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古都の魔法に幻惑・中欧4ヶ国の旅:訪れた国とその場所<br /><br />?ドイツ<br /> ベルリン・ポツダム・マイセン・ドレスデン・バスタイ(ザクセ ン・スイス)<br /> ?チェコ<br /> プラハ・チェスキークルムロフ<br /> <br />?オーストリア<br /> ザルツブルグ・ザルツカンマーグート・ウイーン  ?ハンガリー<br /> ドナウベント地方・ブダペスト<br /><br /><br /><?オーストリア目次><br /><br />チェスキクルムロフを出るとオーストリア国境には30分のバス旅行。<br /><br />待望のオーストリア、そして魔法の国オーストリア。<br /><br />現在のスイスの一地方に在ったしがない伯爵家のルドルフ1世が、図らずも近隣ドイツ諸侯の推薦を受け、神聖ローマ帝国皇帝に選出されたのが1273年。<br /><br />ルドルフ1世は,ルドルフ1世の神聖のローマ帝国皇帝着位に反対したボヘミア王オタカル2世との戦で勝利し、オタカル2世の所領であったオーストリア、当時の東方辺境伯領(オーストマクルト)に本拠地を移し、皇帝権力の強化とハプスブルク家発展の基礎を作り、近隣諸侯の思惑に反して、神聖ローマ帝国の大空位時代の混乱からの脱却に成功してしまう。<br /><br />ハプスブルク家支配の真の基礎を築いたのはマクシミリアン一世(1486?1519)。<br /><br />まだ裕福でなかったハプスブルグ家のマクシミリアン一世は、1477年、18才で当時ヨーロッパ随一の豊かなブルゴーニュ公国の、唯一の後継者マリーとの結婚に成功。<br />結婚直前に戦死したマリーの父シャルル変わってフランドルの領土を獲得する。<br /><br />一方ではフランスとの対立の構図が鮮明になる。<br /><br />マクシミリアン一世が神聖ローマ帝国皇帝(1493?1519)になって以降、ハプスブルク家の版図は超民族的に拡大する。<br />そして彼の曾孫に当たるカール五世(1519?1558)がスペイン王位をも継承したため、ハプスブルク家の領土は人類史上最大のものとなり、オランダ、ナポリ、シチリアに加えて、新大陸も含む「日の沈まない帝国」が形成された。<br /><br />とは言え、ヴォルテール(18世紀のフランスの思想家)から「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と評価される如く、神聖ローマ帝国は、多民族国家の集まりであり、その国の成り立ちから絶対王政の国ではありえなかった。<br /><br />ハプスブルグ家は、その勢力を戦争によってよりも婚姻関係を結ぶことで維持、拡大する。<br />「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」がハプスブルグ家のモットーであり、殆どが政略結婚であったものの、幸運にもその大半は幸せな結婚生活と、多数の子供に恵まれたものであった。<br /><br />15人以上の子沢山の皇帝の夫婦がなんと4組も存在し、その中でも16人目の皇女がマリー・アントアネットであるマリア・テレジアは、夫ロートリンゲン公の助けが有ったとはいえ、政治、文化の両面で優れた手腕を発揮した女帝であり、息子ヨーゼフ2世と共に啓蒙君主とも呼ばれ、オーストリアの栄光を確たるものにした。<br /><br />現在目にするウイーンの街の景観はこの2人に負うところが多い。<br /><br />一方人口の90%以上がドイツ語を母国語とする。にも拘らず国としては「ドイツ」と一線を描くしてきたし現在もそうである。<br /><br />かくしてハプスブルグ家は、以後1918年第1次大戦終了までの650年の間、神聖ローマ帝国皇帝、オーストリア皇帝との地位を維持し、オーストリアはヨーロッパ大国(イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ロシア)と並び、中欧の大国であり続けることになる。<br /><br />短い時間で垣間見たのはこれら歴史と栄光の、ほんの一部に過ぎない。<br /><br /><br />ザルツブルグ<br /><br /> 45国境を南下し、夕暮れのザルツブルグへ<br /> 46♪ドレミのシーンからスタート・ミラベル宮殿<br /> 47雨に煙るホーエンザルツブルグ城とザルツァッハ川<br /> 48ゲトライデ通りの看板・大学広場の朝市・祝祭劇場<br /> 49ザルツブルグ発祥地 サンクト・ペーター教会と墓地<br /> 50モーツアルトも洗礼したザルツブルグ大聖堂とドーム広場<br /> 51モーツアルトの生家の建つ旧市街とレジデンツ広場<br /> 52姿を見せたホーエンザルツブルグ城とモーツアルトの家<br /><br />ザルツカンマーグート<br /><br /> 53ザンクトウルフガング湖とオペレッタ「白馬亭」のある街並み<br /> 54街の広場と聖ウルフガング教会<br /> 55世界遺産ハルシュタットの湖と沿道風景<br /> 56塩の街・ハルシュタットの街並み<br /> 57ザルツカンマーグート東端の湖・トラウン湖畔とワッハ渓谷<br /><br />ウイーン<br /><br /> 58朝の市民公園散策・金色のヨハン・シュトラウス<br /> 59シェーンブルン宮殿?正面広場<br /> 60シェーンブルン宮殿?動物園もある広大な庭園<br /> 61シェーンブルン宮殿?グロリエッテの建つ丘から<br /> 62シェーンブルン宮殿?内苑<br /> 63ベルヴェデーレ宮殿?正面広場<br /> 64ベルヴェデーレ宮殿?内苑<br /> 65車窓からのリンク(環状道路)の景観集<br /> 66ウイーン歴史地区のシュテファン大聖堂と中心街の賑わい<br /> 67王宮(ホーフブルク)とマリアテレジア像のある広場<br /> 68美術史美術館の名画<br /> 69徒歩散策で見た環状道路(リンク)の景観<br /> 70ウイーンの森の麓グリンツィング村ホリゲイの夕食<br /><br /><br />古都の魔法に幻惑・中欧4ヶ国の旅:総集編目次(全90章)へ戻る<br />http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10248061/<br /><br />この旅行のルートマップ、旅行中の全メニューとレストランの名前と写真等は下記を参照して下さい<br />https://www.wtshin.com/tyuuou/frametyuuouroot.html

