1998/08/17 - 2025/11/03
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砂布巾さん
8月17日 ボスニア内戦の傷跡
朝6時過ぎに目が覚め、早めに朝食をとらせてもらい、ドブロブニクを8時のバスで出発して、サラエボに入った。バスはしばらく岩山が海岸線に迫る海沿いを走る。1992年3月にユーゴスラビアからの独立を宣言して以後、内戦に発展したボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)に入国したのが出発1時間半後。休憩を挟み、途中経由したモスタルまでは更に1時間。ちなみにボスニアは、外務省から危険度2「観光旅行延期勧告」が出されている。
(表紙の写真は内戦で破壊される前のスタリモストの絵葉書)
(YNC記念)
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モスタルまでの道のりは、本当に気持ちを沈痛なものにさせた。家という家がほとんど破壊されている。村が全滅の場所、小さな町なのにあまりに多くの新しい墓地がある場所もあった。かつてはムスリム人(イスラム教 約40%)、セルビア人(セルビア正教 約30%)、クロアチア人(カトリック 約20%)の主な3つの民族が仲良く暮らしていたのに、と思うと胸が締め付けられた。
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(イスラム教のモスク。おじさんもきっとイスラム教徒=ムスリム人)
バスを降りると人々の視線が突き刺さったモスタルの町は、オスマン・トルコに支配されていた1566年に架けられたトルコ橋で有名な町。しかし残念なことに、その橋も1993年11月9日にクロアチア人勢力によって破壊されてしまった。
ここはネレドヴァ川を挟んでモスレム人地区とクロアチア人地区に分かれ、旅行者は両地区を自由に往来できるが、地元の人は往来出来ないとも聞いていた。だがこの短い滞在では、そういった状況は確認できなかった。1995年末に再選を意識するクリントン大統領の強力なリーダーシップで調印されたデイトン和平合意(後述)によって連邦を形成している両者だが、利害が一致しているのは反セルビア人という点だけかも知れない。 -
昼食は橋の側のレストランでオーストリア名物のシュニッツェル。油っぽい上に辛かった。クロアチア人地区にあるためか、クロアチア通貨も問題なく使えた。13時の時報とともに方々のモスクからお祈りの声が聞こえてくる。バスターミナルに帰る途中、何気なく温度計を見てみたら、何と36度。
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6月から全国共通通貨として導入されたボスニアマルカとドイツマルクは等価で同一通貨のように流通している、という話は多くの人から聞いていたけど、ボスニア・マルカで支払って、お釣りをドイツ・マルクでもらうと変な気分だ。EU通貨統合によって1999年1月にユーロが登場し、将来的にドイツからマルクが姿を消しても、ボスニアではドイツ・マルクが流通しているかも知れない。
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(橋のそばのお土産街)
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(美しい石橋は、1993年11月9日クロアチア人勢力の砲撃で粉々になってネレトヴァ川に散った)
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(手に持っているのがこの絵葉書)
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読売新聞書評で絶賛されていた「たかのてるこ」さんの本「人情ヨーロッパ」。数ヶ月予約待ちでやっと借りられた。モスタルのデイビッドとの特訓が一番印象的。よかったらどうぞ!
読売新聞書評 http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20161107-OYT8T50043.html -
モスタル滞在は3時間ばかりで、サラエボ到着は17時半。Inf.が閉まっている時間で、ベッドを確保するまで大変だった。高そうなホリディインは避けて、何人かの人に聞いて(キオスクでは「インドネシア?」)ようやく見付けたホテルボスニアの値段は256DM! とても泊まれないという顔をしていたら、系列の旅行代理店を教えてもらい、そこでPRを紹介してもらった。サラエボの地図を買ったけど、値段は10DM(=\800)。こんなに高い地図は初めて。
代理店からすぐのベチロビッチさん宅は、ムスタファ、ラティファ夫妻の2人暮らし。ホテルの一室のような部屋を貸して下さった。値段は2泊で70DM、1泊あたり¥2,900。朝食の6DMは、レストランの値段と比べると決して安くはなかったが…。奥さんお手製のケーキとビールをご馳走になりながら、これまで来た人の名刺を見せてもらった。智子さんという女性がお気に入りのようだった。NHK記者の名刺もあった。2人は英語が十分ではないので、コミュニケーションは会話辞典、ジェスチャーと雰囲気で取る。 -
