1998/08/21 - 1998/08/29
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砂布巾さん
~ヒトラーの生まれた町を見学後はナチスゆかりの地でもあるミュンヘンで合流 ダッハウ強制収容所跡、かつての別荘など第2次大戦を訪ねる ザルツブルクでは映画‘サウンド・オブ・ミュージック’のロケ地が見たくてケント・ナガノの演奏会へ
8月21日 ザルツブルクは雨だった
朝は隣の教会のけたたましい鐘の音で7時に目が覚めた。その後少し町を歩いて、ザルツブルクには昼過ぎの列車で向かう。リンツあたりまでの景色はいかにもオーストリアらしく美しい。有名なメルクの修道院は列車の窓から観光できた。
天気は西へ向かうにつれて悪くなり、ザルツブルク到着直前からは雨が降りだした。昨日もクロアチア領内通過中に断続的にバケツをひっくり返したような激しい雨が降ったが、自分の行動中に雨が降ったのは、アムステルダム以来のこと。
到着後は、明日夜ミュンヘン空港で合流して以後の準備で、ザルツブルク音楽祭のチケット購入とホテルの予約。全てうまくいった。
昼食をとる間がなかったので、夜は20日の朝日新聞を読みながら日替定食(ホイテ・メニュー)のシュニッツェル。ちょっと油っぽかった。
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8月22日 ブラウナウ〜ヒトラーが生まれた町
昨夜はあまり寝られなかったので、朝はゆっくりしたかったが、YH(167S=¥2,050)のチェックアウトは9時だから、少し忙しかった。
ザルツブルクからローカル列車で1時間ばかり行ったドイツとの国境の町ブラウナウは、ヒトラーが生まれた町。午前中少しザルツブルクを歩き、午後から行ってみた。小さな町ではあったけど、町の広場は可愛らしい。
ヒトラーの家は観光名所ではなく、地図にも載っていないので、探すのに苦労したが、昼食をとったレストランの黒人ウェイターが教えてくれた。家の前のマウトハウゼン強制収容所から運ばれたという石には「多くの人が亡くなったファシズムを二度と再び招かないよう自由と民主主義に警告する」と書かれていた。
ヒトラーが社会不安を背景に政権奪取を目指して起こした1923年のミュンヘン一揆失敗後、反逆罪で拘留されていたランツベルク刑務所で口述筆記された「わが闘争」(Mein Kampf)は、次のような言葉で始まっている。
「今日わたしは、イン河畔のブラウナウが、まさしくわたしの生誕の地となった運命を、幸福なさだめだと考えている。というのは、この小さな町は、2つのドイツ人の国家の境に位置しており、少なくともこの両国家の再合併こそ、われわれ青年が、いかなる手段をもってしても実現しなければならない畢生の事業、と考えられるからである」。 -
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ミュンヘン一揆失敗後、合法的な政権奪取に方針転換したヒトラーは、世界恐慌後の1933年に首相となり、1938年3月にはヴェルサイユ条約を無視してオーストリアとの再合併を強行した。‘サウンド・オブ・ミュージック’は併合に運命を弄ばれた家族の物語だったことは言うまでもない。もしヒトラーがドイツと国境を接するこの町に生まれていなかったら、ごく普通の市民として生涯を終えていたかも知れないし、そうなると当然世界史も大きく変わっていたことだろう。
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家から広場を通り、イン川を渡ってドイツには徒歩で入国した。EU諸国間の国境審査廃止を定めたシェンゲン協定に基づいて、国境はフリーパス。橋の中央にあったドイツとバイエルン州の標識が辛うじてドイツ入国を感じさせた。
ミュンヘンに向かう列車まで待時間が2時間近くあったので、駅のホームで横になって15分熟睡したり、Sinbachという町を少し歩いてみたり。ブラウナウにもここにも戦争の犠牲者の慰霊碑があった。