古都の魔法に幻惑・中欧4ヶ国の旅:?オーストリア編目次(26章)

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2007/09/27 - 2007/09/30

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WT信

WT信さん

古都の魔法に幻惑・中欧4ヶ国の旅:訪れた国とその場所

?ドイツ
 ベルリン・ポツダム・マイセン・ドレスデン・バスタイ(ザクセ ン・スイス)
 ?チェコ
 プラハ・チェスキークルムロフ
 
?オーストリア
 ザルツブルグ・ザルツカンマーグート・ウイーン  ?ハンガリー
 ドナウベント地方・ブダペスト


<?オーストリア目次>

チェスキクルムロフを出るとオーストリア国境には30分のバス旅行。

待望のオーストリア、そして魔法の国オーストリア。

現在のスイスの一地方に在ったしがない伯爵家のルドルフ1世が、図らずも近隣ドイツ諸侯の推薦を受け、神聖ローマ帝国皇帝に選出されたのが1273年。

ルドルフ1世は,ルドルフ1世の神聖のローマ帝国皇帝着位に反対したボヘミア王オタカル2世との戦で勝利し、オタカル2世の所領であったオーストリア、当時の東方辺境伯領(オーストマクルト)に本拠地を移し、皇帝権力の強化とハプスブルク家発展の基礎を作り、近隣諸侯の思惑に反して、神聖ローマ帝国の大空位時代の混乱からの脱却に成功してしまう。

ハプスブルク家支配の真の基礎を築いたのはマクシミリアン一世(1486?1519)。

まだ裕福でなかったハプスブルグ家のマクシミリアン一世は、1477年、18才で当時ヨーロッパ随一の豊かなブルゴーニュ公国の、唯一の後継者マリーとの結婚に成功。
結婚直前に戦死したマリーの父シャルル変わってフランドルの領土を獲得する。