8月18?19日 意外と賑やかだったサラエボ
2日間でじっくりサラエボを歩く。1984年には冬季オリンピックも開かれたサラエボは、有名なツインタワーや -
内戦中も新聞を発行し続けたオスロボデーニェ新聞社をはじめ至る所に破壊された、または銃痕が残っている建物がある。しかしベチロビッチさん宅前からバシチャルシャと呼ばれる職人街にかけては夜中まで人通りが多く、とても活気があった。和平協定調印後3年も経っていないので、まだ町は沈んでいるのでは、というのは単なる思い込みに過ぎなかった。
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墓地にも行ってみた。新しい墓を見てみるとほとんどが内戦中に亡くなった人のものだった。3年半の間に一体ボスニア全土でどれだけの墓が建てられたことだろう。
デイトン合意の内容を簡単に説明すると、ボスニアの51%はモスレム人とクロアチア人のボスニア連邦(以下連邦側)が支配し、セルビア人の自治共和国(以下セルビア側)が49%を支配するというもの。つまり国家の中に2つの国家がある変則的な形になっている。各民族が他民族の追放、または絶滅を目指す民族浄化を展開する中では、3民族の完全な共存は不可能だった。セルビア人は支配地をセルビア本国と、クロアチア人は支配地をクロアチア本国と統合することを望んでいたが、武力による国境の変更は認めない(湾岸戦争の際のイラクにも適用された)国際社会は、ボスニアの領土保全を強く望んだ。ちなみに連邦側の旗はクロアチア国旗の赤と白のまだら模様の部分、モスレムのマーク、そしてEUのマーク(!)からなっている。 -
サラエボは連邦側だが、市内外れの山間部からはセルビア側になっているので、タクシーで足を延ばしてみた。両者は事実上別の国家と言っても差し支えないと思われるので、境界線では当然検問があると思っていたが、それらしいものは全く無かった。従って地元の人も容易に往来出来る筈だが、恐らく両者の間の往来はほとんど無いと思われる。バスはないし、タクシーを連邦側とセルビア側で乗り換えなければならなかったのは、そのことを暗示しているのではないか。ちなみに往路は20DMだったが、復路は市内の中心から少し離れたオスロボデーニェ新聞社(永久保存されるそうだ)まで乗って50DM。「高い」と抗議し、近くにいた人が通訳をかって出てくれたが、「運転手が正しい」で一件落着。
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(タクシーの車中から)
1時間も滞在しなかったセルビア側の首都とも言えるパレ(前の写真が唯一の写真)は本当に小さい町。アメリカが戦犯として必死に行方を追っているセルビア人勢力の指導者だったカラジッチ氏が潜んでいるとも伝えられるが、とてもそんな町には思えない。文字がロシア風のキリル文字であることが、辛うじてセルビア側に入ったと思わせる。よく見ると警官の制服や車も連邦側とは異なっている。ボスニア・ヘルツェゴビナを意味する「BIH」のシールを貼った車が連邦側とは異なって、全く見られなかった。
ある店では金額表示がドイツマルクと並んで隣国新ユーゴ(住民の多くがセルビア人)の通貨ディナールで表示してあった。またボスニアマルカ表示の店もあり、当然何の問題もなくミネラルを買うことが出来た。
検問がなかったこと、分離主義的傾向が強いと思われるセルビア側でボスニア・マルカで買い物が出来たことは、大変不謹慎な言い方をすれば期待外れだった。でもそのことが連邦側とセルビア側との関係が良好であることを示すのであれば大変喜ばしいことなのだが、この短い滞在では、そこまでの確信は持てなかった。 -
バシチャルシャ周辺は特にモスクが多く、ヨーロッパとは思えないイスラムチックな雰囲気が漂う。但し、大勢の人が集まってお祈りをしている様子を見ることはなかった。スカーフをかぶっている女性が少ないのとは対照的に、NATO主導の和平安定化部隊(SFOR)の軍人は、セルビア側も含めてどこでも見かけた。日本から送られたバスも派手な黄色で随分目立っていた。
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お釣りに関するエピソードを2つ。ドイツマルクは当然どこでも通用するかと思っていたが、郵便局にテレカを買いに行った時には「ダメ」と言われた。ムスタファにボスニアマルカに替えてもらい、再度出向いたらドイツマルクのコインでお釣りが返された。「ドイツマルクは受け取らない」と言いながら、お釣りをドイツマルクでくれるとは…。町で9.8DMの買い物をして10DMで支払ったら、お釣りはチョコレート2つだった。0.2DM(¥16)相当のコインがないのか? お釣りの小数点以下は切り捨てが多かったクロアチアよりは良心的。
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最後に日本人観光客(ビジネスマンらしきは居た)を見掛けることがなかったサラエボと観光に関するエピソードを。