22時前の飛行機で妻がやって来る。4週間振りの再会。宿は日本での予約を頼んだインターシティーホテル。ミュンヘン駅構内にあるので便利。値段は230DM(¥19,000)とそれなりに高いが、部屋はなかなか広くきれい。 -
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8月23日 ダッハウ強制収容所跡
朝食を済ませ、今日の宿を探しに出掛ける。ミュンヘンの宿は駅周辺に集まっている。3軒目に行ったペンション・アウグスブルクに泊まることにする。トイレ、シャワーがある部屋で、朝食込みで120DM(¥9,900)。テレビはないけど、部屋は清潔。受付のおばさんは、ガチガチのドイツ人といった感じの人。
午後はミュンヘン郊外にあるダッハウ強制収容所跡に行く。ダッハウは1933年に建設されたドイツ最初の強制収容所で、ナチスの反対者やユダヤ人が国家の敵として収容された。収容者が最終的に死へと追いやられたのは言うまでもない。 -
(入り口の Arbeit macht frei.=「働けば自由になれる」の文字)
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展示場にはナチスが台頭し権力を獲得する過程に始まり、敗戦によって収容所が解放されるまでの写真や文書が展示してあった。そして収容者用の入口には、‘Arbeit macht frei.’(働けば自由になれる)の文字も見えた。収容者用のバラックは今はごく一部を除いて無く、土台だけが残されていた。敷地の一番奥には死者を焼く焼却炉、その隣にはガス室も残されていた。
8年前に訪れたアウシュビッツには膨大な量の髪の毛や靴、鞄などの遺品、犠牲者の写真などがあり、それらが写真を撮るのもためらわれる位に生々し過ぎたのと比べると、衝撃度は少なかった。だからと言って、この展示の持つ意義がいささかも薄れるわけではない。 -
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それはともかく、かつて朝鮮半島や中国などアジアで残虐なことを行った日本にとって、単に「ドイツは悪い」で済まされる問題ではない。
15時半からは記録映画を観た。ナレーションは英語で、言葉が理解出来ないままどんどん進んでいく。語学力のなさを特に痛感した一時だった。 -
Sバーン(国鉄近郊電車)の路線図でダッハウからシュタルンベルク湖が意外に近いことが分かったので、夕方は足を延ばしてみた。そこはワーグナーの熱烈な支持者で、あのノイシュヴァンシュタイン城など現実離れした豪華な数々の城を造り、「狂王」とも呼ばれたバイエルン王ルードビッヒ2世が謎の自殺を遂げた湖。現場に行くことは出来なかったが、そこには十字架と教会があるそうだ。遅い昼食をとった湖畔のレストランでは、ダンスパーティーが開かれていた。
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8月24日 ベルヒテスガーデンも雨だった
朝方は有名な市役所の仕掛け時計を見学し、妻はDeutsches Museum(ドイツ博物館)へ行くなど、一時別行動をとる。
昼過ぎの列車でドイツ南部のベルヒテスガーデンへ。正規のチケットでは2人で96DMらしいが、バイエルンチケットが2人で35DMだったのでそれを購入。平日の9時から16時までの使用で、特急や急行には乗れないなどの制約はあるが、半額以下になるので助かる。 -
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到着後は宿の確保。町中の Vier Jahreszeiten(四季)で忙しそうなフロントのお姉さんに値段を聞くと「230DM」。「私たちには高すぎる」に「150DMの部屋もある」で見せてもらった。山はよく見えるし、部屋もきれいだったので、泊まることにした。案内してくれたお姉さんに「景色がきれいですね、あなたのように」と言うと喜んでくれた。後で部屋にあった案内を見てみると「180DM」と書いてあった。受付のお姉さんに「150なら泊まるだろう」と読まれた(実際上限は150だった)か、それとも2泊するから安くしてくれたのか?
