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写真展が行われていた浜松城の内部の紹介です。天守閣城内の展示品の写真撮影が許可されていました。レプリカもあったようです。

2009春、桜の季節の浜松城(3/5):浜松城内展示品、具足、太刀、軍扇、家康像、十六神将図

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2009/04/02 - 2009/04/02

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旅行記グループ 2009春、桜の名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

写真展が行われていた浜松城の内部の紹介です。天守閣城内の展示品の写真撮影が許可されていました。レプリカもあったようです。

交通手段
高速・路線バス 新幹線 JRローカル 私鉄

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  • 『祝・浜松城年間入場者数・11万人達成記念』の立看板があった、天守閣入口の光景です。

    『祝・浜松城年間入場者数・11万人達成記念』の立看板があった、天守閣入口の光景です。

  • 『はま松は 出世城なり 初松魚(かつを)』の句碑の紹介です。明治時代の浜松で名を馳せた、俳人松島十湖(1849〜1926年)の句です。

    『はま松は 出世城なり 初松魚(かつを)』の句碑の紹介です。明治時代の浜松で名を馳せた、俳人松島十湖(1849〜1926年)の句です。

  • 『金陀美具足(きんだび・ぐそく)』と呼ばれる、金箔を貼った鎧です。家康公が関が原の合戦で着用したものとされます。そのレプリカです。

    イチオシ

    『金陀美具足(きんだび・ぐそく)』と呼ばれる、金箔を貼った鎧です。家康公が関が原の合戦で着用したものとされます。そのレプリカです。

  • 『歯朶具足(しだ ぐそく)』と呼ばれる鎧です。家康公が夢に出た鎧を作らせたもので、多くの将軍により複製されました。そのレプリカです。

    イチオシ

    『歯朶具足(しだ ぐそく)』と呼ばれる鎧です。家康公が夢に出た鎧を作らせたもので、多くの将軍により複製されました。そのレプリカです。

  • まだ若かりし頃の徳川家康公像の正面光景です。木彫りの様に見えました。

    まだ若かりし頃の徳川家康公像の正面光景です。木彫りの様に見えました。

  • 赤い陣羽織と陣笠の光景です。レプリカらしい傷のない陣笠には、梅鉢紋らしいものがありました。

    赤い陣羽織と陣笠の光景です。レプリカらしい傷のない陣笠には、梅鉢紋らしいものがありました。

  • 陣羽織と陣笠の光景です。こちらはレプリカではなく、実際に使われた物の雰囲気がありました。

    陣羽織と陣笠の光景です。こちらはレプリカではなく、実際に使われた物の雰囲気がありました。

  • 乗馬鞍の展示です。使い古された品の雰囲気でした。

    乗馬鞍の展示です。使い古された品の雰囲気でした。

  • 荷役馬の鞍のようです。こちらも実際に使用されていたらしい年代物のようです。

    荷役馬の鞍のようです。こちらも実際に使用されていたらしい年代物のようです。

  • 『薩摩』らしい墨書がありましたが、その下の文字が判読できませんでした。

    『薩摩』らしい墨書がありましたが、その下の文字が判読できませんでした。

  • 端午の御祝儀に対するお礼状です。松平伊豆守の花押がありました。浜松城二代城主に松平伊豆守信復(1719〜1768年)がいます。左上に記された下間少進(しもつま・しょうしん)の名前は、能役者のようです。

    端午の御祝儀に対するお礼状です。松平伊豆守の花押がありました。浜松城二代城主に松平伊豆守信復(1719〜1768年)がいます。左上に記された下間少進(しもつま・しょうしん)の名前は、能役者のようです。