ドブロブニクのYHにはサラエボに行った人が2人居たけど、その中の1人が健太くん。大学を休学して海路と陸路を利用した世界一周旅行の最中という彼が、夜中に中庭で何人かの日本人相手にその時の話をしていたら、偶然サラエボから来た人が居て、「観光気分でサラエボに来るのは止めてくれ」と少し感情的に言われたそうだ。確かにサラエボは1992年4月から94年の2月までの約2年にわたってセルビア人勢力に包囲され、丘の上からの狙撃や飛んできた砲弾で多くの人が亡くなった。例えば町の目抜き通りはスナイパー通りと言われ、渡るのも命懸けだったし、1994年2月には砲弾が市場を直撃し、68人が亡くなるという悲惨な事件もあった。だから何人もの友人や親戚を亡くしているサラエボの人にとって、外国人が興味本位でサラエボに観光に来るのは、たまらない苦痛なのだ。 健太くんの話を一生懸命聞いていた1人が気の弱そうな京大の大学院生。彼は予定を変えてサラエボに行く決意を固めた。しかし翌日バスターミナルに行くと、あると思っていた10:15のバスがない。飛行機の都合上日程がギリギリの彼は、諦めて当初の予定通りスプリットに向かった。昨夜小生がきっかけを作ってその気にさせておきながら、一気に突き落としてしまって気の毒なことをした。 -
(砲弾が直撃して68人が亡くなった現場)
ボスニアの3日間で使ったお金は、ウィーンまでのバス代を除いて320DM(¥26,500)。宿泊費とタクシー代が高かったので、トータルで高くついた。
サラエボからザルツブルクに抜けるのに、スロベニアのリュブリャーナ経由、ボスニア北西端のビハチ経由など様々なプランが考えられたが、バスのスケジュールなども考慮して、結局一旦ウィーンにバスで行き、そこから列車でザルツブルクに向かうことにした。バスの値段は80DM(¥6,600)だから、そんなに高くない。車両はきれいだったけど、トイレが清潔ではなかった。 -
(サラエボの町並みで一番インパクトのあった光景)
ビハチ周辺にはもともとイスラム教徒が多く住んでいたが、内戦中に事実上指導者となっていた実業家のアブディッチ氏がボスニア政府に反旗を翻し、周囲のセルビア人勢力と独自の停戦協定を結び、1993年9月に「西ボスニア自治州」を設立して和平を築いていた。ビハチの地名が特に印象に残っていたのは、ボスニアの男性と結婚していたリビチ郁子さんが近くの村に住んでいて、夫の戦死後、ジャーナリストの水口康成氏が彼女を救うために奔走し、その様子を追ったドキュメンタリーを観ていたからだ。水口氏がこの経緯を記録した本として三一書房「ボスニア戦記」がある。内容ももちろんだけど、数々の生々しい写真が衝撃的。写真集「バルカンに生きる」(NHK出版)も同様。 -
9:45に出発したバスは23時半にはウィーン南駅のターミナルに到着したから、所要時間は14時間弱。購入した旅行会社で朝方3時過ぎの到着と聞いていたのに、夜中に着いてしまったので、ウィーンに泊まらなければならなかったのが誤算。4軒目に行った西駅前のホテルにようやく空室があった。値段は630S(¥7,800)だから、YHだと4泊分。これは痛い!
車窓からは、モスタルまでほどではないにしても、やはり所々に破壊された家が見える。興味深かったのは、クロアチア国旗と極めてよく似ている旗を掲げている工場や家が所々見られたこと。郵便局に旗が掲げられ、郵便局のマークもクロアチアと同じものが使われている所すらあり、そこではモスクが破壊されていた。モスレム人とクロアチア人の良好でない関係が感じられた。先日のパレにしても、今日通過したことが文字で確認できたセルビア側でも、例えばセルビア共和国(あるいは新ユーゴ)の旗、またはセルビア側と思われる旗は一切見かけなかった。その意味ではクロアチア人が一番民族主義的な傾向が強いかも知れない。そういえば、ザグレブ、ドブロブニクでも国旗をよく見掛けたような気がする。 -
例えば仮に連邦側のクロアチア人が民族自決を根拠にクロアチア本国との統合を目指す動きに出るようなことがあれば、国際社会の強い反発を呼ぶのはもちろん、セルビア人をも巻き込んだ内戦の再発は必至で、その意味でもデイトン合意は綱渡りの和平とも言える。また各民族内部では、自民族至上主義を唱える勢力と民族間の和解を模索する勢力との間で、対立が起こっているとも言われる。
山間の道を縫ってトラヴニクを通過し、バスがただ1度休憩したのがサヴァ川を渡って国境を越えたクロアチアのクライナ地方。古くはオスマン・トルコとハプスブルク帝国との境目だった関係で、この地方には多くのセルビア人(クロアチア全体の人口の約12%を占めていた)が住んでいた。クロアチアの独立宣言後は、独立を認めないセルビア人がクライナ・セルビア人共和国を建設し、解放区としていた。ボスニア内戦の最終局面でクロアチアが軍事力で奪回し、先祖代々この地に住んでいた多くのセルビア人が追放された。このためやはり破壊された家が多く見られた。物価はボスニアの方が安いのだろう、クロアチアからボスニア(国境近くはセルビア側)へ人々が買い物に行っていた。
バスはスロベニアも通過。誰かが「スロベニアの豊かさを見れば、なぜ旧ユーゴが分裂したかわかる」と言っていたけど、確かに車窓からは豊かさが感じられた。そして分裂のより大きな要因を挙げるとすれば、特に第2次大戦中のクロアチア人とセルビア人との歴史的怨念だろう。 -
*訪問直前にこちらの本が発売された だから必死で読んだ
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こちらの本でも紹介されました
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