ミュンヘンも強風が吹き荒れる変な天気だったが、夕方からは本格的な雨。早めに引き揚げてホテルで夕食。今回は誰かさんが雨女か? -
8月25〜26日 Kehlstein〜エヴァ・ブラウンが愛した別荘
ベルヒテスガーデンのハイライトはKönigsseeとKehlstein。8年前に両方とも訪れていたのだが、前者は途中下車できるルールを知らず単に遊覧船で湖を往復しただけだったし、翌日訪れた後者は天気が悪く景色が見えなかったので、是非もう1回行ってみたかった。
25日はケーニッヒスゼー(王様の湖)をじっくりハイキング。最初に船が停まるバルトロメー教会の手前では船がエンジンを止め、トランペットの吹奏がある。静寂の中、音色が周囲の岩山にこだまする。朝方は曇りだったが、湖の一番奥の終点Saletから更に奥にあるOberseeを歩いていた頃から天気も回復してきた。 -
26日はヒトラーの別荘だったケールシュタインへ。山の頂上近く、1,834mの所にある。駐車場からバスしか通れない山道を15分ばかり進んだ回転場から別荘までは、金ピカのエレベーターで124mを一気に登る。建物そのものは大きくないが、ドイツアルプスの眺めが素晴らしい。ケーニッヒスゼーもここからは単なる水たまりに過ぎない。ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンは、ここをこよなく愛していたと言われ、ヒトラーとエヴァが過ごしている当時としては珍しいカラー映像も残されている。中にはムッソリーニからの贈り物という暖炉もあった。
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こんな山の中に別荘を造る精神構造も、町のド真ん中に現実離れした巨大な宮殿を造るチャウシェスクの精神構造も、独裁者の精神構造は同じなのかと思った。
午後はバスでザルツブルク入りし、夜はケント・ナガノのコンサートへ。ザルツブルク音楽祭期間中で数あるコンサートの中から彼のコンサートを選んだのは、会場がフェルゼンライトシューレだったから。ここは‘サウンド・オブ・ミュージック’でトラップファミリーが亡命直前に音楽祭で歌を披露した会場。入ってみると意外に狭かったが、確かに映画で見たあの会場だ。舞台の上には意味はよく分からないけど、テレビが十数台天井から吊り下げてあったり、建築中の家を模したセットもあった。これが舞台芸術というものだろうか。とにかくこの会場を見学できただけで満足。エルガーさん(交響曲第2番)、リストさん(メフィストワルツ第1番)、ワーグナーさん(楽劇「神々のたそがれ」より)ごめんなさい。チケットの値段は1,250S(=¥15,400)でした。
終演後は2人ともジーパン姿(皆さんドレスアップしている中では多少場違い)で楽屋にまで押し掛け、サインをもらうことが出来て大興奮。 -
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8月27日 バートイシュル〜皇帝の別荘
雨模様で天気が再び良くない中、ザルツブルクからバスでバートイシュル(気温13度だった)に向かう。バートは温泉を意味するように、ここは温泉保養地。ミニコンサートが行われていた町中の建物で温泉を飲んだけど、少し塩辛かった。作曲家ではブラームス、ヨハン・シュトラウス、レハール(博物館がある)といった人々がこの地を愛した。
ここにはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ2世の別荘があることでも有名だ。別荘は皇帝とエリザベート(1998年は没後百年)の結婚祝いとして贈られたもので、邸内には狩猟好きの皇帝が射止めた獲物のはく製が数多く飾られていた。 -
執務室の机では第1次大戦開戦の文書が署名されたそうで、「国民に告ぐ」と題された文章の日付は、正に開戦した1914年7月28日になっていた。
帰途、無理をすれば‘サウンド・オブ・ミュージック’でトラップ大佐とマリアが結婚式を挙げたモントゼー湖畔の教会に寄れなくもなかったが、夜の予定もあったので今回は見送り。 -