  • 『二條城勤番者外拵』の表示があった太刀の柄の部分の光景です。大小の二振りです。

    『二條城勤番者外拵』の表示があった太刀の柄の部分の光景です。大小の二振りです。

  • 『二條城勤番者外拵』の表示があった太刀です。京都の二条城の勤番に当たった人の刀の鞘です。

    『二條城勤番者外拵』の表示があった太刀です。京都の二条城の勤番に当たった人の刀の鞘です。

  • 葵の御紋が入った大刀の光景です。刀身と鞘が別々に表示してありました。

    葵の御紋が入った大刀の光景です。刀身と鞘が別々に表示してありました。

  • 葵の御紋が入った大刀の刀身と鞘の光景です。鞘には、複数の葵の御紋がありました。

    葵の御紋が入った大刀の刀身と鞘の光景です。鞘には、複数の葵の御紋がありました。

  • 『金小札沢潟二枚胴具足(きんこざね・おもがた にまいどうぐそく)』と呼ばれる鎧の頭部部分です。室町時代末期以降に登場した、具足の『当世具足』のようです。

    『金小札沢潟二枚胴具足(きんこざね・おもがた にまいどうぐそく)』と呼ばれる鎧の頭部部分です。室町時代末期以降に登場した、具足の『当世具足』のようです。

  • 『金小札沢潟二枚胴具足(きんこざね・おもがた にまいどうぐそく)』の胴部分のズームアップ光景です。

    『金小札沢潟二枚胴具足(きんこざね・おもがた にまいどうぐそく)』の胴部分のズームアップ光景です。

  • 『金小札沢潟二枚胴具足(きんこざね・おもがた にまいどうぐそく)』の裾と脛当てのズームアップ光景です。汚れや傷が見当たりませんから、レプリカのようです。

    『金小札沢潟二枚胴具足(きんこざね・おもがた にまいどうぐそく)』の裾と脛当てのズームアップ光景です。汚れや傷が見当たりませんから、レプリカのようです。

  • 『紺糸威黒鎧二枚胴具足(こんいとおどし・くろよろい・にまいどうぐそく)』の頭部光景です。オーソドックスな造りの兜に見えます。

    『紺糸威黒鎧二枚胴具足(こんいとおどし・くろよろい・にまいどうぐそく)』の頭部光景です。オーソドックスな造りの兜に見えます。

  • 『紺糸威黒鎧二枚胴具足(こんいとおどし・くろよろい・にまいどうぐそく)』の胴部分のズームアップ光景です。

    『紺糸威黒鎧二枚胴具足(こんいとおどし・くろよろい・にまいどうぐそく)』の胴部分のズームアップ光景です。

  • 『紺糸威黒鎧二枚胴具足(こんいとおどし・くろよろい・にまいどうぐそく)』の裾と脛当てのズームアップ光景です。

    『紺糸威黒鎧二枚胴具足(こんいとおどし・くろよろい・にまいどうぐそく)』の裾と脛当てのズームアップ光景です。

  • 金地に日の丸が記された扇子の光景です。武将が陣中で指揮に用いた、『軍扇(ぐんせん)』と呼ばれるもののようです。

    金地に日の丸が記された扇子の光景です。武将が陣中で指揮に用いた、『軍扇(ぐんせん)』と呼ばれるもののようです。

  • まだ若かりし頃の徳川家康公像の横顔です。晩年の肖像とはかなりイメージが違っているようです。

    まだ若かりし頃の徳川家康公像の横顔です。晩年の肖像とはかなりイメージが違っているようです。

  • 種子島、鉄砲類の展示状況です。中世時代の戦争を一気に変化させた武器です。

    種子島、鉄砲類の展示状況です。中世時代の戦争を一気に変化させた武器です。

  • 徳川家康(1543〜1616年)と、十六神将の図です。その内の徳川四天王は、酒井忠次(1527〜1596年)、本多忠勝(1548〜1610年)、榊原康政(1548〜1606年)、井伊直政(156〜1602年)です。十六神将は、徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称です。本多、榊原、井伊の3人は、三傑とも呼ばれます。

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    徳川家康(1543〜1616年)と、十六神将の図です。その内の徳川四天王は、酒井忠次(1527〜1596年)、本多忠勝(1548〜1610年)、榊原康政(1548〜1606年)、井伊直政(156〜1602年)です。十六神将は、徳川家康に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた16人の武将を顕彰した呼称です。本多、榊原、井伊の3人は、三傑とも呼ばれます。

  • 十六神将は、大部分は三河時代からの家臣で、家康と共に戦場で活躍した武功派の武将たちとされます。この図は、盛装した十六神将図です。先に紹介した四人以外は、松平康忠(1545〜1618年)または松平家忠(1555〜 1600年)、平岩親吉(1542〜1611年)、鳥居元忠(1539〜1600年)、鳥居忠広(? - 1573年)、大久保忠世(1532〜1594年)、大久保忠佐(1537〜1613年)、内藤正成(1528〜1602年)、服部正成(1542〜1596年)、高木清秀(1526〜1610年)、米津常春(1524〜1612年)、渡辺守綱(1542〜1620年)、蜂屋貞次(1539〜1564年)または植村家存(家政)(1541〜1577年)の十二名です。

    十六神将は、大部分は三河時代からの家臣で、家康と共に戦場で活躍した武功派の武将たちとされます。この図は、盛装した十六神将図です。先に紹介した四人以外は、松平康忠(1545〜1618年)または松平家忠(1555〜 1600年)、平岩親吉(1542〜1611年)、鳥居元忠(1539〜1600年)、鳥居忠広(? - 1573年)、大久保忠世(1532〜1594年)、大久保忠佐(1537〜1613年)、内藤正成(1528〜1602年)、服部正成(1542〜1596年)、高木清秀(1526〜1610年)、米津常春(1524〜1612年)、渡辺守綱(1542〜1620年)、蜂屋貞次(1539〜1564年)または植村家存(家政)(1541〜1577年)の十二名です。

  • 『初代城主家紋』の表示があった、『三つ葉葵』の紋です。初代城主は、もちろん徳川家康公です。

    『初代城主家紋』の表示があった、『三つ葉葵』の紋です。初代城主は、もちろん徳川家康公です。

  • 『末代城主家紋』の表示があった、『井桁』の紋です。井上正直城主の紋です。井上正直公(1837〜1904年)は、寺社奉行を経て、老中を都合2期務め、明治維新を迎えた人です。

    『末代城主家紋』の表示があった、『井桁』の紋です。井上正直城主の紋です。井上正直公(1837〜1904年)は、寺社奉行を経て、老中を都合2期務め、明治維新を迎えた人です。

  • 『三つ葉葵』ですが、徳川家康公の紋とは、少しデザインが異なります。松平家忠公の家紋です。松平家忠公(1548〜1582年)は、形原(かたのはら)松平家当主でした。母は、水野忠政の娘で、家康公の生母・於大の方(伝通院)の姉妹ですから、家康公とは従兄弟になります。

    『三つ葉葵』ですが、徳川家康公の紋とは、少しデザインが異なります。松平家忠公の家紋です。松平家忠公(1548〜1582年)は、形原(かたのはら)松平家当主でした。母は、水野忠政の娘で、家康公の生母・於大の方(伝通院)の姉妹ですから、家康公とは従兄弟になります。

  • 本多忠勝公の『立葵』の紋です。本多忠勝公(1548〜1610年)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で大名です。徳川四天王の一人に称されました。

    本多忠勝公の『立葵』の紋です。本多忠勝公(1548〜1610年)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で大名です。徳川四天王の一人に称されました。

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2009春、桜の名城巡り

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