市観光協会創立30周年を記念して結成された、『徳川家康若き日の銅像建設委員会』の活動に関する説明パネルでした。昭和56年(1981年)12月20日に除幕式が行われたことも紹介されていました。

    浜松市の市政施行70周年、浜松市観光協会創立30周年を記念して結成された、『徳川家康若き日の銅像建設委員会』の活動に関する説明パネルでした。昭和56年(1981年)12月20日に除幕式が行われたことも紹介されていました。

  • 随分とスマートな,徳川家康公の銅像の紹介パネルです。先ほど紹介した、『若き日の徳川家康公の銅像』のタイトルがありました。水野欽三郎氏の作品です。浜松生まれの彫刻家で、『東洋のロダン』と呼ばれた朝倉文夫氏に学んだ人です。

    随分とスマートな,徳川家康公の銅像の紹介パネルです。先ほど紹介した、『若き日の徳川家康公の銅像』のタイトルがありました。水野欽三郎氏の作品です。浜松生まれの彫刻家で、『東洋のロダン』と呼ばれた朝倉文夫氏に学んだ人です。

  • 浜松城の模擬天守の中の展示室の光景です。多くの説明パネルや写真、遺物などが展示されていました。浜松城は出世城とも呼ばれ、初代の家康をはじめ、幕末時の江戸幕府老中を務めた井上正直公(在位:1847〜1868年)まで、26代の譜代大名が続きました。

    浜松城の模擬天守の中の展示室の光景です。多くの説明パネルや写真、遺物などが展示されていました。浜松城は出世城とも呼ばれ、初代の家康をはじめ、幕末時の江戸幕府老中を務めた井上正直公(在位:1847〜1868年)まで、26代の譜代大名が続きました。

  • 同じく、浜松城の模擬天守の中の展示室の光景です。徳川家ゆかりの三つ葉葵の紋も各所で見受けました。

    同じく、浜松城の模擬天守の中の展示室の光景です。徳川家ゆかりの三つ葉葵の紋も各所で見受けました。

  • 『悲運の正妻・築山御前』のタイトルがあった説明パネルです。築山御前(1542〜1579年)は、駿河御前とも呼ばれる家康の正妻だった人です。今川家の人質として駿府にいた三河岡崎城主の松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚しました。築山殿・築山御前の呼び名は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたためです。築山殿を嫌う家康の生母・於大の方が、岡崎城に入ることを許さなかったためとされます。築山御前は家康の命令により、岡崎から浜松に向かう途中、小藪村で殺害されました。天正7年(1579年)8月29日のことでした。また、二人の子である、嫡男元康も二俣城で切腹となりました。

    『悲運の正妻・築山御前』のタイトルがあった説明パネルです。築山御前(1542〜1579年)は、駿河御前とも呼ばれる家康の正妻だった人です。今川家の人質として駿府にいた三河岡崎城主の松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚しました。築山殿・築山御前の呼び名は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたためです。築山殿を嫌う家康の生母・於大の方が、岡崎城に入ることを許さなかったためとされます。築山御前は家康の命令により、岡崎から浜松に向かう途中、小藪村で殺害されました。天正7年(1579年)8月29日のことでした。また、二人の子である、嫡男元康も二俣城で切腹となりました。

  • 『21才の若さで自刃した信康』のタイトルの説明パネルです。今も諸説が入り乱れる家康の嫡男だった信康の死を巡る真相論議です。戦国の世の常で、その背景に徳川家、織田家と今川家の思惑が交錯していたことは間違いありませんが、その主因を巡っての論議は、この後も尽きないようです。自刃したのは、天正7年(1579年)9月15日のことです。介錯人は服部正成(半蔵)でしたが、主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、検死役の天方道綱が代わって介錯したと伝わります。甲賀衆を指揮した服部半蔵(1542〜1596年)は、徳川十六神将の一人に数えられています。

    『21才の若さで自刃した信康』のタイトルの説明パネルです。今も諸説が入り乱れる家康の嫡男だった信康の死を巡る真相論議です。戦国の世の常で、その背景に徳川家、織田家と今川家の思惑が交錯していたことは間違いありませんが、その主因を巡っての論議は、この後も尽きないようです。自刃したのは、天正7年(1579年)9月15日のことです。介錯人は服部正成(半蔵)でしたが、主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、検死役の天方道綱が代わって介錯したと伝わります。甲賀衆を指揮した服部半蔵(1542〜1596年)は、徳川十六神将の一人に数えられています。