夜はマリオネット劇場で人形劇によるモーツァルトの歌劇「後宮からの誘拐」を鑑賞。トルコの後宮に捕らわれの身になったコンスタンツェを恋人のベルモンテが救い出す話。この史上初のドイツ語によるオペラには、トルコ風音楽も取り入れられていて実に魅力的。特に太守セリム・パシャが登場する時の音楽は、つい口ずさんでしまう。ウィーンにはこのオペラを作曲した建物が残っており、一部はペンションになっていて泊まることもできる。
終了後はホテル・ブラウエ・ガンスのレストランで軽くサラダを食べる。ここでも音楽祭帰りの着飾った人が多く、少し場違いな感じはあったが、気にしない。ウェイターの「メニューはドイツ語? 英語?」に「英語は読めない」と言うと、大喜びしてくれた。ホテルは旧市街のモーツァルト生家近くに位置し、場所的には申し分ないが、1,550S(¥20,000)と少し高い。部屋も小さなテレビが椅子の上に無造作に置いてあるなど殺風景。音楽祭料金だから仕方ないか。 -
8月28日 ミュンヘン会談〜対ナチスドイツ宥和政策の頂点
午前中の列車でミュンヘンに戻り、アウグスブルクに再度チェックイン。
結局3回入国したオーストリアは、ウィーンに4泊(YH3泊、ホテル1泊)、ザルツブルクに3泊(単独で1泊、2人で2泊)の合計7泊の滞在だった。やっぱりザルツブルク郊外に広がるザルツカンマーグートやベルヒテスガーデンを含めたザルツブルク周辺が一番好きだ。この地方の美しい風景が‘サウンド・オブ・ミュージック’を一層印象深いものにしているのは、言うまでもない。
午後はかつてバイエルン地方を支配していたヴィッテルスバッハ家のゆかりの地である王宮、夏の離宮ニンフェンブルク城を訪ねる。それにしてもルードビッヒ2世は別格としても、王家というのはぜいたく。 -
旅の最後の目的は、1938年9月にヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、ダラディエの独伊英仏の四大国首脳が会談した、いわゆるミュンヘン会談の会場。下調べをしていなかったので、24日に市役所下のInf.で聞いたら、係の人が方々に電話で聞いて場所を教えてくれた。そこは現在国立音楽高校となっているので、勿論中の見学は出来ないが、第2次大戦への流れを決定づけた歴史的な場所を外からでも見ることが出来たのは感慨深い。
前述のように1938年3月にオーストリアを併合したヒトラーは、次の領土的野心を、チェコスロヴァキア(当時)の中で多くのドイツ系住民が住んでいたズデーテン地方に向けた。何としても戦争を避けたい英仏は、ヒトラーの「ズデーテンはヨーロッパで望む最後の領土である」との言葉を信じて紆余曲折を経た後、当事国のチェコスロヴァキア、そしてチェコと相互援助条約を結んでいたソ連抜きのミュンヘン会談で、ズデーテン地方のドイツへの割譲を決めた。しかし、このいわゆる宥和政策をもってしても、ドイツの侵略は止まることを知らず、半年後には残るチェコスロヴァキア全土がナチスドイツの支配下に置かれた。ナチスドイツの矛先が次にポーランドに向けられた時、英仏は対独強硬策に転じた。
英仏がドイツに対して妥協的であった背景には、当時の英仏にとってドイツの復活よりもむしろソ連共産主義こそが脅威であり、その防波堤としてのドイツの役割を重視していたことが挙げられる。英仏の対ソ敵視策は、反作用としてソ連側の激しい英仏不信感を生み、第2次大戦直前にソ連が英仏と同盟を結ばず、逆にドイツと提携(独ソ不可侵条約)する大きな原因ともなった。約1週間後、不可侵条約締結で英仏とソ連を同時に相手とする二正面戦争を回避出来たヒトラーのポーランド攻撃で第2次大戦が始まった。なお今日では1931年柳条湖事件をきっかけとする満州事変、または1937年廬溝橋事件をきっかけとする日中戦争開始を大戦開始の時期とすべきとの意見もある。
大学生の時に綱川政則氏による「ヒトラーとミュンヘン協定」(教育社)を読んで、近代史特に第2次大戦への興味が深まったという意味でも、自分にとってこの会談は大きな意味を持っている。 -