一方ではフランスとの対立の構図が鮮明になる。

マクシミリアン一世が神聖ローマ帝国皇帝(1493?1519)になって以降、ハプスブルク家の版図は超民族的に拡大する。
そして彼の曾孫に当たるカール五世(1519?1558)がスペイン王位をも継承したため、ハプスブルク家の領土は人類史上最大のものとなり、オランダ、ナポリ、シチリアに加えて、新大陸も含む「日の沈まない帝国」が形成された。

とは言え、ヴォルテール(18世紀のフランスの思想家)から「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と評価される如く、神聖ローマ帝国は、多民族国家の集まりであり、その国の成り立ちから絶対王政の国ではありえなかった。

ハプスブルグ家は、その勢力を戦争によってよりも婚姻関係を結ぶことで維持、拡大する。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」がハプスブルグ家のモットーであり、殆どが政略結婚であったものの、幸運にもその大半は幸せな結婚生活と、多数の子供に恵まれたものであった。

15人以上の子沢山の皇帝の夫婦がなんと4組も存在し、その中でも16人目の皇女がマリー・アントアネットであるマリア・テレジアは、夫ロートリンゲン公の助けが有ったとはいえ、政治、文化の両面で優れた手腕を発揮した女帝であり、息子ヨーゼフ2世と共に啓蒙君主とも呼ばれ、オーストリアの栄光を確たるものにした。

現在目にするウイーンの街の景観はこの2人に負うところが多い。

一方人口の90%以上がドイツ語を母国語とする。にも拘らず国としては「ドイツ」と一線を描くしてきたし現在もそうである。

かくしてハプスブルグ家は、以後1918年第1次大戦終了までの650年の間、神聖ローマ帝国皇帝、オーストリア皇帝との地位を維持し、オーストリアはヨーロッパ大国(イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ロシア)と並び、中欧の大国であり続けることになる。

短い時間で垣間見たのはこれら歴史と栄光の、ほんの一部に過ぎない。


ザルツブルグ

 45国境を南下し、夕暮れのザルツブルグへ
 46♪ドレミのシーンからスタート・ミラベル宮殿
 47雨に煙るホーエンザルツブルグ城とザルツァッハ川
 48ゲトライデ通りの看板・大学広場の朝市・祝祭劇場
 49ザルツブルグ発祥地 サンクト・ペーター教会と墓地
 50モーツアルトも洗礼したザルツブルグ大聖堂とドーム広場
 51モーツアルトの生家の建つ旧市街とレジデンツ広場
 52姿を見せたホーエンザルツブルグ城とモーツアルトの家

ザルツカンマーグート

 53ザンクトウルフガング湖とオペレッタ「白馬亭」のある街並み
 54街の広場と聖ウルフガング教会
 55世界遺産ハルシュタットの湖と沿道風景
 56塩の街・ハルシュタットの街並み
 57ザルツカンマーグート東端の湖・トラウン湖畔とワッハ渓谷

ウイーン

 58朝の市民公園散策・金色のヨハン・シュトラウス
 59シェーンブルン宮殿?正面広場
 60シェーンブルン宮殿?動物園もある広大な庭園
 61シェーンブルン宮殿?グロリエッテの建つ丘から
 62シェーンブルン宮殿?内苑
 63ベルヴェデーレ宮殿?正面広場
 64ベルヴェデーレ宮殿?内苑
 65車窓からのリンク(環状道路)の景観集
 66ウイーン歴史地区のシュテファン大聖堂と中心街の賑わい
 67王宮(ホーフブルク)とマリアテレジア像のある広場
 68美術史美術館の名画
 69徒歩散策で見た環状道路(リンク)の景観
 70ウイーンの森の麓グリンツィング村ホリゲイの夕食


古都の魔法に幻惑・中欧4ヶ国の旅:総集編目次(全90章)へ戻る
http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10248061/

この旅行のルートマップ、旅行中の全メニューとレストランの名前と写真等は下記を参照して下さい
https://www.wtshin.com/tyuuou/frametyuuouroot.html

同行者
その他
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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