  • 『浜松城築城440年記念写真展』の展示会場の光景です。家康公が浜松城を築城したのは、元亀元年(1570年)のことです。

    『浜松城築城440年記念写真展』の展示会場の光景です。家康公が浜松城を築城したのは、元亀元年(1570年)のことです。

  • 昭和33年(1958年)の天守閣復興当時の写真や、天守門や二の丸の古い写真等も紹介されていました。浜松城・復興再建50周年記念の写真展でした。

    昭和33年(1958年)の天守閣復興当時の写真や、天守門や二の丸の古い写真等も紹介されていました。浜松城・復興再建50周年記念の写真展でした。

  • 西方面の眺望の説明パネルです。一番近い中央部には『埋門跡』、右方面には『作左曲輪跡』等が、左側には、『外端城門跡』等が表示されていました。

    西方面の眺望の説明パネルです。一番近い中央部には『埋門跡』、右方面には『作左曲輪跡』等が、左側には、『外端城門跡』等が表示されていました。

  • 東方面の眺望の説明パネルです。一番近い場所には、『天守門跡』、その先にベースボール型に架空の扇で囲った、『本丸跡』、更にその先に『二の丸跡』のエリアが表示されていました。

    東方面の眺望の説明パネルです。一番近い場所には、『天守門跡』、その先にベースボール型に架空の扇で囲った、『本丸跡』、更にその先に『二の丸跡』のエリアが表示されていました。

  • 中央付近に『三方ヶ原古戦場』、左端近くに『犀ヶ崖』が赤い文字で記された眺望案内図です。

    中央付近に『三方ヶ原古戦場』、左端近くに『犀ヶ崖』が赤い文字で記された眺望案内図です。

  • 左下に『富士見櫓』、右側の元城小学校の辺りに『二の丸』が記された案内図です。引馬城跡や八幡宮も記されていました。

    左下に『富士見櫓』、右側の元城小学校の辺りに『二の丸』が記された案内図です。引馬城跡や八幡宮も記されていました。

  • 浜松市街と、遠州灘方面の光景の案内図です。浜松城関係では、『大手門』、『出丸』と『榎門』等が広範囲に記されていました。

    浜松市街と、遠州灘方面の光景の案内図です。浜松城関係では、『大手門』、『出丸』と『榎門』等が広範囲に記されていました。

  • この後は、天守からの浜松市内の四囲の眺望の紹介です。危険防止のために張られた、目の粗い金網越しの光景です。

    この後は、天守からの浜松市内の四囲の眺望の紹介です。危険防止のために張られた、目の粗い金網越しの光景です。

  • 眼前に広がるソメイヨシノの光景です。遠くには、なだらかな山並みが見えました。

    眼前に広がるソメイヨシノの光景です。遠くには、なだらかな山並みが見えました。

  • 浜松市内の市街光景です。一際高い、ホテルらしい高層ビルの姿がありました。『浜松の高層ホテル』で検索しましたら、真っ先に『オークラアクトシティホテル浜松』がヒットしました。浜松市中区板屋町に位置する、平成6年(1994年)に竣工した、この時点で浜松一ののっぽビルでした。ハーモニカをモチーフにしたデザインです。

    浜松市内の市街光景です。一際高い、ホテルらしい高層ビルの姿がありました。『浜松の高層ホテル』で検索しましたら、真っ先に『オークラアクトシティホテル浜松』がヒットしました。浜松市中区板屋町に位置する、平成6年(1994年)に竣工した、この時点で浜松一ののっぽビルでした。ハーモニカをモチーフにしたデザインです。

  • 眼下の城内光景です。屋根瓦の先は、満開のソメイヨシノの光景が広がっていました。

    イチオシ

    眼下の城内光景です。屋根瓦の先は、満開のソメイヨシノの光景が広がっていました。

  • 同じく、眼下の城内光景です。白色の染井吉野の花に交じって、新緑の薄緑色も見えていました。

    イチオシ

    同じく、眼下の城内光景です。白色の染井吉野の花に交じって、新緑の薄緑色も見えていました。

  • 眼下の城内光景が続きます。かつての城内ですが、今は公園となっているエリアのようでした。

    眼下の城内光景が続きます。かつての城内ですが、今は公園となっているエリアのようでした。

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