夕食は23日に続いて有名なビアホール、ホーフブロイハウスへ。前回は楽団の真ん前で音楽はよく聞こえるし、多くの人が音楽に合わせて踊り出すし、隣のおじさんは妻に人形をくれるなど、本当に楽しかったけど、今日は端の方の席で、熱気からは取り残された感じ。それはともかく、普段からあの熱気だったら、9月中旬から2週間にわたって行われるオクトーバーフェスト(ビール祭り)の時は一体どのくらい盛り上がるのだろう。ところでここでは、1919年に最初のナチス(当時はドイツ労働者党)党大会が行われたとも言われる。
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ミュンヘンはナチス発祥の地であるだけに、ヒトラーが1923年に一気の政権獲得を目指して起こしたミュンヘン一揆が起こったオデオン広場など、ゆかりの地もまた多い。
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8月29日 関空に向かう飛行機の中で
11時過ぎの飛行機でミュンヘンを出発、アムステルダムで乗り換えて関空に向かっている。関空に向かう機内では窓側の席は取れなかったが、通路側でも一番前の席だったので、前がゆったりしていて良かった。日記の手直しを行い、おやつのカップヌードルとアイスクリームを食べ(「両方食べたい」と言ったらスチュワードに笑われた)たところ。あと5時間で関空に到着だ。
今回の旅は、ブカレストで警官と称する男に声を掛けられた以外、さしたる危険に遭遇することもなく、本当に有意義で楽しく、充実したものだった。
最初に訪れたアンネ・フランクの家(アムステルダム)では様々なことを考えさせられた。後にミュンヘン郊外の強制収容所跡ダッハウにも足を延ばした。
様子があまり分からず、その意味でスリルがあったのがいきなり90万レイの札束で度肝を抜かれたルーマニア。チャウシェスクの「国民の館」は悪趣味の極みだったが、ヴラド・ツェペシュゆかりのブラショフ、シギショアラの中世の町並みが本当に美しかった。ティミショアラのセルビア正教会は形に目を奪われた。次回行く時は北部の田舎町が良いかも知れない。実際トゥルグ・ムレシュ、バイアマーレ、クルージナポカなど名前を聞くだけで行ってみたくなる町が多い。
一番印象深かったのは、滞在は短かったがボスニア・ヘルツェゴビナ。サラエボに活気があったのがせめてもの救いだが、方々に見えた破壊された建物や新しい墓を見ると沈痛な気持ちになる。3つの民族が「ユーゴスラビア(=南スラブ)人」として、昔のように仲良く暮らせる日が早く来ることを願ってやまない。
クロアチアではクライナ地方以外あまり戦争の影は感じられず、世界遺産都市ドブロブニクの美しさと魚のおいしさが印象に残る。
オーストリアでの最大の目的は、サラエボ事件の時に皇太子が乗っていた車(軍事史博物館)とヒトラーの生家。ザルツブルクでは音楽祭のシーンでトラップファミリーが歌った会場、モデルのマリアさんが在籍していた修道院など‘サウンド・オブ・ミュージック’を訪ねた。
ベルヒテスガーデンのケールシュタインからの眺めは実に素晴らしかった。ケーニッヒスゼーでの散歩も気持ち良かった。鉄門やヴィシェグラードからのドナウの雄大な景色やトゥンパ山からのブラショフの眺めも忘れられない。
宿泊先では、ブダペストのYHがルームメイト、スタッフに恵まれて楽しかった。一緒だった「大先生」コンビとドブロブニクで再会できたのは奇跡的。そのドブロブニクのYHも泊まっていた日本人は面白い人が多かった。ウィーンのYHは建物や部屋がユニーク。暖かさに感動したのがシギショアラのボビーズホステル。YH以外ではサラエボのPR、ムスタファ・ベチロビッチさんがキャラクターを含めて忘れられない。景色の良さではドイツアルプスが見えたベルヒテスガーデンの「四季」。悩まされたのがティミショアラ、ホテルノルドの蚊。
最後になりましたが、今回の旅を行うにあたってお世話になった全ての方々に心からの感謝を捧げつつ、ペンを置きます。 -
上はボスニア・ヘルツェゴビナの新国旗とクロアチア国旗をモデルにしたシール。
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